『シマロン』
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1931年から戦争が始まる1941年の11年間に日本で公開された西部劇は次の通りです。 1931年 22本 1932年 17本 1933年 25本 1934年 22本 1935年 32本 1936年 39本 1937年 27本 1938年 26本 1939年 11本 1940年 4本 1941年 2本 これらの大半は、日本でもリチャード・アーレン、ケン・メイナード、ティム・マッコイ、ランドルフ・スコット、バック・ジョーンズ、チャールズ・スターレットなどのB級西部劇でした。戦争がなければ、1940年代前半にはシンギング・カウボーイが大量に輸入されていたかもしれませんね。 1930年代には、アメリカではB級西部劇が製作される一方で、ナショナリズム高揚の大作史劇も製作され、日本でも公開されています。 『ビッグ・トレイル』、『シマロン』、『新天地』、『平原児』、『大平原』などです。 |
前述した『ビッグ・トレイル』は、西部劇として空前の大がかりなロケーションで、サイレントの『幌馬車』のトーキー版を意図したものですが、大コケし、『幌馬車』的成功は『シマロン』によって果たされます。 『幌馬車』では新天地を目指す移住者の様子が描かれていましたが、『シマロン』では新しく町が生まれ発展していく過程が物語を通して描かれています。これは、アメリカ国民が共有するフロンティアスピリットというか、ロマンなんですね。 『シマロン』は、女流作家のエドナ・ファーバーのベストセラー小説を、ウェズリー・ラッグルス監督により映画化したもので、女性の目を通して描かれているところに特徴があります。 この作品はリチャード・ディックスのヤンシー一代記であるとともに、アイリーン・ダン演ずるセーブラの“女の一生”でもあるわけです。むしろ、真の主人公はアイリーン・ダンだと私は思っているんですよ。 彼女のような自立した女性に、アメリカのフロンティアスピリットを感じますね。亭主が留守でも女房がしっかりと家を守るという精神です。 『シマロン』は、1931年度のアカデミー作品賞を受賞していますが、『ビッグ・トレイル』の方が作品としては上と思っている私としては、このアカデミー賞受賞には政策的なものを感じますね。 |
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『シマロン』の後をうけて登場した大作西部劇が、“パラマウント三部作”と呼ばれている『平原児』(1937年)、『新天地』(1937年)、『大平原』(1939年)でした。 『平原児』は、娯楽巨編の第一人者セシル・B・デミルが『スコオマン』以来22年振りにプロデューサーと監督をかねた西部劇大作でした。西部劇の英雄ワイルド・ビル・ヒコックのカラミティー・ジェーンとの恋を中心に、二人の波乱にとんだ半生が描かれています。ワイルド・ビルがゲーリー・クーパー、ジェーンがジーン・アーサーという絶好の配役を得て、世界中で大ヒットしました。 ゲーリー・クーパーの西部劇を3本選ぶとしたら、私がまず最初に選出するのがこの『平原児』です。クーパーは颯爽としていて、あざやかな拳銃さばきを見せてくれますからね。クーパーの早射ちがあまりに速すぎて、トリック撮影としか見えないので、デミル監督がもっとゆっくり抜いてくれと注文をつけたという伝説が残っています。 ジーン・アーサーのカラミティー・ジェーンもカッコいいんですよ。特にムチさばきがね。ラストで、悪徳商人の部下に背中から射たれたビルをかき抱いて慟哭するジェーンを見て、ジーン・アーサーのファンになった人が当時大勢いたそうですよ。 |
『新天地』は、1840年から南北戦争後の半世紀にわたるウェルズ・ファーゴー運送会社の活動を中心に、アメリカにおける通運・郵便の側面を描いた雄大なスケールの開拓史劇で、ジョエル・マクリーが主演しています。 ジョエル・マクリーというと、戦後は監督にめぐまれず、大作西部劇にも出演していないため、ランドルフ・スコットと同じような格下の西部劇スターと見られていますが、戦前は後述する『大平原』や『西部の王者』(1944年→日本公開は戦後の1950年)といった大作に主演しており、ゲーリ・クーパーに次ぐ西部劇スターであったといっても過言ではありません。 『海外特派員』でカウボーイスター(最もアメリカ人らしい男)を探していたヒッチコックが、クーパーに出演を断られ、代わりに選んだのがジョエル・マクリーでした。戦前は、ジョン・ウェインの方がマクリーより格下だったんですよ。 |
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『大平原』は鉄道建設を描いた開拓ドラマでもあり、スペクタクル満載の見世物映画でもありました。 アメリカ大陸を東西に結ぶ横断鉄道は、西側はセントラル・パシフィック鉄道が、東側をユニオン・パシフィック鉄道が建設し、1869年5月10日ユタ州プリモントリー・ポイントで結合します。この映画はユニオン・パシフィック鉄道側から描いています。 列車強盗あり、インディアンの襲撃あり、無法者との決闘あり、そして恋と友情ありといった具合に、西部劇のエッセンスがテンコ盛りなんですよ。増淵健さんに云わせると、「際だった史観もなく、思いきり派手につくられたスペクタクル以外のなにものでもない」そうですが、西部劇映画史上、見逃すことができない作品であることに間違いありません。 前半に列車の窓から無法者(若き日のアンソニー・クイン)が、無抵抗のインディアンを射殺するシーンがありますが、ナチスがアメリカ人の残酷性の象徴として宣伝に使ったそうです。日本でも同じフィルムを、戦時中ニュース映画として上映していたと川本三郎さんが何かに書いていました。日本では1940年に公開されているのに、バカげたことをやっていたんですね。 背後から狙うクインを振り向きざま射ち倒した主人公のジェフ・バトラー(モデルはワイルド・ビル・ヒコックですね)が、「鏡は磨いておくものだ」と言ったセリフは、当時話題となっており、多くの人がこの映画を観ています。ただ、戦時中にニュース映画のネタバラシはできなかったでしょうが…… 上記の年度別公開本数でもわかるように、日米関係の悪化と共に、西部劇は減少していき、1941年の『ジェロニモ』を最後に、西部劇はスクリーンから姿を消します。しかし、戦後真っ先にリバイバル上映されたのが、『大平原』(1947年再映)だったんですよ。そういった意味では、戦前派西部劇ファンのみならず、戦後派西部劇ファンにも心に残る作品になるんでしょうね。 |
B級西部劇と大作西部劇の中間的作品として、1930年代の終美を飾ったのが『駅馬車』でした。『3悪人』(1926年)以来、西部劇から遠ざかっていたジョン・フォードが満を持しての演出で、米国のみならず日本でも大評判となりました。この作品でジョン・ウェインが復活し、西部劇スターとしての押しも押されもせぬ地位を確立したんですね。『駅馬車』については、「名作西部劇」でレビューしていますのでここでは触れませんが、戦後、日本で最初に公開された西部劇がジョン・ウェイン主演の『拳銃の町』だったのは、ウェインの人気が定着していたからでしょう。 J・フォードだけでなく、1930年代になって一流監督の西部劇への関心が高まり、印象に残る中間的西部劇が色々あります。キング・ビダーには、無法者ビリーと彼を追う保安官の友情を中心とした『ビリー・ザ・キッド』(1930年/ジョニー・マック・ブラウン、ウォレス・ビアリー主演)と、テキサス100年祭を記念して作られた『テキサス決死隊』(1936年/フレッド・マクマレイ主演)があり、ウィリアム・A・ウェルマンには、第ニの「シマロン」的作品『立ち上がる米国』(1932年/リチャード・ディックス主演)があります。 |
そして、ハワード・ホークスには、『奇傑パンチョ』(1934年)があります。この映画はジャック・コンウェイの監督作品とされていますが、半分以上はホークスが監督したものでした。 |
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戦争が始まる1941年に2本の西部劇が公開されていますが、その1本が『砂塵』(ジョージ・マーシャル監督)でした。イカサマ賭博で町民のカネをくいものにし、邪魔な保安官は射殺してのける、という強欲非道な酒場のボス(ブライアン・ドンレビー)がのさばる町に新任保安官補として現われたのが、当時純情青年の折り紙つきだったジェームズ・スチュアート。町の取締りができなくなった老保安官が、勇名をとどろかせた名保安官の息子ということで期待したのだが、平和主義の暴力ぎらい。そんなジミーを誘惑しようとする酒場の歌姫がマルレーネ・ディートリッヒ。酒場の客のカミさんとの、ものすごい女同士のくんずほぐれつの取っ組み合いをやってのける鉄火女を好演していました。ちなみにディートリッヒは西部劇初出演。 どこからみても弱そうなジミーが、敵の逆手をいって次第にボスの勢力を弱めるうちに、彼の人柄に惚れたディートリッヒは、恋心を抱くようになり、彼を助けようとしてボスの銃弾で命を落とします。グッド・バッド・ガールの役は、ディートリッヒに似合っていましたよ。 この作品は、1932年の『トム・ミックスの再起』のリメイクですが、ジェームズ・スチュアートとマルレーネ・ディートリッヒという意表をついた配役で効果をあげ、思いがけない快作となりました。この後も1951年に『フレンチー』(日本未公開)、1954年に『野郎!拳銃でこい』と2度リメイクされていますが、成功したとは云い難く、ジミーとディートリッヒがいて初めて成り立つ物語のようですね。 『砂塵』が5月に公開され、7月の『ジェロニモ』の公開を最後に、西部劇は日本のスクリーンから消えます。そして、再び西部劇がスクリーンに登場するのは、戦後のことになります。 |