頸のばし天翔けりゆくかりがねも地につながるる空を飛ぶのみ
榛 名 貢
『非言非黙』
「かりがね」は雁、がんのこと。十月頃北方から飛来し、春三月に帰ってゆ
く。列を組んで渡っていく姿は〈かりがねの棹のやうやく真一文字 鷹羽狩
行〉と俳句にも詠まれている。カモ科の鳥は「頸のばし」と初句にあるよう
にしなやかな頸をのばしながら翔ぶ姿が美しく印象的である。
「天翔ける」は山上億良の晩年の長歌「好去好来の歌」の中に「…ひさかた
の 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ…」の用例がある。鳥・神・人の
霊魂などが大空を飛び走る意である。憶良にとって、鳥は自由の象徴として
しばしば歌われた。鳥になって自由に「天翔り」たいと憶良は願い空しく地
上に戻されるのである。
さて、一首であるが「地につながるる」が核である。雁行を捉えているの
かもしれないが私は群から離れて翔ぶ一羽と読んだ。天翔ける孤雁の影が地
にうつっている。空を飛ぶ鳥の影に入った経験は誰にもあるだろう。作者も
敬虔な思いで鳥影の中に一瞬にしろ入ったのである。
「地につながるる」と影を天から地へとつながっていると立体的に表現。作
者の感覚の新しさを改めて思う。空間を立体的に把握し天はいよいよ広まり
深々と生動する。かりがねと見ている人の目は一直線につながっており鋭く
すぐれた直覚の生命観である。かりがねと人間はつながりながら、季節・時
間・空間を動かしているのである。(小松久美江)
つる薔薇 3号 目次 非言非黙 …………………………… 榛名 貢 … 2 斎藤茂吉の歌一首 ………………… 榛名 貢 … 3 特別寄稿 …………………………… 山下 富美 … 7 河合 緋紗 … 9 大森 悦子 … 11 歌論釈迢空の情調論 ……………… 榛名 貢 … 13 会員作品(一) ……… 林口 僥子 山本大二郎 … 17 杉山 和子 大村きぬ代 中村 晶子 野崎志満雄 小松久美江 一首鑑賞 …………… 清水 正人 林口 僥子 … 31 中村 晶子 山本大二郎 出井 操 野崎志満雄 大村きぬ代 原田美甫子 中嶋美卉子 田村 昌子 杉山 和子 丹羽 智子 小松久美江 榛名 貢 『玉葉和歌集』読み人しらず …… 山本大二郎 … 38 会員作品(二) ……… 田村 昌子 丹羽 智子 … 41 清水 正人 出井 操 平尾可津代 中嶋美卉子 原田美甫子 さんぽ道 …………………………… 丹羽 智子 … 55 みそひとものがたり壱 …………… 清水 正人 … 57 折口信夫と春洋の墓碑を訪ねて … 林口 僥子 … 59 歌集鑑賞 …………………………… 小松久美江 … 61 編集後記 ………………………………………………… 66 会員名簿 ………………………………………………… 67
榛名貢
つゆぐもり葉陰あかるし葛をゐてつやつやとゆるるさみどりの蔓 まばら松深く曲れる下杖に砂風しろくたまるひそけさ 砂の上にしげれる葛の葉をふまず浮足に近づくふたりの墓に 葛の繁りいまだ花なき七月の蔓ゆらゆらと砂風を避く 花のごとき気がかりならねむらさきの影ひく午後のひとの足跡
赤光の歌一首
榛名 貢
蜩(ひぐらし)のかなかなかなと鳴きゆけば吾(われ)のこころのほそりたりけれ 赤光「細り身」
蜩蝉(かなかな)のまぢかくに鳴くあかつきを衰へはててひとり臥(ふ)し居り 改選
赤光初版は大正二年一〇月、改選赤光は大正一〇年一
一月、ともに東雲堂書店から刊行されている。改選「赤
光」跋に、『赤光の歌は既にいろいろ書物に引用された
けれども今後「赤光」を論ぜられる場合には改選「赤光」
の方に拠つてもらひたいと思ふ。しかし直した歌が皆気
に入つてゐるといふのではない。不満の気持は依然とし
てあるけれども、さう濫りには直すことをしない。』と
書かれている。しかしながら、世人はなかなか茂吉の書
くとおりにはならず、好んで初版赤光がとりあげられて
いるようである。
明治四十二年の茂吉年譜。
斎藤紀一再度の洋行に出発す。夏熱病を病み、卒業試問
を延期し、日本赤十字社病院分病室に入院す。この年、
『折にふれて』『細り身』『分病室』等の歌あり。掘内
卓三、中村憲吉、土屋文明の諸君と相識る。
細り身(改選)(三四首中)
重かりし熱の病のかくのごと癒えにけるかとかひな撫(さす)るも
蜩蝉(かなかな)のまぢかくに鳴くあかつきを衰へはててひとり臥(ふ)し居り
あなうま粥(かゆ)強飯(かたいひ)を食(を)すなべに細りし息(いき)の太(ふと)りゆくかも
おとろへて寝床の上にものおもふ悲しきかなや蝿の飛ぶさへ
おとろへし胸に真手(まで)おき寂しめる我に聞ゆる蜩(ひぐらし)のこゑ
熱落ちて衰へ出で来このごろの日八日夜八夜(ひやかよやよ)は現(うつ)しからなく
日を継ぎて現身(うつしみ)さぶれ蝉の声もいよよ清(すが)しくなりにけるかな
おのが身しいとほしければかほそ身をあはれがりつつ飯(いひ)食(を)しにけり
この二首目が冒頭の歌である。ここでは改作前の方を
読んでみたい。
蜩は日本特産のセミ科の昆虫、羽の先まで全長四〜五
センチメートル、羽は透明、体は赤褐色または栗色で、
緑と黒の斑紋がある。早朝、夕方および曇天時にカナカ
ナカナと高い金属音をたてて鳴く。成虫は六月下旬から
八月にかけて発生。古歌も多い。
夕されば比具良之来鳴く生駒山越えてそ吾が来る妹が目を欲り 万葉―一五・三五八九
夕立の雲もとまらぬ夏の日の傾く山にひぐらしの声 新古今―二六八 式子内親王
夕づく日射すや庵の柴の戸に寂しくもあるかひぐらしの声 同二六九 前大納言忠良
ひぐらしの鳴く夕暮ぞ憂かりけるいつもつきせぬ思ひなれども 同三六九 藤原長能
来めやとは思ふものからひぐらしの鳴く夕暮は立ち待たれつつ 古今―七七二 よみ人しらず
さて、《蜩のかなかなかなと鳴きゆけば吾のこころの
ほそりたりけれ》という歌へ戻ろう。上句は現実の蜩に
ついての「かなかなかな」という擬音による聴覚的感覚
的描写、下句は「吾の心」境を表白している。「鳴きゆ
けば」は、それが機縁となってということである。かな
かなかなという鳴きゆく声を媒介に、そう捉えたことと、
そう感じるようになっている状態は、考えればもちろん
同時である。あるいは歌が成ると同時に心の(心と同時
に身の)「ほそり」が実感として定まったのである。つ
まり、蜩が「かなかなかな」と「鳴きゆけば」――鳴き
つづければ――鳴きほそれば――同時に、吾の身も心も
病み細っているのを認めざるをえないのである。これを
客観的相関物といってもいいし、隠喩的発見といっても
いいだろう。第五句の「ほそりたりけれ」はいわゆる已
然形止めである。言い放つ表現である。「こそ、けれ」
の係結びが「最も主観性の濃い強調表現であり、論理的
にも最高度の表現価値を有する」というが、それに次ぐ
ぐらいの詠嘆性が已然形止めにはあるのだ。
さきに引用したように、古歌がおおく夕暮のひぐらし
であるのに、これは「あかつき」の声であることが改選
の改作によって判明した。それならば、「かなかなかな
と」聞こえなければならない作者の夜の「こころ」の様
相も浮かんでくる。
改選では上の句も下の句も記述的、説明的概念的報告
となり、「衰へはてて」の内実をすっかり読者の想像(創
造)に委ねてしまう。つまり、「あかつき」に病床「ま
ぢかくに」鳴く蜩蝉(かなかな)ということだけからでは、
たとい、ひぐらし「蜩」をかなかなとルビを負う「蜩蝉」
に替えても、「かなかなかなと鳴きゆけば」という感覚
喚起には遠く概念を隔てている。
それにしてもこの声調は、新古今、古今の歌とくらべ
てみてさえ、力よわく心ぼそい感じであるのは、生死の
境を象徴する「かほそ身」の衰弱をそのまま具体化して
いるに相違ない。
「歌の推敲、改作」という文が『童馬漫語』にある。改
選と読みあわせると、いろいろと考えが拡がってくる。
「直すのがいいか直さないのがいいか。そんな事は予は
問題にしない。要するにどうでもいい。直さないで自己
の『いのち』を表はし得るものは直す必要はない。直さ
ずに自己の『いのち』を表はし得ないものは直さずに居
られぬ。直す直さぬなどの問題は予は眼中に置かない。
予が嘗て自分の歌を直すといふ事を云つたに就いて、或
る人は冷笑したと聞いた。或る人は作歌の態度をそんな
処に置いて考へて居るものと見える。予等はもうそんな
中途に物ぐさ食つて居られないのだ。短歌などの場合に
は全体の言葉すらもぶち破つて直す事が出来る。幾重の
殻を破り、磨きに磨いてほんたうの『いのち』の表現に
達する事が出来る。直すとは其境に到達せんとする意力
のあらはれである」。
塚本邦雄『赤光百首』では、「鳴きゆけば」を「蜩は
鳴き、鳴き移る」と解している。その意見を傾聴しよう。
この歌の病める姿は、それなりに風情がある。頼りな
げな、茂吉にはあるまじい女歌めいた「しをり」さへ感
じさせる。ただ一つ「鳴きゆけば」の「ゆく」は難と言
はねばなるまい。初心者のよく犯す過失の一つで、本人
は、大した咎とも思はず、調子を整へるためにさう歌ひ
流してしまふ。「雁は夜空を『鳴きゆけば』」風に、空
間を移動し、行為が進行してゆく様でない場合は使ふべ
きではない。
危く病に打ち克つて人心のついたよろこびと、耐へに
耐へたみづからへの慈しみが、かやうな調べを作り上げ
てゆくのだらう。さして丈高い歌柄でもなく、古事記寫
しの古語の駆使も、必ずしも効果を發してゐるとは言ひ
がたいが、どの歌にも不器用な、初初しい嗟嘆が満ちて
ゐて共感を呼ぶ。赤光の到る處で見受ける自愛の歌が、
拙い詠み口ではあるが、既にこにに「おのが身し愛しけ
ればかほそ身をあはれがりつつ飲(「飲」に傍線と「ママ」)食しにけり」と現れる
のを見ると、作者の自己愛、自己憐憫が相當根深いもの
であることを知らされる。
「かなかなかな」とは、けだしうつつの蝉の聲ではなく
て、作者が心中に發した「求憐譜」の一節ではなかつた
らうか。
問題の核心は「鳴きゆけば」の「ゆけば」にある。
ゆく(日本国語大辞典)補助動詞として用いる。動詞
の連用形、またはそれに助詞「て(で)」を添えた形に
付いて、動作・状態の枢続、進行を表す。☆万葉―一七・
四〇〇三「万代に言ひ継ぎ由可む川し絶えずは〈大伴池
主〉」。☆伊勢物語―六「やうやう夜もあけゆくに」。
ゆく(字訓)目的のところに向かって進行する。歳月
などが過ぎてゆく意。
「ゆく」を時間的に、現在の動作・状態の継続進行の意
ととれば、「蜩は鳴き、鳴き移る」と空間の移動を考え
ないでもすむはずである。
さきに、かなかなかなと「鳴きゆけば」を「鳴きつづ
けば」から「鳴きほそれば」と、心のほそりへと同化し
たのには、もちろん、鳴き移る蜩の空間の移動は考えて
はいない。
言語は、もともと、内外の境があいまいであることは、
たとえば、E・カシーラーなども、つとに指摘している
ことだが、ここでは、B・スネルの『言語・詩学・哲学』
を紹介してみよう。スネルは人間の言語活動を〈話し手
の表出〉〈聞き手への作用〉〈事熊の描写〉という構造
として捉え、単なる表現の手段たる「ことば」が高次の
思考を可能にする言語にまで発展するということを主題
としている。読むことにも関連してくるだろう。
気分を表す形容詞と、事物の外面的性質を描写する形
容詞とは、かならずしも截然と分離されるわけではない。
というのは、事物の性質は、われわれの感覚、われわれ
の感覚的知覚に作用を与え、この知覚に特定の印象を呼
びおこし、事物の表出として把握されるからである。ま
た逆に、われわれはわれわれの《容態》を必然的に事物
のなかへ押し入れて見る――それどころか、われわれは、
世界がわれわれに与える印象によって、はじめて真にわ
れわれの気分を意識するからである。したがって、「黄
色い」とか「高い」のような、あきらかに客観的なもの
の圏内にある形容詞と、反対に、「うれしい」、「悲しい」
等々のような、内面的経験にかかわっている別な形容詞
があるにもかかわらず、主観と客観の間で、一種独特の
宙ぶらりんの状態があるということは、形容詞の特色を
示すものである。しかし、たとえば、ある対象が私に温
かく「思われる」かどうかは、その対象が温度計で測定
可能な、いかなる温度をもっているかによるだけではな
い。私が「温かい」、もしくは「冷たい」と感じるかど
うかは、私がいぜんに冷たいもの、もしくは温かいもの
を掴んだことがあるか等々、という私の体験や判定にも
よっている。
山下富美
ほの青く若きすすきが揺れてをり風の言葉にふくらむポケット 藍青の空をただよふ雲の泡いつしか寄り合ひ人型をなす いづこまで流れてゆくかちぎれ雲さすらひごころをいざなひて 秋 揺れやまぬこころの涯にふはり来て黒蝶ひとつ呪文のごと舞ふ 宇宙はろか幽けき星に佇つわれの脚を飾りて露草そよぐ かぐはしき愁訴といはむ耳ぞこまで蒼く沁み入るかなかなのこゑ 古きレコードの歌ふトロイカ速き杳きロシアの刻みし影のさざなみ 葱を刻みキャベツを刻みキッチンにわたしを細かくきざんでゐる時 いつの日も遙けき過去へ向くさまに壁の絵のバラ扁平に咲く 誰も居ぬ壁に打ち掛くるわが假面のどかに垂れて黄のバラ笑ふ ふはふはと物を忘れて老いすこやか秋は祈りの火の彼岸花 夢は力と信じ生きむか新秋の髪亜麻いろに染め上げてゆく てのひらに整髪ムース盛り上げて今日を占ふ朝は新涼
河合緋紗
アルバムに風が通れば彼岸の空に父の帽子のごとき白き雲 彼岸花うきうきと赤しわけゆきて念仏踊りに加はらむかな 枝たわめ垂れさがりたる柘榴の実爪先立ちに中指が触る すすきの穂ゆらりと祈りのかたちせり捨聖ひとり立つ寺の庭 蒼空に柘榴の裂けてあいあいと心放つごときかがやき 卓の上にあけびがひとつ照る面に映りて翳の果がもうひとつ 墓地のからす影また黒しわたくしの影よりわづか濃き黒なり こころ運ぶさまに歩める杖の音墓参をすると階のぼり来る 姑の肩の翼の位置をさぐりあて大判トクホンひやりと貼りぬ つば広の夏の帽子未だ見つからぬにいち早く藤の垂るる紫 上の句のどこかゆらぐか藤の花の一つ一つのかがよふ言葉 てのひらを水に浸せばひやひやと胸ゆれ始む右にかしぎて ちりちりとベーコン縮みゆく今朝は決意強ふるか胃がきゆんとせり
大森悦子
「この赤い実は何ですか」「鈴薔薇の実です」或る日の初めの会話 月に向く言葉のごとく皿の上ふた粒みつぶひよこ豆ころぶ 盛られたる厚切パンをヴェトナムの籠より取れば籠の傾く 種明かしなんてないんだ采の日のトマトいつでも冷製である 窓枠に空は軋めり唇をやさしく濡らすきのこカプチーノ サーモンの皮をフォークに巻きつけて大雨洪水情報を聞く 夏帽子深く頷く腕のなかもっと素直になればよかった ひったりと洋酒に漬けて添えられた二十世紀の甘きひとひら 暁のカシスのムース切り分けて徐々にあらわとなる白磁皿 貝殻のモビール納めた箱はもう手の届かない高さに置こう ビネガーを垂らして和えたささがきの牛蒡サラダのような夕暮 しずかなる対話うつくしゴビの風やさしく吹けばゴビの星降る 松笠をふたつ並べて触れ合った肩そのままに秋の日は過ぐ
榛名 貢
迢空の芸術はヨーロッパの芸術論からみても正にロ
マン主義のすぐれた芸術であって、その実の要素と
しては「ぶきみさ」と「恐怖」と「奇異なるもの」
と「グロテスク」とが重大なものであった。
(西脇順三郎)
今年平成十二年、京都の水甕全国大会の帰りに、『つる
ばら』の同人と能登にまわった。羽咋の能登一の宮気多
神社からすこし千里浜によった砂丘の松林のなかには折
口信夫・春洋の墓がある。春洋は気多神社の社家藤井家
の出であった。墓碑銘は迢空白身の手になるものである。
長谷川政春の折口信夫年譜には、昭和二十三年、一九
四八年、六十一歳、九月、能登一ノ宮で春洋の墓石を選
び、帰宅後、墓碑銘を選び送る、という記事とともに墓
碑銘が記されている。翌昭和二十四年には、「七月七日、
能登一ノ宮に春洋と自身の墓碑建立」という記事がある
が、別の岡野弘彦の文には「七月六日に、鈴木金太郎・
伊馬春部・池田弥三郎、春洋の兄藤井巽らとともに墓碑
の除幕式を行った」とある。春洋と水甕の主幹故熊谷武
至は国学院大学の学部国文学科の同期生であるが、こう
いう問題を重視した武至ならばここでどうするだろうか。
昭和二十八年九月三日折口信夫没、百日祭後十二月十
三日遺骨を埋葬、父子の墓はここにおいて完成した。長
谷川の年譜では「養嗣子春洋と共に」遺骨を埋葬する、
としるしている。また、大阪の木津願泉寺の折口家累代
之墓に分骨埋葬された。
もつとも苦しき
たゝかひに
最くるしみ死にたる
むかしの陸軍中尉
折口春洋
ならびにその
父 信夫
の墓
折口信夫釈迢空、明治二〇年(一八八七年)二月一一
日生。明治四三年(一九一〇年)第一八期国学院大学部
国文科卒業。卒業生は折口信夫と鎌田正憲の二名。外に
大学部地史科卒業生三名。師範部国語漢文科の卒業生二
五名。師範部歴史地理科三名。教習科九三名。
ちなみに斎藤茂吉は同じ年に東京帝国大学医科大学医
学科卒業。五歳年長で同じ昭和二八年の二月二五日没。
武田祐吉は第二一期大正二年大学部国文科卒業生七名。
松田常憲は大正七年(一九一八)第二六期師範部国語
漢文科卒業。
平井乙麿は大正一三年(一九二四)第三三期高等師範
科卒業。
熊谷武至、藤井春洋、服部直人は昭和五年(一九三〇)
第三八期学部国文学科卒業。伊馬春部は次期卒業。
『国歌大観』の松下大三郎は明治三一年(一八九八)第
六期学部別なく、全卒業生三一名。明治二六年(一八九
三)第一期生三六名のなかには三矢重松がいる。
岡野弘彦は第五六期昭和二三年(一九四八)卒業。
(以上国学院大学創立八十年記念『院友名簿』より抄録)
折口信夫の卒業論文は『言語情調論』である。一端を
覗いてみよう。所論は「言語の間接性」から始まる。
「いぬといふ言語によつて、現在犬を見て居る、その写
象を得ることは望まれぬ。単にある予約のうへに立つて
抽象的な存在の概念を捉へるにすぎないのである。進ん
でくるし・うれしの類の語に到つては、この数個の声音
の配列を感受したところで、現実的の苦楽を同程度に享
受する訣にはゆかぬ。ただ、これらの感情批判の煎じつ
めた言語によつて現実を遊離した独立存在を認識するば
かりで、畢竟、その言語の連続の裏に沈んで居る背景的
事実を、経験から来る実感の連合によつて浮き上らす類
化作用がなかつたなら、到底仮感以上に出ることは出来
ないはずのものである。言語当体の正当な到着点は仮象
である。仮象より来る仮感である。観念連合によつて起
る一切の実感は副産物である、経験の投影である。従つ
て実感であるとはいふものの、それから写象を帰納する
ことは不可能である。のみならず経験が基礎となつて居
る以上、個人的差異あるべきは勿論である」。
こうして言語表象の対境との関係はすこぶる一致を欠
いて居り、実感との間には尠からざる距離があるという
のである。つまり、言葉に現したものと、現わされる前
の事実、対象とは一致するには距離がありすぎるのであ
る。距離が縮まらないということが問題になっている。
「普遍性を希ふより起つた予約といふことの、差別的の
事象個人の主観に対しては距離あるものであると前に述
べたが、距離あるといふことは、直接でない間接的の表
示をなすものであるといふことが出来る」。
「然らば言語がその根本においても道筋においても、常
に纏綿せられて居る間接性を如何にして取り去つて直接
性を帯びしめることが出来るか、またさういふ努力が言
語のうへに行はれた痕が見えるかどうか、言語情調論は
まづ直観的言語の可能性ならびに存在の有無よりはじめ
なければならぬ」。
現在の言語の考え方からいっても間接性は言語の本質
である。間接性を排除し、その直接性を回復しようとい
う努力。まず仮象性を脱しようとする。仮象性を脱し実
感の不足を補うためには直観性と普遍性とを付与しなけ
ればならぬ、という要求から、類化作用、表号作用、音
覚情調が区別されている。
類化作用は、経験によって組み立てられた言語概念の
一部の観念ないし形式の断片を聞いて、直にその言語概
念を感受できる作用で、概念の類化による。
表号作用も、観念連合によって、言語がその仮象を浮
かべる必要のない場合。鳥がなくといっても、仮象界に
鳥が喉をふるっている状態を浮かべるにおよばぬように
なっている。
音覚情調 もし言語が意味だけを述べてこの音覚情調
を有しないものとすれば、人は話し手の意志を知ること
は出来ても感情を感受することはおぼつかない。言語文
章の意味はわかっても、内容の全部を納得することは出
来ない。
「音覚情調の根底をなすものは、単音の音質である。こ
れに音量、音調等が様々の関係に結びついたものゝ音列
にあらはれた合成音を知覚しておこす情調である」。
「一音に音質音調音量などから来る特別の情調があり、
一句一文にはその他に音脚音の休止などの影響があつて、
特殊の情調を喚起する」。
「言語としての意味の意識のない場合にも、これが感情
傾向を直覚することは困難ではない」。
「日常の経験に照しても、にはかに聴感を刺激せられた
際或は物をへだてゝ声音を聞いた時に、直にその声の主
の感情を悟ることの出来るのは、この作用による」。
「斯くの如く感性より入る作用であるから、仮象を脱し
て直覚性を言語に与へることの多いのはいふまでもない」。
言語表象に直接性を与えようと努力が行われ、その結
果、言語の成立ちが成立ちであるから、直接表象をする
ことは絶対に不可能だが、ある程度はその努力は無益で
なかったという。そしてこれを表象の対境、事実と一致
させようとする方便の側から、連想言語と象徴言語とに
分類している。二者はその性質から、写象とは縁遠いが、
その伴う感応は実感であるという。そして仮感と遠ざか
って居る点においてその目的は遂げられていると評価す
る。連想言語と象徴言語は、その意識に上る方面が知性
を主とするか、感性を主とするかという差別である。こ
こでは象徴言語についての語り口を少し見ておこう。
「言語は一体が描写的である。連想言語においても業(すで)に
この描写性の極端に発展して更に一括路を開いたのであ
るが、ここに直覚性を付与するために他の方面に展開し
たものが見える。描写性を脱却せざるかぎりは純然たる
直覚性を有するにいたりがたい。ところが人間の観念の
表出運動には言語の上において二方面がある。すなはち
描写に対して気分を表象する作用である。描写の意味の
報告に努めるに対して、これは事実は如何にともあれ、
感情の傾向を伝ふるが目的であるから、全然直感的であ
る。気分をあらはすにはまづ、その形式より、ある情調
をひきおこすことが第一の要件である。言語の場合には
音覚情調がそれにあたる」。
「ぼうどれいるの神秘の門を開くべき唯一の鍵は色・香・
匂であるというたのはともかくも、言語の描写性以外に
気分をあらはす音覚情調のあることの漠然たる意識に到
達して居るやうである。この象徴主義または情調芸術に
対して印象主義のある如く、緊縮した印象の報告なる連
想言語に対して、意味よりもむしろ感情傾向を語る象徴
言語の必要もある訣である」。
「言語の内容ばかりから考へて見ても、包括的なること
を理想とするものも必要である。大抵の言語表象は、概
念の中の個々の具象的観念の表象で極めて差別的なもの
である。知性に訴ふるにはそれも必要ではあらうが、感
性からはひる言語の必要がある以上は、尠くとも一概念
の中のすべての観念を包括して居る言語の存在すべき理
由がある。包括はすなはち一切の網羅である。絶対にい
たらむとする努力である。絶対に達すれば何の洩るゝも
のがあらうぞ。人間の思想感情はたとひ相対的であらう
とも、これを表象する言語当体は対境すなはち事実に対
して絶対の表象でなければならぬ」。
ボードレールへの言及はそのソネット「万物照応」で
ある。「自然は一大伽藍であり、……/象徴の森、奥深
くさまよひ入れば、……/夜のひろがり、光のおよぶか
ぎりにわたつて/香りと、色と、音とがとりどりに、呼
びつつこたへつつ、/その香ひは、乳児の柔肌のやうに
甘酸つぱく、/オーボエのやうにもの哀しく、牧場のや
うにみどり鮮やかで。/別な香ひは、糜爛して、ゆたか
で、勝ちほこつて、/…」(金子光晴訳)。また、万物照
応の中に己の影を映し、これらの宝、これらの家具、こ
のととのい、この匂い、これら奇跡の花々、それはお前
である、という詩を読んで照応する若き折口信夫を想像
してみよう。詩人は折口生誕二〇年前に死去している。
林口僥子
駆け込むやたちまち扉閉まりたり天井の風汗を攫へり 外務省大蔵省に文部省曲りてノッポビルの前に来つ 待ちながらノッポの箱を仰ぎたり水溜りのやうなきれぎれの空 傘さしてバス停までを跳ねてゆく道の凸凹確かめながら 隣席の手鏡視線を投ぐるごとく西日をかへす一瞬われを射る 乙女子のカバンの中身の大方を占めてをらむかぬるかくとかす 入れ替り入れたり出したり乙女子の仮面をつくる降りてゆくまで おがくづの中から太き脛の五本夕べのキッチン擂鉢が主役 おぢいちやんは男の子だからぢいくんだ走れぢいくん居間三周 兄ちやんよおまへと呼べりパソコンとマニュアル囲む白山羊さんたち 打たれたる球の行方を追ひかけて目を凝らすとき目玉が焦げる 一枚の海の光に対きながら文字を削除しはた浮かしたり メールする羊の群を眈々と覗かれてゐむ黒客の眼
山本大二郎
いちにんを去らしめし街かどかどの夾竹桃の花のあかるさ ターバンを青く捲きたる少女ひとり二駅立ちゐて下りてゆきたり 向ひ家の土間の三和土に首立てて目の無き猫が雨を見てをり 停電の見通しの交差点手信号に狭間のそらを夏雲わたる からす麥の並み立てる穂のゆつたりとあをく揺れをり光降りきて 夕光にボールけりゐる少年のひかりに入りて見えがたかりき とほつあふみ翠の壜にその砂を閉じ込めしより波のここだく 葉隠れの葛の立房あらはれぬ河面に夏の雷ひびきをり 掌のなかに花の実の一つ遊ばせてあまれることば探しをりたり ほぐれたる飛行機雲のかたはらを大白の星黄にひかりくる やまのはに迫りたる雲その奥の夜のしらくもしばし輝く ひかりある夕雲そらにたなびけり子はそれぞれに帰りゆきたり 弾き語りのギター聞きゐる五六人顔をなくせしごとくおぼるる
杉山和子
五百羅漢の五百のかおに父しらぬわれがわが面さがす時の間 動物園の螢のひかり風に消えてらくだもきりんもびんびんと冬 「電柱が海綿になれば乗る」なんて!一直線に黄でつっきる マフラーにとまる藍色の貝の猫みつめらるるときみつめておらん 牡丹色のワイングラスの手をあげよ明日は野の華椅子をよせあえ 鬣のまさらなるままふき去りし後をうらうらただようくらげ 昇りゆく礫のような鳥ふたつ受入れざりしおもいをふたつ うみあおしされどうみなし父蒼しぐらんどまざー墨色の朝 左耳にあかるき君のこえのなかパスカルのあし芭蕉のかえる よれよれとよろよろの足の違いを言うハの字ハの字の吾の0脚 立ち昇る太陽線運命線に汗にじむにぎりしままに天をつきたり 何にかく踊り狂える蝶の胸ニトロふたつめ舌下にのらず ひと隅にトランペットを聞きていつピカソの青より明るくあれよ
大村きぬ代
日曜の朝一重瞼のまなじりあがる頼朝が足利直義となるか パン押開くサニーレタスを押へ付け朝早し大き口を開けたり 赤き爪銀の爪が捨ててゆく燃やせない塵に塵重ねつつ 一階の男の嚏(くさめ)図書館の二階の空気ぴくりと動く 左向きに男が走る緑色のその明るさに五階を降り来 足元に子の弾くベースの音ふるふ雨ふらず日も差さず暮れぬ 少しづつ父のゐる五十人般若心経のにやあに揃ひゆく 五十人の般若心経父の眉の父のひ孫は眠り続けよ スーパーの籠の中ゆらゆらと高原の太きひと瓶の白き優しさ パパママのあが延びて追ふ日曜の公園団栗が拾はれてゆく お土産の渡し忘れし絵葉書の吾木香の秋ずんずんずんと 左膝肩頬黒く光りつつうづくまる女わたくしを見よ 花水木の青葉に染まりし顔をふせて午後のうなじを剃られをはりぬ
中村晶子
カンボジアは今日も百人膝から下吹き飛ばされたそれでも明るい 手作業に地雷掘りいる厚き手が三百億個を掘らねばという ポケモンに全米三千館が竜の列日本の不況を明るく飛ばす 大売出しに赤子を背負う若き夫小さな男の児の手を妻が引く ガン患者は水・土・空気にかかわるか地図に描けば新潟が赤い 沸騰するやかんの蓋やぷかぷかぷか雨の午後を肘をつきており 虹の紫・藍・青・黄緑漂へば虹のまあるき眠りに入りぬ 冬の日が漂い届くいちごの鉢甘き香りを朝な朝な食む 父満二の墓は三二四号箒と鎌手に会いに来しけさ 糠饅頭を投げ捨てたよと薄氷はりたる朝を母が告げくる 『つるばら』のあかりの歌に光君裕君(こうくんゆうくん)のせてよのせて白いTシャツ ばあちゃんと昔寝たねと言うあかりあかりは四歳四年が昔 空を見るあかりの瞳にさそわれつ『ぐりとぐら』の大きなたまご
野崎志満雄
みすずかる信濃の山よ小梨咲く雪消の渓の恋しかりけり カノープス見たるその夜を昂りて語り明かせし友のありたり 紫陽花が雨滴ふくんで霑ひて思ひのままになりさうだつた朝 今日もまた押付けがましき救世主天国そこへは君が行けば良い 気圧計の針ぢりぢりと位置を変へ驟雨孕みし雲迅りゆく ユマニスムは幻想なりと説きし人他者と倶にある快を知らず 一筋に工員我が生きて来しシモーヌ・ヴェイユの擬視に耐へて アネロイドのガラスこつこつ叩きつつ微熱解けざる一日長し 柔らかく無難な言葉にかへられて我が意見書は水母となりぬ 昨日ここで天に還りし少女一人白墨で描かれし人形(ひとがた)にあめ 父は床屋祖父は博徒と語りにき母のルーツはそこまでのこと 黒猫と紋白蝶がじやれてゐる梅雨の晴間の菜園あかるし 過去(すぎゆき)の花咲き花散る束の間を眩しかりしか見果てず吾は
小松久美江
椿樹の暗がりへゆく水の音重き実ひとつてのひらに置く びくの底に重なる鱚のあさみどり 探せ捜せさがしたのだが 四国三郎渡り雲が切れ始むディーゼルカーのぽうぽうと鳴る ところで阿川弘之はねと言へり雲へゆりの木が伸びゆくやうに 廓なりし町に在り馴れ外人が唄ふよゆふべ水浴びながら ぬばたまのぬくとき風にひるがへるTシャツ青いパンツ褐色の手 人を遠くおけばまどゐのブラジルの唄声のなか馬の嘶く 路面電車に携帯電話のこゑうざうざかうもり傾け追ひ抜きゆけり 小路に向く二階の格子のあかり消ゆ日本語よりあかるい言葉の太さ そんなにも悪く言はれてゐないさうな壁にずれゐるわれ大飛出(おほとぶで) 洪積世へ風抜けるやうケータイの乾けるこゑに拒まれてゐる 鏡の中にこがら・ひがら・いはつばめ前髪切る間をこゑ渡るなり ひといまだ月へ上らぬ世のひかり栃の実割れたよ三つの光
春霞恋ひわたりけるわたつみを閉づるこころのむらくれなゐや 水原紫苑
かつて万葉のうたびとは「恋ひ」を〈孤悲〉と表記し
た。逢えない孤独を悲しむの謂である。やや近い昔、歌
うシャーマン・松任谷由実は〈きみはダンデライオン/
本当の孤独を今まで知らないの〉とdandeliOn
=たんぼぼに託して少女を恋の川面へと誘った。もって
不可思議な慧眼のシンクロと言わざるを得まい。
で、うつつよのディーヴァ・水原紫苑である。この空
っ惚けた異才は恋を「むらくれなゐや」と詠う。無論「わ
たつみを閉づるこころの」とはぐらかし、「春霞」云々
と読者の鼻面を牛耳ることも怠らず、
が、しかしである。もしもこの歌が実は恋の歌ではな
く、茫漠と暮れゆく全くの海の叙景歌であるとするなら、
孤悲はいや増し、あまやかな斑紅は自ずと暗転する。ゆ
るやかなカーブを描いてひたすら夜へと傾斜していく海
原の孤愁。うみはla mer、当然女性形である。人
気の絶えた宵際の浜辺。愛らしい眉は仄かに曇る。恋を
閉じねばならぬ憂いにではなく、閉じようが閉じまいが、
そこがハナからがらんどうの檻であることに、
いやはや……薮睨みも甚だしい叙景論である。
六十代終らむとして気付きたりわが立つる旗片片として 高嶋健一
五十代から六十代、六十代から七十代へと移りゆくと
き、ある種の感慨があると思うのです。それは人それぞ
れ深さも思いも違うのですが、何人も避けることができ
ない老いとその先を意識し始める年代なのかも知れませ
ん。
日頃感じておられたと思うのですが、六十代から七十
になるその節目に思いを新たに感じとられたというのが、
「気付きたり」となったと思います。旗は作者の理想、
思い、もっと具体的に言えば水甕のあるべき姿なのだろ
うか。その旗は、「片片として」いるのである。片片は
広辞苑によれば、1にきれぎれなさま、2に断片の軽く
ひるがえるさま、3に取るに足りないさまとある。
「片片として」は「へんぺんとして」という擬音のよう
にもひびき、余韻を醸し出していると思います。
六十代を過ぎもう七十になってしまったが掲げた思い
はいまだも達していないのかと作者の嘆きと焦燥感さえ
感じられてくる一首です。
高嶋先生のこのお歌を読むとき、水甕の一員としてひ
しひしと追ってくるものがあります。
風なきに散るわくら葉よ残生の緒に似て背より春来る 河合恒治
風もないのにわくら葉が散る。わくら葉は「病葉」と
書き、広辞苑には(1)木の若葉 (2)病気におかされた葉、
また色づきすがれた葉 とあります。一首の場合、色づ
さすがれた葉という意味でしょうか。朽ちる葉を見た作
者の人生観、生命観、死生観が感じられます。
死ぬほどの病もして、あわただしかった人生を今静か
に淡淡と振り返っている作者。ふと立ちどまり見た今迄
の人生と、これからも生命のある限り、寿命ある限り生
き続けることに思い到った作者の息づかいが伝わってき
ました。
人間として自然界の中で生きること、豊かなくり返し
を重ねながら自然のなかに生きるものらを見て、自分も
その一つにすぎないことを知らされます。「わくら葉よ
残生の緒に似て」という生老病死の輪廻の繰り返すさま
はすなわち春夏秋冬の四季のめぐり来ること。結句の、
「背より春くる」は厳しい冬のあとには、必ず暖かな春
がやって来るんだよ。人生も山あり谷あり、山の後には
幸福が待っているよとのメッセージが伝わって来ました。
さくら花散りたるのちの隅あかり父の梯子ののこりてゐたり 春日真木子
何時の間にか桜が散って、すっかり明るくなった庭に 梯子が一つ取り残されたようにある。父の梯子である。 それは今は、夢とも現とも不確かな風景であるが、折々 に作者は密かに大切な記憶の小筐から取り出しては懐か しむのである…。春日氏の父松田常憲は、尾上柴舟、岩 谷莫哀以後の「水甕」の編集、経営にあたり(ありし日 に父がひきたる大弓の紫の房は色あせにけり)と詠む、 古武士然とした気概、風格をもちながら、時に歯を剥く ように烈しく一途に突き進む熱情家の風貌を見せたとい う。「三径集」には(もえ細る線香花火みいりたる児が 病みあとの顔のさみしさ)(児の手よりのがれし猫は尾 を上げて松葉牡丹の花踏みゆきぬ)など愛娘春日氏を詠 った歌も多い。父一人娘一人なのである。平成九年八月、 水甕は一千号を越えたのだが、それは筆舌に尽くし難い 遥かな道程で、宿命に健気に応えた娘はどんなに誇らし く父に報告したことであろう。春日氏の歌集『黒衣の虹』 に伺うことが出来る。「おまえさんはよくやってるよ」 春日真木子氏にとって、父常憲はほとんど恋人に近い。
水色のあき缶路上に二つ立つ空に伸びゆく足かもしれず 永守恭子
一首は道路に水色のあき缶が、一つでなく二つ立って
いることに心が動かされたのだと思います。この水色の
缶はスポーツドリンクのように思えます。作者があき缶
を一つでなく二つでありしかも立っていると見たことで
下句の「空に伸びゆく足かもしれず」にリアリティが感
じられ目に見える作品になりました。
車や人が常に行き交うであろう路上に跳ねられもせず
踏まれもせずそして二本立っている。そんな景色をたま
たま見られたのでしょう。
朝日でしょうか、夕日でしょうか。私には夕日のよう
に思われるのです。夕日に照らされて影が長く伸びてい
るのです。それが空へどんどん伸びてゆく足の様に見え
たのでしょう。とても不思議なそして魅力的な光景です。
まっ自な雲が浮かんでいてゆっくり動き、雲の影もゆ
っくり動いて行くようです。
作者は静かな所でお暮らしかと思います。そして性格
的にも心のきれいな落ちついた方かと思って読ませてい
ただきました。
藤の花さつきもつつじもにほひたつ病院の庭に長く立ちゐき 中嶋美卉子
直接には存じあげないが、作者はナースでいらっしゃ
ると聴かされた。
「白衣の天使」などという通俗的な美辞をよそに、日日
生と死の修羅を見つめつづけるハードなご職業であろう
と想像する。
人道とか博愛の言葉は、どこか押付けがましく、強者
の恩恵の姿勢も見え隠れしてあまり好きにはなれないが
これも職業的使命感と捉えれば、同じく働く者として共
感できるのである。そしてその「・・ねばならぬ」勤め
であればこそ、偶さかに眺める病院の庭の木々や花々が
こよなく愛おしく、立ち去り難く、見つめ続ける作者の
眼差しが髣髴するのだ。
「やまい」という生命の退嬰を扱う環境であればこそな
おさらに、一時の生を謳歌する花々に、更には生命の尊
さ重さ美しさにも思いを致し粛然と襟を正す心境でもあ
ろうか。作品そのものの良し悪しや、技術的な部分に言
及できる能力は持ち合わせていない。ただ作者のお心を
素人なりに想像してみた。
左耳にあかるき君のこえのなかパスカルのあし芭蕉のかえる 杉山和子
「パスカルのあし」はかの有名な哲学者パスカルの《人
間は考える筆である》であり「芭蕉のかえる」は最もよ
く知られている芭蕉の俳句《古池や蛙飛びこむ水の音》
である。
左耳に君の声が聞こえるのだから向き合っているので
はなさそうである。となりあって話す君の声、あかるい
声が心地良いのかもしれない。問題はそのあとである。
その声のなかにパスカルの葦と芭蕉のかえるというまっ
たく異質なものに展開してゆくところに、この一首にお
ける混乱がはじまる。人間はか弱い一本の葦にすぎない
が、それは考える葦である。考えることによって宇宙を
も包み込む。人間とはなにか。思考の世界である。一方、
俳句の世界はどうだろう。大ざつぱに侘、寂と言ってし
まえば静かな趣の世界である。
あかるい声のなかにただあかるいだけではない、いろ
いろな君を発見した。ますます君の声が左耳に心地よい。
君も素敵だが、そんな君を声のなかに発見した私(作者)
もすばらしい。えーっもしかしてこの歌、相聞歌?思わ
ぬ展開になってしまった。
甚平をゆるく結びぬはじめての父の外出玉葱畑 丹羽智子
「はじめての父の外出」というのであるから、昨日まで
父は家の中に籠っていたのだろう。父といえば、まあ、
高齢だろうから、或いは病気で籠っていられたのかなと
思う。それが外出できるほどに回復されたのであるから、
娘である作者にとってどんなにうれしいことだろう。そ
の思いが「甚平をゆるく結びぬ」という具体的行為の描
写となって表現されている。ゆるく結んだのは父の体を
労わってのことだろう。年をとると、どこそこ痛く動か
し難くなる。作者はそれをわが事のように庇い、優しく
甚平を着せかけて上げたのである。
さて、父の外出先であるが、「玉葱の畑」という。季
節は甚平を着る初夏、玉葱は青々と葉を茂らせ、球を太
らせているとき。父は恐らく昨秋は元気で玉葱を植えら
れたのだろう。それがどうなったか、家籠りしている間
中、気になっていたのだろう。いよいよ外出という時、
真先に見に行きたかったのはその玉葱畑。恐らく娘であ
る作者が父の代りに畑の世話をし、玉葱は無事育ったの
だろう。父を喜ばせようといそいそと案内する姿が浮か
び、まことに明るく暖かい作品となつている。
長電話に夫の顔はゴワゴワゴワ酒とつまみ手にそそっと近づく 平尾可津代
どんなに愛し合い好き合って結ばれた夫婦でも、長い
結婚生活の中には紆余曲折があり、時には口も利きたく
ない時もある。でもそんな事を言っていては夫婦生活は
続けていけないのであるから、どちらかが譲ってお互い
に歩みより合わせていかなければならない。そんな日常
生活をユーモラスに歌われている。つい自分の経験と合
わせて笑ってしまった。
夕食の支度をしている時に電話が鳴り出した。(あー、
こんな忙しい時に)と思いつつも受話器を取ると久し振
りになつかしい友からである。夫は忙しい仕事からやっ
と解放されて帰っており、腹ペコ状態で待っているのを
気にしながらもついつい切る時を逃し長電話をしてしま
つた。振り返って夫の表情を窺うと怒っている様子であ
る。急いで夫の好物のお酒とおつまみを手早く用意し機
嫌を取ろうとしている作者がいる。夫の表情をゴワゴワ
ゴワと表現したところ、そそっと近づくという作者の心
理描写が非常に良く表現されていて楽しい家族が浮かん
でくる一首だと思う。
空を見るあかりの瞳にさそわれつ「ぐりとぐら」の大きなたまご 中村晶子
まっ青な空に白雲が二つふわりと浮かんでいる。昼下
りの公園を散歩している祖母と孫。
「あかり」はおそらくお孫さんの名前だろうか。ふと空
を見上げたあかりちゃんは「ぐりとぐらの大きなたまご
だ」と、雲を指さす。
「ぐりとぐら」は、毎夜寝る前に、作者が絵本を読んで
あげる時に、登場する鼠の兄弟の名前ではないだろうか。
いつもいつも同じところで寝てしまう。きっと二つの大
きな卵を料理するあたりか。絵本のぐりとぐらの見つけ
た大きな卵と、雲の形を同一化できる幼い想像力が素晴
らしい。
つられて空を見上げた作者は、どんな答え方をしただ
ろうか。とにかく雲を見ている二人の姿が、目に見える
ようだ。
「あかりの瞳」「ぐりとぐら」「大きなたまご」などや
さしい言葉を並べて、日常の生活を、然り気なくそれで
いて、祖母と孫のかかわりのあり方を、上手く詠んでい
るほほえましい一首である。
まるき顔におうおうおうと声太し扉を開きあらわれそうな 出井 操
「扉を開きあらわれそうな」という下句で相手は今ここ
にはいないと思える。そして「まるき顔におうおうおう
と声太し」でその人が暖かく優しい人柄の男性だとわか
る。
「扉」は永遠の未来につうじるものであり、魂の復活に
もつながるものである。暖かな灯りを作者の心にいつも
与えてくれていたその人が、今にもその「扉」を開いて
あらわれそうな期待で待っている。
一連中には
二ヵ月で祖父とならんをみどり児の声開かぬまま逝さたり医師は
という作品もあるから、或いはその男性は医師かもしれ
ない。作者とその医師の間には深い信頼関係があったの
だろう。それなのに「二ヵ月で祖父とならんを」逝って
しまわれたのである。若死にといってもいい死ではなか
ったか。作者はどんなに残念に思ったことだろう。その
思いは「扉を開さあらわれそうな」で伝わってくる。
「おうおうおう」はオノマトペであるが、男性の親しみ
をこめた声の表現としてぴったりである。
父は床屋祖父は博徒と語りにき母のルーツはそこまでのこと 野崎志満雄
わたしのこの年のころ、母はいったいどんな生き方を
してきたのだろう、と思うことがある。
父や祖父を語る母、そこから知る母。根であり底であ
るRoots、嗅ぎまわるという動詞の転義、はたらきも見
逃せない。作者の知りうるなかから母の根を感じ、母を
飛び越えられぬ自分に気づいたのではなかろうか。しか
し、ルーツ探しも父や祖父までで、二十代、三十代先と
なると祖は人間一般という抽象性へ行きつくほかなくな
るのである。また、母より開かされてきた父と祖父は、
決して断つことのできない血脈なのである。娘が母を女
としてみるように、男として父や祖父を自分に重ねて見
ることもあるだろう。
ルーツとカタカナまじりの歌は、軽いようだが、アメ
リカの現代作家ヘーリーの小説『ルーツ』をおもう時、
重さをもった言葉として生きてはこないだろうか。愛す
るものとの絆をうたうとき、人間は素直に、人間的にな
れるものであり、作者の素顔をみることができる。
母に励まされて育ってきた自分、母は幸せだったかと
問いつつ、また母に問われている自分がいるのだ。
ぷるりぷるる生牡蠣喉を下りゆくああそういえば怒っていたんだ 近田順子
ifといふコーヒーショップ過ぎてより心かすかに遊びはじめぬ 『火照る翼』
年々に昏き男となりゆくを椎の一樹を見るごとくゐる 『退屈家族』
朝見つつ夕べに見つつ花の木の散りゆく黄金の微熱臨界 『微熱臨界』
近田さんは愛知県豊橋市生まれ。『未来』同人。第一
歌集からずっと変容してゆく社会と家族、自らを華やか
に情熱的に歌いつづけている。第一歌集出版後、「今後
は主婦の存在のあり方について歌っていきたい」という
ような発言をされたことを記憶している。妻たちの不倫
が軽やかに、まるでおしゃれのごとくテレビ等で扱われ
ていた頃であった。近田さんは時代や社会に敏感で問い
つづける歌人という印象であった。抄出歌も「ぷるりぷ
るる」は生牡蠣が喉を通ってゆく擬音語である。こんな
ところでつるりと飲んでいいのかしら、まだぷんぷん怒
つていなければいけないのではないかしら。怒りはゆっ
くりやって来るが一筋縄ではおさまらないのである。
爆死せし父の忌の空霊魂のごとき重さに垂るる枇杷の実 山下富実
父の忌は六月二十二日である。枇杷の木の闇ふかく抱 かれていた実が大きく色づいている。その垂れ下がるの は父の霊魂の重さである。人の故の重さを失った父がそ の忌にまざまざとその重さの光を娘に顕現し、娘が見た のである。「枇杷の実」は「霊魂の重さ」であるという 発生機の隠喩に歌集「夢の笛」の全重量をかけてもいい。 「堆い壁土の窪みに、草色に変わった父の顔が仰向けに なっていた。四七歳の父。母が顔の泥を拭っていくと、 赤い血が鼻から静かに流れ出た。一〇日がたち、夜また 大空襲に見まわれた。父の命を奪った爆弾などで殺され たくはない。母と私は、祖母を両方から支えて、金毘羅 様の山を目指して逃げた。ちらちらと赤い炎を出した焼 夷弾が前にもうしろにも落ちてくる。ふと、小さな人影 が一つ、前をよこぎつた。頭巾をかぶった男の子がたっ たひとり、その背のリュックに黒いものがのってちらち ら火を噴いている。あっ、と思う間にその子の影は消え てしまった。私は父の骨つぼを抱きしめて、なむあみだ ぶつ、と大きな声で叫んでいた」。(三省堂『日本の空襲 七』一九八〇年刊)(歌集『夢の笛』より筆者抄録)
山本大二郎
読み人しらず、と言われる歌に就いては、歌集を読む
時には、誰しも何となく心惹かれるものを感じられるの
ではなかろうか。先頃の水甕京都大会の詠草にも、
いにしえの人ら通いし「継ぎ橋」を厚底ブーツが行く
二〇〇〇年 宮野哲子
というのがあって、この「継ぎ橋」は万葉集巻十四、東
歌、三三八七「足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継
ぎ橋やまず通はむ」であろう。宮野さんは東京の方だか
ら、所縁の市川を訪ねられたときに、ふっとそういう感
慨を持たれた。東歌は、作者が誰であるか、どこの人な
のかも分からない歌が多い。しかし、「読み人しらず」
が意識的に歌集に持ち込まれ、一定の役割を果たすよう
になつたのは、『古今集』あたりからだそうで、『玉葉
集』の「読み人しらず」はそういう観点から読まれるべ
きなのだろう。
『玉葉和歌集』。十四番日の勅選和歌集。伏見院下命、
京極為兼撰進、一三一二年成立。古今集から数えて四百
年、新古今集からでも百年後のことである。現在でもそ
の主要作家、例えば永福門院などは人気があるのだが、
いざ読もうとするとこれが一苦労なのである。「国歌大
観」で読まれるお方は別である。岩波、小学館、新潮社
の日本古典文学大系、いずれにもない。文庫も岩波にあ
ったのは戦前のことで、角川、新潮、中公、どこにもな
い。何故か…。それはともかく、玉葉集には「読人しら
ず」の歌は七十六首ある。
二二八 あしびきの山べをてらす桜花この春雨にちり
ぬらんかも
その一つのグループの多くは優れているために伝承され
た古歌である。万葉集一八六四の歌、「山の間照らす…
散りゆかむかも」。人麿集3五二、赤人集一五五「山の
は照らす…このはるさへに散りにけるかな」、家持集三
三「山のなてらす…さきにけらしも」。作者の名前は分
かっていながら、誰と断定が出来ない場合である。
八六六 人はこずゆふべの雨はしたたりてむなしきは
しにふるこのは哉
は、どうか。待つ人は来ない。夕暮の雨を見ていると自
分のこころの中まで濡れてくるようだ。誰も下りてこな
い階段にふりかかる木の葉よ。和漢朗詠集三〇七愁賦に
ある。「三秋にして宮漏正に長し 空階に雨滴る万里に
して郷囲いづくんか在る 落葉窓深し」。情景感興、表
裏のごとしである。「人は来ずはしに滴る秋の雨をむな
しき床に聞きあかすかな」伏見院御集四一七。「人は
来ずむなしきはしに時雨おちて払はぬ窓をうづむ紅葉ば」
夫木抄六四二四 為家。穏名人集であるが、これらの類
似を思うとき一人の名前が浮かんで来るではないか。為
兼卿その人である。玉葉調とはこれ、所謂京極派の特徴
的な歌なのである。「こと葉にて心をよまむとすると、
こころのままに詞のにほひゆくとは、かはれるところあ
るにこそ…」。確信に満ちた彼の言である。岩佐美代子
氏によれば(私自身の『玉葉集』に関する知識は岩佐氏
著作の聞きかじり、粗略な受け売りに過ぎないのだが)、
「為兼卿和歌抄」は、実績を伴わない、全くの理念によ
る予言の書として書かれたと言う。以後三十年をかけて
京極派の歌人達はその歌境を完成させるのである。「ほ
とんど奇跡に近い、わが国の和歌史上希有な壮挙であっ
た…」、前記岩佐氏は称賛なさるのである。
一九二四 ほととぎすかたらふかたの山のはにむら雨
過ぎて月ぞほのめく
時鳥がしきりに鳴く、その方角の山の端へ村雨が降り過
ぎて、遅い月がほのかに姿を現わすというのである。巻
十四雑歌一にある。二三七首中、夏の鳥。四季・雑の多
い部立てもこの集の特徴の一つとされる。三一五の章義
門院小兵衛督、「今だにも鳴かではあらじ時鳥村雨過ぐ
る雲の夕暮」。風雅和歌集五四四 永福門院「雁のなく
夕の空のうす雲にまだ影見えぬ月ぞほのめく」。その景
を光に放て影に於て、その動きを見えるように迫真的に
描写する叙景歌である。〈月ぞほのめく〉も、伝統的な
規矩にとらわれない自由な発想表現と言えるだろう。
当代歌人の穏名人集と言うに留まらない効果が伺える
作品である。
『玉葉和歌集』がその成立を見た頃をしばし遡る。
承久の変以後、大覚寺統、持明院統の皇統の対立は漸
く激しく、歌道の家御子左家に於ても二条、京極家の深
刻な対立が、西園寺家にも嫡流家と傍流洞院との軋轢が
生じた。そうした背景のうち伏見天皇を中心に西園寺実
兼持明院統廷臣女房らは京極為兼の主唱する京極派和歌
を創造する。
二四九二 もろともにかげかたぶきてながむれば月も
あはれとわれをみるらん
巻十人雑歌五。西に傾く月を、自分も同様に年老いてし
みじみ眺めている。月も哀れに思って自分を見ていてく
れるのだろうか。京極派和歌は成立当時から激しい非難
に晒される。永仁三年、「野守鏡」。正和四年「歌苑連
署事書」。為兼も佐渡に流され、後に土佐に流され、終
に都に帰ることがなかった。二四九三は従三位為子「な
れみるもいつまでかはとあはれなりわが世ふけゆく行未
の月」。続後撰集一一二〇 縁忍、「山の端に影かた
ぶきて悲しきは空しく過ぎし月日なりけり」。
構成上のこまやかな配慮は当然としても、玉葉集に占
める当代歌人は意外に少なくて四十四%、三三六名。そ
のうち京極派歌人は八%弱、五六名に過ぎず、作品数に
して五人三首、二十一%、それにも関わらず特色ある京
極派の勅選集になりえたのは為兼の撰歌編集の妙に因る
と言われている。叙景歌に於ける、そのものに成り代わ
る描写、心の深層を観照し様熊を表現する叙情歌など、
その秀歌の提示が周到で、読みびとしらずの各作品の占
めるその位置も細心である。
八六五 夕時雨あらしにはるる高ねよりいり日にみえ
てふるこのは哉
桂宮本では作者を権少僧都能信とする。続千載集一九三
七 能信詠に「玉葉集に名を隠され侍ることを嘆きて詠
み侍りける あらはれぬ名はをしどりの水隠れて沈む恨
みに音こそ泣かるれ」とあるからである。夕方時雨が降
った。やがて風に払われるように晴れてゆくと、峰にあ
る木々の梢が揺れて木の葉を散らし、折からの入り日に
光りながら空を流れてゆく。何とも凄絶な秋の情景であ
る。入り日のひかりのうつろい、木の葉のひかりの移動、
時間の刻々の変化の景でもある。八六六と同じ木の葉を
詠いながら、対比により、重なり合う言葉により、その
豊潤な心の有り様が提示されるのである。
二〇三一 しがの浦やしぐれてわたる浮雲にみかみの
山ぞなかばかくるる
志賀の清、近江の歌枕。みかみは、三上の山である。
近江富士と呼ばれ琵琶湖周辺いずこよりも望まれる穏や
かな美しい山容。「行未はいづれの山にかかるらむ時雨
れてわたる空の浮雲」続古今集、五八六 公親。「浮雲
のいさよふ宵の村雨に追風しるくにほふたちばな」千載
集、一七三 家基。その景を詠いながら、心を先として
「詞」をほしきままに…表現するに、続け柄だとする。
一九七四 心とめてたれかまことにながむるとこよひ
の空の月にとはばや
今夜の月を見る人は多いだろうに、誰が本当にしみじみ
と心をとめて眺めているだろうか。そういう思いとは別
に、月は無心に照るのである。玉葉八三二 為兼、「心
とめて草木の色もながめおかむ面影にだに秋や残ると」
拾遺集一七七兼盛、「夜もすがら見てを明かさむ秋の月
今宵の空に雲なからなむ」。新古今集四六 通具、「梅
の花誰が袖ふれし匂ひぞと春や昔の月に問はばや」。
南北朝動乱期、後光厳天皇が践祚すると、関白良基は
京極派和歌を異風とし二条家歌風を正統とする。以後室
町時代から明治に至るまで「玉葉集」「風雅集」は否定
され無視され続ける。折口信夫、土岐善磨らにより賞揚
されるのは実に大正十五年に至ってのことなのである。
田村昌子
デンドロのうす紅に匂う朝の窓来るかもしれない白馬白雲 龍の玉龍の髭の茂みより弾みて碧し 青年の背 葱ぼうずつんつん空突き頬白の空に一筆啓上つかまつる 子に言えぬひとつの怖れ足下のビオラの種の小さく弾けぬ 少しずつ離れゆかんかむらさきの松明花にまっすぐの雨 合歓の花重なりそよぐ紅の虹の匂いを追いかけている 南西より湿りし風の巻上り右脳がしきり生欠伸する 百日草くらくらと赤く咲き継ぎてまだまだ赤い百と一日 皿洗うモナリザの双手思いつつ午後の茶房のウインナ珈琲 雨の日のあのこに逢いたいモジリアニの御下げの少女の冷たい項 アラジンの壺のパフィオの七つ八つ横笛吹けばとぐろを巻ける 初雪のまっすぐに降る塔の窓魔女には魔女の微笑みのある 振向けばゴッホの耳の包帯厚しゴッホに描かれし花魁の右耳
丹羽智子
近寄ればかすかに甘き香午後の樟化粧せぬ母の手の「ももの花」 しゃかしゃかと若葉鳴る木の影のなか犬の眼パン屋のロバの細き眼 草刈られすっくとあざみの刺太し産毛のように苗の風くる 千枚田をみおろす家をこっそりと抜けてひろえり石けりの石 鉄筋の宿黴臭しおおははの昼寝のようにごろんと眠る ふとき枝削ぎたる杖に越す峠湿れる背の阿修羅を下ろす ぬばたまの月の光のおしてれる熊野の川に身を入れはじむ 僧去りて数珠をしまえり女人講夫が夫がと声の重なる 大き葉の影にとぐろを巻きはじむ夫の胡瓜まだまだ採らぬ 風の日を一羽また一羽寄りきたり電線の波小さくなりぬ 看護婦の詰所にひったりと七夕の短冊青し「さらば糖尿」 甚平をゆるく結びぬはじめての父の外出玉葱の畑 剥がさるる二年の舗装路九年の車揺れつつ弾めるきしみ
清水正人
今なんて言つたわだつみ迫り上がる峠のカーブま青翩翻 組み伏すは影よりなくて夏茨かをる砂丘に泛かびてゐたり 堅湿る砂へ暮れいろ踏み乱れ小待宵草黄のはなあかり 風速く待たされてゐる地下駅の津波日和をシャツはためかず ややあはくわれ点りをりゆふぐれの車窓へ青田のひきもきらずよ うかうかとくぼませたればメレンゲの声に諾ふ他なき夜は 移りたる名の膨らみてあさ白し半夏生の文ひらく風の間 ほのゆらと日傘背きぬ炎天をひた連なりし疵が触角(ツノ)振る 真盛りの木槿を言はず歩みたりあなたは指輪をまた回してる むきむきの午(ひる)の睡りの息並めてあはき寝台(ねだい)のくぼみ充たせり 起き抜けの吻(ふん)や渇けるゆふかげの翼影給水タンク両断 水のこゑ鎖して玻璃窓昏れゆけりもの言はぬとき瀬はひかりつつ 逆しまの椅子ピーカンを角ぐめばぐわらんぐわらんと夏ゆきにけり
出井 操
もう一度復帰したいと一枚のハガキ西村医師の形見となりぬ 学長の弔辞は西村先生を現代の赤ひげ先生と声低し 二時間を過ぎても十ヵ所の焼香台は人絶ゆるなき黒き葬列 兄と思いいし医師亡くなりて肩落とす夫は葬列の中の一人 小児科医を父に持ちいて三十三歳良君も丸き顔の小児科医師 七十歳まで現役でいたきを六十三歳で急逝したりと良君は言いぬ 朝の回診英語の試験となしたりと西村医師を若き医師が言う 西村先生の脳の半分は白血病のあの子この子の顔を見ていき 薬待つ少女一目見て白血病と西村医師は夫に告げたり 熱高き吾子の薬わすれきて家に帰れぬと夫に電話ありき 丸き顔におうおうおうと声太し扉を開き現われそうなり 二ヶ月で祖父とならんをみどり子の声聞かぬまま逝きたり君は 松の木のつくつく法師逝きし人の声か暑き午後を啼き継ぐ
平尾可津代
電話だけのつもりのケータイメル友しようの声にとりせつとにらめっこ ピーとわがケイタイの音 夫とりせつ取り出しケータイに汗する 湯気たつ思い一二八字におさえつつ親指にボタン押し続ける 長電話に夫の顔はゴワゴワゴワ酒とつまみ手にそそっと近づく 寝息たしかめ体重計り腰ぬかす飛騨牛高山ラーメンを食い食い 弾力のある腹縮めんと横向けど口がドーナツにのびのびて行く ショッピングに娘のつけ毛探すアップにつけ毛丸めてレディの仲間入り 泣く甥が息子の顔と重なりてあやす腕のはずみ踊りだす じじの声電話の向こうでやっとかめと孫にまごまご夏のハチミツ 足の遅い子の運動会の応援合戦サングラスかけしゴンドウクジラ 寝る子は育つかこたつに目も入りテレビ枕に寝息をたてる 受験番号見つけて頬のゆるみし子ピコピコ三ヶ月分だと舞いまくる指 新聞と空と風とにぎりめしヒラメ鰈釣りに夫朝早く出づ
中嶋美卉子
横浜より帰りし娘のシャギーヘア茜に染まりふわり揺れたり 大粒の苺頬張る幼児の口をみどりのへたがはみ出す 咳と痰で昨夜も不眠といふきみの長き睫とかはける唇 狂ほしき雷雨の夜に眠りしがさよならいはず去りてゆきたり 藤の花さつきもつつじもにほひたつ病院の庭に長く立ちゐき ラピスラズリのピアスゆららに駆け寄れる肩に柔らかく舞ふ牡丹雪 耳もとに揺れゐし瑠璃の玉ひとついづこへ行きしか光ゆれゐる 三本の紫の薔薇と霞草活けたる玻璃の瓶よりの春 柚子の香り満ちたる浴室ほとほとと指にも肩にも泌みてうるほふ 湯気白くふたりで食べるカニスキもカニ残りたり静かな今宵 一杯の柿茶いかがと差し出され暖かし両手にふはりと包む ちらちらと木もれ陽ひろがる午後の居間きのふほめられしコーヒーを入れぬ 茜さすプラットホームに前髪ばらと少女はメールに打込み始む
原田美甫子
ぽつぺんの緋の音ぱおんと響くあさ首陽山の霧わらびのさみどり 蓬髪の山姥吹くやさみどりのわらびの原にオカリナ響く ぱおぱおとオカリナ響く首陽山伯夷叔斉霧にまぎれぬ こゑすみて吹くやオカリナわらび茂りひげ澎湃(はうはい)と揺るるをのこら 鳩笛の朱の色飢ゑしをのこらの首陽山はるけしわらび繊き野 小綬鶏の呼ぶ篁を置きて去なば日はくらぐらと日の坂に照る 霧深き日の坂にきてほそほそと透きとほりゆく水に従ふ 酸漿草(かたはみ)のかほを打つ昼びんびんと耳底にひとつことのは返る ほつこりと眠れぬときを流れくる黒き矢じりが狙ふわが胸 たよりなきはよきたより声に出づ篁はげしく揺るる冬の日 雲の龍白く湧く坂りようりようと笛吹く風に押されて登れ 冬眠の髯熊一匹放り上げて夏雲の上に雲湧き出でよ 長髄の友の御家つ子幸あれな吾がみやつこは狭霧に遊ぶ
丹羽智子
今年七月、豊橋市西部わが牟呂の町の、三ッ山古墳に
石室がみつかった。以前、子供たちの格好の遊び場であ
り、熊蝉が騒がしいほど鳴いていた小高い丘である。
この辺りでは貝塚や遺跡が多く発見され、区画整理に
伴い発掘調査がすすめられるのだが、新築の家のえぐら
れた庭の断面が、ハマグリの貝塚の層をなしていること
があった。また古代に波打ちぎわであったところに、貝
殻で積み上げた墳丘がみつかっているのはおもしろい。
この三ッ山古墳は六世紀ごろ造られ、百体ほどの埴輪
が並べられていた。まわりには小さな古墳が何基かあっ
たようである。この古墳は長さ三十六メートルの前方後
円墳で、戦争中は防空壕がほられたり、戦後は甘藷(いも)穴も
掘られたとか。
石室は後円と前方それぞれにみつかった。どうやら積
まれてある石は、東部より渥美半島におよぶ弓張山系の
チャートであるという。
(チャート‥石英の微粒からなる堅く緻密な堆積岩。放
散虫や珪質海綿などの遺骸が深海底に沈積してできた一
種の生物岩とも考えられる。縄文時代には石鏃や打製石
器に利用され古くは、火打石として用いられた。現在で
は耐火材原料として用いる)。
柩の置かれた、床面の頭部あたりに朱がひろがってい
る。六世紀の朱が朱の色に地に現れているのをみると、
この渥美半島沿岸一帯を支配し、海路を交流の手段とし
ていたであろう豪族の気迫を感ぜずにはいられない。
出土された埴輪は、野焼さではなく窯で焼くようにな
ったため、埴輪の底と上部の色がちがったり、また初め
から高温で焼かれたと思うような色の綺麗な須恵器の高
杯もある。裸足のまるで相撲取のような足だけの埴輪、
五つの絃が深い傷のように刻みこまれている人物埴輪の
抱く埴輪の琴、未完成の土器のような円筒埴輪や朝顔形
埴輪、それぞれの欠け口には、それぞれ違った土の色が
あらわれ、造った人の表情をあらわしているようである。
埴輪は、
「山陵埴輪附 埴輪波邇和、山陵の縁辺に埴の人形を作り立
つ。車の輪の如き者なり」(『和名抄』(和名類聚抄)―
平安中期の漢和辞書。後撰集の選者で宇津保物語の作者
といわれる源順著)。
「則ち其の土物はにものを、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍
てこの土物を号けて埴輪ハニワと謂ふ。亦の名は立たて物なり」
(垂仁紀三二年・訓―舎人親王らの編による奈良時代の
歴史書、日本書紀の巻三以下の人皇紀のひとつ。漢籍か
らの直接の引用文や仏教用語、その他特別なものを除き
潤色に用いられ出典ある文辞を含め、原則として訓読す
べきとされた)。
「(野見宿禰ハ)土部三百余人を率ゐて、自ら領して埴
を取り、諸物の象を造りてこれを進む。帝覧て甚だ悦び
たまひて以て殉人に代ふ。号して埴輪はにわと曰ふ。所謂立
物是なり」(続紀・天応元・六・二五―続日本紀は平安
初期の歴史書、菅野真道・藤原継縄らの編)。
「土人。随園が子不語云、劉刺史之鄰孫姓者。掘溝得
一石門。開之墜道宛然。陳設鶏犬□尊。皆瓦以為
之云々。亦有掘得土人作臥形者。中良按に、皇朝
の古埴輪をもって葬を送りたる事、唐土にても其例は有
けり。」(卯花園漫録・一―文化六年、石上宣続による随
筆)。
皇后日葉酢媛尊(ヒハスヒメノミコト)の死に際し、
野見宿禰(のみのすくね)が生きた人間を埋める慣習を
廃止し、土師部に人や馬の形を作らせ皇后の墓に立てた
ことがはじまりのようだ。
むかひをれば埴輪の面の親しもよそがうつろなる眼の
親しもよ 『瀬の音』佐々木信綱
上つ代のわざをぎ人かおどけたる顔かたちせり裸形の
埴輪 佐々木信綱
鋳られてはひとつ形のひと色の埴輪のさまに竃出でむ
か 『恋衣』山川登美子
幽界の君に随ふ埴輪びと老いたるは皆眉ひそめ泣く
『丘陵地』窪田空穂
子を負える埴輪のおんなあたたかしかくおろかにてい
のち生みつぐ 山河無限』山田あき
埴輪の目もちて語れる人と人 砂丘円くめぐれる中
『原牛』葛原妙子
わかち持つ遠き憶ひ出あるに似てひそかにゐたり埴輪
少女と 『不文の掟』大西民子
種ほどの土をこぼして夕風に埴輪女の音なく笑ふ
『火中蓮』春日真木子
江戸時代初め、五束斎(古市)木朶により刊行された
『月次選句集』が牟呂村にありました。(現行のまま)
早咲や接木の梅の猶うれし 蛤似
竿やによき/\と出る新屋敷 雨足
行暮し野末に恋しほたの炭 繁茂
夜もすから喧嘩の声や青田守 蟷螂
をくるまやそれからそれへ垣伝へ 古船
引き汐や海苔さま/\のさゝれ石 雨速
古釜にかをりゆかしさ新茶哉 漁夕
朝涼し墓所まいりの一家内 蛤二
月塚のはまぐりの白咲きはじむ牟呂町根津高砂の百合
丹羽智子
文中の「陳設鶏犬□尊」の□は、「罌」の字の、「貝」ふたつが「田」みっつになった字です。
清水正人
追憶のくもる涯(はたて)に氷もて母乳(ちち)を止めゐるをんなが
ひとり 村木道彦
おいおい、マジかよ……
ケンジは深々と沈み込んでいた白いソファーから起き
上がると、いきなり掴んでいたリモコンをTVのブラウ
ン管めがけて投げつけた。胸クソの悪いニュースキャス
ターのしたり顔が、ジジッと低くスパークしながら思い
のほか派手に砕け散る。とんまなチンピラが両脇を抱え
られてパトカーにねじ込まれる寸前、溶けて汚れた雪に
足を取られてつんのめるシーンをワイドショーは繰り返
しせせら笑っていた。ほのかにきな臭い薄煙がほとんど
家具を置かないリビングいっぱいにたなびいている。足
がつくのは時間の問題だった。
さて、と……
ケンジはそれきりになったマールボロに火を点けると、
すっかり温くなってしまったミネラルウォーターのボト
ルをあおった。唇を逸れたひとすじの〈無味無臭〉が反
らした喉を伝って胸倉へと滑り込む。いまでもあのグラ
ウンドの蛇口はだらしなく錆臭い水を滴らせているのだ
ろうか。結局自分が何もしないことにいまさらケンジは
驚かなかった。
「だからさ、ほんのちょっとでいいんだよ。一日。いや、
半日でいい。長いつき合いじゃないか」
どうしてこいつはいつもこうも飴玉をしゃぶるような
喋り方しかできないのだろう。
「タナバタタナバタ。今度こそ、でかいヤマなんだ」
それを言うなら『棚ぼた』だ。
「な、いいだろ。頼んだぞ。じゃあな」
閉まりかけたドアの隙間で、震いつきたくなるような
メルセデスが生あくびを噛み(アイドリング)殺していた。雪はとうに止
みかけている。
あの頃……
ケンジはブラインドの羽根を擦り抜けた茜色のストラ
イプがゆっくりとキッチンの床を移ってゆくのを眺めな
がら、珍しく何かを思い出そうとしている自分を野放し
にした。
俺たちは互いの耳の臭いを嗅ぎながら泣いていた。涙
は決まって耳に入り、だから中耳炎とは縁が切れない。
さんた・まりあ。どんな祈りの言葉も呪詛ほどには役に
立たないことを思い知らされた日々。ピクリとも奮い立
たない舎監自身を銜えながら、あんあ・まひあ……奴は
唱える。さんざ殴られて腫れ上がった俺の瞼は、もはや
閉じることも開くこともままならなかった。さんた・ま
りあ。聖母子教会付属養護施設〈こどもの苑〉。抱きし
めてもくれない石の母親なんて、糞食らえだ。
「だからさ、言ったろ?おいらはあのベンツをガメただ
け――」
若い舌足らずなタメ口を刑事の手慣れたボディーブロ
ーが黙らせる。
「……ッてえなぁ。ま、カツ丼で勘弁してやる――」
さらに。
「上、でなきゃヤだぜ――」
さらに、だ。ともかく、あれを吐かせなければ。ただ
し容疑者の顔を殴るわけにはいかない。なにかと風当た
りのキツいご時勢なのだ。
電話がまた火のついたネズミのように泣きわめいてい
る。どうせすっぽかしたクライアントだ。ケンジは手首
のスナップだけで電話線を引きちぎると――いささか加
減が勝ちすぎて、フロアランプとクリスタルのクリスマ
スツリーを巻き添えにしてしまったらしい――やりかけ
ていた作業に没頭した。乳首の消毒……人肌の白湯……
ざりっと乾いた音を立ててブリキの缶の蓋が緩む。この
匂い……さんた・まりあ。ケンジはかすかに唇を歪めな
がら、おずおずとぎっちょの人差し指をその白い――シ
ロい?これが……まあ、いい――ほのかに粘つく匂いの
中心へ差し入れると、指先に絡むほんのりと湿った粉末
を舐めた。
……………
思ったよりずっと甘くはなく、やはり自分にはまるで
遠い、どこかできっと繋がっているのだとはとても頷き
ようのない味だった。
驚くほど豪勢な、そのままチャイルドシートにもなる
誂えのバスケットに納まった赤ん坊が小さくぐずり始め
ている。とにかく手のかからないそのお人形は、ミルク
とおむつの交換以外――どちらも赤ん坊同様、ふっくら
としたペールブルーのキルトの内張りにパッケージされ
ていた――まさにひっそりとした蛹だった。ケンジはと
っくに済ませてある旅支度に腰を下ろすと赤ん坊を掬い
上げた。
なんか臭い……
どうやらミルクのほうではなかったらしい。
[了]
林口僥子
七月二、三日の水甕全国大会のあと、榛名ご夫妻と私
たちは羽咋(はくい)を訪ねた。
先ず妙成寺を訪ねてから、折口信夫と春洋の歌碑のあ
る気多(けた)大社に着いた。入り口にふたりの歌が刻まれた碑
が据えられていた。歌は
迢 空
気多の村若葉くろずむ時に来て
遠海原の音を聴きをり
春畠に莱の葉荒びしほど過ぎて
おもかげに師をさびしまむとす
春 洋
である。脇の歌碑説明によると
「右は昭和三年六月はじめて 口能登を探訪した国文学
者折口信夫(釈迢空)明20〜昭28 が春洋の生家羽咋市
寺家町の藤井家に立ち寄られた時詠まれた歌である。春
洋(はるみ) 藤井家に生をうけ国学院大学在籍中から十七年間折
口博士と起居を共にして、後折口の養子となる。
左の歌は昭和十九年、兵役にある春洋を金沢に訪ねて
きた折口と別れた後に詠まれたものである。
昭和二十年、硫黄島において戦死、享年三十八歳。」
と記されてあった。昭和三年と記されていたが、中央公
論社 折口信夫全集31巻の年譜と河出書房新社の文芸読
本『折口信夫』の年譜(長谷川政春が記述)にはいずれ
も昭和二年六月になつていた。昭和三年にも能登を探訪
流行にでかけているがその記述はない。一方、藤井春洋
の生家を訪ねた記述について潮汐社発行服部忠志の『釋
迢空短歌抄 U』には昭和三年になっていた。昭和二年
と三年にも訪ねていったのであろうか。
釋迢空のこの歌は昭和五年に刊行された『春のことぶ
れ』の「気多はふりの家」の気多はふりの家(十九首)
の最初の歌である。潮汐社発行 服部忠志の『釋迢空短
歌抄 U』によると「気多はふりの家」の(はふり)は
「自歌自注」に「能登国気多一ノ宮、渚から三町、社の
森を負うて村は二つに分れてゐた。社家と寺家領で、家
は代々寺僧で勾当将監(コウタウシヤウゲン)と言つてゐた。ここにはふりと言
つたのは、世間神社の古い通称にならつたのである。」
とある。歌は四行ないし三行の段落がついての表記がと
られている。この歌の後の歌を数首あげてみる。スペー
スの関係から一行表記とする。
・気多の宮蔀にひヾく海の音耳をすませば聴くべかりけ
り
・海のおと聞えぬ隅に官立てりひたに明るき蔀のおもて
・たぶの杜こぬれことごと空に向き青雲は今日も雨なか
りけり
などの歌が続いている。
次に私たちが向かったのが、気多大社から二〜三キロ
南に位置する墓碑のあるところだった。厚み10〜15cmで
約80cm四方の四角い墓碑であった。これには
もつとも苦しき
たヽかひに
最くるしみ
死にたる
むかしの陸軍中尉
折 口 春 洋
ならびにその
父 信 夫
の 墓
とあった。これは昭和二十三年信夫六十二歳の時春洋の
墓石を決定し、墓碑名を撰び一ノ宮に送り、昭和二十四
年七月六日墓碑建立、その除幕式を行っている(中央公
論社 折口信夫全集による)。ひとり春洋の死に対する
悲しみ憤りを越えて、戦いに散っていった多くの若き戦
死者の上に普遍していくような次のような歌が見られる。
・戦ひにはてしわが子と 対ひ居し夢さめて後、身じろ
ぎもせず
・たたかひに果てにし子ゆゑ、身に沁みてことしの桜
あはれ 散りゆく
・あヽひとり 我は苦しむ。種々無限(シユジユムゲン)清らを盡す 我が
望みゆゑ
さらに『倭をぐな以後』には
・人間を深く愛する神ありて もしもの言はヾ、われの
如けむ
と原初の神を求めるような歌があることはよく知られて
いるところである。
墓碑は少し小高いところにあって、何基かの墓が周り
にたっていた。単純にして思いの外こじんまりとした墓
碑であった。葛が道をよぎり繁っていたが、墓碑のとこ
ろまでは至っていなくて、葛の花はまだみられなかった。
この墓碑を囲んで記念撮影をした。その後、千里浜のレ
ストハウスの裏手の大伴家持の歌碑に向かった。
・志乎路から直越え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船梶も
がも
は大きな歌碑であった。穏やかな日本海の波打ち際に手
など浸しながら、また砂浜をしばらく散策してから泊ま
るグループと別れて羽咋駅にむかった。
小松久美江
「甲府盆地に育ちながら私は何故かあの、ぐるりと高い
山々にかこまれたすりばちの底から眺める風景が嫌いだ
った。…略…ただ一つだけこれだけは偏愛している風景
がある。…略…甲斐駒は冬姿であろうが夏であろうが、
涙ぐましいほど立派なたたずまいである。やがて身も心
も完璧に立派なオジンになった時、あの風景に位負けし
ない歌を献じたいと思う。…略…」(『短歌研究』一九八
三年 五月号)
生地甲府についてこのように書いた三枝昂之は一九四
四年山梨県甲府市生まれ。早大短歌会、「反措定」など
を経て九二年「りとむ」を創刊、発行人である。歌集に
は『やさしき志士達の世界へ』『水の覇権』『地の燠』
『歴学』『塔と季節の物語』『太郎次郎の東歌』著書に
『現代定型論・気象の帯、夢の地核』『うたの水脈』そ
して『前川佐美雄』等がある。
塚本諄。一九四六年熊本県天草郡生まれ。一九六六年
「人間的」「水甕」入社。現在水甕熊本支社代表。歌集
に『一身』『青閾』がある。「…思えば昭和四十一年の
秋、内田守人先生の誘いを受けて、『人間的』に入り、
…略…有縁の有難さをしみじみ思わずにはいられない…」
と『一身』のあとがきに書く。
三枝昂之歌集『甲州百日』、塚本諄歌集『青閾』を読
み、三技にとってのなまよみの甲斐(山梨県)、塚本に
とって火の国(熊本県)、父を亡くし老いて小さくなっ
てゆく母親を残して出た故郷をどのように二人は捉えて
いるのであろうか。団塊の世代と言ってよい時に生を得、
今まさに壮年の二人である。まぎれなく夫であり父であ
り一組織人である。
なまよみの甲斐 三月の雨中にもつつがなき春四方(よも)にうかべて 『歴学』
信玄水飲みて心がひらさかの甲斐に帰れるつかのまあわれ 『甲州百日』
ひらさかの甲斐を抱きて連山は姿正しき雪の嶺なり 『甲州百日』
三枝は第三歌集まで故郷を詠む対象としなかったとい
う。確かに歌集を繙いてみるとベイルート、モロッコ、
トリポリ、アデン、リビアなど思想的傾向を示唆する世
界の都市がうたわれているが甲斐はない。例えば、「ま
みなみの岡井隆へ 赤軍の九人へ 地中海のカミユへ」
(『やさしき志士達の世界へ』)などがある。
ところが『歴学』の頃より作者は故郷を、故郷におけ
る自身を自然に受け入れ肯定しはじめた。作者は「脱出
するべき対象として盆地をとらえていた青年時代には決
して見えなかった故郷の美しさを、最初に教えてくれた
のは飯田龍太(一九二〇年山梨県生まれの俳人)の俳句
「かたつむり甲斐も信濃も雨の中」「水澄みて四方(よも)に関あ
る甲斐の国」をあげ、甲斐の抒情的相貌が故郷との心的
出会いをもたらした」(『PEE WEE』六号一九八五年
より抜粋)と書いている。
さて、抄出の作品であるが「なまよみの」は甲斐にか
かる枕詞。万葉集三二二に「なまよみの 甲斐の国 う
ち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で
立てる 富士の高嶺は……」とあるが語義不詳という。
古代地名には土地の国魂という霊が宿っていて、地名を
一首の中に入れると霊を歌が持つという信仰があった。
一首は「なまよみの」の枕詞の雰囲気とも相俟って、盆
地に立って周囲の山々を見上げながらの国見歌のような
伸びやかなゆたかなひびきが感じられる。また『甲州百
日』の二首の「ひらさかの甲斐」は平坂の甲斐であり、
赤石山脈、金峰山、甲武信ヶ岳、富士山そして関東山地
等に囲まれた甲府盆地の地形がありありと眼前にあるよ
うだ。「ひらさかの」は三枝の感性により創られた枕詞
であろう。
甲斐の言葉を使う折々秋立ちぬ露にごりなき連山のひだ 『甲州百日』
甲斐が嶺の寒気も母も動かぬか想い小さく技折るわれは 『甲州百日』
三枝にとって故郷は常に甲斐の山々であり母であるよ
うだ。今日、方言は若い人はほとんど使わなくなってい
る。方言の持つ素朴さ、親しみ深さ、あたたかさを伝え
るのは作者の親達が最後の世代であろうか。「『元気け?』
と電話の母ははじまりぬ八十路深まる折々の声」の一首
が集中にある。作者も恐らく普段は使うこともない故郷
の言葉を秋の風を感じた朝とか、出勤の寒さに折々使う
ことがあるのだろう。あるいは、故郷の駅に下り見上げ
る山々の襞の清冽さに自然に甲斐の言葉が出る。盆地の
寒さ、冷たさはひとしおと聞く。そこに住む高齢の、小
さくなってゆく母へその寒気の厳しさはいかばかりであ
ろうかと嘆く。「想い小さく枝折るわれは」の具体的動
作、枝の折れる乾いた枯れた音から、母その人のあり様
がしんしんと見える。
遠き明治の暮ししずかと思うまで母は変わらぬいちじく好み 『甲州百日』
東病棟七階誰か届けたる母と五人の息子の写真 『甲州百日』
無花果は現在高級化した感があるが、私たちが子ども
の頃にはどこの家の裏庭にもあった。作者の故郷、甲府
の母の家の庭にもあったのだろう。つつましく働くだけ
の、しかし、一本芯の通った静かな母を想うとき、母は
無花果のようであるというのである。その母親が入院を
した。子どもは五人、しかも息子ばかりのようである。
名詞を淡淡と並べ「誰か届けたる」に母親の子育ての姿
勢が髣髴とする。
二〇〇〇年『短歌』六月号〈農鳥〉に
四男は水道橋駅下り線ホームに在りき母逝きしとき
どれどれおほとう(「おほとう」に傍点)でも打っていただこうむかしのままの桃が咲いてる
等の母と故郷を歌った一連がある。作者は三省堂『現
代短歌大事典』の念校最終点検二日目、母の見舞に行く
指定券を用意し、十六時過ぎホームで下り電車を待って
いた。その頃母は作者を待つことなく亡くなったと『り
とむ』七月号に書いている。おほとうの一首は母の最後
のつぶやきのようである。イデーの作家と言われた三技
昂之も壮年になつた。故郷甲斐へのあたたかいまなざし
と、最期を看取れなかった母への悔いが、思想や理論を
越えて作者と作品の存在感を深くしている。
塚本諄の第一歌集『一身』を振り返ってみよう。
白菜漬あした噛みゐて塩を知る里に父亡く老ゆる母あり
阿蘇が噴き灰吹かれきてはつか積む車を今朝も発進さすも
前の一首は白菜漬の塩加減によって父亡き後、老いを
深めていく母を思う。後の作品は灰色の雪のように灰が
うっすら車に積もっている。阿蘇山は外輪山と阿蘇五岳
からなる活火山である。「今朝も」とあるから阿蘇山の
噴火がここしばらく日常化しているのであろう。火の国
と呼ばれる所以であろうか。
柿の花降りゐむ里の屋根おもふ雲のはたての母のゐずまひ
波をうつ麦秋の田の続きたり阿蘇谷ひろくましてたひらぐ
『青閾』からの二首。作者の家庭の事情は知らない。し
かし、今作者がいる頭上を流れてゆく雲のずっとずっと
はるかな故郷には、膝をくずさず毅然と座っている母が
いる。「柿の花降りゐむ里の屋根」から里山近く住む母
の家が見えるようだ。時々は母の顔を見に行きたいのだ
が、仕事の都合上思うようにならない。ここにも生活を
大切にする壮年がいる。三技と同様塚本にとっても故郷
と母は一体化しているようだ。母の暮らしへの想いを込
めながら作者は穏やかに現在の生活を重ねてゆくのだろ
う。それが真っ当であるわけではある。あるが、現代の
日本の親と子のあり方など問題を多く抱えた社会に思い
は複雑である。
夜半に覚め生き残る母をつと思ふとほき風の音ちかく聴こえて
ほけほけと汽車に揺らるる陽炎(かげろふ)のやうなる昼のひのくに平野
『短歌現代』八月号〈額の花〉、歌集以後の作品である。
「生き残る母」「とほき風の音ちかく聴こえて」と歌う
時作者の母への想いは切なく痛い。「ひのくに」は熊本
の古称。「陽炎」「昼」「平野」を漢字にして「ひのく
に」をひらがな表記することにより、火の山を持つ熊本
の本来のイメージを、平野に立つ陽炎によって包み隠し
ながらも活動するエネルギーとして現わしている。
次に『甲州百日』は三技が正岡子規、前川佐美雄の軌
跡を歴史の流れの中で論考し作品精読した上での歌集で
あり、特に前川佐美雄との出会いは作者にとって僥倖の
一つと考えられる。そこで佐美雄にかかわった作品を少
し読んでみたい。
むかし佐美雄が掘りしままなる大空の青き奥処(おくど)をわが掘りにゆく 『甲州百日』
秋萩は散りてしずかな通り道佐美雄なき世もはや二年なり 『甲州百日』
前川佐美雄、一九〇二年祭良県生まれ。歌誌『心の花』
編集に参与。「新歌人連盟」結成の中心となりアララギ
と対決、のち芸術至上主義に転じ昭和五年処女歌集『植
物祭』刊行、新風の代表的作品とされた。三十四年「日
本歌人」創刊。歌集に『白鳳』『大和』『天平雲』『金
剛』『紅梅』『捜神』『白木黒木』等。
ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる 『植物祭』
春の夜にわが思ふなりわかき日のからくれなゐや悲しかりける 『大和』
金剛のみねよりおろす寒風の或る夜はわれの魂吹きとほる 『金剛』
三枝の前の一首は「青空の奥どを掘りてゐし夢の覚め
てののちぞなほ眩(まぶ)しけれ」(『天平雲』)が意識下にある。
佐美雄には「蒼空」「大空」「青天」等空を詠んだ作品
が多い。自らが天上にありたい欲求があったのだろう。
青空は芸術の世界であり、青空を掘るということは芸術
への異和感とか既成の社会秩序へのたたかいであり、祈
りであり、そうしたメタファーと読め、三枝も佐美雄の
掘り続けた青空を掘りにゆこう、時代に敏感であろうと
しているのだろう。
最後に塚本の『青閾』の青色に触れてみたい。
古本に憑かれた男ゆふべまた店頭にゐて秋が深まる
影法師生るることなき長雨に愁ひかさねてわが閾(ゐき)出でず
馬の眼を久しく見ぬと気付きたり憂ひ蔵ひて夕の人混み
色の嗜好は流行とか風土の様に社会・環境・個人の性
格に因るという。青色は心の奥処にあり深部からゆっく
り表層に立ち上ってくる沈静・思索的な色である。一首
目、秋は色でいうなら白であろう。が上句よりどうして
も蒼の気配である。勤め帰りの夕方、古本屋の一日中、
日の射さない湿っぽい本たち。穴蔵の本に呼ばれるよう
に足が独特なにおいに向く。二首目、影が彩りを持つと
最初に記したのはゲーテという。「影法師生るることな
き長雨に」と表記されると、たちまち影が見えてくると
いうバラドックスが成立する。この影の色は濃紺色であ
る。三首目、馬の目は大きく、かなりはっきりと見る人
の姿が映る。馬の目にくつきりと映っていた自分を忘れ
ていた、時間、空間を夕ぐれの雑踏の中でふと気付く。
自然の空間における色は青色である。浅葱色とも言うべ
き色である。下句、馬の眼のまたたきと共に色がさびし
く沈澱していくようだ。
三枝昂之著『甲州百日』は第三回寺山修司短歌賞を、
又塚本諄著『青閾』は第四十一回熊日文学賞をそれぞれ
受賞された。
言葉との戦いが、余裕とゆたかさと深さを探りつつ掘
りつづけ、あおあおとひびいてくる。同世代の男性の歌
集の一首一首から、私は自分の存在のありようを確かめ
ることができればと思っている。
編集後記
長かった夏もようやく去り、朝夕
肌寒い感じとなりました。夏の間、
わが家の狭い庭は害虫の暴れ放題、
垣のつる薔薇も葉無しの棘蔓となり
ました。でも涼風と共に蔓先の芽が
伸びてきましたので、来春の開花は
期待できると信じています。
特別寄稿を頂いた徳島の山下富美
氏、湖西の河合緋紗氏、名古屋の大
森悦子氏に心よりお礼申し上げます。
会員諸氏の努力で、二号より少々
重くなつた三号ではございますが、
内容の方はまだまだと存じます。み
なさまの御批判、御指摘が今後のつ
る薔薇の添え木として、又、より大
きな花を咲かせるための養分となる
ことと存じます。どうかよろしく御
指導のほど、お願い申し上げます。
『雀百まで踊り忘れず』の譬えのよ
うに、狭い庭一杯に雑草を茂らせ見
所もない花を楽しんでいます。また
どうぞお遊びに!(原田)
二十数年ぶりに明治村を訪れた。
あの頃は確か徳川夢声が村長で、ま
だ道も悪く順路も整っていなくて、
物珍らしさに歩き回り疲れてしまっ
た記憶がある。
現在はさすがに順路も整い、どの
館も外観も素晴らしく、つい入って
しまいたくなる様配置されている。
西郷従道邸で、香り高い紅茶を飲み
ピアノを戯れに弾いて、明治貴婦人
を想い、夏目漱石宅で、書院の廊下
で猫の鳴き声を聞いた。聖ザビエル
天主堂では鮮やかなステンドグラス
だけがくっきりと浮び上がった、薄
暗い、高い天井の下、神に跪く厳か
な気分を味わったりした。明治の懐
しいような、のどかな時代を偲ぶ、
楽しいひとときを過せた。
さて、創刊号から一年経ち、『つ
る薔薇』三号発行となり、一年の速
さを実感している。皆様に親しんで
いただけるつる薔薇になれるように
日々努力したい。(田村)
・平成九年一月から始った〈ゆたか〉
短歌会であるが、一年あまりたった
頃から斎藤茂吉の『赤光』から一首
を抄出し榛名先生に解説をお願いし
ている。先生は私たち相手にも手を
抜くことなく多くの文献にあたって
お教え下さる。ありがたいことであ
る。「つるばら」の〈斎藤茂吉の歌
一首〉はこれがもとになっている。
先生の語り口そのものにも独持の魅
力がある。多くの愛読者を得ている
ことは大変うれしい。
・『短歌朝日』の短歌朝日大学の第
三回の受講生に会員の大村きぬ代さ
んが選ばれて学んでいる。第一回生
として山本大二郎さんはすでに卒業
され活躍しているのは衆知のこと。
二人の今後を同じ仲間として楽しみ
に応援したい。
・林口僥子さんの第一歌集が来年一
月に出版の予定。さわやかな感性、
知的な抒情の一首、一首がよい歌集
となることを祈っている。(小松)
つる薔薇 三号 発行日 平成十二年十二月十五日 発行者 榛名貢 発行所 つる薔薇短歌会 〒431-0422 湖西市岡崎695-31 編集委員 小松久美江・田村昌子・原田美甫子 印刷所 ハセガワ製版印刷 〒440-0015 愛知県豊橋市牛川薬師町21-1 電話<0531>53-0930