日本女侠伝・真赤な度胸花

(1970年・東映)


(スタッフ)

監 督:降旗康男

脚 本:笠原和夫

撮 影:古谷 伸

音 楽:八木正生

 

(キャスト)

雪 ……藤 純子

五郎……高倉 健

大金……天津 敏

源治……山城新吾

松 ……山本麟一

雪の父……小沢栄太郎

 

知らぬ他国の夕陽を浴びて、真ッ赤に咲いた女侠一匹!

 

(ストーリー)

 明治末期の北海道の大原野。この地の馬市の利権をめぐって、ヤクザの大金一家に父を殺された一人娘・雪は、牧場の後継ぎとして、はるばる九州から北の果てまでやったきた。

 道内の利権の独占をもくろむ大金は、雪の牧場の牧童頭であった源治を脅迫して、馬市の馬喰総代候補に立てるとともに、代議士を抱き込んで総代選出の会議に臨む。しかし、大金の支配に反対する馬主たちは、雪を総代候補に立て、大金に対抗した。投票の結果、票は割れ、最後の権利者である五郎の到着を待つことになる。

 大金は、雪への嫌がらせのため、雪に味方する牧場を襲撃し、放火する。雪が駆けつけた時には、牧場の馬は散り散りになっていた。雪は逃げた馬を集め、戻る途中、底無し沼に足をとられ、窮地に陥るが、五郎に助けられる。別れ際、雪の名前を知った五郎の顔色が変わる。実は、五郎の父は開拓農民で、牧場拡大を目指す雪の父のため、土地を追われたのだった。この地は寒冷地のため、農業には適しておらず、牧場しかできなかったのだが、開拓農民の代表であった五郎の父は、土地を失ったことに対する責任から自殺したのだ。雪の父は、五郎名義の株を用意し、馬主組合の権利者のひとりにしていたが、五郎にとって牧畜業者は父の仇だった。

 五郎はどちらにも味方せず、馬市をつぶすことだけを考えて静観していたが、大金の悪どいやり方に反発し、敵に回る。

 形勢が不利となった大金は、雪の父を殺した現場を目撃した源治とその妻を殺し、道内から集めたヤクザたちを自警団に仕立てて町を占拠する。

 両親を殺された源治の子どもの涙に、雪は大金一家と戦う決意をする。 肉親を失った悲しみを知る五郎と、雪の腕と度胸に惚れ込んだ“あざらし射ち”の松が加わり、3人は町に乗り込む。激しい銃撃戦のすえ、雪が大金を倒し、町には平和が訪れたのだった。

 

(感 想)

 この作品は“日本女侠伝シリーズ”の第2作目にあたります。このシリーズがどのようなものか、私はこの作品しか観ていないので、何ともいえませんが、主人公のキャラクター(九州の武家の出で、武芸の達人)は、藤純子の人気シリーズ“緋牡丹博徒”の矢野竜子に極めて似かよっています。

“緋牡丹博徒シリーズ”は、そのストイック性のために、どの作品も決まった様式で描かれており、矢野竜子は女渡世人の枠から外れることはなかったのですが、この作品では、矢野竜子をアメリカ西部に連れていきました。表面上は、北海道の原野ですが、精神はアメリカ西部なんです。つまり、これは西部劇なので〜す。

 雪が初めて登場する馬車のシーンで、“あざらし射ち”の松が、同乗しているアイヌに因縁をつけます。バッファロー・ハンターがインディアンに因縁をつけるのと同じ感じですね。そして、アイヌに理解を示す雪が松をこらしめ、アイヌの若者との間に信頼関係が生まれます。『シマロン』などの西部劇でも似たようなシーンがあります。

 西部劇における賭博と売春宿を兼ねた酒場を経営する悪の親玉が、ここでは、ヤクザの親分になっています。町を牛耳る過程は西部劇と同じです。悪に対抗する良識派の町民が、医者と新聞社主というのも西部劇の定石。

 さらに、開拓農民と牧畜業者の争いまで盛り込み、気分はウエスタン……

 西部劇タッチの東映ヤクザ映画には、前例として“網走番外地シリーズ”があります。北海道の馬相場を独占しようとする悪徳牧場主との対決を描いた、シリーズ第5作の『網走番外地 荒野の対決』(1966年/石井輝男監督)は、西部劇といって差し支えないですが、それでも、これほど徹底はしていません。

 この映画の製作背景として、当時ブームであったマカロニ・ウエスタンの影響があったことは否めないと、私は考えています。タイトルバックに流れるムッカリの音色は、マカロニ・ウエスタンのインディアン・ハープを意図していますし、銃弾が頚動脈を射ち抜き、『椿三十郎』のごとく、血が噴出すのはマカロニ・ケチャップの世界でした。一度で止めときゃいいのに、ラストでも同じ手を使うものだからシラケましたが。

 西部劇と同じ基本構造をしていても、作品の出来となると、残念ながらお寒いものでした。ストーリー展開は、伏線も何もなく唐突だし、ラストにむけての盛り上がりにも欠けています。そして、寒さを決定的にしたのが、アクション=ガンプレイのお粗末さです。ガンプレイさえよければ、どんなつまらない西部劇だって、何とか見られるのですが、ただブッ放すだけ。
 スチール写真にあるような、藤純子のファニングは本編では見られず、ランダル銃を工夫もなく射つだけでした。健さんのライフル射撃シーンはサマにはなっていましたが、特筆するほどのものではありません。

 これでは、ドスを持って殴り込みする“緋牡丹博徒”の迫力には到底およびません。ヤクザ映画に、当時ブームであったマカロニ・ウエスタンを持ち込んで、目先を変えただけのもので〜す。

 でも、こんな映画でも、私は好きなんですよォ。

 

 

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