第1回全日本月間走り込み大会

  月刊誌「ランナーズ」主催の、10月の1ヶ月間にどれだけ走り込め

  るか競う、記念すべき第1回大会に申し込む。自己申告制で正直に、

  嘘偽り無く指定日迄に届け出なければならない。これまでマイペース

  で月120qほど走ってきたので、果たしてどれだけ走れるかチャレ

  ンジする。しかし、実際は「走」の文字をユニークにアレンジした

   参加賞のTシャツが欲しかっただけであるが、雨の日も、帰宅するや否

   や暗闇の世界に飛び出して、妻が呆れ返っていたのが懐かしい思い出に

   なっている。おかげで自己最高の211q走り込み、総合順位は、

     2183人中1501位、30歳代702人中482位であった。(当時39歳)

   確か、第1位は1300q前後だったと思う。凄いもんだ。

   昭和59年10月1日〜10月31日

扶桑町走ろう会

   走りはじめて5年、何気なく目に触れた「扶桑町走ろう会」の町内広報板の

   走ろう会募集に応募。役場の教育委員会に行き、5qの部に申し込む。

   当日、木曽川緑地公園に何と数百名の参加者ありびっくりする。

   木曽川沿いの堤防をランナーが一斉に走り出すので、最初は互いに、ぶ

   つからないように気を遣うのが大変であった。 しかし、スタートして数分後

   には、この集団も大分ばらけてしまい、トップランナーはアッと言う間に、遙

   か彼方であった。沿道の声援を受けながら走るのもいい気分であるが、時

   折り、ソフトボールチームの仲間である誘導員らに半分、冷やかしともいえ 

   ない激励?を受け、先頭集団の数名を視界にとらえながら走った。

   普段は、堤防道路は車の走行が結構多く、車道をランニングすることは、

   到底考えられないが、所々の交差点に警察官が立っており、車の走行を

   規制しているので、時には景色も楽しみながら走ることができた。

   年甲斐もなく、男子中学生らしき少年と追いつ追われつで、12位となる。

   昭和59年12月2日

犬山シティマラソン

   急に、職場の同僚から、犬山シティマラソンの出場ナンバーカードをもらい、   

   10q走る。せっかく申し込んだが、やむなき用件で参加できない彼に代わ

   って出場する。はじめての10qを走りきれるか不安であったが、マラソン会

   場でのランニング愛好家の活気に圧倒されるも、和やかな雰囲気に完走の

   自信を持ち、スタートラインに立つ。

   犬山市と某新聞社の主催のためか、会場周辺には大会を盛り上げる旗が、

   風になびいて、ランナーの志気を高めてくれた。 2月の、この時期は結構寒

   いので、スタート合図まで多くのランナーが、その場足踏みをしながら号砲を

   待った。 参加者が数千名であり、前方がどうなっているか、全く解らないが

   しばらくは、スタートしても歩きに近い状態が続いた。 大河木曽川の流れを

   時には肌に感じながら、木曽川の堤防道路往復コースを41分で走り、心地

   良い汗をかき、壮快であった。

   昭和60年2月10日

犬山マラソン

    中部読売・報知スポーツ主催の犬山マラソンに申し込む。20qで制限時間は   

    2時間とのこと。時間内に走れるかチャレンジ精神で挑む。尾張パークウェイ

    (自動車有料道路)の起伏に富んだコースで、結構しんどかったが1時間31分

    で完走する。  山岳地帯?のせいか、寒さとの戦いでもあった。

       山間部に自動車道路が建設され、これまで一度だけ、車で走行した

       ことはあるが、まさか今、マラソンで走っていることが現実とは思えな

       いほど、不思議な気分になった。延々と続く曲がりくねった登り坂が、

       目の前に開けたが、これが車であれば、何と楽なことかとおもったり

       もした。 往路はマイペースでゆっくり走り、折り返し後の復路は、前

       のランナーを一人でも追い抜くというイメージで走ることができ、最高

       の気分であった。

       昭和60年2月24日

 

名古屋シティマラソン

   大都会名古屋の市街地を赤信号でも走れる魅力にとり憑かれ、20qの部に

    申し込む。会場の瑞穂陸上競技場に8000名のランナー、ジョギング愛好者が

    集う。ビルの谷間を警察官の交通整理を横目に走る壮快さは、最高の気分で

    あった。 実業団をはじめ、有名大学でならした招待選手が数名おり、彼らと一緒

    に、同じロードを走れると思うだけでも、何とも言えない喜びであった。

    沿道にも、多くの市民が切れ目がないほど拍手をしてくれたり、時には声をかけて

    応援してもらい、そのお陰で?どうにか最後まで、時間内に完走することができた。

    正直の処、15q地点で急に、便通をもよおし、いざというときに備えて、常に走る

    時は、それなりの金銭もウエストバックに入れて走っているので、リタイアし、喫茶店

    でも入って、好きなコーヒーでも飲もうかと、何度も思ったものである。

    しかし、沿道の声援は、そんな私の弱気な気持ちを吹き飛ばしてくれた。忍耐と我慢

    を唱えながら、瑞穂陸上競技場のゲートを通過し、スタンドの声援の中、1時間34分

    でゴールインした。そのままトイレに直行し、完走させてくれた我が両足に感謝しつつ

    、名古屋の地下街で飲んだビールは最高であり、生きている喜びを味わった。

     昭和60年11月16日            

江南市長距離競走大会(5q)

   これまでのマラソン大会出場は、マイペースによるジョギング感覚で参加したが、

    大会名が示す通りの競走である。どこまでついて行けるか気持ちが高ぶってきた。

    参加者は男子20数名で、最高齢者は50代らしき初老の男であった。スタートか

    ら、この男は普段から走り込んでいるらしく滅法速い。

    40代の俺としては、負けるわけにはいかないと並走したが、残り1qあたりで完全

    に引き離され、悔しい思いをしたのを覚えている。優勝タイム16分前後で20代の

    市職員であった。 自己ベストタイム18分32秒。7位

    大会に参加しての反省?

     5qという短い距離の割には、疲れが大分あった。これからは競争意識をもたず、

     のんびりとマイペースで大会を楽しみましょう。

     昭和61年11月23日

東海シティマラソン

   東海市、尾張横須賀駅前広場を発着とする10qコースに参加する。結構、参加者

    が多く、10qの部は数千名ほどはいた。折り返し地点は加木屋中学校の正門あた

    りで、起伏が激しく、上りは自己との戦いであった。

    長い上り坂は、スタミナ切れなのか歩いているランナーが意外と多い。上りの後には

    必ず下りがあることを頭に描き、それを励みに?黙々とマイペースで走った。

    冬の訪れを告げる田園地帯を大会参加者が延々と走っている光景は、まことにのど

    ななものである。

    沿道の応援はまばらであったが、大会運営関係者らが、声をかけて応援してくれた

    ので、安心して車道を走れることに感謝しつつ、ゴールの駅前広場をめざした。  

     完走後の豚汁は実に美味しく、3回もおかわりをもらい、炊き出しの若いお母さん

    たちにに感謝、感激、おもわずお礼を言ったのを覚えている。43分。

    昭和61年12月7日

椎間板ヘルニアで入院

   走り過ぎか、それとも体育祭でのタイヤ転がしが原因か?体育祭で職員種目にタイヤ

    転がしがあったが、当日、腰痛のため出場できない男子の先生に代わって、2人分の

   100bを腰を曲げた状態でタイヤを転がし走りきる。生徒の手前?頑張ってトップで、

    次走者にタッチする。 その時は何の異常もなし。翌日、木曽川緑地公園で 野鳥の鳴

   き声を聴きながらジョギングの後、ストレッチ中に左下半身に鈍い痛みを感じる。

   夜、腰が痛くて寝付かれない。

   翌朝、学校へ行くも腰痛で、休憩時間はとうとう保健室で体を休める。その晩から、歩く

   ことも、座ることもできず、トイレも這っていくというありさまであった。

   2日間も職場を休み、接骨院、鍼灸院と通ったが全く好転せず、痛みは増すばかりであ

   る。もしや悪性の腰痛かと、昭和病院の整形外科に行く。30代の若い女医は診察する

   や「椎間板ヘルニアです。入院してください。」と、淡々と言った。ヘルニア?脱腸なら知

   っているが、原因は何だ? 背骨の軟骨が飛び出して、神経を圧迫しているらしい。

   高校以来の入院がはじまった。入院治療で痛みは消えると思ったが、中々そうはいか

   ず、ベッドに横たわったまま相変わらず座ることもできない状態である。

   左足を天井からつり上げぶざまな格好である。

   入院3日目、痛みの取れない私に担当医は、「今度、腰に注射を打って、これで効果無

   ければ手術をしますので、考えておいて下さい。」と状況を説明する。

   翌日、車椅子で別棟の治療室に連れて行かれる。 何と今まで見たこともない、どでか

   い注射である。聴くとブロックという注射らしい。左腰にあの太い針がブスッと、つき刺さ

   れ、何と表現したらよいかわからない苦痛が走った。 再び病室に戻り、麻酔が効い

   たのか、その夜はグッスリ寝ることができた。朝、スッキリ気分で目が覚めたが、疑うか

   な、あの腰の痛みが、左足のしびれが全く感じないのだ。 痛みとしびれからの解放。

   嬉しかった。食欲も旺盛になり、看護婦の目を盗んで、退院に備えてベッドで腕立て伏

   せをはじめた。 リハビリと腰痛体操を繰り返し行い、入院から25日目にようやく退院

   した。  あの腰痛と下半身のしびれは何であったか、今でもわからない。

   後で、妻から聞いたことだが、女房も夫の病気の原因を知りたく、祈祷師を尋ねたらし

   い。 その結果、意外な事?が判明した。

   「年内は、絶対に屋敷内に穴を掘ってはいけません。」

   その事を忘れていた女房は、庭の植木を何気なく移植してその事に気づかなかった。

   祈祷師から、植木の事を指摘され、その晩(私がブロック注射をうった日)、女房は、庭

   の隅々に塩をまき、穴を掘った事を詫びた。

   そして、翌朝、私の腰の痛みはまるで嘘の如く消えたのである。

   健康に感謝。 退院7日後にジョギング再スタート。

   昭和63年10月中旬   

日間賀島マラソン

  タコの島、南知多町日間賀島。島1周5qを2周する10qの部に参加する。知多半島

   の師崎港から高速船で約10分。波しぶきを、時には船窓にうけ、あっという間の船旅

   であった。

   上陸すると、島をあげてのマラソンPRの旗がランナーを迎えてくれて嬉しかった。

   会場の中学校へ行くと、地元をはじめ、遠路はるばるというランナーも多く、島の人口

   が一気に増えたようである。

   海岸線に沿ってのコースは起伏の繰り返しが続き、しんどい思いをしたが、波風と風景

   のすばらしさに競争心を全くなくし、壮快であった。  陸上部らしき女子中学生2人と

   ゴール間際まで並走できたのもいい思い出である。

   ・・・・・・完走後の、海の幸ふんだんの料理とビールに乾杯。              

   帰り際に師崎港のお土産店で、バレンタインデーのお返しを買い、夜、妻や娘らにそれ

   を見つけられて、ホワイトデーの前に、無情にも奪われたが、いま考えると懐かしい。

   平成8年3月10日

いびがわマラソン(初マラソン体験記)

   フルマラソン。 42.195q。ジョギングをはじめて以来、一度は是非チャレンジしたい

   と 思っていた、私にとっては夢また夢のとてつもない距離をいよいよ走ってみたいとい

   う欲?がでてきた。

   高校時代は、体育の授業が苦痛で、特にグランド周回の持久走は地獄であった。

   恒例の校内マラソン大会(4qだったか)は、常に最後尾で、トップ集団を走る連中をね

   たみと同時に、憧憬の眼差しで見たものである。 

    体育系部活動の悪友らが、さも悠々とグランドを流している姿を見ると尊敬そのもの

   であった。 その運動嫌いであった私がマラソンに挑戦するのである。

   しかし、30数年前の自分とは明らかに違う。

   運動から逃げ回っていた高校時代とは、今は間違いなく違うと確信し、フルマラソンに

   挑むことを決意した。

    1996年11月17日、「いびがわマラソン」の会場に私はいた。約9、000人のラン

   ナーが全国から集まり、これまで私が参加したマラソン大会の中では最大規模であっ

   た。揖斐川流域の豊かな自然の中を走るコースであり、しかも制限時間は5時間なの

   で、 市民ランナーとっては手頃なマラソン大会だ。

   10時30分、号砲合図に一斉にスタートしたが、後方についていたランナーがスタート

   ラインを通過するのに数分はかかった。

   周囲の熱気に巻き込まれず、マイペースを守ることを肝に銘じて、前半はゆっくりと、

   q6分で走った。10q地点までは平坦なコースであったが、この後が驚くような山岳

   地帯である。揖斐川を左手に見ながら、一部舗装されていない砂利道を登って行くの

   である。上りの後には、必ず下りがある。それを信じて、できるだけ前方を見ないよう

   に黙々と走った。

   登りの頂上迄くると、いよいよ下りである。しかしスピードを出しすぎると、膝に衝撃が

   強く、必ずそのしっぺ返しがくるので、上りの疲れを癒す気持で、坂道を自然に下ると

   いう感じで走った。

   川沿いの美しく色づいた紅葉も中間点にさしかかる頃には、さすがに楽しむ余裕も無

   くなってきた。フルマラソンスタート30分後に、ハーフマラソンもスタートしたが、トップ

   集団らしきランナーが揖斐川の対岸の遙かかなたに小さく見える。折り返し地点で戻

   って行くらしい。 それにしても、高低差のあるコースだ。ハーフのランナーが遠く下界

   を走っているのだ。

   フルマラソンに挑んだ自分を、「馬鹿な野郎だ。次の関門チェックでリタイアだ!もう休

   め!歩け、歩け!」と、もう一人の自分が誘惑の声でそそのかしている。

   何度、その誘惑に負けそうになったか。しかしそのたびに、「記録は関係ない。これは

   自分との戦いだ。完走する事に意義がある」と、頑張っている自分に言い聞かせ、隣

   のランナーの苦しそうな息づかいを励みに?また、少し走れる喜びと力が湧いてきた。

   そうこうしている内に、ランナーを勇気づけるような地響きする太鼓の音が聞こえてき

   た。中間点の藤橋村の小中学生たちが和太鼓を叩いて、ランナーを応援し、私の弱

   気な走る意志を奮い立たせてくれた。

   こんな山奥で?村をあげての声援に遭遇するとは思わなかった。

     (そう言えば、藤橋村は、日本一の星空の美しい村だそうだ。)

   折り返し点には給食があるとは聞いていたがなんと、ランナーにとってはありとあらゆ

   る?食べ物が並べられていた。

   バナナ、パン、おにぎり、ドーナツ、オレンジ、ケーキ、その他諸々。

   どれだけ食べたかわからない。ロスタイムをまったく気にせず、ただ黙々と飢餓状態

   の体に、エネルギーを補給したのを覚えている。

   知らないランナー同士が顔を見合わせて、思わず苦 笑いしたのも相通じるものがあ

   ったからだ。 しかし、後21qもあるかと思うと、食べてばかりはおれない。

   次々とランナーがエイドステーションから飛び出して行った。

   給食を準備し、温かくランナーを歓迎してくれた藤橋村の皆さん、ありがとう!そう思い

   つつ私も又、ゴールをめざして走り出した。

   折り返し後は、ほとんどが山の下りである。長い長い下りの後にわずかな上りがある

   が、結構それがしんどく、歩いているランナーが意外と多い。

   歩くと体がそれを覚え、楽な方へと体は馴れてしまうので、絶対に歩いては駄目だ。

   ゆっくりでもいい。走ることだ。その意志を肝に銘じて、ひたすらゴールをめざした。

   ひたすらゴールをめざした。35q地点に差し掛かると、噂に聞いていた足腰のコントロ

   ールが おかしくなってきた。心肺は異常を感じないが、何と足が思うように前に進まな

   いのだ。 q8分というペースダウンに35qの壁を体験した。

   体を支えている両足が、まるで自分の足でなく一歩踏み出すのに、いやというほど走り

   込み不足を痛感した。

   しかし、その私に再び力を与えてくれたのが、沿道の声援であった。

   野良仕事を休め、年老いた夫婦が「頑張りなさいよ。もう少しだよ。」と応援してくれてい

   る。 ありがたいもんだ。右手を軽くあげ、その声援に応えた。

   歩いているランナーを次々と追い抜き、いよいよ、後3qだ。現金なもんで、ここまでくる

   と時間内完走は間違いないと思い、タイムにこだわる自分を意識しつつ、q 4、5分の

   ペースで走った。

   ゴール間近でこれだけの力を出し切れた自分を、心底褒めたたえ、壮快な感動を味わ

   いながら大声援の中、完走のゴールインとなった。

   横目でチラッと計時をみると、4時間23分であった。

   市民ランナーの夢、サブスリー(3時間を切る)、サブフォー(4時間切る)にはほど遠い

   が、初マラソンを完走できた、我が「快走人生」に大いなる拍手を送りたいと思う。

   平成8年11月17日

 

三河湾健康(蒲郡)マラソン

  

  「三河の海岸線を走る平坦なコース」のキャッチフレーズに誘われ、申し込む。JR東海

  の電車に乗り、会場の蒲郡市に行く。久方振りのJR(昔の?国鉄)の乗り心地は快適

  であった。受付の蒲郡市民会館は三河湾に面しており、10qの部に千数百名のラン

  ナーがウオーミングアップを始めていた。

  ストレッチの後、ランパンに着替え、海岸線を軽くジョギングする。

  結構肌寒く、体が暖まるのに30数分かかった。スタートのコールがあり、ランナー集団

  の最後尾につく。初対面の同年輩のランナーが気軽に、体を丸くしながら、「寒いねー」

  と声をかけてきた。確かに寒い。その場足踏みをしながら、号砲を待つ。

  スタートの轟く音は聞こえなかったが、前方のランナーがぞろぞろと進むので、前習えで

  走り出す。宣伝通りの平坦なコースで、2,3q走った後、最初の折り返し地点である。

  海岸線らしく松並が多く、地元の声援も意外とあり、感激した。

  7qあたりの海岸線は、三河湾の水平線が定規で横一線に引いた如く、延々と続き美し

  かった。ラスト3qを、女子高校生ランナーと互いにペースメーカー的存在で走ったのも

  いい思い出である。

  平成9年2月9日

   

大正村クロスカントリー体験記 

    年の暮れになると、恒例の如く、あるスポーツ紙に大正村クロスカントリーの募集広告

    が掲載された。 これまでは、ただ何気なく見ていた広告であったが、平成11年1月、

    冬休みも終わる頃、クロスカントリーを一度は走ってみたいという欲望?にかられた。

    クロスカントリーは起伏と高低差のある山岳道を時間内に走る競技と言うぐらいは知

    っているが、実際には経験が無いので、チャレンジ精神が湧きあがってきた。

    ましては、往年の女性マラソンランナーが「走るあなたが好き」と参加を呼びかけてい

    る。高低差が100m前後なので、何とか時間内完走はできると思い、10マイルの部

    に申し込む。

    会場の大正村は、明治村に対抗して?恵那郡明智町につくられた一種の建造物博

    物館であるらしい。 亡くなられた超美人女優高峰三枝子が大正村村長(館長)をつ

    とめたことでも知られている。過去1、2度訪れたこともあるので、愛着心も結構あっ

    た。 事前に、女房とドライブを兼ね、下見に行ったのも、いい思い出である。

    大会当日、受付兼スタート地点になっている明智商業高校に着くと、老若男女のラン

    ナーがすでにランニングを始めており、校庭の隅々では、家族連れが腰をおろして、

    まるでピクニック気分である。

    開会式の放送があり、招待選手が紹介されている。

    大正村クロスカントリーの顔ともいえる増田明美さんが紹介されたので、着替えも

    そこそこに増田さんを一目見たさに開会式場に行った。

    現役時代の競争心にあふれた顔も、さすがに引退後は市民ランナーと走りを楽し

    むという穏やかな優しい顔に変わっていた。

    午前10時、号砲一斉10マイル(16q)スタート。5百数十名のランナーが狭い町

    道に飛び出した。

    最初の1,2qは平坦な明智町の町並みを走り、地元の声援と観光客らしきグル

    ープの眼差しをうけ、様々に曲がりくねった山道を、ただ黙々と走る。

    青く澄み切った空を、時には見上げながら、この後、どんな坂道が待ちかまえてい

    るかも知らずに、ただ黙々と走った。 

    地元の競技関係者がコースを間違えないように所々に立っている。

    スタートして、まだ間もないせいか、軽く感謝の気持ちを込めて手をあげる余裕が

    あった。  そしていよいよ・・・・・・。 

    何気なく前方を見ると、トップランナー集団がはるか山の頂上を走っているでは

    ないか。 「嘘だろう!あんな山のてっぺんまで走れる訳はない!」と完全に意気

    消沈してしまった。

    コース誘導員が「まだまだ登りがあるよ。頑張れ!」と嘲笑い?ながら励ましてく

    れたが、できるものなら、「お前と立場を変わりたいよ」と、本気に思ったもんだ。

    「完走することに意義がある」、「継続は力なり」、「己に負けるな」など、自己を奮

    い立たせる、ありとあらゆる言葉を浴びせながら、そして、完走後のビールをグッ

    と飲み干す壮快さをイメージしつつ、ただ完走をめざして黙々と走った。

    不思議なもんで、発想の転換というか、考え方をちょっと変えるだけで、山登りの

    勇気が湧いてきた。走っていて気づいた事だが、登りは兎に角、前方を見ないで

    腕を大きく、力強く振ることだ。「登りの後には必ず下りがある。」を信じ、ひたすら

    両足を前へ前へと進めた。

    頂上にたどり着くと、後は長い長い下りである。登りで、もはやこれまでかと、歩く

    寸前まで追い込まれた体を、癒すように走った。

    長い下りに酔いしれていると、また地獄の心臓破り?の山岳道がお出迎えである。

    10qあたりの登りで、前方のランナーに目を奪われた。

    ゼッケンナンバー1番。 どうみても増田明美さんの後ろ姿である? 感謝、感激、

    増田さんに追いつき併走しよう。驚くほど、ピッチがあがり、増田さん?と並んで走

    ることができた。クロスカントリーに出場して良かった!大正村に来て良かった!

    嬉しさのあまり、増田さん?の横顔をチラッと見た。

    あれあれ・・・・・ 何と!増田明美さんとばっかり思っていたが、全くの別人。

    走っていて唖然とした。しかし、世の中には赤の他人でもよく似た人がいるものだ。

    しばらく並走しながら増田明美さんの、数々の駅伝、マラソンシーンを想い浮かべ

    た。 大阪国際女子マラソンでの衝撃的な姿も忘れられない・・・・・・・。

   

    これも何かの縁。走りながら増田明美さん?に話しかけた。よく似ている事を告げ

    ると、光栄だと言い、時々、私みたいに間違える人がいるようである。増田さんは

    6マイル(9.6q)を走っているらしく、走りながら結構、話に華が咲き、併走する

    ことになった。山岳道路の山あり谷ありのコースを終着点、ゴールまで互いのペ

    ースを守り、ジャスト90分で完走する事ができた。

    ゴール後、増田さん?が「ありがとうございました。お陰で時間内完走ができまし

    た。」とお礼を言ってくれたのが嬉しかった。

    私こそ、往年のマラソンランナー?と併走できたのは最高の想い出となった。

    会場を後にし、大正村周辺のレストランで飲んだ某ビールは生きている歓び、健

    康で走れる喜びを大いに味わった。

      「来年も、地獄の心臓破りの大正村を走るぞー。」

    平成11年3月28日

名古屋国際女子マラソン観戦記(平成12年3月12日)

    今年2000年は、オリンピックの年。日本の女子マラソン界はシドニーオリンピック

    でメダルが取れる確実な力を持っていると思う。

    その最有力候補が間違いなく高橋尚子選手と確信し、久方ぶりに名古屋国際女子

    マラソンを観戦しに瑞穂陸上競技場に行った。オリンピック出場選手は3名の枠し

    かなく、世界陸上選手権銀メダルの市橋有里は既に内定、残り2枠を東京国際女子

    マラソン優勝の山口衛里と、大阪国際女子マラソン第2位の弘山晴美、そして名古屋

    国際女子マラソンに出場する高橋尚子のレース結果という事で、女子マラソンファン

    のみならず世間は大いに盛り上がった。

    待ちに待ちたる運動会・・・・という歌があったが、将に、待ちに待ちたる名古屋国際

    女子マラソン。3月12日日曜日、昨夜の雨が嘘みたいに、朝から雲一つない素晴ら

    しい天気である。

    年の割には、いつまでも若く見える?女房に駅まで車で送って貰い、いざ瑞穂陸上

    競技場へと向かった。名古屋駅で地下鉄に乗り換えたが、結構混んでいる。

    幸い空席があったので、腰を下ろした。

    高橋尚子選手の力走振りをイメージしながら、心地よい気分に浸っていると、突然、

    隣の30前後の男が話しかけてきた。

   「マラソンを見に行かれるんですか。」 そうですと答えると、実は自分も見に行くんだ

    と言う。わざわざ大阪から来たとのことで、車中話が盛り上がった。

    私たちの会話に、今度は左隣の40位の女性が、「すみません。私もマラソンを見に

    行くんですが、瑞穂陸上競技場までご一緒させて下さい。」と話しかけてきた。

    競技場まで、お互い初対面であるのにマラソン談義に大いに華が咲いた。

    競技場に着くと、凄い人波である。それぞれが観戦の場を求めて、別れ別れになっ

   てしまった。 早速、持参した双眼鏡で高橋尚子選手を探したが、なかなか分かりに

    くいものである。スタート30分前で多くのランナーが軽くウオーミングアップをしてい

    たが、その中に大南姉妹の姿が見えた。東海銀行を一躍有名にした?双子のラン

    ナーである。 他に有名ランナーはいないか、双眼鏡の視界を注視した。

    何と藤村信子がゆっくりとジョッグしているのが目についた。

    その近くで小松ゆかり、後藤郁代、甲斐智子、麓みどり、そして外国招待選手が、

    互いに何か話しかけながらジョッグしている。 そして、私の目に高橋尚子の颯爽と

    したランニング姿が捉えられた。トレードマークの口元のほくろまでがはっきりと確

    認できた。テレビではなく、この生身の姿を見たいが為に、今日は来たのである。

    大いに満足し、高橋選手にどうしても優勝して貰いたいと思った。

    12時05分号砲。一斉に244人のランナーがスタートした。競技場を一周し市街地

    へと飛び出して行った選手たち。果たしてどのようなドラマが展開されるだろうか。

    高橋選手の健闘を期待しつ つ、競技場を後にし、18q地点の久屋大通駅に地下

    鉄で向かおうと思い移動したが、駅の改札 口が大変な混雑である。

    前もって切符を買っておいて本当に良かったと思った。

    ラジオの実況中継をイヤーホーンで聴いていたが、地下鉄では雑音ばかりで状況が

    まったくわからないのが残念であった。

    久屋大通駅で下車し、桜通大津の交差点で先頭集団を迎えた。

    5,6名の先頭集団に高橋尚子選手はいた。表情も非常に良い。思わず「高橋がん

    ばれ!」と声をだしてしまった。

    この地点はランナーが3回も通過するコースになっているので、沿道は人、人、人の

    応援で、太鼓を鳴らすもの、横断幕を掲げて声援を送っているものと熱気に燃えてい

    た。 28qあたりの折り返し地点で高橋選手の独走をラジオの中継が伝えている。

    みたび高橋選手が私の目の前を通過したときには、2位以下に5分以上の差をつけ

    ダントツであった。心地よい汗をかき、表情もよく、美しいピッチ走法でアッと言う間に

    駆け抜けていった。

    大南博美,敬美の双子ランナーが通過したのを見届け、瑞穂陸上競技場に引き返す

    べく地下鉄久屋大通駅に行ったが、またまた大変な人混みで、同じ思いを持っている

    人がいかに多いか知り、思わず自分の事は忘れて、あきれ返ったもんである。

    この駅で、前もって切符を買っておかなかったことが、今でも悔やまれて仕方がない。

    切符を買うのに何と10分以上もかかってしまったのだ。

   瑞穂運動場駅に着いた時には既に、トップランナー、高橋選手は駅前を通過しており、

    駅から、陸上競技場までの1.2qを人波に押されるように急いだが、無情にも?ラジオ

    の実況中継は、高橋選手のゴールを、あと100b、50bと伝えている。

    ゴールの瞬間を聴いたとき、高橋尚子選手がガッツポーズで両手を高々とあげ、笑顔

    一杯でテープを切ったことをイメージし、「よし!やった!高橋尚子おめでとう」 と心中

    で叫んだもんである。

    2時間22分19秒。 貴女のこの快挙には、本当に感動しました。夢と感動をありがと

    う。 オリンピック出場決定はこれで決まりです。 9月24日、シドニーでの貴女の颯爽

     とした走りと、さわやかな笑顔に再び会える日を楽しみにしています。

    平成12年3月12日

                 

シドニーオリンピック女子マラソン テレビ観戦記(平成12年9月24日)

   待ちに待ちたる、女子マラソン。いよいよ明日、日本時間の午前7時スタート。

   160分録画のビデオテープを夕方、近所のホームセンターに買いに行く。夜寝る前に、

   放送テレビ局を確認し、床に就いた。

   9月24日(日曜日)6時起床。早速、新聞テレビ欄で録画予約を完了する。

   現地シドニーからの中継がはじまる前に、慌ただしくすべてのやるべき事を済ませ、テレ

   ビの前に陣取った。 浮き浮きしている私を見て、女房が呆れ返っていた。

 

   中継がはじまり、スタート直前の日本の3人娘がそれぞれ、他国の選手らの中で、緊張感

   の中にも楽しそうに、ジョッグしている様子が映し出された。 高橋尚子選手の清々しい顔

   をテレビで見た時に、「よし、高橋がんばれよ!」と、こぶしを握ったもんだ。

   スタート数分前。54名の選手がラインに並んだ。おもむろに、サングラスを高橋尚子がか

   けた。あの、あどけない、Qちゃんのニックネームをもつ彼女の顔が精悍な顔に変貌した。

   日本時間、午前7時スタート(現地時間9時との事)。号砲と同時に、私も腕時計のタイム

   をセットした。 前半はやくも、ベルギーのレンデルスが飛び出したが、高橋をはじめ他の

   選手はマイペースで自重気味である。上下動とストライドの大きいレンデルスがこのまま

   最後まで持つわけはないと、安心してレースを見ることができた。

   18qあたりで、高橋尚子が先頭集団から抜け出した。ルーマニアのシモンと市橋有里が

   颯爽とした走りで付いている。このまま、金、銀を日本選手が独占したら、どんなに感動的

   かと、心が躍った。 それにしても、下馬評では、金メダル第一候補と言われたケニアのロ

   ルーペの顔が全くテレビに映らない。テレビの解説者(実は、増田明美さん)も、どうしたも

   のかと心配している。山口衛里も給水所でランナーと接触?して、転倒したが、それが原

   因か、先頭集団の中になかなか顔を出してくれない。しかし、それ以上にロルーペの先頭

   集団からの脱落は、意外も意外であった。

   先頭の3人の中から、市橋有里が徐々に引き離され、高橋とシモンの一騎打ちの状況にな

   なった。今年の大阪女子マラソンで、最後の最後で弘山晴美を抜き去ったシモンのスピード

   と底力には、驚異すら感じ、少しでも高橋尚子がシモンを引き離すことを、今か今かと待っ

   た。35q付近で、高橋がサングラスをとり、沿道に向けて投げ棄てた。あとで、本人曰わく。

   応援者の中に知り合いを見つけ、ここがスパートとばかり、サングラスを投げ出し、知り合い

   に拾って貰う心づもりだったらしいが、拾ったのは、大会関係者であった。

   サングラスをとった高橋尚子の顔は、目の周辺にくっきりと日焼けの跡が残り、自信に満ち

   た日本最強のマラソンランナーの顔であった。 シモンを一気に引き離し、高橋の独走に、

   日本中が大いに沸き上がった(と思う)。   マラソンに興味を示さなかった我が女房が、

   いつの間にか、私の側に来て、私以上に、声を上げて応援していた。

   さあ、あと2q。陸上競技場が見えてきたぞ!  ・・・・・大声援の中、競技場に高橋尚子が

   入ってきた。 スピードはほとんど変わらない。素晴らしいピッチ走である。 

   その時、一瞬、アレレッと我が目を疑った。なんとシモンが高橋のわずか後方にいるではな

   いか。 シモンの驚異的な追い上げにビックリ仰天したが、ここは、大和撫子の名に於いて

   も、絶対に抜かれてはならない。 女房も一緒に、「頑張れ!頑張れ!高橋頑張れ!」と

   思わず立ち上がって声援していた。 高橋もシモンの追い上げに気づき、最後のラストスパ

   ートである。 残り、100m、50m、高橋尚子の全力疾走。ゴールと同時に腕時計のタイム

   を押した。堂々の金メダル。腕時計を見ると、2時間23分14秒であった。 

   オリンピック新記録。しかも日本女子陸上界初の金メダル獲得。

   「おめでとう!高橋尚子、おめでとう。」 やはり、貴女は強かった。日本中の期待を裏切

   らない、貴女の颯爽とした走りと、さわやかな笑顔に再び巡りあえて、私は、興奮と感動の

   連続でした。 

    いつの日かまた、あなたのQちゃんスマイルに逢える日を楽しみにしています。

            

  

ベルリンマラソン テレビ観戦記(平成13年9月30日)

有言実行。まさに高橋尚子の真骨頂を目の当たりにして興奮と感動の連続であった。

一年前のシドニーオリンピックで金メダルを獲得し、日本中に感動を与えた高橋尚子。

次なる目標は、女性マラソンランナーとして、2時間20分の壁をやぶる、世界最高タイムを達成する

との決意が新聞等で報道され、その日が来るのを私はただひたすら待ちました。 

あれから1年。9月30日。現地時間午前9時。日本時間午後4時スタート。世界最高タイム(2時間

20分43秒)保持者のケニアのロルーペとのいよいよ一騎打ち?である。

5名の外国人男性ランナーに周囲をしっかりガードされ、高橋尚子が颯爽と走っている。表情も実に

いい。これは行けるぞ、と10qあたりを通過した時点で私は心が躍った。

5qのスプリットタイムが常に15分20秒前後である。コースの沿道沿いで小出義雄監督が声援と

なにやら指示を高橋選手に送っているのが目についた。監督の声が届いたか、高橋尚子の顔に

さらなる精悍さが戻ってきた。 常識では考えられない2人の師弟愛も2、3日前にテレビドラマ

(「君ならできる!小出義雄・高橋尚子物語」)で見ているので、ジーンと胸を打つものがあった。

いつの間にか、テレビ画像は高橋尚子一色である。あの最大のライバル!ロルーペの姿が一度

もテレビに映らないのだ。完全に高橋選手の独走、独り舞台である。

35q通過で、高橋尚子の優勝は間違いないと私は確信した。 さあ・・・・、後は世界最高タイム

へのチャレンジだけだ。 高橋尚子、君ならできる!私はトイレに行くのも忘れ、彼女に声援を送

った。家内と娘が私の応援に、なかば呆れていたが、お父さんのマラソン好きを知っているので

どうにか許してもらえたもんだ。 残り5qを過ぎたあたりで高橋選手のスピードが少し落ちたよう

に思えたが、ペースメーカー的?な存在の男子選手が、何となく彼女を引っ張っている感じがして

高橋頑張れ!20分の壁突破だ!と私は声を出していた。 そばで妻と娘が相変わらず笑ってい

たが、一緒に応援しているのが私には分かった。 さあ、残り2qだ。その時である。高橋尚子の

顔が急に苦しそうに見えた。高橋尚子、大丈夫か。もう少しだ。貴女の素晴らしさは私はよく知って

いる。有言実行。言ったことは必ず実行する貴女に、私はまだ一度も裏切られたことがない。

高橋頑張れ!高橋ガンバレ!!  その時の私の姿を家内と娘がどう思ったか、私は知らない。

籐椅子に座って応援していた私は、椅子から立ち上がり、声を張り上げ興奮していたようである。

ロルーペの世界最高タイムが刻々と近づいてくる。 高橋選手の苦しそうな顔がアップで映し出さ

れている。 高橋、頑張れ!ガンバレ!ガンバレ!!!           

あと数百b、間違いない、世界最高タイム樹立、間違いない、私は確信した。

沿道の応援の日の丸も、高橋尚子を後押しするように力強く振られている。大声援の中、遂に

高橋尚子選手がゴールのテープを切った。私は腕時計のタイムを押した。2時間19分43秒。

やった!世界最高タイムだ。女性ランナー初の20分の壁突破だ。おめでとう、高橋尚子おめで

とう! 主催者側正式タイム2時間19分46秒。 ゴール後、高橋選手は小出監督をシドニーと

違ってすぐ見つけることができ、師弟の熱い抱擁が惜しげもなく目に飛び込んできたが、2,3日

前のテレビドラマが現実となり、私は、2人の抱擁とこの快挙に大きな拍手を送っていた。

高橋尚子ありがとう。Qちゃんスマイルに再び会え、私にとって最高の9月30日であった。