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「差異」と「書く」こと

榛名 貢

 現代ほど差異の問題が氾濫し、混乱しているときはない。差異は同一に変って哲学上の中心問題になったと述べて中村雄二氏はドゥルーズ『差異と反復』、デリダ『声と現象』、ソシュール『一般言語学講義』をあげている。
 ここでは最も根源的な、差異――差延について、高橋允昭訳『声と現象』の付論デリダ自身の解説的な一節を紹介する。

 記号に必然的な間隙化と文字素の機能に不可欠な句読点、間(ま)、差異のため、純粋に音声的な書字は存在しないのであれば、音声学主義的、論理主義的なこの論理は疑わしくなり、記号作用の過程一切は諸差異、諸痕跡の形式的な戯れだと考えなければならなくなる。
 なぜ痕跡が問題になるのか。音声的であろうと文字的、その他であろうと、すべての資料が中性化されたかに思われたまさにその瞬間に書記的なものが再び導入されるとすれば、それはいかなる権利によるのか、以前と同じ書字概念に依拠したり、さきの不均衡を単に逆転したりするのではなく、新しい書字概念を生み出すことが問題なのである。それを書記あるいは差延と呼ぶこともできよう。諸差異の戯れは、いかなる瞬間、いかなる意味においても単なる一要素がそれ自体で現前して、それ白身にしか回付しない、ということを禁止するような諸種の接合と回付を予想している。話された言表の範疇においても、それ自身が端的に現前するのではないような、他の要素へ回付せずには、いかなる要素も記号として機能できない。こういう連繋があるから、各要素は、その連鎖または体系内の他の諸要素の、当の要素における痕跡から出発して、構成されるのである。そういう連繋、そういう組織が、すなわちテクストであり、これはもう一つ別のテクストの変形においてしか生み出されない。諸要素内の何ものも、また体系内の何ものも、いかなるところにおいても、決して端的には、現前したり不在であったりすることはない。存在するのは、始めから終りまで、ただ諸差異の諸差異、諸痕跡の諸痕跡である。書記は記号学の最も一般的な概念であり、記号学は書記学となる。
 こうして、差延としての書記は、もはや現前・不在という対立から出発しては考えられない構造であり、運動である。差延とは諸差異の、諸差異の諸痕跡の、組織的な戯れであり、諸要素が相互に関りあう間隙化の組織的な戯れである。この間隙化は、もろもろの間の能動的であると同時に変動的な産出であり、(差異differenceを変えた差延differanceのaは、能動性・受動性に対するこのような不決定を、つまり、そういう対立によって、まだ支配されておらず、まだ分配されていないものを指している)、そういう間がなければ、≪充実した≫諸項は記号作用を行わず、機能を発揮し得ないであろう。それはまた、言連鎖の空間化であり、それが、書字を、言と書字とのあらゆる対応を、一方から他方へのあらゆる移行を可能ならしめるのである。
(すでに一般のフランス語辞典に採録されているデリダの造語)differance差延のaが内包する能動性もしくは産出性は、諸差異の戯れにおける生産的運動を指し示す。それらの差異は天来のものではないし、また、共時的・分類的操作をもって汲み尽しうる静的構造のなかに、一度に刻み込まれるものでもない。それらの差異は変形の結果なのであり、この観点からみれば、差延のテーマは、構造概念という、静的・共時的・分類的・無歴史的、等といった性格をもつモチーフとは相容れない。もちろんこのモチーフは構造を規定する唯一のものではないし、また、諸差異の産出、つまり、差延は無構造的なものではない。差延は、組織的で規則立った諸種変形を産出するのであるが、それらの変形は、ある程度まで、構造論的科学に活動の余地を与えうる。
 いかなるものも差延と間隙化に先行はしない。差延の発動者となる主観があって、差延がその主観に後から経験的に付け加わるというものではない。主観性は、客観性と同様に差延の結果、一つの差延体系のうちに刻み込まれた結果なのである。それゆえ、差延のaはまた間隙化が待機(時間化)、迂回、遅延であり、この遅延によって、直観、知覚、成就、つまり、現前への関係、現前する実在への、存在者への関連がつねに延期されることをも連想させている。いま、延期される、と言ったが、それはまさに<差異の原理>のためにほかならない。一要素は、諸痕跡からなる一つの有機組織において、過去もしくは将来の他の一要素へ回付することによってしか、機能せず、記号作用を行わず、≪意味≫をもったり与えたりしないということを<差異の原理>が欲するのである。差延のこうした有機組織的な相貌は、ある種の<力の場>に意識的ではないある種の計算を介入させるので、厳密に記号的な相貌から分離できない。意識的に話す主観は、諸差異の体系と差延の運動に依存していること、主観は差延以前には現前せず、なかんずく自己へは現前しないこと、主観は、自己を分割し、自己を間隙化し、待機<時間化>し、自己を延期することによってしか、自己を構成しないこと、また、ソシュールが言ったように≪ただひとえに諸差異から成る言語は、話す主観=話者の機能ではない≫こと、そうしたことを差延の有機組織的な相貌が確証する。
 差延の概念が、結びつく連鎖と共に介入してくる地点では、究極的に、一つの現前の現前性(たとえば、自らの陳述において自己へ現前する主観の同一性という形の主観)をもつ限り、形而上学のあらゆる概念的対立(能記・所記、感性的・英知的、書字・言、言・言語、通時態・共時熊、空間・時間、受動性・能動性、等々)は、非関与的となる。これらの対立概念はすべて、<差延に先立ち、それよりも根源的で、それを超越し、結局はそれを支配するような>、そういうある価値ないしはある意味の現前に、差延の運動を、何らかの契機において従属させることを意味する。これはまた、超越的所記の現前性である。

 井筒俊彦はデリダ論「書く」で、R・ローティの「書くとはデリダにとって、心の中に生起している想念を文字で書き写すことではない。そうだとすれば、それは、音声言語を通じて自己実現するはずの意味というものを文字言語のスクリーンに投射することになってしまう。そうではなくて、書くとは書き出すこと、何かを存在にまで引き出すこと、つまり、存在そのものを我々の目の前に引き出してきて見せるための術策なのだ」という解釈を紹介している。
 ここでは、差異は「相異」、差延は「相移」、間隙化は「空間化」、書記は「書く」、ないし「エクリチュール」と書かれている。
 自分のまわりに、自分の内部に我々は絶えずテクストを作り出している。そうすることを通じて、我々は我々自身を流動的、可変的なテクストとして織り出している。瞬間ごとに様相を変えていくテクスト織り出しの、きわめて人間的なこの営みをデリダは書くと呼んでいる。

水甕2002年1月号

・本文中の、
「difference」「differance」の最初の e には、アクサンテギュが付いています。IEでご覧の方はこちらを→「différence」「différance」


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