読前読後2000年5月


■5/1 引越日記(その10)―二年ぶりの再会

スライド書棚といい、文庫本ストッカーといい、このたびの引っ越しで、わが家の文庫本収納力が飛躍的に増大した。さっそく文庫本や新書を段ボール箱から真っ先に取り出して、とりあえず並べはじめる。
ある程度出して並べおわったあと、内容的に近しいものをあれこれと悩みながら並べ換える作業、これがまた楽しい。引っ越しはこれが一番の楽しみだったりする。

そのおかげで、東京に来てから二年の間、部屋の奥深くに置いてあったためまったく空けることのなかった段ボール箱(文庫本入)を空けることがかなった。

空けてみて心が晴れる。
『夢野久作全集』、『日本探偵小説全集』、河出の各国怪談集、宮武外骨関係本、『中井英夫全集』、森茉莉の本、深沢七郎の本、野尻抱影の星の本、三田村鳶魚の本…。とりわけ、先日「その4」で触れた『中井英夫全集』の『虚無への供物』が見つかったのは嬉しい。読もう!

それでもまだまだ見つかっていない文庫本が結構ある。
ちくま文庫版『坂口安吾全集』『岡本かの子全集』など。
ただこの調子だと見つかる日も早いか。

■5/2 なっ、ない…

昨日も書いたように、東京に移るさいに仙台で箱詰めしてからまったく開くことのなかった文庫本入段ボールを開け、約二年ぶりにお目にかかる文庫を並べながら、自己満足にひたっている。

昨日書いたほか、河出文庫から94〜95年にかけて刊行された江戸川乱歩コレクション6冊も、そうしたたぐいのものであった。
このシリーズは、乱歩のエッセイをテーマ別に編集したものである。講談社から出た江戸川乱歩推理文庫≠持っている身としては、内容的にさして目新しさは感じないのだが、うまくテーマ別に編集されている点、購入する価値はあった。もっとも、刊行時すでに江戸川乱歩推理文庫は品切れになっていたため、新しい乱歩ファンにとっては、垂涎のシリーズであったと思われる。

さて、これらを「再発見」し、例の文庫本ストッカーに並べてみてから気づいたことがあった。河出文庫としての整理番号がおかしい。1の「乱歩打明け話」が「え1-1」。そこから順に番号が付いているわけだが、「え1-3」が飛んでいるのだ。シリーズ物はだいたい一緒にしているし、買い漏らしたはずはない。何か参照することがあってそれだけ抜き出したのだろうか。
おかしいと思い、このシリーズで三番目に刊行されたのは何かと見てみると、「5 一人の芭蕉の問題」となっている。横を見ると、確かにこの本はある。では何がおかしいのか?

種明かしは、このシリーズは全6冊で、たしかにすべて揃っていた。最初が「え1-1」、でも最後が「え1-7」。つまり一冊、このシリーズの間に、別の乱歩の著作が河出文庫で入っていたのであった。これは、不気味な話シリーズの1、乱歩集のこと。これが「え1-3」なのである。何てことはなかったのだが、何とも紛らわしい話だ。

ところでこの不気味な話<Vリーズ、続刊で夏目漱石集が出て、次回配本で谷崎集が予告されているものの、その後刊行された形跡はない。いったいどうなっているのだろうか。乱歩にせよ、漱石にせよ、従来のアンソロジーと比べて独自色が出せていないのが中絶の原因だろうか。予告された谷崎集にしても、だいたい予想がつくからなあ。

■5/3 九年前の記憶

むかし買ったことを忘れていて、また同じ本を買ってしまうということがたまにある。今回引っ越しをして、その事例がひとつ増えた。

三月に新橋駅前の青空古書市で雑誌『東京人』の1991年3月号を見つけた。特集は「東京くぼみ町コレクション」。佃島・町屋・本郷・雑司ヶ谷・王子・赤羽・神楽坂などの魅惑的な町が取り上げられたもので、ライター陣のラインナップも池内紀・出口裕弘・巖谷國士・堀切直人各氏が名を連ねているうえ、「私小説・探偵小説はくぼみ町から生まれる」という種村季弘・松山巖両氏の対談が掲載されていたのを見て、購入を即決した。

さて、このたびの引っ越しで、「ディスプレイ・ストッカー」という、いわゆるマガジンラックも購入したので、文庫本だけでなく、いままで眠っていた雑誌類の収納力も増大し、閲覧も容易になった。
これで、前の前の前の住居(仙台での最後の住居の一つ前)から引っ越したとき以来箱に入ったままであった雑誌類を、ついに明るみに出すことが出来たのは嬉しいことであった。同じ箱のなかから、講談社江戸川乱歩推理文庫の特別補巻『貼雑年譜』も見つかったのである。

なかに詰めていたのは、『芸術新潮』『太陽』に加えて、『東京人』も若干含まれており、そこからひょこっと上で触れた「東京くぼみ町コレクション」号も発掘≠ウれたのであった。
そうだよなあ。この時期(91年)は種村熱が盛んだった頃で、対談とはいえ種村さんが登場する『東京人』は見逃すはずはない。

でも、新橋で本誌を見つけたときは、「へえー、こんな特集もあったのか…」という驚きをもって購入したから、九年前の記憶などいかにあやふやか、そして、本・雑誌を購入して読んでもいかに血肉になっていないかがわかろうというものだ。

■5/4 買書地獄

フランス中世文学の泰斗渡辺一夫に、「買書地獄」というエッセイがある。岩波文庫の『渡辺一夫評論選 狂気について』(93年)に収録されている。もっとも、タイトルが想起させるほど壮絶な内容のものではないことは、あらかじめお断りしておかなければならない。

荷ほどきをしている最中、たまたま本書を箱のなかから見つけ、パラパラとめくっているうち、「おっ、面白そうだ」ということで、思わず寝そべりながら拾い読みをしてしまったのであった。
このエッセイ中の渡辺一夫の文章に共感できる部分があったので、紹介したい。

僕は別に愛書狂とか蔵書狂と言われるほど本を持っているわけでは決してないが、本はとにかく買えるだけ買いたいと思う。そして、その場合物質的な物差はもちろん使わないが、精神の物差は人なみに使う。第一に自分のやっている仕事が物差になることは言うまでもないが、そのほか、過去の生活中で何かの形で僕の妄執となっていたものが、意識下から飛び出してきて、あっと思う間もあらせず、現在やっている仕事の軸にこびりついてくるのである。

ことほどさように、何の脈絡もない本の買い方はしないのである。

ところで本書『渡辺一夫評論選 狂気について』には、「アンリ四世の首の行方」とか、「白日夢 カトリーヌ・ド・メディチ太后の最後とその脚の行方」といった、なかなか面白い考証風エッセイも収録されており、思わずこれらも読んでしまった。
タイトルからもわかるとおり、渡辺一夫は自分が「物好きで悪趣味」であることを告白している。同様の嗜好性をもつ私がこれを見逃すはずはないのである。
でも、買ったときには不覚にもこれらの存在には気づかなかった。普通買うときに気づくんじゃないの?

渡辺一夫のこうした考証的著作として、中公文庫の『戦国明暗二人妃』(88年)も箱のなかから見つけたので、いずれ読もうと心に期し、『渡辺一夫評論選 狂気について』とペアで目につくところに配置しておく。

■5/5 灯台もと暗し

いままで、いろいろなところに出歩いて、たくさんの感動を得てきたが、今日は、爽快な天気に誘われて、葛飾区の水元公園までサイクリングする。自宅から約20分。近くにありながら、行ったことがなかった。川を渡ると隣は埼玉県三郷市である。

公園近くの交差点から車が連なっている。途中にあるため池のような川のような場所では、釣り糸を垂れる人多数。公園に入ると人がたくさん。旧中川と緑に囲まれた広大な公園である。

散策している人、釣りをする人、キャッチボールをする人、昼寝をしている人、ローラーブレイド、なんとかボード?(最近流行の地面を足で蹴るやつ)、サイクリング…。
ゴールデンウィークのまっただ中、さまざまな楽しみ方をする人であふれていた。でも、公園そのものも広いため、人が多いという気はしない。いいことだ。

家から自転車で行ける距離に、このような素晴らしい公園があるとは。今さらながら新しい発見である。
将来、息子にキャッチボールやスポーツの相手をしてやる場所はここと決めた。いまから楽しみ楽しみ。

自転車に乗ると行動範囲が拡大する。今度は柴又に行こう。
そうそう、この辺を自転車で走る目的として、ブックオフを探すというのもあったのだった。でも残念ながら今日は成果なし。

■5/6 宮武外骨三本柱

河出書房新社から出ている『宮武外骨著作集』や、ゆまに書房から出ている「雑誌集成」など、原典にあたることができるものは除いて、文庫本で手軽に外骨の人となりを楽しむ≠アとができる、A吉野孝雄『宮武外骨』(河出文庫)・B吉野孝雄『過激にして愛嬌あり』(ちくま文庫)・C吉野孝雄編『新編予は危険人物なり』(ちくま文庫)の三冊を、私は勝手に宮武外骨三本柱と呼んでいる。

Aは外骨の甥吉野さんによる全体的な評伝、Bは外骨が発行した雑誌のなかでもとりわけ著名で面白い『滑稽新聞』の頃の外骨に絞った評伝、Cは吉野さんが外骨が自らの伝記的事実を述べた文章を編集した「自叙伝」である。それぞれ特色があって面白い。

Aは80年刊行、85年文庫化を経て、92年に出た差別用語の部分に対する修正をほどこした改訂版が現在入手可能なものである。私は文庫初版と改訂版のいずれも所持しているが、内容はもとより装幀も違っていて、両方を持つ価値はあると思う(と正当化する)。
両者で違わない点は帯のコピーだ。初版と改訂版で帯のコピーが変わらないというのは珍しいのではあるまいか。

奇抜滑稽揶揄諷刺皮肉毒舌異才妙手紊乱壊
乱猥褻正義自由奔放愛嬌過激反俗反骨反権

この熟語の羅列が帯にズラリと並んでいるのだ。誰かこのコピーに関して何か書いていたような気もするが、忘れてしまった。なかなか面白いアイディアなので、変更しないのもわかる気がする。

ところで以上の三本柱のほかに、もっと大切な本が出ていることを、もちろん忘れてはいない。
そう、赤瀬川原平の学術小説 外骨という人がいた!』(ちくま文庫)のことだ。本書の文庫版刊行は91年12月。
この本をきっかけに、私は宮武外骨という人に興味を持ち、以来外骨ファン≠ノなったのであった。何度読み返しても飽きない、抱腹絶倒の書。

これだって立派な外骨の評伝たりうるし、そのうえ赤瀬川さんの語り口の絶妙さと相まった名著だと胸をはって言い切れる本だから、別に四本柱(四天王か)にしてもいいのだが、いちおう吉野さんが絡んでいない(もっとも吉野さんは最後の対談で登場する)ということで、「番外」とすることにする。

■5/7 魅惑の三重勝

いま、先日惜しくも長逝された大川慶次郎さんの自叙伝『大川慶次郎回想録 杉綾の人生(角川文庫)を読んでいる。

自らの予想に対する誠実さと、暖かい人柄がにじみ出てくるような内容で、たいへんいい本だ。そのうえ、父上とともにはじめた戦前の競馬から現在(刊行は98年)までの、競馬にかんする様々なエピソードがちりばめられており、その意味でもたいへん興味深い内容となっている。

なかでも私が関心を抱いたのが、戦後直後、短い期間存在したという「三重勝」の馬券の話である。いわゆるトリプル・ウィン≠フことで、同じ日に開催される3レースの勝ち馬をすべて当てるというものだ。
日本の場合、あまり人が集まらない午前中の集客策として、開始直後の第1レースから第3レースまでの勝ち馬を当てるものだったという。

そしてこれは単に三つすべて当てればいいというものではなかった(三つ当てること自体難しいのだけれど)。
というのも、第1レースが外れたら、そこでその日の三重勝馬券は買えなくなる仕組みだったからだ。つまり第1レースを外したら、そこで脱落というわけ。
当たった者だけが第2レースに勝ち残る≠アとができる。

この三重勝、勝ち馬を当てることだけでなく、3レース分の中期的視野≠もった戦略を練る必要もあった。
つまり、第1レースに当たったとしても、その当たった馬券が1票分だったとすれば、第2レースではその1票分しか買えないというのだ。
私の舌足らずな説明よりも大川さんの説明を引用したほうが早い。

(…)最も大切なのは、最後の第3レースの狙い馬ということになる。そこで、どうしてもそのレースでの狙い馬が三頭いて、それ以下に絞れなかったら、たとえ第1、2レースが一頭ずつに絞れていても、1×1×3=3で、最初から三票を買っておかねばならない。それをやらないで行き当たりばったりでやっていると、必ず途中でパーになってしまうのです。

うーむ、深い。

さらに大川さんがサラリーマン時代にこの三重勝を当てた経験談が語られる。
当たったときには「640倍近い大穴」だったというから、現在の感覚からいえば、100円買えば6万4000円の超万馬券ということになる。
このときの大川さんの戦略的買い方の話もとても面白いのだけれど、長くなるのでここでは触れないことにする。

また、この三重勝にまつわる面白い逸話。
一枚だけでは不安だからと、見ず知らずの他人同士が売場前でたがいに声をかけあってグループで「会社」を結成、馬券を複数枚購入し、的中したら山分けするという買い方。
その人たちは、知らない同士だから、当たり馬券をもった人が逃げられたら大変とばかりに、その人間を取り囲むようにして移動する集団の話など、なんともユニークなエピソードも語られる。

もちろんそれを逆手にとった詐欺行為もあったという。こうした話を臨場感たっぷりに私たちに伝えてくれるのは、やはり競馬の神様∴ネ外にいないのではないかと思われる。
でも、その神様はいまやいない。せめて本書を読んで故人を偲びたい。

■5/8 行方不明本のかわりに

この引っ越しで「再発見」された文庫本は、これまでにも書いたように数多い。
ただこれとは反対に、売却していないはずなのにいまだに見あたらない本も、あれとこれと…と数えてみると、両手の指で足りなくなる数にのぼる。

たとえば筒井康隆の文庫。
こちらに来てから購入したもののほか、一部(河出の『驚愕の荒野』など計9冊)は見つかっている。仙台で箱詰めしてから、東京では一度も見ていないはず。それらが入っている箱がどれか、いまだに認識できていない。
どの箱にはどういう本が入っているのか、おおかた把握したつもりなのだが、重要な文庫が入っている箱がまだどこかにあるらしい。

それというのも、ここにきて急に、筒井康隆の『夢の木坂分岐点』(新潮文庫)が読みたくなっているのだ。これも転居という人生の分岐点≠通過したからだろうか。
まあそれはともかく、同書は新刊書店で購入可能だけれども、ほかの筒井康隆の文庫とともに見つからないのはどうも居心地が悪い。

新刊書店で買うのは気がひけるのであれば、古本で安く買えばいいやと、仕事帰りに西日暮里の某古書店に立ち寄る。筒井康隆の文庫は結構並んでいた。が、目当てのものはなし。がっくりである。

その代わりといってはなんだが、最近気になっている二人の作家、幸田文のエッセイ集『月の塵』(講談社文庫)と色川武大の『うらおもて人生録』(新潮文庫)を見つけたので購う。
でも、色川武大の文庫も一部見つかっていないんだよなあ。とりわけ新潮文庫の『百』など、持っているはずなのに、まだ発掘≠ウれていない。
ひょっとしたら、今日購入した『うらおもて人生録』も『百』と同じ新潮文庫だから、一緒に出てくる可能性があるのだ。和田誠さんによる装幀が見たことあるようなないような…。

■5/9 現代三上考

ちょっと前に、文章を練るのに都合がいいとされている「三上」(馬上・枕上・厠上)のことを書いた(3/19条「読書する女の子」参照)
あの女子高生の場合、自転車の上だから、語呂を合わせるとさしづめ「輪上」ということになろうか。

ところでこの三上の三上たるゆえんについて、物理学者にして名随筆家の寺田寅彦が科学的(?)分析を加えている。
それは「路傍の草」(岩波文庫『寺田寅彦随筆集 第二巻』所収)というエッセイの冒頭で述べられている。以下その説を紹介したい。

まず、この三つは、「いずれも肉体的には不自由な拘束された余儀ない境地」であるいっぽうで、「非常に自由な解放されたありがたい境地」であるとする。
肉体的には一定の制約こそあれ、外からいろいろの用事をもちかけられる心配がないということで、頭脳の働きが自然に内側に向かっていくわけだ。

さらに、本編が公表された時点(大正14年)における三上の当否の検討へと話は進む。
「枕上」は、眠ることが第一義の時代になったため、不適当。
「馬上(鞍上)」はすでに縁遠くなっているため、これも不適当。
唯一「厠上」のみが現在(大正14年時点)でも適用するだろうという。
この適当・不適当の別は、さらにそれから75年を経た現代でも変わらないのではあるまいか。

不適当の烙印を押された鞍上にかわって、寺田は「車上」、つまり電車のなかをあげている。とりわけ肉体の束縛が厳しい満員電車が、「存外瞑想に適している」
自己の経験に照らし合わせてみても、たしかにそうかもしれない。

さて三上の三上たるゆえんのもう一つの要素として、「ある種の適当な感覚的の刺激」があげられている。
鞍上・厠上はいうまでもなく、枕上ですら、「横臥のために起こる全身の血圧分布の変化」がまさにこれに当たるだろうという。その伝でいけば、「車上」はむろん、「輪上」までもまさにこの要素を十分に具備しているといえまいか。
ただ問題なのは、「輪上」において頭脳の働きを内側に向かわしていると、自分にとってももちろん他人にとっても危険であるということだ。この問題さえ解決すれば、晴れて「輪上」は三上の仲間入りをするだろう。

えっ、そんなことはないって?

■5/10 わたしの読書関数

ここ二、三日、少々大きめの書店に立ち寄っては探していた本があった。それで見つからなければ、今日にでも池袋か神保町に行くしかないなあと思っていたら、本郷三丁目の文泉堂書店で幸運にも発見した。

その本の名前は、『中井英夫全集7 香りの時間』(創元ライブラリ)。
本書を探すにいたった経緯は、次のようなものである。

先日もここで書いたように、引っ越しにて久しぶりにお目にかかった本として、これら創元文庫に入っている『中井英夫全集』も含まれていた。とりわけ『虚無への供物』を再読したいと思っていたことは、すでに何度か触れた。
また、ちょうど先月、このシリーズの新刊、第11巻『薔薇幻視』が出たので、さっそく購入した。

この『薔薇幻視』のカバーを見てびっくり。数冊買い漏らしていたことを知ったのである。
これは、この間中井英夫への興味が薄れていたこともあるが、なによりも自分の情報収集力の低下によるところが大きい。このシリーズは一冊の値段が結構高い(1500円前後)ので、いくら興味が薄れた作家だとはいえ、出たときに買っておくべきなのだ。でもそうしていなかった。
以上が中井英夫全集曲線=B

そしてこれは「日録」のほうに書いたのだが、先日お花茶屋の某古書店で、池内紀さんの『温泉』を1000円で購入した。
同書は白水社の日本風景論というシリーズ中の一冊で、新書版ソフトカバー箱入り、吉岡実氏による風格ある装幀がいい。

この日本風景論≠ニいうシリーズ名を聞いてピンと来られた方もいるだろう。
そう、澁澤龍彦の『城』や、泉鏡花賞受賞作である赤江瀑の『海峡』もこのシリーズの一冊として刊行されたのである(余談だが、この『海峡』の角川文庫版がまだ箱から見つかっていない)。

さて購入した『温泉』の帯に記載されている、同シリーズのラインナップを見ると、中井英夫による『墓地』も、このシリーズにあるということを知った(というより思い出した)。さっそくこの『墓地』が全集の何巻に収録されているのか調べたところ、未購入であった第7巻に入っていたというわけである。
以上が日本風景論曲線=B

そこで本日、その第7巻をめでたく入手できたのであった。
中井英夫全集の発掘=E第11巻『薔薇幻視』の購入という曲線と、池内紀『温泉』購入を契機とした中井英夫『墓地』への興味という曲線、この交点が今日文泉堂書店の上にあったというべきだろうか。

いやいや、もう一本の曲線もあるかもしれない。それは、谷中墓地や青山墓地など、東京に来てから醸成された墓地(掃苔)への興味だ。
結局『中井英夫全集7 香りの時間』は、私個人の三次元的な読書関心がめでたく重ね合わさったところに将来されたといえよう。

■5/11 面白通販生活

わが家では『通販生活』を定期購読している。
先日「夏の特大号」が送られてきたが、その巻頭特集が思わず吹き出してしまうような楽しい内容であった。これは是非とも紹介しなければならない。
特集は「とんでもない買物」。普通通販では買わないような品物ばかり。いや、通販はおろか、購入するという観念すらないようなものばかりである。

1.コテカ
名前だけでは何を指すのかわかりずらい。要はペニスケース≠フことである。インドネシアのダニ人が着用しているものと同じものだという。
売り出されているのは二種類あって、先端が真っ直ぐなタイプは青年用で7000円。曲がっているタイプは年配者用で7600円なり。
「商品の性格上、返品は一切お断り」というのが笑える。

2.ゴング
ボクシング、K−1などで用いられるものと同じものだそうだ。値段は85800円

3.ラーメン屋台
暖簾・提灯・のぼりも付いて800000円。申し込みがあると製作されるので、契約金として、代金のうちから26万円を前払いしなければならない。

4.分煙機
オフィスにあるような立派なやつだ。これがあると、家の中で煙草を吸っても空気はクリーンかもしれない。でも設置場所の確保が大変そう。516000円

5.四輪自転車
これは誰が使うのだろう。200000円

6.放射線測定器
これはちょっと冗談にはならない。580000円

7.オオクワガタ幼虫
6200円。うまく育てば、雄は10万円で売れる。80ミリの雄だと、何と1000万円もするというから驚き。子供の頃、早朝に雑木林に行くと、こんなクワガタいたような気がするのだが…。天然の(!)クワガタなんて、しばらく見る機会がないかもしれないなあ(ト感慨にふける)。

8.潜望鏡
目の位置から54センチまで伸びるという。やじうまになっても肝心の目標物が見えないときなど、有効かもしれない。11700円

その他、墓文字(15画まで500000円 いらない)、愛犬用ルームランナー(小型犬用228000円 それより散歩させろ!)、夫婦どっくり(焼酎のお湯割り用 4900円 なかなかユニークなもの)など。

このうち、一つでも売れる品物があるのだろうか。結果報告も聞きたいものである。

■5/12 十年越しの念願成就

いわゆる幻想文学≠ノ熱を入れていた頃だから、いまから十年ほど前のことになる。仙台の某古書店でアルバイトをしながら、探していた本があった。
講談社学術文庫に入っている川村二郎さんの『銀河と地獄』がそれである。しかしながら、結局入手できないままアルバイトを辞め、仙台を離れた。

学術文庫版でなく、単行本版の同書を何度か見かけたことはあるのだ。でも、買いたいとは思わなかった。
結局、読みたいから手に入れたいのでなく、その文庫版を持ちたいから手に入れたいという境地にすり替わってしまっている。これはいかん。

こちらに来てからもあいかわらず、古書店で学術文庫の青い背表紙を見るたびに、条件反射のようにその五文字がないかどうか探している。
ところが、今日を境に、それをする必要がなくなった。そう、ついに同書を手に入れたのである。
職場近くの古書店で偶然見つけた。値段も定価の半額程度、500円もしない。ラッキー。以前のような情熱がなくなっているので、1500〜2000円などという法外な値が付けられていれば、あるいは買わなかったかもしれない。

本書で論じられているのは、上田秋成・狂言作者たち・泉鏡花・幸田露伴・折口信夫・柳田国男・南方熊楠・岩野泡鳴・佐藤春夫・牧野信一・藤枝静男・吉行淳之介。
やっぱり読まないのだろうなあ。

これから、青い背表紙の学術文庫を見ても、背文字を凝視する必要がなくなってしまったのが、ちょっと寂しい気がする。

■5/13 中井英夫の東京下町

中井英夫の『墓地』(『中井英夫全集7 香りの時間』所収)を読み終えた。

澁澤・種村両氏への興味よりも先に、乱歩の筋から中井英夫の『虚無への供物』を読み、さらに彼の著作を読み進めたのはすでに十年ほど前のこと。それ以来ほとんど読んでこなかったが、今回久しぶりに彼の作品を読んで、自らの生まれ育った都市東京に関する言及が多いことに驚いた。

中井英夫が生まれ、青年期まで過ごしたのは、田端である。
『墓地』は、彼の生家近くの与楽寺や、上野・谷中の墓地にも触れられている。本作品は、墓地にまつわる(ときには墓地からも離れた)回想、紀行といったおもむきで、彼自身も作中で述べているごとく「全体が一種の私小説の変型」といったほうがわかりいい。
東京の墓地に関する都市空間論的な内容を期待していた私は、少しあてが外れたわけだが、それなりに面白かったのは確かだ。

中井英夫と田端、ひいては東京・下町、というテーマに興味をもち、全集の同じ巻に収録されている「ふるさと・わが流刑地」(『地下鉄の与太者たち』所収)「幻町の住人になるためには」(『香りの時間』所収)にも手を広げてみる。生まれ育った田端という町に対する執着の度合いというものの大きさが感じ取れる。

この感覚がやがて『虚無への供物』を産み落とすことになるのだと考えると、いよいよ再読したいという気持ちが高まるととも、本書を携えてもう一度田端を散策したいという念にもかられる。というのも、以前一度訪れたときには、残念なことに芥川の家「澄江堂」跡を見つけることができなかったのだから。

ところで、中井英夫に取りつかれていたころの日記には、彼の文体の影響がモロに出ていたものだった(「…してい、」なんて語法)。今回読んで、やはりこの文体の魔力に取り憑かれそうになる。

■5/14 田宮模型は岩波書店だ!?

いわゆるガンプラ$「代に属する私は、例に漏れずプラモデル作りに熱中していた子供であった。大学生のはじめの頃まで、趣味としてプラモデル作りは継続していたように思う。

ガンプラはもちろんだが、もう一つの柱として、車・バイクのプラモ作りにも精を出していた(不思議なことに戦艦などは興味がなかった)。そうなるとお世話になったのは田宮模型のプラモである。
このほど文春文庫から、田宮模型の創業者田宮俊作さんの『田宮模型の仕事』という本が出たので、ワクワクしながら購入したのである。もう一度プラモ作りをしようという気力もないけれど、「田宮模型」という文字には、どうしても心をくすぐられるとおぼしい。たぶん最後に作ったプラモは、タミヤのF1、プロストとセナがいた全盛時代のマクラーレン・ホンダではなかっただろうか。

さて、暴論承知でいってしまおう。
田宮模型は、出版社でたとえると岩波書店ではなかろうか。

これはこういう意味だ。
岩波文庫を読むときは、どうもほかの文庫を読むときと違って、静かな気分にならないといけないような気がする。ガンプラを作るときと違って、田宮模型のバイクや車を作るときには、居ずまいをただしてプラモに対峙する。
これは個人的にそう思うだけにすぎない。

もう一つ。
岩波文庫も田宮模型も、その時々の流行の最先端をいっているようなもの(作品)をモデル化(文庫化)するのではなく、ある程度普遍的な、長く売れるようなタイプのものを出す。
だから、田宮模型や岩波文庫に、一風変わったラインナップが登場すると、「おっ、田宮模型(岩波文庫)がこんなものを出しやがった。なかなかやるな」と、一人でニヤニヤする。
だからといって例をすぐあげられるわけではないが、岩波文庫でいえば谷譲次の本などであろうか。先に触れたマクラーレン・ホンダがモデル化されたときにも、そう思わないでもなかった。

ちょっと無理があったかもしれない。直感でそう思っただけです。

■5/15 床屋のはなし</FONT>

床屋は、髪型に凝ったり、店そのものが気にくわないという事情がないかぎり、そう頻繁に店を変えるという性格のものではないのではあるまいか。
とりわけ私は、自分の髪型に関しては頓着しない(保守的?)方であり、そのうえ内弁慶の臆病者であるから、一度そこと定めたら、なるべくなら別の店に移りたくない、と考える人間である。

山形に高校卒業まで18年間住んで、家の近くの床屋が気のおけない店であったため、仙台の大学に入学して二年くらいは、山形に帰省したときにそこまでわざわざ髪を切ってもらいに行っていたほどだ。

ただ一人暮らしが長くなると、いちいち山形に帰って…というのも面倒くさくなって、仙台での最初の転居を機に、思いきって近くの店に行くことにした。
そのときは、店の前を何度かうろちょろして、かなり躊躇したあげくのことであった。

仙台で二度目の転居のときは、旧居と新居が離れていたせいもあって、また新しく近くの店にお世話になった。
三度目の転居では、それぞれの住まいがそう離れておらず、車で行ける場所だったため、二度目の店をそのまま継続した。

さて東京に移った。もちろん新しく店を決めなければならない。
情報がまったくなく、幸運なことに住まいの目の前に床屋があったので、そこに行く。そこのおじさんは、近所の事情通とおぼしき世話好きな方で、東京に移り住んだ当初は心強く感じたものである。
ただ問題がないわけではなくて、技術的にちょっと…というのと、そのわりに料金が3000円台と高いのである。

そんなある日、たまたま最寄り駅のホームからカット2000円という看板を掲げている店を見つけたので、一年半ほど通った目の前の店からそちらに乗り替えた。
はじめてその店に踏み入るときに緊張したことは、言うまでもない。

ここは安かろう悪かろう式で、技術的にもサービス的にもこの料金なら仕方ないかと思えるものであり、まあ今後もここでいいか、と考えていた。しかしそれまで通っていた店のおやじさんとは当然週に何回かは顔を合わせざるを得ず、そのたびにばつの悪い思いをしなければならなかった(でもいまはそこから越したので、少し気が軽くなっている)。

…と、これでおしまいではない。実は、先日もっと安い店を発見したので、これからはそこでやろうと思っているのである。

歌舞伎座に行くとき、正攻法で晴海通りを歩くのではなく、銀座松屋あたりからウィンズ銀座を経て、マガジンハウス本社の方から裏通りを通っていくことがある。そのとき、10分1000円という看板を見つけてしまったのだ。

そこに思いきって先日行ってみた。
洗髪・髭剃なしでただのカットのみ、仕上げも整髪をきちんとするではなく、出るときにクシをもらってご自分で、という方式。あまり髪型に頓着せず、気軽に行けてサッと終わるという点で、まさに私好みのスタイルの床屋である。
こんな床屋あるのだなあと感心しながら、今後は歌舞伎を見るときに立ち寄って切ってもらうということになりそうである。

こういうサービスを極力廃して料金を引き下げた床屋というのは、やはり東京だからこそ成り立つものだろうか。それとも、たんに私が世間知らずなだけで、仙台でも山形でもそうしたスタイルの床屋はすでに存在しているのだろうか。

■5/16 あと○回の◆△×

「いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う」と山田風太郎さんが書いたのが、いまから約五年半前の平成六年十月六日。
するとそれは無事に突破したようで、おめでたいことである。

上の書き出しで始まる著書『あと千回の晩飯』が朝日文庫に入った。
幸い私は、息災でいれば、あと数千回の晩飯を食べることができるであろうか。あるいはもっと少ないかもしれず、まあこればかりは確定的なことはいえない。

「あと○回○○ができるだろう」ということを考えたとき、ふと頭によぎったのは、「あと何回オリオン座を見ることができるだろうか」ということだ。多少突飛な思いつきかもしれないが、実際それが思い浮かんだのだから仕方がない。

もとより子供の頃から星を見るのが好きで(といっても天文ファンではない)、わけてもあのシンメトリックなオリオン座が大のお気に入りであった。
オリオン座は冬の星座である。小学生の時分に通った算盤塾からの帰り、澄んだ寒空を見上げるとオリオン座が輝いている。あの三ツ星を見つけるとなぜかホッとしたものだ。

仙台、さらに東京と、夜でも明るく、さらに空気が汚い都会に移り住むたびに、毎冬オリオン座を見る回数が少なくなってきている。いま住んでいる場所は、東京といっても夜が皓々と明るいわけではないので、かろうじて月に数回は見ることができるであろうか。
あと三十年生きることができ、半年の間オリオン座が夜空に登場、月に5回見ることができるとして、一年で30回、三十年で900回。でも実際はそれほど多くはないだろう。たったそれだけか…。

まあ私は田舎にいるころ散々星空は眺めてきたが、東京で生まれ育つ息子のことを思うと、満天に輝く星たちの素晴らしさを、住んでいる場所で味わうことができないのがかわいそうな気がしてならない。

■5/17 カレーライスとカレー丼

蕎麦屋のカレーライスがやっぱりうまかった、というのは、本漫筆の3/1条で書いた。
その後くだんの蕎麦屋に二、三度足を運んだが、カレーライスしか食べていない。

昼休み、その蕎麦屋に行った。前々から考えていたことを実行しようと思ったからだ。
メニューに、カレーライスと並んで「カレー丼」があって、ともに750円。どう違うのだろうか?これを確かめたかった。

セブンイレブンのCMでは、お蕎麦屋さんのカレー丼≠ェ売り出されていたはずで、それを買って食べてみたところ、たんに丼に入ったご飯にカレーがかかっただけだったので、それとカレーライスとどこが違うのだ…と不思議に思っていたのである。

今日そのカレー丼を注文したら、見事にカレーライスとは違うのである。
天丼・カツ丼・親子丼と同じく、ご飯の盛られた丼にカレーがかかっている。それだけでなく、漬け物・サラダ・みそ汁が付いているのである。カレーライスはサラダのみ。なるほどそうだと納得した。

さらにカレーの中味も違う。味は同じかもしれないが、具が違う。
ジャガイモやニンジンなど、カレーライスでおなじみの具がない。タマネギと鶏肉(?)だけなのだ。そうかなるほど、「カレー南蛮」にかかる「カレー」がご飯にかけられるわけか。

カレーライスとカレー丼、値段は同じでも、このように違うのであった。
なっとく(ト関根さん風に手を胸に当てる)

■5/18 謎の家、ロマンの家

こんな文庫本が出ていたとは、知らなかった。
小幡陽次郎・横島誠司著『名作文学に見る「家」』(朝日文庫)のことである。
先日立ち寄った西日暮里の某古書店で偶然発見した。奥付をみると97年刊行とあるから、興味を持って買っていてもおかしくない。仙台にいた頃だが、この分野に対する興味が薄れていたのがわかる。

著者は広告ディレクター(小幡氏)・設計事務所社長(横島氏)という異色の組み合わせ。私が入手した「謎とロマン編」のほかに、「愛と家族編」というもう一冊も出ているらしい。

さて本書は元来、朝日新聞関東地域版広告特集「リビング・ジャーナル」に連載されたものをまとめたものだそうで、内容は、文学作品に出てくる建築物としての家を、その叙述にそくしてできるだけ正確に間取り図あるいは立体図として再現してみようというユニークなものである。
「謎とロマン編」には、1「謎の「家」」・2「海外文学にみる世界の「家」」・3「名作文学を彩る「店」「集合住宅」など」という三つのパートに分かれている。私が興味を抱いたのは…。

1では、宮沢賢治の「注文の多い料理店」。まるでエッシャーの絵にでも出てくるような異次元のつくり。
乱歩の怪人二十面相の隠れ家。広大な地下室を備えたそれが断面図に復元(?)されている。
カフカ「変身」のグレゴール・ザムザの家。これには唸らされる。そうかなるほどこういう部屋配置のなかで、あの家族は暮らしていたのかと妙に納得してしまう。
さらに喜ばしいのは、佐藤春夫の「西班牙犬の家」。これは部屋が一室だけなので、外から見たかたちの立体図に仕立て上げられている。小説を読んでイメージしたものに近い。

2は飛ばして、3では、岡本かの子「家霊」に登場するどじょう店「いのち」。これを見ているうちに岡本かの子を読みたくなってきた。その他山口瞳の江分利満氏が住む社宅。

これは「愛と家族編」も見つけだして入手せねば。

■5/19 愛の家、家族の家

さっそく『名作文学に見る「家」』の「愛と家族編」を買ってきた。
こうした種類のものは思い立ったときに見つけて買っておかないと、すぐ品切れになってしまうので、気をつけなければならない。とりあえず見つかってホッとしている。

さて本書もまた、1「近代文学を生み出した「家」」、2「女たちの「家」」、3「さまざまな家族を包む「家」」の三部に分かれている。

1では、漱石「三四郎」の広田先生の家、鴎外「青年」の小泉純一の家、荷風「すみだ川」のお豊の家、花袋「田舎教師」林清三の家など、近代文学の名作に登場する家の間取りが示されている。

2では、谷崎「細雪」の蒔岡家・芦屋の分家、幸田文「流れる」の芸者置屋「蔦の家」、三島「鏡子の家」の信濃町の洋館など。
とりわけ、三島「鏡子の家」は、最近友人とやりとりしたメールで、藤森照信さんの『建築探偵の冒険』(ちくま文庫)にも取り上げられている(「西洋館は国電歩いて三分」)現存する洋館(デ・ラランデ邸)であることを知り、興味を持っていたところであった。またこの邸宅は、澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』(中公文庫)の表紙写真にも登場する。それまでこの邸宅は、てっきり三島由紀夫邸そのものだと思っていたが、どうやら違うようなのだ。

3は、北杜夫「楡家の人びと」の青山楡病院、太宰「斜陽」の伊豆の山荘、黒井千次「群棲」の四家など。
ここでは最後の「群棲」に出てくる四家の図面が興味深い。本書は講談社文芸文庫に入っている谷崎賞受賞作だが、先輩に薦められて一読、面白かったと記憶している。毎度のことながら、引っ越しで久しぶりに本書を手にして、少し心を動かされていたのである。本書に取り上げられていたことで、さらに再読したいという気持ちが大きくなった。

■5/20 ひゃくずーさん

漱石の書簡集が、ただそれだけで一個の文学作品に値するほど面白いことは、いまさら私がうんぬんせずとも広く世間に知られたことであろう。私も同感である。

トイレに長居するときのおともに、岩波文庫『漱石書簡集』を置いて、長居するたびに一つずつ読んでいくということを思いつき、さっそく実行に移した。
思ったとおり愉快な内容で、用が済んでもそのまま読みつづけてしまうこともたびたびだ。

いまから99年前の明治34年(1901)2月9日付で、友人の狩野亨吉・大塚保治・菅虎雄・山川信次郎に連名で宛てた書簡がある。
このとき漱石はロンドン留学中で、つまり友人たちにロンドンにおける近況を報告する内容の手紙がこれである。これを読んでいて、東北人の私にとってひっかかる部分があった。

ロンドンに着いた漱石が、さてどこに腰を据えて英文学の勉強をしようかと思案したさい、彼の頭にあった選択肢として、ロンドン・ケンブリッジ・オクスフォード・エジンバラの四箇所があった。

しかしケンブリッジ・オクスフォードは、先生方や学生との付き合いにお金がかかりそうだということでパスする。
次にエジンバラはどうか。ここは「景色が善い、詩趣に富んでいる、安くもいられるだろう」ということで大きく心が動かされたとおぼしいが、逆に大きな難点もあった。「エジンバラ辺の英語は発音が大変ちがう」ということである。英語の方言のようなものであろうか。

漱石はこの英語のエジンバラ方言をたとえて、「先ず日本の仙台弁のようなもの」と言っている。
さらに追い打ちをかけるように、「切角英語を学びに来て仙台の「百ズー三」などを覚えたって仕様がない」とまでのたまう。

最初この「百ズー三」が何を意味しているのかピンとこなかった。二度三度と心のなかで読み返してはじめてこれが「百十三」の東北訛りであることに気づいた。いわゆるズーズー弁≠ニいうやつだ。でもこれがなぜ仙台弁なのだろうか。
仙台でなくとも東北ではこうした発音であろうから、ことさら仙台弁でなくともいいと思われるが、漱石の頭のなかでは東北訛り=仙台弁という通念があったのだろうか。それとも仙台弁を話す友人でもいたのだろうか。

ともかく、仙台が第二の故郷といってもいい私にとって、この記述は面白いと思う反面、ちょっとバカにしすぎじゃないの、という憤慨を感じないわけでもなかった。

■5/21 谷崎「黒白」礼賛

待望の『谷崎潤一郎全集』が再び書棚に並んだ。この間読みたいと思っていた長篇「黒白」(全集第11巻所収)を読みはじめ、このほど読み終えた。

といっても本作を知る人は、よほどの谷崎ファンでないかぎり少ないのではあるまいか。それほどマイナーな作品なのである。
だからまず本作品の紹介をしよう。

本作品「黒白」は、昭和3年(1928)3月〜7月、『大阪朝日新聞』『東京朝日新聞』に連載された。全集版でいうと242頁にのぼる長篇小説である。ちょうど同時期の昭和3年3月から、かの『卍』の『改造』誌への連載もスタートする。
ちなみに『卍』は、全集版で200頁にも満たない。したがって分量的には、立派に長篇小説としての要件を満たしているといえよう。

全集第26巻の書誌をざっと見るかぎり、本作品が新聞連載終了後何らかのかたちで本になったのはただの一度きり。昭和4年(1929)新潮社刊の『現代長編小説全集第八巻 谷崎潤一郎篇』においてのみで、単独の単行本化はおろか、谷崎存命中の全集・選集のたぐいにはいっさい収録はされてこなかった。
つまり谷崎本人から忌避されてきた作品だと思われるのだ。かなりマイナーな部類に属すると前述したのは、そういう意味である。

にもかかわらず読みたいと思ったのはなぜか。
昭和56〜58年に刊行された30巻本全集(つまり私が所持しているもの)の月報に、作家の河野多恵子さんが「谷崎文学の愉しみ」という谷崎論を連載された。そこにかなりの紙数を割いて「黒白」への言及があるのである。
本連載は、平成5年(1993)になってようやく単行本化され、購入して再読、さらに平成10年(1998)に文庫化(中公文庫)され、これで三読し、読むたびごとに「黒白」読破への願望が高まっていったのであった。

さて河野さんはどのようなかたちで、なぜ本作品を谷崎論の俎上にのせたのか。
本作品のあらすじも含めて、以下河野さんの文章を引用しつつ話をすすめたい。

昭和初年に巻き起こった谷崎・芥川両者の話の筋論争≠ノおいて、自らの小説には「話の筋」があると主張した谷崎だが、河野さんにいわせれば、それは谷崎の誤認であって、谷崎文学のなかで〈筋らしい筋〉のある作品は不思議なほど少ないという。

そのなかで、〈筋らしい筋〉を備えた珍しい作品が「黒白」であるとし、「この作品の〈筋らしい筋〉には、自然主義系小説・人生派小説、通俗メロドラマ小説、犯罪小説・推理小説のいずれの〈筋らしい筋〉にもない、力強いおもしろさがある」と評価する。

【以下、本作品の内容に触れます】

本作品は、小説家水野という男が主人公である。
彼がある日、一昨日出版社に原稿を渡した「人を殺すまで」という小説の原稿のことを思いだし、ある心配をする。作中の重要人物「児玉」を「児島」と二、三ヶ所誤記したのではないかというのだ。
この児玉は、水野と浅いつき合いしかないが実在の知人をモデルに作った人物で、そのモデルの本名が児島なのだ。しかもその小説で児玉は完全犯罪で殺される立場となっている。

水野は、もし本当に児島が殺されたら、自分が疑われやしないかという恐怖心にかられ、そこで次に、それを書いた小説家が本当に嫌疑を受けて逮捕され、死刑に処せられるという筋の「『人を殺すまで』を書いた男が殺されるまで」という続編の執筆に取りかかろうとする。

ここまでがだいたい作品の三分の一。何とも魅力的な〈筋らしい筋〉である。ここからどうなっていくのだろうという牽引力十分の内容だ。
ここまでの内容は、極度に心配性・神経質な水野の、その様が細部にわたって描かれていることも面白い。いわば強迫神経症小説≠ネのである。
ガスの元栓を閉め忘れたのではないかとか、ドアの鍵を閉め忘れたのではないかとか、あとからウジウジと心配で心配でと悩む自分の性格と重なる部分もあったりする。

小説では、最終的には、モデルとなった児島が、本当に小説と同じ日にち・時間・場所で殺されてしまい、水野が任意同行を求められ、取調室で水野の指と指の間に鉛筆が差し込まれて…という拷問がはじまるところで突然ぷっつりと終わってしまうのである。
「あー、そこからどうなんのよ」と地団駄を踏んでも、続きはどこにも見あたらない。謎が宙吊りのままというとんでもない小説なのだ。

と、こう説明するといかにも緊迫感のある小説のように思えるが、実は、この児島殺害・水野連行という部分は、後ろ三分の一弱に過ぎないのである。
では、その間の三分の一強はいったいどうなっているのか。

ここは、原稿料を前借りした水野が横浜桜木町に住む謎の売春婦と退廃的な日々を過ごす、いわば放蕩小説≠ニなっているのであった。
この部分、実に谷崎らしく、水野の酒浸り女浸りの日々が、〈筋らしい筋〉もなく、だらだらと綴られている。
もっともこの部分は、児島が殺された前後数日間を名前も素性も家もわからない女性と過ごしたために、水野のアリバイが証明できないという伏線にもなっているのだが、それにしてもこの部分が長すぎる。前後の〈筋らしい筋〉に期待しないで読みすすめていると、ここで多くの人が挫折するのではないかと思ってしまう。

河野さんは本作品を、マゾ小説「日本に於けるクリツプン事件」とともに「谷崎文学の特質を探ねるうえで避けて通れぬ作品」「大正時代の一期間における谷崎の自作に対する自覚のかたちと材料の択び方での傾向自体をまるごと素材にしたかのような作品」であると評価するいっぽうで、材料自体が「あざとい」もので、「低俗なる芸術小説」「愚作」と断じている。

逆に私は、『蓼喰ふ虫』以降の光り輝ける谷崎作品よりも、こうした大正期の谷崎作品(その多くは中公文庫『潤一郎ラビリンス』に収録されている)のほうに魅力を感じているから、その集大成ともいえる長篇「黒白」に、いいようのない面白さを感じてしまうのだ。

中間の放蕩小説≠フ間延び加減にはちょっと閉口せざるをえなかったけれど、メタ・フィクションともいうべき入れ子構造、謎への興味を読む者に持続させていく文章力、その謎がいよいよ解き明かされるという佳境に入ったとたん小説が終わってしまうという中絶の鮮やかさ(?)…なんとも谷崎ファンにはこたえられない作品である。


いま中絶と書いてしまったが、これは意図的に終わらそうとしたとはとても考えられない。
話自体はまだまだ続けようと思えば続けられたのだが、谷崎自身が続けることに嫌気がさしたのか、約束の連載期間内にとても収束できないとみて自発的に筆を絶ったのか、そのあたりの事情を知らないのでいい加減なことはいえないが、後年の本作品に対する谷崎の態度を見るに、良い気分で本作品を終わらせたわけではないということは、明瞭であろう。

今現在は残念ながら全集版でしか読むことができないが、何とか中公文庫あたりで本作品を文庫化してくれないだろうか。
岩波文庫なんかに入ったら、腰を抜かすほど驚いてあげるのだが。

■5/22 眩暈

澁澤龍彦が、その幼年時代、「メリー・ミルクのというミルクの罐のレッテルに、女の子がメリー・ミルクの罐を抱いている姿の描かれているのを眺め」、そのたびに「一種の眩暈に似た感じを味わった」というエピソード(「胡桃の中の世界」『胡桃の中の世界』所収)は、(澁澤ファンの人にとっては)あまりに有名なものである。

これはいわゆる無限≠ニいうテーマに結びつくのであるが、何もこうした体験は澁澤だけでなく、わたしたち一般にも身近なものだと思われる。
大きな鏡の前に、小さな鏡を持って立って、その小さな鏡の中にどんどん小さくなりながら写り込んだ自分を眺める…、こんな経験は誰にでもあるだろう。

こうした直接目で味わう眩暈のほかにも、たとえば、何億光年も離れた星たちをながめて、「これは何億年前に放たれた光なんだ」と思うことによって惹き起こされる眩暈、「自分は死後どうなるのだろう」と考えて夜も眠れなくなるような体験…。
大人になったいまでも、ときおりふとそうした観念が頭に浮かんできて空恐ろしくなり、頭をブルブルと振って忘れようとすることがある。

ちょうどいま読んでいる山田風太郎さんの『あと千回の晩飯』(朝日文庫)を読んでいて、そのような気分になった。
人間は死んだらどうなるか、未来の地球はどうなるか、ごく一般的に言われていることなのだが、あらためて言われると「そんなこと考えたくもないよ」と頭から必死になってその想念を取り払おうとしてしまう。
山田さんはこのように書く。

あと億兆年ののち、地球が死滅する時がくる。空想ではない。必ずくる現実だ。そして地球上のあらゆる生物のみならず、そのときまで人間のつくりあげたすべての大歴史、大文明、大宗教、大芸術、大科学は一片のかけらも残さず死滅する。
あとには何もない。

いや、そのときまでには他の星に移住できるような科学技術を人間は身につけているだろう、といったSF的反論もあるに違いない。山田さんはそれに対してもちゃんと回答を用意されている。
くわしくは実際に本書をお読みいただきたい。

■5/23 遺毛

遺髪っていうのはあるけど、「遺毛」は、ちょっと、ねえ。

講談社版全集・旺文社文庫版・福武文庫版と百閧フ著作がほぼ揃ったので、「百關助M全集・文庫対照表」なるものを作成しようと思いたち、データ入力を開始した。
その第三随筆集『無絃琴』に、「漱石遺毛」なる秀逸なエッセイが収録されている。何度も読んでいて、面白いので気づかなかったが、ワープロで「遺毛」なる熟語が変換されないことで、はじめて何かがおかしいという違和感を感じたのであった。

ここでいう「遺毛」とは、漱石の鼻毛のこと。百閧フもとに、漱石の遺品として大切に保管されていた。
「大変長いのや、短いのを合はせて丁度十本あつた。その内二本は金髪」だという。
なぜ漱石の鼻毛などを百閧ヘ持っているのか。

ある日百閧ヘ、「道草」脱稿のときに「机の横に五六寸の高さに積もつた」書き潰し草稿を記念に貰ってきた。家に戻って一枚ずつ推敲の跡を眺めているうちに、「変な物のくつついた草稿」を発見したのである。それは「鼻毛を丁寧に植ゑつけ」たものであった。

「粘着力の強い根もとの肉が、原稿紙に乾き著いて、その上から外の紙を重ねても、毛は剥落しなかつたのである」という鼻毛残存の経緯を記した一文など、淡々としながらも強いイメージ喚起力を持った抜群の筆致ではなかろうか。
その後日談を綴った「漱石遺毛その後」によれば、この百阨ロ管漱石遺毛は、昭和20年の空襲で残念ながら焼失してしまったという。

「漱石遺毛」「漱石遺毛その後」は、河出文庫『漱石先生雑記帳』に収録されている。ちくま文庫『私の「漱石」と「龍之介」』には、前者しか収められていない。

■5/24 発見「くぼみ町」

友人のホームページで、信濃町にある三島邸(旧デ・ラランデ自邸)が解体され、「江戸東京たてもの園」に移築されるという話を知った。それまでこの建築物は聞いたこともないと思ったら、藤森照信さんの著書をはじめ、いろいろな機会にその由来を読んだり、写真を見たりしていたはずなのだ。

たとえば藤森さんの『建築探偵術入門』(文春ビジュアル文庫)の128頁、またたとえぱ『建築探偵の冒険 東京篇』(ちくま文庫)の259頁以下。
さらには、澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』(中公文庫)のカバー写真に本邸の写真が使用されているのには驚いた。だって、それまでこの邸宅は、てっきり三島由紀夫邸だとばかり思っていたのだから。
篠山紀信氏撮影の三島邸写真と比較すると、たしかに違う。今さらながら。

そのデ・ラランデ邸で、三島食品の所有物となって「江戸っ子はちみつ」という名前の蜂蜜を売られているらしいのだ(昭文社『東京山手・下町散歩』所載地図)。すでに解体されている可能性が高いけれども、とりあえず行ってみよう。仕事帰りに信濃町へと急ぐ。

中央線信濃町駅を降りて北に向かい、すぐ右折する。このあたりは創価学会本部を中心に、同学会関係の建物が多い。ずっとまっすぐ行くと、前方左手に木々が鬱蒼としている場所がある。どうやらそこらしい。

でも、行ってみて愕然。やはり中はからっぽであった。
赤煉瓦の塀が取り残されていたので、それだけ撮影してくる。やはり建物は当初から建っていた場所で見るのが一番だと思うが、まあこのさい仕方がない。「江戸東京たてもの園」に移築されたら、住宅の中味ともどもゆっくり見学してこよう。

仕方ないので、そのまま四谷方面まで散策することにする。
崖といってもいいような坂道を下ると、なんとも雰囲気のいい下町的風景が広がっている。信濃町〜四谷といった、いわば山手のど真ん中に、このような場所があるとは。
電柱の住所表示を見ると、「若葉」とある。これも初めて聞いた町名だ。

さらに歩くと、両側に小さな商店街が続いていて、宵の口ゆえか近所に住んでいるとおぼしき買物客で賑わっていた。
この若葉界隈は、ほとんどまわりを高台に囲まれた谷の町で、その谷筋に沿って商店が連なる道がのびている。これはまさしく「くぼみ町」ではないか。
『東京人』91年3月号で「くぼみ町」の特集があり、そこでの種村季弘・松山巌両氏の対談のなかで、種村氏は「東京の洪積台地と埋立地の下町、崖の下とか川のほとり、(…)そういうところにある町」というくぼみ町のイメージをあげている。この若葉界隈はそうしたイメージにぴったりなのだ。

崖の上はマンションや邸宅があり、急峻な坂道を下ると、下町的民家と下町的商店街(若葉の皆様すみません)。この対比がなんともたまらない。
東京という都市の懐の深さをあらためて感じるとともに、街歩きの楽しみが身に沁みた夕べであった。

帰宅後明治の参謀本部作成の地図を見ると、このあたりは鮫河橋谷町といっていたようだ。まさに「谷」。さらに崖を下ったあたりは、明治の頃は沼地だったらしい。たしかに湿っぽさを感じないわけでもなかった(これまた若葉の方々に失礼ですね)。
ちょうど現在の若葉界隈は四谷の寺町であった。なぜここに寺町が形成されたのかは不明。調べてみたい。

■5/25 懐かしき相撲番付

中公文庫新刊の中田祝夫・林史典著『日本の漢字』を購入する。

中味をパラパラとめくってみると、なかなか面白そうな予感。そのうえ、本書の本筋とは無関係のところで感動してしまった。その場所は130頁。小見出しは「相撲番付から見た「日本の漢字」―「若」「舛」「栃」」
ここでのテーマは、「ある文献の、ある範囲の中に、どれだけ中国にない(漢字の…引用者注)日本的特殊用法があるか」という問題である。素材として取り上げられているのが、昭和56年(1981)1月に開催された大相撲初場所の番付表。

ところで私は、小学生〜中学生の一時期、かなり相撲に熱を入れていた時期があった。筋金入りの三重の海(現武蔵川親方)ファン。だから今の武蔵川部屋の隆盛を見ると、ちょっと嬉しくなる。
まあそれはいいとして、その当時、同じように相撲好きだった友人とともに、番付表を共同購入したことがある。友人が番付の入手の仕方と値段の情報を仕入れてきて、意外に安く手に入ることを知り、それに乗ったのである。

そのとき購入したのがいつの場所だったか、日本相撲協会のHPで調べてみると、昭和56年3月場所(春場所)であるらしい。
なぜそれがわかるかといえば、横綱輪島・大関増井山の引退した場所であるからで、「これは貴重なものだ」と、宝物として、実家の私の部屋にずっと貼っていたのであった。実家が引っ越ししたことで、残念ながら今はないだろう。
ついでにいえば、この3月場所は、千代の富士の大関昇進後最初の場所でもあり、千代の富士は大関を一足飛びに横綱に昇進してしまった(7月場所に昇進)から、その意味でも貴重な番付だといえまいか。

つまり、『日本の漢字』所載の番付はその一つ前の場所のものであるわけで、懐かしい名前が連なっているのを見て、思わず感動してしまったのである。以下全員を書き出してみよう。

横綱:輪島・若乃花・北の湖
大関:貴ノ花・増位山
関脇:千代の富士・隆の里
小結:舛田山・魁輝
前頭:巨砲・蔵玉錦・佐田の海・青葉山・朝汐・琴風・黒姫山・麒麟児・鳳凰・天ノ山・荒勢・富士桜・蔵間・鷲羽山・北天佑・出羽の花・栃赤城・黒瀬川・満山・玉ノ富士・大潮・高見山・栃光・闘竜・若島津・播竜山。

うわーっ、涙が出るほど懐かしい。なんとタレント揃いなのだろう。
このうち、のちに横綱・大関に昇進した関取もいれば、いまは引退して親方として活躍されている方もいる。また、残念ながら物故された方もいる。

贔屓にしていた三重の海はすでに前の場所(昭和55年11月場所)に引退していたけれど、思えばこのあたりの時期が、私の相撲観戦史のなかで、一番面白く、一番熱中していた時期なのかもしれない。
現今の角界を眺めてみても、これほどのタレントは揃っていない。相撲人気が凋落しつつあるのもうなずける気がする。残念だが。

■5/26 垣芝折多の謎

垣芝折多なる著述家をご存じであろうか。
文春文庫に、松山巌さんの編にかかる彼の著述『偽書百撰』が入っており、巷間知られているのはこの一書のみであると思われる。
カバーに印刷されている紹介文には、次のようにある。

明治・大正・昭和の百年に著わされた、奇妙キテレツ、抱腹絶倒の百冊の本を発掘した奇書中の奇書。著者・垣芝折多の博覧強記には唖然とするばかり。これぞ日本の近代百年の裏面史である。

明治七年刊の拭座愉吉著『掃除のすゝめ』から、昭和四十七年刊本田要著『本を読まずに済ます法』まで、百冊にわたる奇書が並べられている。

…というこの本、実は編者の松山巌さんが、近代の名著をパロってでっちあげた架空の本百冊をめぐる楽しいエッセイ集だとおぼしいのだ。
垣芝折多という著述家も、もちろん松山さんによって創造された人物。

「なあんだ、そんなこととうの昔に知っている」とお思いの方も多いかもしれない。実は、私は最近までそれに騙されていたおめでたい人間なのである。

まえまえから本書の存在は知っており、新刊書店・古書店で何度か見かけ、松山巌氏の名前があるので何度も手に取りはした。でも、垣芝折多なる著者の名前を聞いたこともないので、購入するまでは至らなかった。
今回もブックオフで本書を見つけ、手に取った。
いままでと違うのは、松山さんによる「編者あとがき」を読もうと思ったことである。
そこには、「カキシハ オレタ」という言葉がぽつんとあるのみ。

「カキシハ オレタ…?」。何度か頭の中でこの言葉を反芻したのち、ようやくそれが「書きしは俺だ」のもじりであることに気づいたのである。われながら鈍感このうえない。そうとわかった瞬間、購入決定。左手で持っていた購入本の束へ。

『週刊文春』1989年2月16日号〜93年5月6・13日号まで連載、94年文藝春秋から単行本化、97年10月に池内紀さんの解説付きで文庫化。ああ情けない。

■5/27 平成日和下駄(1)―序

人並みはずれて丈が高くはない私であるが、いつもウォーキングシューズをはきリュックを背負い、そのなかには折畳傘をしのばせて歩く。いかに好く晴れた日でもウォーキングシューズに折畳傘でなければ安心でならぬ。これは年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。

…と大荷風の名作「日和下駄」の出だしをパロって、この「平成日和下駄」をはじめようと思う。
平成などと元号を頭に付けたのに他意はない。「新〜」でも「続〜」でも不遜だ。「偽」でも憚りがある。たんに「平成」の語呂がよかっただけである。

さらにこれは毎日続けるわけではない。
思いたって「日和下駄」の故地を訪ねたり、「日和下駄」よろしく東京のあちこちを散策して感興を催したときだけ、書きとめてゆくつもりだ。

■5/28 平成日和下駄(2)―有馬猫塚1

散策記とはいえ文学的香気の高い永井荷風の「日和下駄」(岩波文庫『荷風随筆集(上)』、講談社文芸文庫)は、荷風の作品の中でも大好きなものの一つだ。東京散策に出かけるさい、ときおり本書で予習をしたり、さらには携えたり、また散策後に復習をしたり、しばしば本書を拠り所にしている。

「日和下駄」の文章自体は、懐旧の情を根底に持ちながらも、その筆致はむしろ淡々としたもので、とりあげるキーワードも「樹」「寺」「水」「路地」「閑地」「崖」「坂」など、卓抜な東京論となっている。

さてその淡々とした筆致のなかに、きわだって異彩を放つ緊迫感にあふれた記述がある。それは「第八 閑地」に含まれる有馬屋敷跡潜入のルポルタージュの部分だ。
突然このくだりになると、叙述のスピード感が急激に満ちあふれてくる。

大正3年(1914)5月、当時35歳にして慶応大学文学科教授であった荷風は、友人から、三田キャンパスの近くにある有馬の屋敷跡に、名高い猫騒動の古塚がいまだに残っているという情報を得て、さっそく潜入をこころみる。
久留米藩主有馬氏の屋敷地は、現在の慶應義塾大学三田キャンパスの北側にあるイタリア大使館の、さらに北隣にある。現在の都立三田高校・港区立赤羽小学校あたり。

荷風一行は有馬屋敷跡に踏み込む入り口を見いだせずに四苦八苦する。
やむなく「閑地の一角に恩賜財団済生会とやらいう札を下げた門口を見付けて、用事あり気に其処から構内に這入って見」るという強行手段をとる。
「済生会」とは、ちょうど三田高の北に位置する「済生会中央病院」として現存する。

済生会の母屋の赤煉瓦を迂回した裏手には二筋の鉄条網があるのみ。その先には驚くなかれ、「正面に鬱々として老樹の生茂った辺から一帯に丘陵をなし、その麓には大きな池があって、男や子供が大勢釣竿を持ってわいわい騒いで」いるではないか。
まるで桃源郷にでも迷い込んだ心地がしたに違いない。

さっそく荷風は、その日図書館から借り出した重い書物の包みを友人に預け、鉄条網の間をくぐって中に入った。
すると「今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様をば」彷彿とさせるような池の風情が目の前に広がっている。池からは鰌・鮒、さらには鰻も釣れるのだという。
大木の根方に、一人の翁が釣道具に駄菓子やパンまで売っている。荷風たちは、この老翁に猫塚のありかを訊ねた。翁はその場所とともに、「なお猫塚といっても今は僅にかけた石の台を残すばかり」ということまで丁寧に教えてくれた。

荷風の名所旧蹟論。
「名所古蹟は何処に限らず行ってみれば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである。唯その処まで尋ね到る間の道筋や周囲の光景及びそれに附随する感情等によって他日話の種となすに足るべき興味が繋がれるのである」
たしかにそうだ。

老翁に教えてもらった猫塚は、「来てみれば更につまらない石のかけらに過ぎなかった」。猫塚探訪は、期待の大きさに反したかたちで終わったようである。

「平成日和下駄」の筆者は、ちょうど三田近辺に所用があるのを幸い、朝早く出て、地下鉄を一つ手前の駅で降り、荷風のひそみにならって有馬猫塚探訪を試みた。
「綱の手引坂」と呼ばれる坂を芝方面から登っていくと、左手にはイタリア大使館の鬱蒼とした木立があり、右手に三田高・赤羽小の校舎がある。幸いに赤羽小の校門が開いていたので忍び込む。古そうな建物。地図で見ると、校舎とプールの間に、その猫塚は存在しているとおぼしい。

プールは校庭から階段を下った低地に位置する。ちょうど荷風とは逆の方向(南)からアプローチしたかたちになるわけだ。あるいはこのプールがあったあたりが池であったのかもしれない。プールの上方、崖上には大名屋敷の名残を思わせる樹木が数本。

しかし「平成日和下駄」筆者のほうは、「つまらない石のかけら」どころか、何も発見できず、すごすごと引き返さざるをえなかったのだ。あるいは隣の三田高の敷地にあるのかもしれない。

よし、今度は本家の侵入ルートどおり、済生会中央病院側から入ってみようか。

■5/29 平成日和下駄(4)―四谷鮫ヶ橋

昨日触れた荷風の有馬猫塚ルポ≠ヘ、『日和下駄』「第八 閑地」に含まれている。これはすでに書いたとおりである。
猫塚探索にあたって、あらためてこの「第八 閑地」の該当部分を読み返し、さらにその前後の部分を読み進めていくうち、たいへん驚き、かつ興奮してしまった。

というのも、先日偶然そこを通り、くぼみ町≠ニして印象に強く残った新宿区若葉(四谷鮫河橋)付近(5/24条参照)について、荷風はすでに当の「第八 閑地」のなかで言及していたからである。
何度も読んだはずなのだが、やはり現地を実際に歩くという経験がないと頭に残らぬらしい。以下その部分を紹介しながら私註を加えたい。

四谷鮫ヶ橋と赤坂離宮との間に甲武鉄道の線路を堺にして荒草萋々たる火避地がある。

甲武鉄道はいまのJR中央線。四谷と信濃町の間ということになる。
明治19年参謀本部作成地図によると、この付近に「広芝」と称する方形の閑地≠ェあって、おそらくこれを指すのではあるまいか。とすればここは現在の東宮御所がある場所に当たる。

初夏の夕暮私は四谷通の髪結床に行った帰途または買物にでも出た時、法蔵寺横町だとかあるいは西念寺横町だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋谷町へ下り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに自然とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と夕栄とを眺めるのである。

四谷通はいまの新宿通。つまりこのとき荷風が通った道筋は、先日の私とはまったく逆のルートをたどっていたことになる。

この散歩は道程の短い割に頗る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が尠くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、(…)坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。

鮫ヶ橋とは鮫河橋とも書いてどちらも「さめがばし」と読む。
『江戸名所図会』(ちくま学芸文庫版3、315頁)によれば、「紀州公御中館の後ろ、西南の方、坂の下を流るる小溝に架すをいふ。(…)昔この地、海につづきたりしかば、鮫のあがりしゆゑに名とすといへども、証とするにたらず」とあり、戸田茂睡の歌が添えられている。
それよりなにより、ここ鮫ヶ橋谷町は荷風が歩いた当時(1914=大正3年)「貧民窟」だったとは驚き。
もちろんいまはそうしたわけではなかろうが、山の手のマンション群と対比すると、濃厚な下町的雰囲気が漂っていたことはすでに私も感じ取っていた。

四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば閃かしている。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が萌え出で四辺の木立に若葉の緑が滴る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は一層汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ与れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。

ちょっとひどい書きぶりだが、荷風はだからといってけっしてこの界隈を生理的に受け付けない、というわけではなさそうである。

鮫ヶ橋の貧民窟は一時代々木の原に万国博覧会が開かれるという話のあった頃、もしそうなった暁四谷代々木間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を見下しでもすると国家の耻辱になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。…

私がその地を訪れたとき、鈍感な感覚した持たないながらもくぼみ町%I雰囲気を汲みとることができた鮫ヶ橋界隈を散策し、それを文章に書きとめた先人がいて、それがほかならぬ荷風であったことは驚くべきことであった。
その箇所を一読、興奮さめやらぬ私は、このとき自らの散策記を「平成日和下駄」と標榜することに決したのであった。

ところで、鮫ヶ橋、現若葉を歩いたとき、なぜこのあたりが「若葉」などという何の変哲もない地名なのだろうと不思議に思った。さらにこの地名を採用した官吏の感覚を疑った。
しかしながら、上に引用した荷風の一文中に、「ここ(火避地)に若葉と雑草と夕栄とを眺めるのである」という表現があり、あるいはここから採られたのではないかと思えてきた。俄然この地名を採用した官吏の感覚と裁量に感服したのである。
もちろんこれはそうだとすればの話。

かくして私の判断基準とはことほどさように曖昧な、ゆらぎの振幅が大きいものなのであった。

■5/30 平成日和下駄(7)―日和下駄的視点の陥穽

四谷鮫ヶ橋をめぐる荷風と私の視点の合致は、私を興奮させるに十分なものであった。ただそのいっぽうで、このあたりが、荷風によって「貧民窟」と呼ばれていたことが気にかかる。

たまたま蔵書のなかに、紀田順一郎さんの『東京の下層社会』(ちくま学芸文庫)があるのを思い出したので、何か手がかりはないかとページを繰ってみた。するとのっけから書いてあるではないか。

明治期の東京三大スラム=Bそれが、下谷万年町・芝新網町、そして当の四谷鮫ヶ橋なのだという。むろん現代にあっては、そうした状況はとうの昔に解消されて、その面影すらとどめていないことは、強調しておかねばならない。

これら悲惨なスラムを記録した松原岩五郎『最暗黒の東京』(1893年、岩波文庫)などのルポルタージュと荷風の「日和下駄」は、ほぼ同時代といってよい。
それでありながら、「日和下駄」では「汚い貧民窟」程度の描写しかなされない。明らかに荷風は、スラム的環境の一面しか見ていなかったというべきだろう。

それにつけても興味深いのは、四谷鮫ヶ橋から急峻な坂を登りきった山の手に、神戸の「風見鶏の家」の設計者でもあるドイツの建築家デ・ラランデの瀟洒な邸宅があったという事実だ。
デ・ラランデ邸は明治43年(1910)築。ここに邸宅を構えたデ・ラランデは、崖下の光景をいかに感じていたのだろうか。
ちなみに、このような山の手のデ・ラランデ邸/下町の四谷鮫ヶ橋という対比は、すでに藤森照信さんが指摘ずみである(『建築探偵の冒険 東京篇』ちくま文庫)

■5/31 究極のエロス小説

というタイトルを、「残虐記」を数十頁読んだところで思いついてはいたのだが、たかだか九十頁足らずの小説を読み終えるのにそれから一週間以上要してしまった。

「残虐記」とは、谷崎最晩年の未完小説のこと(全集第18巻所収)
時期的には谷崎73歳のときの作品で、71歳のときに書いた「鍵」、75歳のときに連載が開始された「瘋癲老人日記」という谷崎晩年の二大性愛小説の間に位置する。内容的にもこれが完成していれば上記二作に匹敵する大性愛小説となっていたのではないかと思われるほどだ。

なぜそう思ったか。
テーマがかなりきわどい。原爆によって性的不能となった男が遺書をのこして自殺を遂げる。しかし自殺のしかたが、とても自分から死のうとする方法とは考えられない。ここに大きな謎が存在する。
そこで、妻と、同居していた男性が「自殺幇助罪」で拘引される。この男二人(うち一人は性的不能者)、と若い妻の奇妙な三角関係が謎の二つめ。性的不能の夫をどうにか立ち直らせようとする妻の心理と情景がかなり具体的に描写されている。「鍵」「瘋癲老人日記」に匹敵すると考えたゆえんである。

後半はのこされた二人の陳述に基づく三人の関係の推移が淡々と述べられてゆく。この点冒頭の謎の大きさ異様さに比べて物足りない。最終的にはこの謎は宙吊りのまま未完となってしまう。

河野多恵子さんは、『谷崎文学の愉しみ』(中公文庫)のなかで、以前取り上げたやはり未完の小説「黒白」と同じく、この「残虐記」にも言及されている。「『残虐記』は谷崎文学で最もエロティックで最も尖端的、最も創造的作品になり得たのではないか」とまで論じられている。
ただ、河野さんは本作品のモチーフを「対象者に殺されたいマゾヒストの願望」としていることには納得できかねる。自殺した男とその妻の間に、そうした加虐・被虐の性愛関係があるようには書かれていないからである。そう説明されてしまうと、ある意味谷崎らしいモチーフだとも思うが、すべてそこに収斂させてしまうと、冒頭の謎も「なーんだ」ということになってしまうような気がする。