私的マカロニ興亡史


マカロニブームの残滓

 70年代になると、マカロニブームは完全に去り、ジャンルの魅力で客を呼ぶことはできなくなりました。

 配給会社が、じっくり作品を選定すれば、まだまだ面白いものはあったと思いますが(なにしろ、イタリア本国では500本以上のマカロニが製作されたのだから)、ブーム再燃は不可能だったでしょう。

 一旦離れた客を呼び戻すには、今まで以上のものを提供しなければなりませんからね。

 以後、映画館で観たマカロニというと、『五人の軍隊』、『地獄の一匹狼』、『西部悪人伝』、『皆殺しのジャンゴ』、『スレッジ』、『さらばバルデス』、『荒野のドラゴン』だけとなります。

 『五人の軍隊』は丹波哲郎が出演していたから、『地獄の一匹狼』はウエイド・プレストンが出演していたから、『西部悪人伝』はリー・ヴァン・クリーフの持っている銃に興味をおぼえたから、『皆殺しのジャンゴ』はテレンス・ヒルがフランコ・ネロに似ていたから、『荒野のドラゴン』はカンフー映画と思ったから、映画館に入っただけで、マカロニそのものに期待して入ったわけではありません。

 『スレッジ』と『さらばバルデス』は、マカロニでなく本場西部劇だと当時思っていました。

 70年代のマカロニをテレビやビデオで見た範囲で云いますと、明らかに質的変化があります。それは、残酷性が希薄になった、コメディタッチが多くなった、ヘンリー・フォンダやユル・ブリンナーといったハリウッドの有名スターが出演するようになった、ことです。それだけアメリカ西部劇に近づいたともいえます。

 それと、マカロニ独自の方向性として『夕陽のギャングたち』と『ガンマン大連合』というメキシコ革命劇があります。

 この二本は、いみじくもセルジオ・レオーネとセルジオ・コルブッチの後期代表作となっています。そして、マカロニには馴染めない西部劇ファン層にも評判がいいのです。
 私の友人にもそんなひとりがいて、『続・荒野の用心棒』はダメだが、『夕陽のギャングたち』と『ガンマン大連合』だけは気に入っていました。

 アメリカ西部劇だってメキシコ革命劇はよその国の話だから、その意味ではマカロニも同じ土俵で比較できるわけで、むしろ人種的にはマカロニの方がむいているかもしれません。それに、メキシコの風土の中では、アメリカ西部を舞台にするより違和感がなくなるんですね。ただ、その分“いかがわしさ”が薄れてしまい、マカロニらしさがなくなるのですが……

 私は、『夕陽のギャングたち』と『ガンマン大連合』を、後年ビデオで観たのですが、同じメキシコ革命を扱っていても、映画館で観た『群盗荒野を裂く』の方がインパクトは強かったですねェ。

 

アメリカ西部劇の状況

 一方、アメリカ西部劇は、70年代になるとオーソドックスな作品が少なくなって、多様化していきます。

 当然、マカロニに似た作品も多く出てきました。クリーフが主演した『鷲と鷹』や『エル・コンドル』を、『風の無法者』と並べて見せて、これはマカロニだよと解説したら、少なからぬ人がマカロニと信ずるのではないでしょうか。

 『シノーラ』、『ギャンブラー』、『さらば荒野』、『ソルジャー・ブルー』などは、完全にマカロニに影響を受けていますし、『荒野のアニマル』、『西部番外地』、『マスター・ガンファイター』は、まさにマカロニでした。

 

 『荒野のアニマル』は、駅馬車強盗の5人にハダカにされてクイにしばられ暴行された女性教師(ミシェール・ケーリー)が、インディアン(ヘンリー・シルヴァだった)に助けられる。銃を彼から習った彼女は一人ひとり復讐していき、最後にボスを自分がされたのと同じようにハダカにしてクイにしばり、おまけに男のアレをちょん切っちゃう、という凄い内容。

 さらに、愛しあったシルヴァが、追跡隊に犯人と間違えられて(強暴そうな顔をしているからね)射殺され、彼女は発狂。ああ、悲惨な結末。

 女を裸にしてクイに縛るのは、マカロニでは見なれた光景でしたが、本場の西部劇に出てくるとは思いませんでした。

 題名と内容からエログロ映画だと思われるでしょうが、これが意外とマトモな作品なんですよ。アメリカの正義を否定するだけの道具として、騎兵隊によるインディアン虐殺シーン描いた『ソルジャー・ブルー』より、この映画の方が、強烈ですね。なにしろ、まともなのはインデイアンで、まともな人間が問答無用とばかりに殺されるんですから。

 アメリカの薄っぺらな正義感の、痛烈な批判になっていました。だけど、この映画、意外と知られていないんだよなァ。

 

 『西部番外地』は、復讐のために南軍の刑務所から脱獄した男(デビッド・ジャンセン)が、新婚旅行中の北軍大佐(デビッド・キャラダイン)をシャンペンのことから決闘で殺してしまいます。夫を殺された新妻(ジーン・セバーグ)は復讐を誓いジャンセンに賞金をかけ、自らも酒場女となってジャンセンを追いかけます。

 復讐の相手(リー・J・コップ)を発見して殺したジャンセンを賭博場で見つけた彼女は、通りすがりの女としてジャンセンに接近し、スキをみて殺そうとしますが、逆に乱闘のすえ犯され、何やかやあって彼を好きになります。二人は牧場を開く理想の土地へ向かうことになりますが、行く手には賞金目当てのならず者たちが待ちかまえていて……

 TVの人気番組『逃亡者』のデビッド・ジャンセンは、マカロニ主人公と同じような髭面。相手役は、アメリカ映画よりフランス映画が似合うジーン・セバーグ。

 この二人のキャラクターが陰性で執念深いとあっては、マカロニの世界です。おまけにラストでジャンセンは殺されるという、陰惨な結末ですからね。

 『マスター・ガンファイター』は、チャンバラ映画『御用金』を西部劇化したもの。映画館で観た時は、その発想からしてマカロニだと思っていました。ラストの決闘が、拳銃でなくチャンバラですからね。チャンバラ映画から多くのアイデアを得たマカロニが到達した作品といった感じでね。

 

 西部劇が消滅した原因のひとつに、マカロニの席捲を挙げる人がいますが、私は逆にマカロニが西部劇の寿命を延ばしたと考えています。

 アメリカ西部劇は、TV西部劇のブームが終わった時に消滅の危機に瀕していたんですよ。大作西部劇はあっても、ジャンルの底辺を形成するB級西部劇は消滅に近かったのです。しかし、マカロニがブームになるや、上記のようなマカロニテイストのB級西部劇が、短期間ではあるが復活したと思えるんです。そして、従来の勧善懲悪のステロタイプの西部劇から、様々な顔を持つ新しい西部劇が誕生しました。

 アメリカ西部劇の中心的存在となるクリント・イーストウッドは、マカロニの存在なくしてはありえなかったし、サム・ペキンパーもマカロニに影響を受けています。結局、マカロニはアメリカ西部劇の中に吸収され、西部劇そのものが消滅するとともに、マカロニも消滅したと私は考えています。

(2000年6月)

END

 

 

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