1度、フルマラソンを走ってみたい。中学・高校のとき一応長距離を専門としていたので、当時は

漠然とそう思っていた。が、高校卒業してからいろいろとあり、実現できずにいた。ところがなに

を思ったか数年後また急にマラソンに出たくなり、とにかく家のすぐ近くがスタート地点である泉

州国際市民マラソンに応募することにした。出場枠の3000人は抽選だったが運良く(運悪く?

)当り、出場が決まった。出れることになったのはいいが、体力的にかなり不安。高校のとき以来

これといって運動をしていなかった体は見事に衰えている。それからすぐに練習を開始したといい

たいところだが、実際始めたのは本番1週間前からだった。おまけにあせって練習したためか、練

習5日目にして足を故障する羽目になってしまった。幸い2日間、家で安静にしていてマラソン当

日には少し痛いながらも走れる程度に回復していた。そして、スタートラインに立った。足のケガ

や、42.195kmという距離を目の前にし、内心かなりビビっていたが容赦なく号砲がなった。走

るしかない。3000人もの人間が一斉にスタートしたのには結構興奮した。そのおかげか足の痛

みもほとんどない。アドレナリンが出まくっているのか。知らず知らずのうちに調子に乗り、初マ

ラソンの怖いもの知らずもあり10kmまでかなりとばしてしまった。いくらなんでもペースが速

すぎる。そのツケはきっちり10km地点でやってきた。もう限界寸前。10km地点を過ぎたと

ころに初めての給水所が見えてきた。まさしくオアシス。そこで紙コップに入ったスポーツドリン

クをテレビでみるマラソン選手のように走りながらさっそうと取り、飲むつもりだったが、走って

いる振動で口に入らずほとんど鼻にはいってむせかえった。走りながら飲むのは難しい。ろくに体

力も回復せずに途方にくれて走っていると、12km地点で沿道のこころないおっさんが「あと

30kmや〜。がんばれ〜。」と配慮のない言葉。体の限界のうえに精神的にも打ちのめされる。

給水所は10km以降5kmごとにあるので次は15km地点にある。15km地点では先程の失

敗をしないように、立ち止まって思いっきり飲んだ。少し元気になり、なんとか20kmまでたど

り着いた。この辺は岸和田でだんじりのノリで沿道の声援はすごく、励まされたが、歩いてたらお

ばちゃんに怒られた(叱咤激励を込めて)。まわりが一段と賑やかになってきたかと思うと横にテ

レビカメラをのせた車がみえる。ふと振り向くと間寛平がギャグかましていた。そんな寛平に抜か

され、少し悲しくなる。でも、いま寛平に着いて行けばテレビに映るかもと一瞬思ったが、もうそ

んな気力はなかった。20km以降はもう地獄、地獄。ゴール地点なんか想像もできず次の給水所

を必死で目指すという感じだった。25kmと35kmの給水所にはバナナがある。やはり、それ

を目指した。30kmぐらいにもなると低血糖状態で意識がぼやけてくる。腹が減ってしかたがな

い。ここでありがたかったのは沿道のおっちゃん、おばちゃんである。家からチョコレートや飴や

飲み物を持ってきて沿道で配ってくれる。それを貰いまくり、エネルギー切れと闘いながら走った

。35km、まわりの人もさらに壮絶な状態になっている。吐いている人、足つっている人、救急

車で運ばれている人など。そんな人を見ていると自分はまだまだましなほうかなと思ってちょっと

元気になったりする。また、この辺の後方集団になると妙な連帯意識や仲間意識がでてきて知らな

い人同士でも気軽に声をかけ、助け合ってゴールを目指している。いよいよ最後の難関の38km

と40kmにある、2つのでっかい橋を渡らなければならない。上りはもちろん歩いて山登りのよ

う。下りは重力に任せて転がるように下っていく。40kmを越えてからやっとゴールのイメージ

が湧いてきた。でも、体はもうフラフラ。最後の力を振り絞るもむなしく横を女の人や、さらに

は70代のおじいさんにも抜かれる。しかし、気を取りなおし感動のゴール。4時間20分50秒

。この大会の制限時間は4時間30分。なんとか間に合った。ゴール会場はもう片付けはじめてい

た。待ってくれ〜。自分を誉めるまではいかないが完走(完歩?)できて満足。走っているときは

「ニ度とマラソンは走らん!」と誓っていたが、家に帰ったころには来年の目標タイムを決めてい

た。