50代の後半に入り、なぜか少年時代、青春時代の自分を懐かしく思い、当時の想い出を

回想したい衝動にかられたので、猛暑の夏の夜長をさかいに、古き良き時代?をたどって

みたいと思う。

遠い日の想い出 小学校時代 その1 「トウモロコシ事件」

小学校時代の、私は、勉強と名のつくものは、まったく縁がなく、よく悪友と遊び回ったもので

ある。隣のしょうちゃん、けいちゃん、えいちゃんと学校が終わると、カバンを投げ出し、すぐ

遊びに行ったものだ。4年生の頃だとおもう。夏の暑い日、遊び疲れて帰る途中、農業高校

の近くを通った。青々とした実習園に、豊かにトウモロコシが実っているのが目についた。

誰が言うともなく、互いに目をあわせトウモロコシ畑に入った。見つかったらどうしようという

スリルを感じながら、ひたすらトウモロコシを盗った。10個ほど盗って、さあ、引き揚げようと

思ったとき、突然、「こら!おもえら何している!!」と怒鳴り声が聞こえた。

農業高校の先生らが数名、こっちに向かって走って来た。生徒が丹精を込めて作った作品?

を盗んでいるガキらを許してなるものかとすごい勢いで向かってきた。「やばい!逃げろ!」

しょうちゃんが言うやいなや、けいちゃん、えいちゃん、そして私と一目散に逃げようとした。

せっかく取ったトウモロコシである。懐と手にいくつか持ち逃げようとしたが、何と、目の前に

背丈近くの土手があり、とてもトウモロコシを持った状態では、土手は乗り越えそうもない。

追っ手?が身近に迫ってきたので、懐と手に持ったトウモロコシをすべて捨て、必死になって

土手を駈け登った。あとはただひたすら逃げるだけである。後ろで「こら!待て!!」の声が

したが、止まるわけにはいかないので、ただひたすら悪友らと逃げた。どのくらいたったか、

互いに身の安全を知るや、いつもの遊び場である雑木林にたどり着き、息をハーハーしなが

ら、大の字になって寝ころんだ。呼吸が落ち着いた頃、悪いことをしたなぁ、とみんなで反省?

したが、取ったトウモロコシを全部捨てて来たのが、正直なところ残念であった。

あれ以来、トウモロコシを見ると、なぜか、小学校時代の悪友を思い出すのである。(完)

 

遠い日の想い出 小学校時代 その2 「悪ガキとヒトダマ」

お盆の季節になると思い出すことがある。 小学校の正門脇に2b近くの石垣があり、夕食後

は、例の悪友らとその石垣の上に集まって、よく遊んだ。 夜とはいえ、日中の暑さとあまり変

わらない。暑さを忘れる面白い遊びはないかと、しょうちゃんが話題を変えてきた。 みんなで

何か怖くて面白い遊びはないか考えた。なかなか思いつかないその時、けいちゃんがヒトダマ

を作って人を驚かそうと得意そうに話したので、よし!これでいこうと言うことになり、材料の綿

と2,3bの竹,灯油、針金を準備し、早速、制作に取りかかった。 制作するといっても、綿を

針金で縛り、それを竹の先に付けるだけである。 綿を油でたっぷりと濡らし、マッチで火をつ

けると、勢いよくボッと燃えだした。 4人の作った人工ヒトダマが、竹を波のように動かすこと

で、まるでヒトダマそのものであったので、ゾッとしたのを今でも覚えている。

夜9時頃になると、小学校正門周辺は、あまり人通りもなく、普段でも何か出てきそうなちょっと

した怖さがあった。 多分、それは古い石垣が木造の校舎を取り囲み、7,8bのガジュマルの

木(陽樹)が石垣に沿って数本茂っていて、神秘的な雰囲気を出していたからだと思う。

通る人をおどかそうと、えいちゃんが木に登り、他の3人は石垣に隠れて、その時を待った。

幸いに?高校生風の若い女性が2,3人歩いてきた。 しょうちゃんが合図をし、僕が綿に火を

つけた。 ガジュマルの木の下で人工ヒトダマがユラユラ飛んでいる?姿を見た若い女性らは

キャッ!〜 といいながら、今来た道を戻って行った。その時の、何と表現したらいいかわからな

い叫び声と驚いた様子がおかしくなって、悪友らと大成功!といいながら大笑いした。

でも、その後である。 数十b離れた老朽化したトイレの中で、白っぽい人影が見えた。みんな

で何だろうと、恐る恐る見ていると、その白い物体は、突然、宙に舞うようにフワッと消えた。

急に怖くなって、みんな家に逃げ帰ったが、あれは、何だったか今でもわからない。(完)

 

遠い日の想い出 小学校時代 その3 「恐怖の海水浴」

これも、小学校時代の怖い想い出である。夏休みのある日、隣のしょうちゃんと海へ泳ぎに行っ

た。歩いて40分ほどの処にパイナガマという,ふる里宮古島では知らない人はいないくらい名の

知れた海水浴場があった。昼飯を食べてから、二人で海に向かったが、途中でいくつかの墓場

を横目に見ながら行くのである。真っ昼間で、いつもの通り道でもあるし、そう怖いとは思わなか

ったが、帰りはなぜか、この道を通るのは少々いやであった。それでもよく、ここを通って海に行

ったものである。 しょうちゃんと泳いでいると、けいちゃんとえいちゃんがオーイといいながら海

に入ってきた。4人で何時まで泳いだだろうか。そろそろ帰ろうと言うことになり、帰る身支度をし

た。あれだけ多くの人が泳いでいたのに、海に残っているのは、われわれ4人だけになっていた。

陽も沈み、砂浜が夕焼けで鮮やかに照らされていた。近道をしようと、高台になっている砂の山

に登ろうとして、4人で木の根っ子らしきものを引っ張って頂上?をめざした。少々登ったかと思

った時、急に根っ子がスポッと抜け、4人ともそのまま砂浜にころげ落ちた。

その時である。我々がころげ落ちた時、一緒に、ある一つの物体がコロコロと転がってきた。

何だろうと思い、恐る恐る4人で、その椰子の実らしきものを見ると、何とそれは・・・・・であった。

たまに、大人になっても、その時の情景が夢の世界でも現れるので、現実の想い出なのか、

それとも、あれは遠い夢の世界だったのか、今でも何となくわからない時がある。

後で、聞いたことだが、太平洋戦争中、パイナガマでは、多くの戦死者がでたとのことを知り、

その死体が今でも所々埋まっているとの事であった。あの時の、コロコロ転がってきた物体は

戦争で亡くなった人の頭蓋骨であったかと思うと合掌せずにはいられなかった。 (完)

 

遠い日の想い出 小学校時代 その4 「忘れられない運動会」

人は、なにかのきっかけであることが嫌いになることがある。小学校時代から私は、スポーツと

名のつくものは嫌いであった。小学校の1年か2年の運動会で徒競走があったが、この徒競走

で恥ずかしい苦い思い出をつくってしまった。当時の運動会は児童だけでなく、家族総出で弁当

を作って応援にきたものだ。午前の部の最終種目である徒競走が終わると青空の下で家族との

嬉しい昼食の時間である。私はスタートラインに立ち、ヨーイドン!の合図とともに走り出した。

10数名の一団の中にしょうちゃんもいて、彼はアッと言う間に先頭を走っていた。私も必死に走

った。50b地点で真ん中あたりにいた私は突然、大変なアクシデントに見舞われてしまったので

ある。パンツのひもが、何と切れてしまったのだ。今みたいにしゃれた短パンがあるわけではなく、

当時はみんな、普段着けているパンツで運動会には参加したものだ。パンツが古かったのか?

肝心な時にそのゴムひもが切れてしまった。私は慌てて、パンツを引き上げようとしたが、時遅し

もろに下半身を露出してしまったのである。まさにもろ出しの状態になってしまった。

ゴールまでどういう風にして走ったかは、まったく覚えてないが、ただひたすら、残りの50b近く

を左手でパンツを押さえて走ったことだけは今でも鮮明に覚えている。

あの時の、私の下半身?をどれだけの人が見たかと思うと、恥ずかしいやら情けないやらで、あ

れ以来、運動会恐怖症になってしまい、スポーツ嫌いがはじまったのである。(完)

 

遠い日の想い出 小学校時代 その5 「憎っくき?アブラゼミ」

夏ともなると、我が家の周辺でもセミが元気に鳴いています。私は、このセミの鳴き声を聞くと、

40数年前のある出来事を思い出します。母校の小学校には、校舎周辺に数多くの樹木(ガジュ

マルや松の木)があった。セミにとっては格好のすみかであり、私は授業はうわの空で、ガシガシ

ガシガシ・・・・・・!とうるさいほど元気よく鳴いているセミに心を馳せていたものだ。

小学校6年だったと思う。休み時間に、私は隣のクラスのしょうちゃんにセミを捕りに行こうと誘っ

った。しょうちゃんもセミが気になっていたらしく、私の誘いに応じた。他に数名の仲間がいたが、

彼らは、いつの間にか教室に戻ったらしく、しょうちゃんと私だけが時の立つのを忘れ、セミ捕りに

夢中になっていた。しかし、道具がないとなかなか捕れるものではない。 セミ(アブラゼミ)も心得

たもんで、逃げる寸前に、木にまたがっている私の顔面におしっこをふっかけて飛び立ってい

った。結局、私もしょうちゃんも一匹も捕れなかった。休み時間が、とっくに過ぎていた事を知った

私としょうちゃんは、慌てふためいて教室に戻ったが時遅し! 私は担任の先生に「こら!今まで

どこへ行ってた!?」と40数名のクラス仲間の前で怒鳴られ、叱られてしまった。

かくがく、しかじかと事情を説明すると、先生は、「よし!分かった。しかし授業に遅れる事はよく

 ないことだ。罰として、セミがどういう風にして鳴いていたか、セミの格好をしてみんなに見せな

さい。」とのことである。 ああ・・・・、どうしようかと思ったが、ここは一念発起?やるしかない!

私は、教室の出入り口の柱を抱きかかえて、ガシガシガシガシ・・・・とセミの形態模写をしてしま

いました。先生も、クラス仲間も大笑いである。 どうにか許されて席に戻ったが、隣の席のほの

かに憧れていた A子さんがクスクス笑っていた、あの美しい顔が今でも思い出されます。

夏になると、元気よく鳴くセミ達に、なぜかあの頃の悪ガキだった自分を想い出すのです。(完)

 

遠い日の想い出 中学校時代 その1 「新任教師長兄の登場」

小学校を卒業し、しょちゃん、けいちゃん、えいちゃん、そして私は中学生になった。

始業式の時、運動場(当時はグランドというしゃれた名前は使わなかった)に全校生徒が集合し

校長先生の話を聞いた。校長先生の話し中、私はなぜかドキドキして落ち着きがなかった。

校長先生の後方に、新任の先生方が並んでいて、新学期はどこの学校でもみられる光景だが、

わたしは、心の中で、「ああ・・・・、どうしよう、どうしよう」と心臓が張れさけんばかりに、周囲の友

の顔が気になってしょうがなかった。いよいよ校長の話が終わり、新任の先生らの紹介である。

数名の新任の先生が壇上(運動場の階段状のスタンドである。)に立ち、紹介された。

校長先生が、新卒ホヤホヤの若くて格好いい(私は本当にそう思っていた。)先生を紹介した。

「ええ〜、今年、大学を卒業して本校に新任として赴任されました仲宗根先生です。・・・・・・・・」

後は、校長先生がどのように紹介されたか、まったく記憶にないが、その紹介中、周囲の悪友ら

が、「おお!あの先生は恵良の兄貴だ!」とささやいたかと思うと、あっちこっちで「恵良の兄さん

だ」、「恵良の兄貴だ!」と聞こえてきた。非常に恥ずかしかったが、同時に、背広をビシッと着こ

なして、紹介を受けている兄貴に誇りを感じ、少々得意気になったこともかすかに覚えています。

それにしても、まさか、兄貴が教師として私の学校に来るとは夢にも思わなかった。

親爺とお袋が、何かにつけ、兄貴が中学校に来るので、今みたいに勉強をしないで遊んでばかり

いると、兄さんが恥ずかしい思いをするぞ、少しは勉強もしなさい・・・・と、まったく勉強などしようと

しない私を、これ幸いと叱咤してきた。 確かにそうである。私の勉強嫌いと小学校の通信簿をそ

のまま中学校に引き継いだならば、それこそ兄さんは他の先生らの物笑いになるだろう。肩身の

狭い思いをするだろう。その他諸々云々・・・・・。  どうしよう、どうしよう。・・・・・・・・

気が付けば、勉強に縁が無く、学校が終わればすぐ、悪友と遊び回っていた小学校時代とまった

く違う自分を創り出していったのである。 兎に角、自分の為と言うより、兄貴に恥ずかしい思いを

させてはならないという、その一心だけで机に向かったのです。

勉強というものは、しないと成績は下がる一方だし、打ち込めば、どんどん伸びるんだという、当た

り前のことを、私は兄貴のお陰で?知ることができました。

期末考査が終わった、ある日の夕方だったと思う。兄さんが帰宅するや否や、「恵良!こっち来なさ

い。」というので、行ってみると、今日、英語の先生が、全クラスで、私だけが、100点満点をとった

ということを大変喜び、そのことを兄貴に伝えたようである。その時の、兄貴の嬉しそうな顔を今で

も想い出します。 英語の先生は、答案を返した全クラスで、私の名前を公表?し、私の努力を褒

め称えたらしく、その日から、悪友や同級生らが、驚きの眼差しで、私を見、私に接して来たのも、

懐かしい想い出になっています。(完)

 

遠い日の想い出 中学校時代 その2 「苦い?ビンタ事件」

兄貴が我が母校で教師をしていたことで、得をした?というか、そういう想い出があります。

中学2年の時だったと思う。体育の授業があり、私を含めた男子の班が事前準備で跳び箱を並

べておかなければならない日がありました。交替制で各班が前もって準備をしておくのです。

しかし、なぜか僕らの班は準備をすることを忘れてしまい、ガッチリした体育の先生にぼろくそ怒ら

れてしまいした。 放課後、先生の部屋(準備室か)に来いとのことであったので、5人で先生の部 

屋にいきました。戦々恐々とした思いで先生の前に立たされた僕らは、長々と説教された後、奥歯

をしっかりと噛みしめろと云われ、愛の鉄拳?を受ける羽目になってしまいました。

左側のA君から、順番にビンタをおもいっきり張られてしまい、いよいよ最後の僕の番です。

覚悟を決めて、奥歯をかみしめると、なぜか先生が、「5人もビンタを張ると、先生も疲れるわ!」

といいながら、明らかに手抜きしたような?ビンタで、僕の頬を叩くと云うより、撫でてしまったのです。

僕は、その時の気持ちをどう表現していいのか、今でも分かりません。

ビンタを張られた後、僕らは、一礼し、先生の部屋を出たが、その道すがら、B君が「恵良は、いい

よなぁ〜、兄貴が先生だから。ビンタも軽くすんでよぉ〜」と羨ましそうに云っていたのが、申し訳ない

というか、そう言う気持ちで一杯でした。 確かに、体格のいい、この体育の先生は、時折、他の先生

らと、僕の家に来ては、兄貴と一杯酌み交わし、親爺やお袋とも親しそうに話している姿を垣間見て

いるので、おもいきっりビンタを張るのを遠慮したかと思うと、私も何となく先生に同情?してしまいま

した。 その夜、帰宅した兄貴に今日のことで説教されたことは、言うまでもありません。(完)

 

遠い日の想い出 中学校時代 その3 「秀才児転校生の出現」

中学2年の時、離島の中学校から、2人の転校生が僕らの学校にやってきた。 なぜ、転校してきた

のか最初は分からなかったが、慣れるにつれ、高校受験のために、離島で勉強するより、本島の大

規模学校で勉強したいという大いなる決意?を持って転校してきたとのことであった(・・・らしい)。

転校生のO君とT君は、離島では中学校は別々であったが、何となく、育ちが良く、村一番?の金持

ちの息子という感じを受けた。 O君の方は、僕とそう体型はかわらなかったが、T君はどうみても、

柔道選手かと思うくらいの立派な体つきであった。O君は僕のクラスに入ることになり、担任の先生

が彼を紹介したが、O君は前の学校では、全校一の成績であった、みんなもO君に負けないように、

頑張れと紹介したのが、なぜか、今でも強烈な印象として残っています。

O君が勉強できるということは、先生の紹介で分かっていたが、秀才という言葉はまさに、彼のため

にあるようなもんであった。すべての教科にダントツの成績を示し、自他共に?認める大変な秀才で

あった。天は二物を与えず、というが、何とスポーツも万能、顔も意外と?男前で、天は、彼に二物を

与えたかと思うと、何となく、悔しい思いをしたのも懐かしい中学時代の思い出になっています。

 しかし、彼の出現?によって僕の勉強に対する取り組みに、さらなる拍車をかけたことには、感謝

せずにはいられません。(完)

 

遠い日の想い出 中学校時代 その4 「台風、風速80bの恐怖」

我がふる里沖縄の宮古島は、台風銀座と呼ばれるほど、年に数回、必ず大型台風がやってきます。

いわば、台風の通り道?になっているのです。昭和34年の中学2年だったと思う。

担任の先生が、他校の中学校の生徒が修学旅行で、僕らの学校に宿泊するとのことで、各自、ござ

(むしろの一種)を持ってくるようにとの連絡があった。当時は修学旅行と言っても、県外に行くわけで

もなく、島内ですましたものである。(ちなみに僕らの旅行は、船で30分の2つの離島巡りであった。)

当日、ござを学校に持参し、クラス仲間と一緒に、宿泊予定の各教室の床にござを敷き、他校生を迎

かえる準備もできた。その日は朝から、何となく雲行きが怪しく、どうも台風が接近しているらしいとの

感じを受けた。 当時の僕らの中学校は、木造の建物が大半で、歴史と伝統?を受け伝えたような校

舎であった。その日の午後あたりから、いよいよ風雨も強くなり、ござを敷き終わった僕らは、急いで

家へ帰ったが、はたして、この台風が未曾有の被害をもたらすとは、この時は思いもよらなかったの

である・・・・・・・・。  台風が宮古島に上陸したらしく、夜半から猛烈な風が吹いている。雨台風という

より、圧倒的な風台風である。私は今でも、この時の台風経験で雨台風は怖くはないが、風台風だけ

は、今でも恐怖心を覚えます。風がますます強まり、とうとう停電になった。電線が切断され、隣の家

の瓦がとんでいるようだ。僕の家の庭先にあった大木(宮古で福木=ふくぎと言っていた)の倒れる

音がして、いよいよ生きている心地がしなかった。天井が、台風の音にあわせるかのように、かすか

に上下に揺れ動いている。どうしようかと家族みんなが不安になった時、親爺が心配するな、この家

は絶対に大丈夫だ!と勇気づけた。 確かに親爺の言うように、僕自身も我が家には、誇りをもって

いた。建物は少々古くても、何本も頑丈な柱が家全体を支えている荘厳な?感じを持っていたので、

自分でも心配ない、心配ないと心中で唱えていたが、さすがに隣家が音をたてて倒壊すると、もは

や、我が家もこれまでかと、あきらめざるを得なかった・・・・・・・・・。

  (時々、この年になっても、この時の情景を夢で見て、目が覚めたりします。)

一睡もできないまま、朝を迎えた。あれだけ荒れ狂って吹いていた台風がまるで、嘘の如く、静かに

なった。 天気も良くなり、一瞬だったが青空も見えた。 台風が通過したぞ!良かった!と喜んでい

ると、親爺が、家の周りを慌ただしく、釘や金槌で補強しているではないか。不思議に思い、台風は

すでに通過したのに、なぜ補強しているのか聞いてみると、宮古島が、台風の目に入ったとのことで、

この後、時間と共に吹き返しの、さらなる強い風が吹くとのことであった。 まさか?青い空もみえて

いるし、風も微風のようにさわやかじゃない、と親爺の言うことが信じられなかったが、あにはからん

や、再び風台風の襲来であった。さすがに風は弱まっていたが、それでも風速50b以上は吹いてい

たようである。 親爺の機敏な行動に男意気を感じ、その時はじめて、親爺は一家の大黒柱だという

言葉を痛感した。 昼過ぎ、間違いなく台風が通過したので、家の外にでてみると、隣近所の家々が

全壊あるいは半壊という惨々たる被害状況で、我が家の庭木も全滅、そして、屋根瓦も数カ所吹っ

飛んでいた。 当時の沖縄は、アメリカの施政権下にあったので、アメリカの風習で?この台風には

アメリカ女性の名前が付けられた。確か、コラ台風かサラ台風だったかと思います。

この台風は、気象庁はじまって以来の大型台風であったらしく、、特別に宮古島台風と名付けられ、

瞬間最大風速は80bを超えたとのことであった。 学校へ行ってみると何と、他校生が修学旅行で

泊まる予定であった、あの校舎が無惨にも崩れ落ちていたのである。もし、ここに泊まっていたら・・・

(実は、台風接近で急遽、宿泊所を変更したらしい)と思うと、ゾッとしたのを、今でも台風の季節に

なると想い出します。 この台風には、もう少し、思い出があります。

昭和34年9月の伊勢湾台風は、まさにこの宮古島台風が伊勢湾一帯でも荒れ狂い、さらなる被害を

東海地方にも与えたのです。 (完)

 

遠い日の想い出 中学校時代 その5 「畑仕事逃亡事件」

考えてみると我が家は農家であった。お袋は私が小学校の頃から、食料品を主とした小さな店舗を営

んでいたが、7名の子供達をどうにか育てたのは、やはり一家の大黒柱である親爺の農業からの収入

であったと思う。兄が3人、弟が1人、そして姉が2人いたが、当時の家族構成としては、そう多い方と

は思わなかった。何しろ「生めよ、増やせよ」の時代の名残であり、子供4,5人以上というのは普通で

あった。でも、私は、家族が多いことを時には恨めしく思った事があった。単純な理由だが、スイカに代

表されるような果物を家族でご馳走になるとき、アッと言う間に無くなったときは、本当に兄弟姉妹が多

いのを恨んだもんである。考えてみると、笑い話にもならない他愛もないことだが、今では兄弟姉妹に

恵まれた事を嬉しく思い、親爺やお袋に心の底から感謝せずにはおれません。

親爺は、私が物心ついた時から、朝から晩まで畑、畑で働いていました。朝7時頃、馬車で数qの畑

に行き、夕方6時頃に帰ってくるのです。畑のほとんどがサトウキビ栽培で、植え付けから収穫まで、汗

水垂らして働いていた親爺の姿が目に浮かびます。子供心に農業はイヤだなぁ・・・と思ったもんです。

小学校の高学年になると、子供達も貴重な労働力とみたのか、休みのたびに、親爺は私たち兄弟をも

畑仕事に連れて行くようになりました。友と遊びたいのに、親爺の命令で馬車に乗せられ、畑仕事に行

くんですが、すぐ上の兄と弟の3名で親爺に逆らって? 何度か畑仕事から逃れようと考えたもんです。

日曜日のある日、こう言うことがありました。親爺の「畑行くぞー!」の声を聞こえない振りをして、僕達

3人は朝早く家を抜け出し、どこか遊びに行ったのです。たっぷりと遊び、夕方家に帰ったところ、親爺

が畑仕事から帰ってきました。さすがに良心のとがめか?親爺にあわす顔がありません。

あの時の親爺の悲しそうな怒った顔が今でも想い出されます。「働かざる者は、食うべからず!今日の

夕御飯は3人とも抜きだ!!」と叱られ、遊び疲れた?僕たちは空腹感を抱えたまま反省させられまし

た。家族のため、子供のため、朝から晩まで汗を流して働いている親爺に、本当に申し訳ないと思いま

したが、時遅し、腹はどんどん減る一方です。夜10時頃だったでしょうか。馬小屋横の物置で、家に入

ることを躊躇して、反省していた僕たちに、お袋が救いの手?を差し伸べてくれました。

「おとうは(お父さんは)、もう寝たよ。さあ、早くご飯を食べなさい。」と台所に入れてくれたのです。

続けざまにおかわりして食べている僕たちを見て、姉2人が笑っていましたが、何となく男心を否定され、

プライドを傷つけられたようで、しばらくは姉に頭が上がらなかったのを覚えています。

あれ以来、親爺の、おとうの手伝いをサボったことはありません。しかし、さすがに農業だけは将来、絶

対にイヤだと思いました。親爺も子供達の農業嫌いをうすうす気づいていたのか、事あるごとに、「農業

は、おとう1人で十分だ。君たちは勉強して高校、大学へ行きなさい。おとうは、金が無いから、私立の高

校、大学は駄目だ。もしそれが出来なければ、誰か1人はおとうの農業を継いで貰いましょう!」・・・・と

暗に学問の尊さを説きながら、 誰か1人ぐらいは農業後継者になることを求めていたようでした。 

親爺の後継者になることだけは、何があっても避けたいと思っていた私は、中学に進むと勉強に精を出

しました。日曜日や休日になると、あれほど畑仕事を手伝わせていた親爺が、高校受験の学年になると

僕たち兄弟を、畑仕事に連れて行くことは、もうありませんでした。

働き過ぎからか、体調を崩した親爺は、先祖代々の農業から退き、地域社会に貢献する民生委員もつ

とめましたが、昭和60年6月、沖縄「慰霊の日」直前に73歳で旅だって逝きました。

心残りは、兄弟の中で誰1人親爺の後継者は出現?しなかったが、しかし親爺はそれでも十分満足し

喜んでいたと思います。(完)

 

遠い日の想い出 高校時代 その1

 思案中!