「ヴァレンタインズ・メモリー」

 空を低く垂れ込めた雲が坂の上から望む地平の彼方へまで続き、赤橙色に空を滲ませていく太陽が世界の
向こうに隠れていこうとしている。風は日の翳りと共にコートの襟を立てるように冷たさを増していく。
 そんな景色の中で広がる時計坂のある場所での一コマ…。
 

「おかあさ?ん、うまく融けないよう」
 春香が泡立てを不器用に鍋の中で廻しながら響子に救いを求める。
「それはねぇ、掻き混ぜるのが早いからよ」
 春香の手から泡立てを持ち替えると大きくゆっくりと廻し始めた。
「ほうら、こうするえばまんべんなく融けていくでしょう」
 固まりが所々に残っていたのはみるみるどろどろのチョコレートに変わりホイップクリームのように
たっぷり空気を含んで柔らかさを増していく。「うわぁあ、ほんとだぁ」
 板チョコを数枚砕いて溶かして手作りの型に鋳れ込みヴァレンタインのチョコレートを作っているの
である。
「はい、このあたりでちょっとシロップを加えて甘味のバランスをとりましょうね」
 週末明けのヴァレンタインを控えて連休の中、手作りチョコレートを春香が作りたいと言い出して、
早速材料を買出してきてビターチョコを原料に味と堅さの調節をしているのだ。
『ヴァレンタインのチョコを手作りだなんて、気になる男の子でも出来たのかしら』
 一生懸命に横で手伝う屈託の無い春香の笑顔を見ているとついつい顔がほころんでしまう。
 響子にしてみれば父の仕事でしばしば転校を繰り返していたので春香ぐらいの年頃では同年代の男の
子の事を意識するのはそうなかった。春香も4年生なのだから気になる男の子が居ても不思議ではない。
 ―――考えてみれば、あれっ?
 思い起こしてみれば、小学生の頃は子供心にヴァレンタインの事は意識していなかった気がする。
 中学生の頃位からではなかったと記憶している。
 それに今ほど派手というか定番化しているというのではない、素朴で微笑ましい時節柄のセレモニー
だったと思える。

「ねえ、おかあさん、一刻館に来てからおとうさんにヴァレンタインの贈り物何を贈ったのを?
 やっぱりチョコレートなの?」
「えっ? それは……」
 しまった、そういうエピソードは常に先にこずえさんから貰うのばかりだったから、今思い出しても
まったく無かったと気付いた響子。それに、そのときはチョコレートを渡すということには正直、考え
もしなかったことを。
「おかあさんとおとうさんには必要なかったから…」
 言葉を濁すしかないし、実際に祐作にチョコレートを渡すということよりクリスマスのプレゼントが
大事だったのが事実であるのに変わりは無い。ここ数年は春香につられて形式的にチョコを渡している
気がする。別段、夫婦だから必要ないと思うからであるし、その辺りが鈍いのが響子でもあるからだが。
 それに、惣一郎さんには…。
 

「ねえねえ、春香は誰にあげるの? やっぱりA組の○○君?」
 仲良し女子数人といつもの昼食をカフェテラスで取っていると親友の七瀬さくらがカマをかけてくる。
「ん?、あたし?? 贈んないわよ」
 ミルクティーを飲みながら左手でNo!No!と手振りをする。
 中学2年、14歳、思春期に突入まっしぐら、他愛も無い話や遊びやドラマやマンガに映画やビデオに
ゲーム、恋に勉強に思い悩むお年頃、というのが定番なのだがどうも春香には異性というものがピンと
来ない。同年代、クラスの男達は歳よりも子供っぽく見えてしまう。
 勿論これはこの年頃の女の子には誰にでもある心理だからことさら春香が好きな子、というか気にな
る男子が居ない、という事でもなかった。
「義理チョコでも春香が贈ったら袋に抱えるくらいにホワイトデーのお返しが来るのに勿体無いわよ」
 右隣の児玉ひかるがいつもの小生意気な口調で囃し立てる。
「あたしは部活と委員会の男子には全員贈るわよ、勿論、ちゃ?んと10倍返しを狙っているけれどね」
 気が強い新城玲美は勝ち誇るような笑みで弁当箱を片付けながら言い放つ。
「賛成、私もきちんと配当が貰える相手にしかあげないもん」
 水泳部のエースである御木本忍が自信に満ちた断定をする。
 春香の通う中学での2年男子生徒のいうところでの通称「アルテミスの七人の美少女」達が繰り広げ
ている昼時の話は数日後に迫ったヴァレンタインデーが平日であることに集中していた。
 男子生徒にとって例え義理でもいいから「アルテミスの七人の美少女」からチョコを貰いたいと思っ
ていて、今ココに居ないさくらの双子の姉の七瀬林檎と3年の佐伯霞夜を含めた七人が我が中学のアル
テミスだと自称しているのだから当の春香から子供っぽいと揶揄されるのも当然である。
 母の響子譲りである人形のような可愛らしさと発育途中でありながら四肢の伸びやかさとプロポーシ
ョンの均整さを持ちながらも、快活さから女子にも好かれている春香に意中の男子が居ないのは女子に
とっても男子にとっても幸運というべきか不運というべきなのか。
「余計な気遣いは嫌だし、そんなのお小遣いの無駄だから義理なんてしないわよ」
「うわぁ、厳しい?、それだと1年の女子からきっとチョコが一杯届くわよ」
 春香の台詞にさくらがすかさず突っ込みを入れる。
 

「さくら?、手作りにするんじゃなかったの?」
 どんよりと垂れ込めた雲からぱらぱらと降る雪に傘を差し、マフラーを絞め直しながら春香が訊く。
「駄目駄目、夕べ失敗しちゃってね、折角の材料がパァー、よ」
 林檎が黙ったまま返事をしない妹の代わりに答える。
「春香は今年も手作りしているのでしょう」
 交差点で信号を待ちながら携帯の留守電確認しながら林檎が問い掛ける。
「うん、今年もね…」
「じゃあ、好きな彼に始めてのチョコになる訳ね――」
「あ、青に変わったわよ」
 17歳になっていた春香が材料のチョコレートを買いに3人でデパートの菓子売り場に行くのだ。
 

 

『おにいちゃんやおねいちゃんもこんな感じだったのかぁな?』
 デパートで買ってきたちょっと高めのハーフビターチョコチップの袋を開けて鍋の中にジャラジャ
ラと入れていく。春香がおにいちゃん、おねえちゃん、と呼ぶ人物は決まっている。だがその二人は
10年近くも前の冬に居なくなってしまった。二人とのヴァレンタインの想い出は何もない。
 もしも、あのまま一刻館に居てくれれば何か相談したり出来たかもしれないのに、と春香は思う。
 でも今はなんとなく二人の気持ちが分かるかもしれない、そう思えている。
 きっと今もどこかで私の事を励ましてくれているかもしれない。
「おかあさ?ん?、湯煎につかっちゃうから台所すぐに空かないけれどいいわよね?」
 今では母に手伝って貰うこともなく、台所でチョコレートを作れる春香。
 今年はチョコトリュフに挑戦し、中のホイップにアールグレイの茶葉を刻んだのを入れて香味とす
るのだ。エプロンを結び、長いサラサラの髪をリボンでさっと結ぶ。
 姿見鏡の前でくるり、と一回転して「よしっ」とポーズをとる。
 背丈は響子を抜いてプロポーションも同じ年頃だった響子よりも充分過ぎる程発育している。
 でも、恋には少し臆病なのかもしれない。
 その自覚はあるのに好きという気持ちとで揺れ動いてしまう。
 喉の奥まで出掛かった言葉を何度押し止めたのだろうか。
 察した響子が何とは無く「私はあなた以上に積極的で、そしてね、あなた以上に臆病だったわ」と
話した事がある。母と似ているのだろうか?そう思う。


「はい、もういいころね、型枠に流しこみましょうか」
 響子が火を止めて鍋を外す。
「じゃあ、春香、作った型枠とクッキーを並べてね」
「は〜い」
 テーブルの上をいそいそと片付け直してキッチンペーパーを引きながらパンの上に並べていく。
「じゃあ、一つ、流し込んでみる?」
 響子から渡されたお玉杓子でチョコレートを掬い、型枠の中に流し込んでいく。
 1つめはちょっと多すぎ、2つめはより多すぎて型枠からはみ出してしまう。
 4年生の春香には力加減が少し難しいようだ。

 14日、当日。
「はい、おとうさん、これ」
 祐作の前に自分でラッピングしたチョコを差し出す春香。
「あたしの手作りだよ、えへっ」
 照れ笑いを溢す春香。
 くすくす、と後ろで笑う響子。
――そういえば、初めてあげたチョコレートの相手はお父さんだったなぁ、私と同じね、春香ったら。
「はい、これは私からの分ですよ」丁寧にラッピングされたのを手渡しながら、にたりと笑いながら
「失敗した分も勿論、全部食べてくださいね」
 嬉しい半分、困った半分の表情で笑う祐作に父の顔が重なる。
『ほお、そうか、響子が作ったかぁ、お父さん、うれしいぞ』
 カーテンの隙間から外を見れば雨が雪に変わっている。
 ヴァレンタインの記憶、一夜が過ぎてしまえばきっと雪のように消えてしまう儚いセレモニーなの
かもしれない。でも、この楽しさをきっと春香は忘れないだろう。それだけで充分だと響子は思える。
「きゃはははははぁ」無邪気にはしゃぐ春香の笑い声が聞こえていた。

 

 思い出すように手を止めた春香が小さく笑った。
 17歳の冬の日であった。


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