荒野の決闘

(1946年)


原題:My Darling Clementine

監督:ジョン・フォード

原作:スチュアート・N・レイク

潤色:サム・ヘルマン

脚色:ウィンストン・I・ミラー

撮影:ジョー・マクドナルド

音楽:アルフレッド・ニューマン

配役:ワイアット・アープ(ヘンリー・フォンダ)

    ドク・ホリデー(ヴィクター・マチュア)

    チワワ(リンダ・ダーネル)

    クレメンタイン(キャシー・ダウンズ)

    クラントン(ウォルター・ブレナン)

 

 『荒野の決闘』は、J・フォードが第二次世界大戦から復員して最初に撮った西部劇です。日本では1947年8月に公開されており、西部劇ファンだけでなく、多くの映画ファンに感動を与えました。

 『荒野の決闘』に出演した、ヘンリー・フォンダとヴィクター・マチュアは、この映画が復員第一回の作品でした。フォンダは海軍から、マチュアは沿岸警備隊からの帰還でした。

 アメリカ本国で『荒野の決闘』が上映された時、映画館には「Welcome Home MrHenry Fonda & MrVictor Mature」の垂れ幕が掲げられたそうです。

 ちなみにJ・フォードの復員後第一作は、『コレヒドール戦記』ですが、日本公開は『荒野の決闘』よりずっと遅れて1954年10月でした。

 私が『荒野の決闘』を初めて観たのは、1962年のリバイバルブームの時(同時期に『駅馬車』も観ている)で、『荒野の決闘』を見て思ったのは、『駅馬車』の人物設定と似ていることでした。

 『荒野の決闘』のドク・ホリデー(ヴィクター・マチュア)と、『駅馬車』のハットフィールドとは、西部に似つかわしくない名門の出身ですが、身を持ち崩して賭博師となっています。映画のラストでは、どちらも命を落とします。

 『荒野の決闘』の酒場女チワワ(リンダ・ダーネル)と淑女クレメタイン(キャシー・ダウンズ)は、『駅馬車』の酒場女ダラスと淑女ルシイに似ています。

 『荒野の決闘』ではチワワの手術、『駅馬車』ではルシイの出産において、氏素性・育った環境のちがいから反目していた二人の女性が、お互いの真情にふれて理解しあえるようになります。

 同様に上記のシーンで、医療設備が不十分な状況のもとで、ドク・ホリデーはチワワの手術を、『駅馬車』の酔いどれ医師ブーンはルシイの出産を、彼ら本来の仕事に全力を注いで行います。

 

 人物設定は似ているのですが、作品のスタイルは『駅馬車』と『荒野の決闘』では、全く異質ですね。『駅馬車』が「動」なら、『荒野の決闘』は「静」といえます。

 「静」を象徴するものとして、『荒野の決闘』では、派手なバック・ミュージックがないんですよ。クライマックスの決闘シーンですら音楽抜きなんですから。音楽で盛り上げて決闘につなげる(マカロニ・ウエスタンでは魅力の全て)という技法を無視しているといっていいでしょう。

 チワワが酒場で歌うシーンがありますが、あれは物語を構成するもので演出効果を狙ったものではありません。唯一、演出効果を狙って画面に音楽が流れるのは、ワイアット・アープ(ヘンリー・フォンダ)が末弟ジェームズの墓標にぬかずくシーンでのみ。静かなギターの音色とともに、雲が流れていく。その仰角ショットの美しいこと。

 『荒野の決闘』は、映像が音楽のかわりをしているんですね。

 

 逆光で影となっていたドクの表情が、医師免状が入った額のガラスに写るシーン。

 決闘前の老クラントン(ウォルター・ブレナン)の向こうに、朝日が昇るシーン。

 柵に残ったドクの白いハンカチ。

 荒野につづく一本道を去って行くワイアット・アープと、それを見送るクレメンタイン、その向こうにモニュメント・バレーの岩山。どれも、絵のような美しさでした。

 シネスコでは表現できないスタンダードサイズの魅力を最大限に引出した映像です。

 それと余談になりますが、『荒野の決闘』を撮影したモニュメント・バレー一帯には、西部劇によく出てくる大柱のサグワーロ・サボテンは生えてないんですよ。このサボテンは、『荒野の決闘』のどのシーンにも印象的なアクセントになっていますが、実はJ・フォードと美術担当が置いたものなのです。

 

 『荒野の決闘』の原作は、スチュアート・N・レイクの「ワイアット・アープ フロンティア・マーシャル」で、これは三度目の映画化でした。最初の映画化は、1934年の『国境守備隊』(監督:ルー・サイラー)、二度目が1939年の『フロンティア・マーシャル』(日本未公開)です。

 『荒野の決闘』は、シナリオ段階で原作を徹底的に書き改めていますが、前二作も、配役リストで推理するだけですが、原作とはかなり異なるようです。

 『国境守備隊』では、ワイアット・アープがマイケル・ワイアットに、ドク・ホリデーがドク・ワレンとなっています。クラントン一家の名前はなく、それらしいのがハイラム・メルトンでした。

 『フロンティア・マーシャル』も、ワイアットとドクはその通りなのですが、クラントンの名は見当たりません。アープとクラントンの伝説的な対決はないようです。

 

 J・フォードは、『荒野の決闘』を戦後最初の西部劇の題材として、なぜ選んだのでしょうか。私は、そこにアメリカの当時の社会背景を感じます。

 床屋に行って、ちょっぴり香水をつけ、事務所の前の軒下に椅子を出して、のどけさを味わっているアープの姿は、第二次世界大戦が終わり、平和を満喫している当時のアメリカそのものです。

 しかし、酒場で銃をふりまわす酔っ払いのインディアン(太平洋戦争における日本のイメージ)のような秩序の破壊者が出てくれば、銃をとって治安を回復する保安官であるところが、まさにアメリカです。

 世界大戦に勝利し、世界の指導者としての役割を担う立場となったアメリカが、世界へ向けたメッセージですね。

 

 

 

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