加賀騒動

(1953年・東映)


(スタッフ)

監 督:佐伯清

原 作:村上元三

脚 本:橋本忍

撮 影:三木滋人

音 楽:高橋半

美 術:角井平吉

(キャスト)

大槻伝蔵  ……大友柳太朗

お貞    ……東恵美子

お浅    ……山田五十鈴

お民の方  ……利根はる恵

山村善右衛門……東野英治郎

前田吉徳  ……三島雅夫

本多安房  ……薄田研二

前田土佐  ……千田是也

横山大和  ……香川良介

奥村長左衛門……加藤嘉

 

(物 語)

加賀藩の大槻伝蔵は小禄であったが、火事場での藩お抱えの加賀鳶と旗本火消との衝突を見事に捌き、藩主・吉徳の面目をほどこす。吉徳は伝蔵を重用し、伝蔵もその期待に応えたため、江戸屋敷での彼の地位は急激にあがる。伝蔵は火事場で知合ったお貞と所帯を持つつもりだったが、藩主の名代として国許へ赴くことになる。お貞は伝蔵に会いたい思いで、かつての友だちで、今は吉徳の側室となっているお民の方の腰元になる。

国許では軽輩伝蔵の名代を怒った国家老の前田土佐の命で伝蔵は謹慎処分となる。伝蔵は吉徳直々の手で罪は解かれ、加増もあったが、武家社会に懐疑を抱く。この懐疑は、お貞が吉徳の目にとまって側室になったことから一転し、伝蔵を栄達のためならすべてを犠牲にして顧みぬエゴイストにした。

伝蔵は吉徳の相談役として家老職にまで昇るが、吉徳が病に倒れる。嫡男・宗辰の相続が決まり、大奥でのお貞の身を案じた伝蔵は、お浅に大奥の局になってくれるように頼む。伝蔵が軽輩だった頃、お浅と伝蔵は隣同士で、その時からずっと伝蔵を想い続けていたお浅は承諾する。やがて、吉徳が死に情勢が一変する。新藩主・宗辰により、伝蔵はお貞の子である庶嗣・勢之佐の襲跡を企てる御家乗っ取り犯として切腹を命じられるが、逆臣の名を拒んで斬り死にする。

 

(感 想)

“加賀騒動”といえば、藩主に取入って家老にまで出世した大槻伝蔵が、藩主の愛妾と不義密通してできた息子を加賀百万石の領主にするために、藩主を毒殺し、さらに嫡男まで毒殺しようと企てた講談ネタで有名ですが、この作品は史実に即して映画化したものです。

武家社会の不条理からくる悲劇を、大友柳太朗が実に素直な演技をしていて見応えのあるものになっていました。脇を固める新劇の役者の中に入って、大友はんの演技は決して見劣りしませんよ。自ら代表作の一つに上げているのが納得できます。

当初、大槻伝蔵の役は片岡千恵蔵が予定されていたらしいのですが、千恵蔵だと貫禄がありすぎて果たして成功したか。大友柳太朗で正解でしょうね。

内容的には、佐伯清の演出は少しハショリすぎたところがありますね。伝蔵がお貞への未練を断って出世していく過程が省略されているのと、その過程における老臣たちとの確執、それに伴う伝蔵追い落としの政敵の執念が描かれていないのでドラマとしての厚みが欠け、ラストの悲劇が今イチ伝わらないんですよ。もっとジックリ描きこんだら大傑作になったのに、惜しい!

 

参考として史実を記しておきます。

大槻伝蔵は元禄16年(1703年)、足軽の三男に生まれます。享保元年(1716年)、当時の世子・吉徳の御居間坊主に召しだされ、吉徳が享保8年5月に家督を継ぐと、享保11年7月に切米50俵の士分になります。その後波状的に知行を増やし、寛保3年(1743年)12月には老臣八家(本多、長、横山、前田2家、奥村2家、村井)に次ぐ3800石の上士に出世します。

その台頭の背景には、吉徳との男色関係の他に、硬直化した藩財政の立て直しを行い、経済官僚として藩政を実質的に動かしていたことがあります。

老臣八家は藩権力の中枢から遠ざけられ、次第に不満をつのらせます。その中で伝蔵排斥の急先鋒に立ったのが前田土佐守でした。前田土佐守は寛保3年7月から4度にわたり、伝蔵の専横を指摘した弾劾文を世子・宗辰に提出します。吉徳に相手にされないので、宗辰に頼ったのです。しかし逆に延享元年(1744年)7月、吉徳から御役御免となり、実質上年寄りの職務を奪われてしまいます。

このように、吉徳=伝蔵ラインと宗辰=門閥ラインの確執が続いている中で、延享2年6月に吉徳が没します。同年7月に宗辰が藩主に就任するや、伝蔵は「吉徳病中の処置よろしかざる」の理由で蟄居を命じられます。さらに同年12月、本多政昌邸に召喚され、奥村修古同席の上で越中五箇山に流刑を言い渡されます。そして寛延元年(1748年)9月12日、配流先にて伝蔵は自害します。享年46歳。

伝蔵が自害する直前の寛延元年6、7月の間に加賀藩の江戸屋敷で、藩主・重熙の毒殺未遂事件が起きます。重熙は宗辰の弟で、延享3年12月に宗辰が急死して藩主に就いていました。

犯人は中老の浅尾で、吉徳の側室の一人真如院の命令であることを白状します。真如院の長子・勢之佐は重熙のすぐ下の弟で、藩主に万一のことがあればその後を継げる立場にありました。真如院の所持品を調べると大槻伝蔵の書状が発見され、伝蔵と密通していたことを認めます。真如院は江戸芝神明の神主の娘で、伝蔵とは吉徳の側室になる前から顔見知りでした。真如院は終身禁固となり寛延2年2月、42歳で没します。勢之佐は幽閉され、宝暦9年(1759年)25歳で没します。浅尾は金沢へ移され、殺害されました。

この事件の発端は、重熙の毒殺未遂事件でしたが、真如院と伝蔵の不義事件として決着します。真相は不明ですが、何としても伝蔵を抹殺しようとした前田土佐守と、勢之佐が失脚すると継承権がある重靖の母・善良院(吉徳の側室の一人)一派が仕組んだ陰謀のような気がします。騒動後、加賀藩では重熙が急死し、後を継いだ重靖も若死にしたので、真如院と伝蔵の祟りだという噂が流れたそうですよ。

 

 

 

 

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