比較脈診(簡易比較脈診法)
はじめに
経絡治療に脈診は欠かせない診察技術ですがこの技術を完全に習得するには沢山の時間と努力が必要です。かくいう私も自分の技術をこれで足りると思ったことは未だ一度もありません。しかしそうは言いながらも完全ではない診脈力で何十年と臨床をやっているわけです。しかし毎日毎日脈診を何回となく繰り返しているわけですからさすがに以前とは比べものにならないくらい技術は上がったと自分では思っています。それにしても昔の自分の診脈力を考えればよくもあの程度で臨床をこなしていたなあと空恐ろしくなります。証を決定するのに自信が持てず四苦八苦することも度々でした。それでも証さえ立てればそれなりの治療をしてきたわけです。要するに鍼灸はそれなりの技術でもそれなりの事だけはできるわけです。
さて本来脈診は比較脈診、脈状診を総合的に分析考察して立証の手立てとしますがそのプロセスは熟達した技術をもってしても時として難しいものです。ましてこれから脈診を学習しようとする方達にとっては雲を掴むような話しで途方にくれてしまう事も多いと思います。そこで初心者がより正確に脈診ができる方法として簡易的な比較脈診法を考案し、2000年より臨床に応用しています。
簡易的な脈診法では副証の決定に正確さをやや欠きますが本証の決定だけをみれば本来の比較脈診法とさほどの誤差もないと思います。誤差が出るとしたら副証の絡みが複雑であったり元々脈が診にくく熟達者でも慎重に診脈しなければならないものが殆どです。
実際の臨床においては脈診だけで立証することは危険なので脈診の精度が多少未熟であっても病症の弁別をしっかりやれば誤差は修正されます。何故なら脈診に比べ病症の弁別は経験の浅い者でも早い時期から正確な弁別ができる可能性があるからです。それは指先の技術ではなく知識として病症のパターンを多く知っていることと患者から得られる情報をその知識を生かして如何に正確に弁別できるかに依るからです。従って病症の弁別を加えれば脈診だけで立証した時と比べると更にその精度はあがりますから初心者であってもそれほどおかしな立証はしないはずです。仮にもし最初の判断が誤っていたとしたら次回の治療でその経験を活かせば必ず徐々に精度は増していきますし、脈状診を会得していくうちに術中に証や選穴や手技の可否が判断できるようになりますから次回の治療まで結果を持たなくてもその場その場で評価しながらより良い治療を行うことができるようになります。
またこの簡易比較脈診法では陰陽関係、五行関係(相生・相剋)が理解していなくてもできますが学習の過程においてはできるだけ早い時期にその関係を理解し身に付ける事は絶対必須だと思います。
補足)
副証について;経絡治療に於いては副証は相剋理論によって本証と相剋関係にある経には何らかの上調和があるはずであるという考えが根本にありますが証決定に於いて最も重要なのは本証が何であるかであって副証に於いては最初の証決定の段階である程度の目安を付けておくくらいでも良いことが多いのです。
治療の各々の段階で検脈をしていけば副証の治療まで必要ないものや副証自体を考慮しなくて良いものもあります。このことは相剋理論によっても充分説明がつきます。
簡易比較脈診の根拠
その為の裏づけとして陰陽論でいう「陰が虚せばその対立にある陽は逆に実するか見かけ上実したようにみえる」という考え方に基づけば、一般に虚が大きければ実も大きく結果として陰陽の脈打つ幅も大きいであろうということ。そして初心者が感じる強い脈とは多くはこの脈打つ幅の大きいものを強いと感じているという前提で脈診のプロセスを再考してみました。
再考にあたっての拠りどころとなったのは故福島弘道先生の「小児の脈診法」(「経絡治療要綱」福島弘道著)です。
つまり六部定位が充分に診て取れない小児の脈診で左右の脈の虚実を診て患者の右が全体として虚していれば肺虚か脾虚、左が虚していれば肝虚か腎虚と診るという方法を拠りどころとします。
前述のように本来虚しているところを診つけるのが脈診なのですが初心者にはこれがなかなか難しい。強く脈打つところは判るがどこが虚しているかということを診断するのは案外難しいものです。
私が後輩に脈診の指導をするようになって気付いたのですが初心者がここは強く打っていると感じるところは実際には陰分が虚して陽分との陰陽の差が大きくなっているところ、陰陽のバランスが大きく崩れているところを強く打っていると診誤ることが非常に多いのです。
初心者からすれば強いと思っているところが実は弱いのだといわれても最初はなかなか理解しがたいことでこれが脈診を会得する上での最初の壁となります。
指導する立場からすれば相手は初心者だから当然こちらの方が正しいのであって相手の見解を正さなければ指導したことにならないと思ってしまいます。しかし指導される側に立ってこれを見直してみると指導する側が虚していると言っているのは陰分の脈状のことで初心者が強いと感じているのは陰陽のバランスの崩れの幅のことなのです。お互いが診ているところが違うのです。勿論指導者はそれは百も承知ですからなんとか陰経の虚を診るように四苦八苦して指導します。
しかし私は指導していくうちに指導する側が発想を換えて初心者の感じるままで正しい診断にむすびつけるように導くことはできないかと考えてみました。
乱暴に言えば「初心者にとって強く打っていると感じるところが実は虚しているのだ」という前提で脈診を組み立てる事ができないかということです。勿論初心者から診て強く打っていると感じるだけで実際には虚しているわけですからその習熟度に応じて虚を虚として診れるように指導する事は指導する者は怠ってはならないと思います。ただ初心者が早い時期からより正確に証を立て得るとしたら臨床現場において診断に迷いや躊躇が少なくなるのではないかと考えます。
簡易比較脈診法の実際
1)脈診する部位は六部定位脈診と同じ前腕の橈骨動脈です。
2)左右の脈を寸関尺※1)に捉われず直感的に全体的にはどちらが強く※2)打っているかを比べます。
2-A)ここで患者の右の脈が強い(実際には陰が虚して陽が実しているか平である。以下も同じ)と感じた時は肺虚か脾虚の何れかが本証となる場合が多いのです。
次に肺虚か脾虚かの判断は左右の寸口の脈を比較することによって行います。
もし右の寸口の脈が強ければ本証は肺虚、左の寸口の脈が強いか左右差が無い場合は本証は殆どが脾虚です。
左右の差が無い場合は副証が腎虚で母経の肺経まで虚した4経虚とも考えられます。
2-B)また患者の左の脈が強いと感じた時は腎虚か肝虚の何れかが本証となる場合が多いのです。
次に腎虚か肝虚かの判断はこれも左右の寸口の脈を比較することによって行います。
もし右の寸口の脈が強ければ本証は腎虚、左の寸口の脈が強いか左右差が無い場合は本証は殆どが肝虚です。
簡易比較脈診法では本来診るべき陰分の虚実を診ずに陰陽のバランスの崩れの大小を診ます。従ってこの診方では本証まではかなりの精度で証決定を導けますが副証までを正確に診断するには至りません。
しかし前述のように証を立てるにあっては脈診が全てではありません。病症の弁別だけで証を立てることだって実際にはできます。しかし病症が2経以上にわたって発現している場合(よく相生・相克関係や子午・奇経の関係などにおいて診られます)は病症の弁別だけでは決定し難いことがあります。こういう時、簡易脈診法を身につけていれば初心者でもどちらが本証かを診分けることが容易にできるはずです。従ってこの脈診法は初心者が虚実を診極める力をつけるまでの時期に少しでも戸惑いや上安を軽減するには充分に役に立つことと思います。
いずれ虚実を診極めるといった脈状診の技術が向上していくにつれて本来の六部定位脈診法(脈差診)も正確に詳細に診極められるようになるはずです。つまりこの簡易的な方法に細かい脈状診を加えて診ることでより的確にかつ敏速に診断がつくようになりますから実は改めて六部定位脈診を訓練しなければならないということはないはずです。
※1)示指を当てる部を寸口の脈、中指を当てる部を関上の脈、環指の当たる部を尺中の脈と言いそれぞれ十二経絡が配当されます。(参考図参照のこと)
※2)ここで言う強い脈とは陰陽のバランスが大きくずれているということ。