美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育(6)−及びその大学授業における実践−

金子一夫

(2000年10月4日 受理) 

Appreciation Teaching to Let Students Understand Methods of Fine Arts−Part6

Kazuo KANEKO

(received October 4, 2000) 

                  1. 本稿の目的

 前稿(1)〜(5)1)に引き続き,美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育方法を検討する。前回までの論考は次のようであった。(1)では従来の鑑賞教育論が曖昧な感動主義,「作者の気持ち追体験」主義であっために,学校教育の授業形式にあった明確な教育方法を編み出せないでいることを指摘し,鑑賞教育の目的を美術の方法論の理解とし,主に発問によって作品から方法論を発見,考えさせるという方法を提案した。それによって明確な鑑賞教育方法をもたらせることを論証した。(2)では,美術の方法論を理解することの意義,さらに形式的(自己表出的)側面における方法論の理解を目的とする鑑賞教育の方法について論じた。そして美術批評の教育,鑑賞教育によって理解された方法論を制作への応用についても検討した。(3)では形成過程的側面における方法論の理解を目的とした鑑賞教育を論じた。さらに鑑賞教育方法の種々の発展形態例として,作品を比較して美術の方法論を発見・理解させる方法について検討した。(4)では,鑑賞教材研究事例の一環として,葛飾北斎の「富嶽三十六景」のうちから,画面構成の基準としたと思われる格子と私の仮説で言う基本円が富士山頂を通る十作品,ヴァリエーション円が富士山頂を通る一作品の教材研究を載せ,教育実践事例を付した。(5)では,開発した教材の中からいくつかを選んで作った鑑賞パッケージのパック内容と目標について簡単に説明した。二つの教材事例と北斎の「富嶽三十六景」の構成についての教材研究では、前稿の仮説とは違う基準格子の可能性も検討した。

 本稿(6)では、鑑賞の教材及び鑑賞の授業過程を理論的に解明した。まず、授業によって児童・生徒の認識水準が高まることが、授業が教育として成立する条件であるとした。鑑賞の授業を教育として成立させるには、教材(作品内部)に既得認識や現実的認識では矛盾するという問題を設定し、それをより高い認識(美術の方法論)によって解決させるという弁証法的過程を踏むと考えた。その観点から教材の構造と授業過程を検討した。その後に具体的授業過程事例を二つ付した。


*茨城大学教育学部美術科教育研究室(〒310-8512 水戸市文京2丁目1-1) 

2.教育における認識の弁証法的上昇過程  

 児童・生徒達が楽しく過ごせたという理由だけで、その授業を評価することはできない2)。いくら楽しんでも、授業によって学習者の認識構造が高度化・深化しなければ教育とは言えないからである。ここで言う「高度化」とは認識水準のより抽象化・一般化、「深化」とは認識内容のより確実化・精緻化を指す。普通は、まず高度化があって、深化が次に来ると考えられる。ともに認識の強化として括ることができる。もちろん、教育においては高度化も深化も絶対的なそれではなく、児童・生徒にその時点での既得認識に対して相対的に高度化・深化したかどうかが問題になる。

 筆者は美術科教育の目的は、美術の方法論の理解と実践であると考える。それゆえ、美術科教育での認識対象は、美術の方法論である。かつて言われたような美術を通した社会的現実ではない。美術は社会的現実と関連はするが、それを超越するものである。美術の方法論の理解が認識の主に高度化、その実践が認識の主に深化をもたらすと考える。「主に」というのは、理解と実践は相互に認識を高度化・深化しあうので、明確な機能分化はないという意味である。美術の方法論の理解と実践がともに、より高い認識を実現・強化するのである。

 理解・実践によってより高い認識を実現する過程構造と、それを実現させる方法の解明が授業方法論に必要である。より高い認識は、その言語的表現を被教育者に示すだけで実現するわけではない。それで実現するならば、学校教育は必要ない。個人は成長・変容の過程にあり、認識の個人的水準も、年齢や所属社会といった共通性と個人の特殊性との接点にある。各個人の認識水準は、その人の過去を含んだ現在地点である。それゆえ、より高い認識水準への上昇とは、過去を含んだ現在の既得認識を超える近未来・新認識の形成である。既得認識は保持できている以上、対象と何らかの形式で調和している。その調和的既得認識の克服過程は次のようになろう。まず対象との異和を意図的にもたらす。既得認識では対立矛盾する事態の意図的設定である。それが授業での教材に即した課題提示や発問に当たる。さらに発問・指示等によって対立矛盾を解決する新たな認識を獲得させるという順序になろう。直接的に新認識へ導くのではなく、既得認識を経由させるゆえに、既得認識の克服になり達成感も出てくる。授業はこのような認識の弁証法的上昇過程になる。

 既得認識は否定されて消滅するのではなく、新たな認識の基礎として認識層の厚みを形成する。この認識層の厚みは、人間内面に蓄積される豊かさであり、教育としても重要視すべきである。この認識の発展と厚みについては、庄司和晃の認識の三段階連関理論が参考になる3)。既得認識の克服と基礎への編入が無ければ、新認識は言葉だけのいわゆる観念的理解となる。観念的理解は無いよりはましであろうが、新たな対象理解に耐えるだけの内実、認識の厚みをもっていない。例えば、美術の方法論を知識として知っていて、実際の鑑賞や制作に生かせないのが観念的理解である。

 鑑賞においても、教材(作品)の含む問題を克服することによって美術の方法論の理解がなされる。既得認識では解決できない問題を、ある美術の方法論で解決させることによって、その美術の方法論の理解(より高度な新たな認識)は十全なものとなる。その過程と教材構造の詳しい解明、すなわちミクロ的な問題の解明を次節でする。人間の成長発達過程というマクロ的な問題は次の機会にするが、学校教育という中間的規模における問題は本誌「教育科学」分冊の拙稿で検討した4)。  

3.鑑賞の授業過程 

 美術科授業において「美術の方法論の理解と実践」は、相互に往復する過程となる(図1)。鑑賞の場合、理解とは教材から美術の方法論の理解へ上昇する過程、そして実践とは美術の方法論から作品へ下降し解釈する過程である。互いに逆方向でありながら、どちらも認識を強化する。もっと細かくみると「美術の方法論(教育内容)」と「鑑賞対象作品」(教材)との間を理解と実践とが往復する過程になる(図2)。鑑賞対象の作品は、教育内容によって意義づけられて教材となる。

教育内容は対象から抽出されるので、教材は対象

から引き上げられた教育内容を頂点とし、対象の現実的物質層を底辺とする三角形の概念図で表すことができる(図3)。教材の中を理解と実践が上下して進行する。
 
       
  その教材のもつ美術的・新認識のレベル      
            
 理解↑・実践↓    A
     






 

理解
↑↓
実践
 




 

    美術の方法論
   理解↑ ↓実践
   鑑賞対象作品
 
 現実的・旧認識      
    のレベル        
          @
   



 
   

 図1理論と実践  図2 美術の方法論と理論・実践  図3 教材と理論・実践の進路

                          

 ある教材(教育内容)の認識水準は、授業時点での児童・生徒の既得認識水準より少し上にある。そうでなければ、その教材は児童生徒にとって退屈である。そして、既得認識から新たな認識へ直接行っては前述のように観念的理解になってしまう(図3-A)。既得認識では矛盾する、解決不能な問題を教材から抽出し、あるいは教材の中に発見させ、それを解決できる新認識(美術の方法論)を獲得させるのが授業の過程である(図3-@)。ただ美術科教育において、この既得認識は必ずしも美術的認識とは限らず、現実的認識の場合もある。美術の方法論とは「現実的認識とは違う、美術独自のイメージ創出の方法」である。現実的認識と美術の方法論による美術独自のイメージは対立矛盾することが多い。児童・生徒も現実的認識を普遍的論理として意識している。それゆえ、美術作品における現実的認識との不整合は、解決すべき問題として設定しやすい。鑑賞授業は美術作品の現実認識的問題を解決する行為を通じて美術の方法論の認識に至るという明確な構造をもつことができる。その美術の方法論の認識は、当然、既得認識水準より上になる。もちろん、現実認識との矛盾ではなく、美術的認識内部の矛盾をより高度な美術の方法論によって解決することも当然あるが、それはかなり高度な鑑賞の授業になるであろう。

 鑑賞の授業は、教材である対象作品内部での問題の解決を通して、頂点部にある美術の方法論へ行き着かせる。まず作品内部、そして問題意識へ赴かせるのが、発問や作業といった教授上の手だてである。直接的に答えを問うような発問がよくないとされるのは、この教材内部を通らせない

 














 
 
                  
              美術的または新認識の水準

               現教材

   
   
   ↑  
抽象化・理解  



 
  現実的または既得認識の水準
具体化・実践
   ↓
 



  
   前教材    
 
      時間 →
     
   

       図4  教材・認識の過程

 

 



















 
 
                 目標以上の新認識の水準    
                     G回答          G
                     F発問















 
              授業目標の新認識の水準     F
                 E回答            
                 D発問             E
      中途段階の新認識の水準     D
           C回答                    
  既得認識の水準     C
        @作品の提示                
        A作業
                       C  
         B発問

                        
時間→→
   
   

       図5 鑑賞授業の過程と教材

ためである。教材内部をどのように通らせるかは、様々である(図3-@)。概念図3,4のように教材の三角形内部を上下して進む。上下の運動については後に検討する。表現教材の場合は、まず直接的に美術的・新認識へ上昇させ、そこから表現実践として教材内部へ下りてくるのが普通であろう。鑑賞の場合は、美術の方法論の認識へ直接的に飛躍させるのは原則的にはない。しかし、その後に教材内部へ確認のために下りてくるという方法は例外的にあるかもしれない。

 学校教育の中で鑑賞の授業は単発で終わるのではなく、複数の題材がある順序のもとに学習される。後の題材の方が前の題材よりも、教育内容である美術の方法論の認識水準は上になっているはずである(図4)。そうでないと、退歩であるし、児童・生徒にとって退屈な教材になってしまう。もちろん、場合によっては似た水準の教材が続く場合もあろう。しかし、その場合も、蓄積による豊富化を踏まえている点で、後の教材の方が高水準になると見るべきであろう。そして、前題材での理解が観念的理解であったり、学んだ方法論が忘れられている場合は、前題材とおなじ認識レベルからやり直すことが必要である。それであっても、前題材の経験があれば、当該教材の目標へは容易に到達できるはずである。

 実際の授業は、教師が発問等によって意図的に作品内部の問題を意識させ、その問題を解決する認識へ上昇させることを複数行う過程になる。その中に中心的な発問がある。発問と回答の積み重ねによって、その授業の目標であった美術の方法論の理解へと至る。図4内部を拡大して、授業の進行との関係を示す概念図にしてみる(図5)。作業や発問は、問題を提示して児童・生徒の意識を作品の具体的内部へ向かわせる。教師の発問と児童・生徒の回答との交換によって、児童・生徒に既得認識では解決できない具体的な問題を意識させ、それを解決するための美術の方法論の認識へ上昇させるのである。

 以上のような授業過程論は、最近流行の授業方法論からすると、あまりにも従来型の授業すぎるという意見があるかもしれない。つまり、最近の授業論の主流は、もっと生徒の意見や感覚を尊重した出力型、あるいは問題発見・解決的な授業であると。しかし、授業論としては従来型であっても、明確に教材や発問の構造を踏まえた鑑賞教育の授業方法論は提案されたことがない。その意味で正統的な授業過程論を確立しておく必要がある。それから、出力型や問題解決型の授業とは、児童・生徒が問題の設定と解決をするものであろう。しかし、一般論としてそのような授業が認識水準を上昇させるとはとても思えない。単なる経験に終わる危険性が大である。そのような授業には教材構造論や授業過程論が無いので、偶然でない限り高水準、明確な成果は得られない。授業時間が削減される中で、美術科教育が休み時間と似たような活動を授業の中で行うことは避けたい。

 いわゆる「楽しい授業」運動には、高度な認識論が基礎にある。しかし、授業が楽しければ意味ある成果が必然的にあると言うような単純な主張は、根拠のないものである。楽しさにもいろいろあるわけで、児童生徒に任せたままでは、易きに流れていくのが普通である。それゆえ出力型授業の主張者も、認識水準が必ず上昇するという鑑賞授業過程論と成果例を示し、そして多くの一般教師が使用できるような授業方法論も示すべきであろう。単なる善意の表明だけのような授業論は、一般教師を惑わせるだけである。

 本シリーズで提案してきた美術の方法論の理解を目的とする鑑賞は、美術を専門としない一般大学生に対する筆者担当の授業では成果をあげている。受講生にも好意的に受け入れられている。少なくても中学生までは通用すると思われるし、そのような事例もある。 

4.鑑賞授業過程事例1 

 以上のような鑑賞授業方法論を踏まえて、過程案事例を二つ紹介する。この論文シリーズの(1)で紹介したベラスケスと小山正太郎の作品についての鑑賞授業過程である。いずれも内容的側面での方法論の理解を目標とした事例である。形式的側面での方法論の事例は次稿で検討したい。本シリーズでは、事例は目標とした美術の方法論、発問、結果だけを紹介してきた。それは美術(図画工作)科教育法の授業の最後の短時間に発問して受講カードに回答させ、次週の同時間に解説するという授業形式のためである。つまり、小中学校の鑑賞授業のような過程ではなかった。しかし、その後いくつかの作品に関して、一定時間内に口頭による発問と回答をやりとりする授業形式で鑑賞を行った。それを踏まえて、一つのシミュレーション(授業過程案)を作った。記載した生徒の想定発言も、その中での大学生の発言を参考にしている。美術を専門としていない学生であるので、それほど中学生の発言とかけ離れてしまうものではないと思う。もちろん、授業での児童・生徒の反応を完全に予想するのは難しいので、実際の授業では臨機応変に対応すべきである。しかし、前もって明確な授業構造と教師の発言はていねいに計画準備しておくべきであろう。

 

 作  品   ベラスケス「官女たち(ラス・メニーナス)」1656年

 目標 美術の方法論 想像的視点(自己)

 準備 大きな複製(授業前に掲示しておく)、ノートまたは筆記用紙

 対象 中学生

 















 









     7.5×6.3cm




 














 









枠の大きさ 7.5×4.8cm




 














 

    図6 ベラスケス「官女たち」           図7 同 人物配置平面図

T 作品の提示、生徒のスケッチ作業(5分)

 教師の指示:みんなが見ている絵は、スペイン17世紀の宮廷画家ベラスケスが1656年に描いた  作品です。今日の授業は、この絵に描かれていることを考えます。まず、5分間でこの絵に描  かれている主要なものの配置を簡単にスケッチメモしてみましょう。ノートの1頁を四つに分  け、その一つに陰影はつけずに線だけで描きます。この作業について質問ある人はいますか。 (質問があったら、答えた後)作業を始めなさい。(授業で使っている授業用参考書にこの絵が  掲載されている場合は、この作業を省略して、Uから始める。そこに説明がついていれば、そ  の説明を踏まえた展開にするとよいであろう。)

 

U 説明、発問、生徒の発表による「官女たち」の事物的構造の認識(15分)

 教 師:Aさん、(画中のキャンバスの裏側を指して)これは何だと思いますか。

 生徒A:その上に絵を描くものだと思います。

 教 師:そうですね。この正しい名称を知っている人いますか。(キャンバスと誰かが言う)よく知っていますね。これを「キャンバス」と言います。(キャンバス、画布と板書しながら)日本語で「画布」ということもあります。木枠に麻布を張ったものです。裏なので木枠が見えています。自分のスケッチに「キャンバスの裏側」と書き込んでおきます。この後何であるかはっきりしたら、同じように書き込んでいって下さい。それではBさん、キャンバスの向こうに立っている人は誰だと思いますか。(その部分の拡大図を示すか、近くで見させて)理由も言ってください。

 生徒B:キャンバスに絵を描いている人だと思います。手に筆とパレットをもっているからです。

 教 師:そうですね。実はこれがベラスケスの自画像です。ベラスケスはスペイン王フェリペ4世の信任厚い宮廷画家でした。スケッチにベラスケスと書き込みましたか。この絵は宮殿内で絵を描いている一場面です。問題に早く行き着くために急いで説明してしまいます。中央にいる少女が王女マルガリータです。お姫様ですね。その両側にマルガリータのお世話をする二人の官女がいます。官女という言葉を聞いたことがありますか。お雛様に「三人官女」がいますね。宮中にいる召使いです。その右側に犬と小人がいます。当時の宮廷には道化として、このような小人がいました。奥には家臣たちがいます。それでは問題です。このキャンバスの表側にはどのような絵が描かれつつあるのでしょうか。画面をよく見て、約3分で答えとその理由をノートに短く書きなさい。注意する ことは、絵に描かれていることから推理し、何となくそう思うとか、絵に描かれていないことを理由にしてはいけません。書き終わったら顔をこちらを向けて下さい。

 教 師:それでは、書いたことを発表してもらいます。指名された人はノートに書いた答えとその理由を教えて下さい。(発表された推理は板書する。)

 生徒C:王女マルガリータだと思います。真ん中にいてモデルのように立っているからです。

 生徒D:この絵と全く同じ場面が描かれていると思います。ベラスケスは鏡を見て描いているのだから、鏡が手前にあって、この絵と同じというか左右逆になった場面が見えているはずと思うからです。

 教 師:その他の推理を書いた人はいませんか。(挙手した生徒Eを指す)

 生徒E:ベラスケスが描きあぐねて、何も描いていないと思います。

 教 師:それは登場人物の雰囲気を踏まえた、なかなか鋭い意見です。この意見は後で検討しましょう。とりあえず、ここでは、描きあぐねている場合でも、何を描こうとしていたかで考えて見てください。

 生徒F:画面のこちら側に二人の人が立っていて、その二人を描いていると思います。理由は奥にある四角形は鏡で、そこに二人が映っている。位置関係からするとモデルの位置に二人がいるからです。

 (少なくともC,Dの意見が出るまで発表させる。Fの意見は必ずしも出なくてもよい。画面に描かれていない理由を発表した場合は、発問時の指示をきちんと聞きなさいという。)

 教師:三つの意見が出ました。実は美術史家たちの説にも王女マルガリータ、この絵と全く同じ絵、鏡に映っている人物という三つがあります。みんなは美術史家とおなじレベルにあるわけです。それではもう少し検討してみましょう。 

V 教師と生徒の問答による「官女たち」の説話的構造の認識(15分)

 教 師:順に指名しますから答えて下さい。王女の両側に官女がいます。Dさん、この官女は何をもっているでしょうか。(見えにくい場合は拡大図を示す)

 生徒G:お盆に水差しをもっています。

 教 師:そうですね。それではEさん、この官女は何をしているのでしょうか。

 生徒H:王女に飲み物をあげようとしているのだと思います。

 教 師:そうでしょうね。Iさん、それに対して王女は、どう対応していますか。

 生徒I:官女の方を見ないで何かプンとして、すねているように見えます。

 教 師:先生もそう思います。周りの人が困った雰囲気になっているように見えます。先ほど、Eさんがベラスケスは描きあぐねていると言いました。この雰囲気を捉えた鋭い観察だったわけです。それでは、Jさん、右側の官女は何をしているのでしょう。

 生徒J:わかりません。

 教 師:Jさん、それではこの官女は何を見ているのでしょうか。王女を見ていますか。(官女の顔の拡大図を示す。)





      4.5×7.5cm



 








 




    4.5×4.5cm



 

図8 「官女たち」の中心部                  図9 官女の視線

 

 生徒J:王女の方は見ていません。こちら側、手前を見ています。

 教 師:そうですね。残念なことにこの官女ではないのですが、 たまたま現代の画家が水差しをもった官女の目に映った光景を描いています。それで確認しましょう。(福田美蘭の絵5)を見せる。) Kさん、この官女の目線の先には、何があるのでしょう。  

 生徒K:誰かがいるのだと思います。Fさんの言った、鏡に映っている二人?

 教 師:きっと、我々には見えないけれどもFさんの言う二人の人物がいるのですね。そうすると、この官女は二人を見て何をしているのでしょう。このポーズをしてみると見当がつくと思います。座ったままでやってみましょう。こちらにいる人を見ながら、手をスカートにあてて腰をすこしかがめる。これは何でしょうか。わかった人?

 生徒L:会釈、目礼をしている。

 教 師:すごい直観力ですね。そうすると、こちらにいる二人は誰でしょうね。

 生徒M:王様と女王様。

 教 師:きっとそうでしょう。これでこの部屋の中にいる全部の人達がわかりました。それでは、     ここにいる人達の位置関係を上から見下ろしたとしましょう。上から真下をみたように描いた図を「平面図」と言います(板書)。その平面図を作ってきましたので貼ります(黒板に貼る)この平面図を見て、このキャンバスに描かれつつあるのは何かを考えてみましょう。まず、鏡がこちら側にあったとしたら、後ろ壁の鏡には何が映りますか。

 生徒N:この絵と同じ光景が後ろの鏡にも映るはずです。

 教 師:Mさん、そうするとやはりキャンバスには何が描かれつつある?

 生徒M:王様と女王様。

 教 師:そうするのがよいでしょうね。

 生徒O:先生、質問です。その官女はこちらを見ているのは確かですが、しかし、こちらの下の方を見ています。こちらの立っている王様を見ているのではないと思うのですが。

 教 師:これはまた、鋭い観察がでました。これについて意見のある人はいますか。

 生徒P:相手が王様だから、目礼でも顔をまともに見ないのが礼儀なのではないかと思います。

 教 師:Oさんの観察も鋭かったし、それに対するPさんの解釈もみごとですね。もう少し深く考えてみましょう。この場の状況からすると、官女は、どのような気持ちから目礼したのでしょうか。推測できる人?

 生徒P:「王女様にうまく対処できなくて申し訳ありません。もう少しお待ちいただけますか」というような気持ちでの目礼であると思います。

 教 師:さらに鋭い洞察ですね。そう考えるのがよいでしょうね。さあ、そうするとこの絵に描かれた状況は、何がどうなっていると解釈したらよいでしょうか。誰か発表して下さい。

 生徒R:王様夫妻を描いているところへ、王女様が来て邪魔をしている。作業が中断してしまっている。官女たちが何とかなだめすかしているところだと思います。

 生徒S:私は、王様のところに行ってモデルとして加わりなさいと言われているのに、王女様はすねて行かないところではないかと思います。

 教 師:どちらもよい推測です。どちらもあり得ると思います。どちらがよりあり得るかは、それぞれの意見の人が後日もっと根拠を出して行くことにしましょう。 

W 教師と生徒の問答による「官女たち」における「想像的自己」の認識(7分)

 教 師:検討は面白かったと思います。ところが、もう一つ面白い問題があります。「官女たち」と平面図を見ながら考えてみましょう。位置関係はこうなっています。この「官女たち」という絵を描いたのはベラスケスです。これは間違いありません。ところが、この「官女たち」が表現しているお話では、ベラスケスは絵の中で国王夫妻の絵を描いています。絵の中の登場人物になっています。誰かに見られる側にまわっています。Qさん、そうすると、この「官女たち」の絵は、誰が見た光景でしょうか。

 生徒Q:わかりません。やはりベラスケスだと思うのですが。

 教 師:描いたのはベラスケスなので、ベラスケスが見ているのは事実です。しかし、この絵のお話では、ベラスケスは登場人物になってしまっています。事実ではなく、この絵のお話では誰が見た光景でしょうか。

 生徒R:鑑賞者ですか。

 教 師:鑑賞者という答えは、よい線いっています。ただ、行きすぎてしまいました。この意見については後で戻ります。まず、先ほど言ったように平面図を見ましょう。この平面図からすると、「官女たち」の光景を見ることができるのは誰でしょうか。

 生徒R:王様です。

 教 師:そうですね。つまり、ベラスケスは王様が見た光景を描いていたのです。正確に言うと、ベラスケスが王様にはこのように見えているはずだと、ベラスケスが想像的に王様になって見た光景です。(少し間をおいて)そうして、先ほどRさんが言った鑑賞者は、つまり我々は、この絵を描いたベラスケスの視線、そしてこの絵が想定している王様の視線の両方を体験していると言えます。

 

X 教師と生徒の問答による表現における「想像的自己」の普遍性の認識(8分)( この最終段  階は、内容をもっと分割して次週にまわすことも考えられる。)

 教 師:(少し間をおいて)このように絵画は、それを描いた画家自身ではなく、別な人が見たらどのように見えるかを表現することもできます。場合によっては、誰ともわからない人が見たり、人間でない虫や、死体が見たら見えるはずの光景を表すこともできます。 よく考えてみると、絵画の他にも作者以外が見た光景の表現は世の中にたくさんあります。それとは気づかないで、みんなも楽しんで鑑賞しています。そのようなものとして例えば何がありますか。

 生徒S:映画 漫画

 教 師:そうですね。映画や漫画の場面は、監督や漫画家が見たのではなく、登場人物が見た光景や、誰だかわからない人が見た光景が場面としてつながっていますね。(漫画の一場面を示しながら)例えば、これは登場人物が見た光景になっています。そのほかに気がついた人いますか。

 生徒T:小説などもそうだと思います。

 教 師:そうですね。自分の体験を忠実に再現したのではない、お話を題材にした作品はすべてそうなるはずです。鑑賞する人は、あたかも自分がそれを見ているような気持ちになります。一体化、同一化するわけです。しかし、この光景を見ていると想定される人は、作者と言ってもおかしいし、後から一体化するので鑑賞者と言ってもおかしい。ですから、「想像的自己」とでも言っておきましょう。

 

 事例Tの授業の展開過程構造について
















 
   G認識4:表現一般における想像的自己の存在    
        
   F発問:想像的自己の他の表現形式例は
                                  G
   E認識3:同作品の本質的水準の構造(想像的自己)     F
   D発問:誰が見た光景か                 E
   C認識2:同作品の説話的水準の構造     D
   B発問:描かれている状況は           C
   A認識1:同作品の事物的水準の構造     B 
      既成認識水準    A 

@『官女たち』のスケッチメモ作業     @

 
   
 

             図10 事例1における認識の上昇過程  

 事例Tでの授業展開構造を上図を踏まえて確認する。まず、T.画面のスケッチメモ作業@、U.説明、発問で画面内のものを確認させるA。画面の事物的水準の認識ではあるが、既存認識からの上昇ではある。次に、その事物的認識を踏まえて画中の「キャンバスの表側に描かれつつあるもの」を問題として提示する。この問いに答えるため再び生徒は画面へと下降していくB。教師は画面に描かれているものから推理しなさいと念を押す。これは、生徒の勝手な思いつきを避けるためである。大学生でも「お姫様の婚約者が描いてある」と言ったりする。画面とは関係ない推測を取り上げると、授業は収拾がつかなくなる。ただ画面に関係ある意見は授業展開に利用できる。事例の、描きあぐねて何も描かれていないという意見は後で利用されている。生徒とのやりとりで、この画面の手前に国王夫妻がいて、画中絵にも国王夫妻が描かれているという結論になる。さらに状況もかなりの精度で推測できた。これによって『官女たち』の認識が説話的水準にまで上昇するC。

 さらに、この説話的認識を踏まえて、「想像的自己」という表現の本質的水準の認識を、誰がこの光景を見ているのかという発問によって目指すD。教師は平面図に戻ることによって、生徒達にそれを発見させるE。ここまでで十分な達成であるが、特定作品を超えてより普遍的な水準へ認識を上昇させるG。「想像的自己」を一般表現論にまで適用させようとする。ただ、一回の授業としては、あまりにも急激な上昇である。次回授業でこの水準達成を試みる場合もあろう。 

5.鑑賞授業過程事例2 

 作  品        小山正太郎「濁療渇黄葉村店」明治22年(1889)

 目標とする美術の方法論 モチーフと題名で物語的内容を表すことができる。

 準備 大きな複製(授業前に掲示しておく)、生徒各自はコピー、ノートまたは筆記用紙、漢和    辞典

 対象 中学生 








           6.0×10.0cm



 











 







  6.0×3.0cm



 

 図11 小山正太郎「濁療渇黄葉村店」明治22年(1889)       図12 同 部分 

T 作品の提示、生徒による「濁醪療渇黄葉村店」中の事物の確認作業(5分)

 教 師:みんなが見ている絵は、明治時代の洋画家小山正太郎が明治22年に描いた作品です。今日の授業は、この絵に描かれているのは何かを考えます。まず全体と部分を見せます。この絵を見て次の問題に対する答えをノートに書いてください。(問題を板書)

   @季節は

   A描かれている人数は何人か

   B描かれている光景は、絵の描かれたのと同じ明治時代か

   Cこの人たちは、武士、町人、農民のうちどれか

   Dこの人たちは何をしているか。

    書く時間は3分間です。その他に気づいたこと思ったことがあったら、Eとして書いておいて下さい。書き終わったらこちらを見て下さい。今書いたことは、この後も消さずにそのままにしておいて下さい。消している時間がもったいないからです。新たにわかったこと、思ったこととなどが今書いたことと違ったら、その次に追加して書いてください。今からすることは作品鑑賞であって、テストではないので安心して下さい。

U 発問と生徒の回答による同作品の事物的構造の認識(10分)

 教 師:(全体を見せながら)季節は何と書きましたか。理由も発表して下さい。(挙手者を指名する。もし挙手者がいない場合は順に指名していく。以下同様。)

 生徒A:秋です。理由は葉が黄葉しているからです。

 教 師:そう思うのが自然でしょうね。それでは、人数は何人と書きましたか。

 生徒B:六人です。

 教 師:そうですね。では、この絵は明治22年に描かれたのですけれども、描かれた光景も明治時代ですか。それとも明治時代より前ですか後ですか。理由も言って下さい。

 生徒C:明治時代以前。明治時代であれば、馬に乗ったりやこのような服を着ていないから。

 教 師:そうですね。明治時代以前でしたら、彼らは武士、農民、町人のどれでしょう。

 生徒D:武士だと思います。

 生徒E:先生、これは日本ではなく、西部劇に出てくるカウボーイの一行ではないですか。カウボーイハットのようなものを被っているし、ズボンの前に皮もあてています。

 教 師:よく見ていますね。そしてカウボーイについてよく知っていますね。確かに服装が似ています。これについて意見のある人いますか。

 生徒F:着ているのがシャツではないようだし、普通、カウボーイは襟にスカーフを巻いています。帽子もよく見ると、カウボーイハットのようではありません。

 教 師:Eさん、Fさんはこのように言っているのですが。

 生徒E:私より詳しいようなので、取り下げます。

 教 師:Eさんがよく絵を見て自分の考えを発表したことは、とてもよかったと思います。それでは、これらが武士達であったとすれば彼らは何をしているのでしょうか。

 生徒G:狩りだと思います。服装から。(武士が手に鷹をとまらせているからと理由を発表した場合は、鷹の場所を指させる。ただ、現在までに最初から気づいた例は無かった。)

 教 師:「狩り」は「狩り」でも、もう少し正確に言うと何というでしょうか。テレビで時代ドラマを見ている人はわかると思うのですが。

 生徒H:鷹狩り。(「鷹狩り」が出ない場合も考えられる。その場合、鷹を指して「これは何でしょうか」と発問して、「鷹狩り」を回答させる。鷹を狩る猟と勘違いしていたり、本当に知らない場合は、鷹を放して鳥獣を捕る狩で、勇猛な大名等の嗜みでもあったと簡単に説明する。)

 教 師:よく知っていますね。実は鷹はもう一羽います。もう一羽の鷹が見つかった人は、コピーのその部分を指して下さい。隣の人と比べて見ましょう。お互いに確認します(向山洋一の言う片々の技術6)の一つの応用)。その他に気づいたこと、思ったことを書いた人は発表してみてください。(生徒の発表内容によっては、それを展開させる。) 

V 発問と生徒の作業・回答による同題名の意味内容の認識(15分)

 教 師:さて、この絵には画家がつけた題名(タイトル)がついています。(「濁療渇黄葉村店」と黒板に書いて、ルビを書きながら)この絵の題名は「だくろうりょうかつ/こうようそんてん」と読みます。漢文といって中国風に書いてあります。みんなで読んでみましょう。(教師は字を指でさしながら、生徒に読ませる)もう一回。それでは、ノートにこのタイトルをゆったりと左右をあけて書いて下さい。 さて、Iさん、意味を推測しながら、この題名を二つに区切るとしたらどこで区切りますか。さっき読んだとき、区切った感じになっていましたね。

 生徒I:真ん中で区切ります。

 教 師:よい勘をしていますね。皆さんは真ん中に区切りの線を入れましょう。Jさん、さらに区切るとどこで切れますか。

 生徒J:よくわかりませんが、濁醪と療渇、黄葉と村店ではないかと思うのですが。

 教 師:すごい勘をしていますね。当たっています。それでは、この区切りを参考にしながら、漢和辞典を開いて、それぞれの字の意味を調べて、ノートに書いた題字の脇に意味をメモして下さい。(あるいは二人一組になり、分担して調べさせてもよい。)

 教 師:一つ一つの字の意味を聞きます。指名順に一個ずつ調べたことを言って下さい。

 生徒K:「黄葉」は黄色の葉っぱですから、紅葉と同じというか、黄色くなった葉っぱです。

 生徒L:「村店」は漢和辞典に無いのですが、村の茶店ではないかと思います。

 教 師:そうすると「黄葉村店」は「黄葉」の中にある「村」の「店」といったところでしょうか。それでは難しい「濁療渇」の調査結果を答えてもらいます。Kさん、(「濁」を指しながら)この「だく」はどのような意味でしょうか。

 生徒M:「だく」は「にごり」です。

 教 師:Oさん、(「醪」を指して)この字はどうでしょうか。

 生徒O:醪」は「ろう」と読んで、「にごりざけ」「どぶろく」のことです。

 (漢和辞典がない場合は、「酉」の部首名のつく字や熟語、「酒」「焼酎」「酌」「酔」「醒」「発酵」「醸 造」「酪農」「酸」「配」等を挙げさせ、酒とか発酵関係の字義に気づかせる。「酉」は「樽」の形を象った もので、「とり」と読み、飛ぶ鳥と区別して「さけのとり」と言うことを知らせる。字義から「濁醪」が「どぶ ろく」であることを推測させる。ただ、この方法は時間がかかるので漢和辞典を使う方がよいであろう。)

 教 師:よく見つけましたね。Pさん、「療」は何でしたか。

 生徒P 医療、療養、診療、治療というようになおすという意味です。

 教 師:そうですね。Qさん、「渇」は何でしたか。

 生徒Q:「かわき」、「のどが渇いた」の渇きです。

 教 師:そうすると、題名の字の意味は順に「にごった」「どぶろく」「なおす」「かわき」となります。それでは、Rさん、「濁療渇」の意味は、何としたらよい?。

 生徒R:濁酒がのどの渇きをいやすです。「療渇」という言葉は漢和辞典にありました。

 教 師:すごい読解力ですね。そうすると、Sさん、全体でどのような意味になりますか。

 生徒S:「濁酒がのどの渇きをいやす。黄葉の村の茶店で」となります。

 教 師:すばらしい解釈ですね。俳句に直せば「濁酒が/渇きをいやす/村の店」でしょう。

 生徒T:質問です。濁酒は渇きを治すような飲み物なのでしょうか。

 教 師:よい質問でね。現代も夏にビールを飲むところを見ると、アルコールが入っていても渇きはいやされるのではないかと思います。そして、昔は外出先で生水は感染を避けるためにできるだけ飲まなかったと思います。その意味で濁酒は安心だったのでしょう。昔の濁酒はかなりどろどろしていたそうです。栄養補給物のような意味もあったのではないかと思います。興味ある人は、昔の生活の中での濁酒の役割を調べてみてください。 

W 教師と生徒の問答による同作品の説話的構造の認識(15分)

 教 師:それでは、題名の意味を頭に入れながらもう一度画面に戻って見てみましょう。Uさん、この画面中央の家は何になりますか。

 生徒U:村の茶店

 教 師:そうですね。この軒下に下がっている玉が何であるか、知っている人はいますか。

 生徒V:杉玉です。(近くに造り酒屋がない場合は、生徒が知っている可能性は少ない。その場合は、次のように展開。教 師:これは杉玉と言って、杉の葉を丸くまとめたものです。新酒ができたことを知らせるしるしです。)

 教 師:よく知っていますね。ところで最初に季節は秋としておきました。現代でも各地の「どぶろく祭り」は十月中旬あたりが多いと思います。ただ、詳しい人に聞くと昔の自然発酵では早くても晩秋にしか新酒はできないそうです。初秋の新酒は夏仕込みになりますが、夏は暑いので、発酵ではなく腐ってしまいます。ですからこの絵の季節設定が冬の可能性もあります。(昔の新酒のできる季節を調べさせてもよい。)

 教 師:では本題に戻って、Wさん、真ん中の二人の武士は何をしているのでしょうか。

 生徒W:茶店の女の人から二人の武士が「濁酒」を受け取っている。

 教 師:そうですね。それでは、絵の中の武士の中で一番最初に飲むのはどの人かわかる人いますか。理由もつけて発表して下さい。(生徒Xが挙手したので指名する)

 生徒X:受け取っている武士だとおもいます。飲みたい人が買うのが当然です。

 教 師:それ以外の意見の人がいれば発表して下さい。(生徒Yが挙手したので指名する)  

 生徒Y:白い馬に乗っている人が一行の中で一番上の人、主人だから、その人だと思います。

 教 師:どちらの意見が可能性があるでしょうね。どちらに賛成するか挙手して下さい。

    (挙手数確認後、あるいは受け取っている武士という答えしか出ない場合)Zさん、社長と社員が旅先で喉が渇いたとき、普通、ビールを買いにいくのはどちらですか。

 生徒Z:社員です。

 教 師:そうですね。そうすると、主従関係がある場合そうなる可能性大ですね。白い馬の意味に気づいたのはすごいと思います。この推測と違う意見の人はいますか。

 生徒A:白い馬の人が主人というのには賛成なのですが、普通は毒味のため家来が少し飲むのではないでしょうか。(この意見が出ない場合は、教師がこの可能性も言う)

 教 師:詳しいですね。確かにそういうことがあるかもしれません。それでは、Bさん、彼らは鷹狩りに行く途中ですか、それとも帰りですか。理由も言って下さい。

 生徒B:わかりません。

 教 師:喉が渇くとすれば、往きですか。それとも狩りが終わっての帰りですか。

 生徒B:喉が渇くのは鷹狩りをしてからだと思います。

 教 師:Bさんの言うように狩の前に渇いては情けないので、少なくとも往く途中ではないでしょうね。 

X まとめ:教師による題名・モチーフの指示表出的機能についての一般化(5分)

 教 師:さて今日は、描かれているものと題名を手がかりに、絵に描かれている話を考えました。たくさんのことわかったと思います。それでは、今日わかったことを全部使って、この絵に描かれたお話の説明をノートに書いて下さい。時間は5分間です。それが終わった人は今日の授業の感想を書いて下さい。 (5分後)まだ終わらない人も、一旦やめて話を聞きます。絵画作品は描かれているものや題名をよく考えると描かれた場面が何であるかわかる場合があります。今日の授業はそれをしました。この授業の感想も書いておいて下さい。場面の説明文と感想文は今日のうちに係の人に提出して下さい。終わりにします。 

 事例2の授業展開の構造

  表現されている場面の意味が分からないと、理解できない絵は、作者がつけた題名や画面に描かれたものを解釈して理解に到達することが必要となる。その作業が鑑賞過程の一部となる。この絵の場合、まず第一段階として書かれている内容を事物的水準で把握する。武士、鷹、狩といった最低限の事物を確認する。第2段階では、題名が漢文形式と凝っているので、その解釈作業をしてその題名の意味内容に到達する。美術の時間ではあるが漢和辞典を使用する。題名の解釈だけでは、美術作品鑑賞は完成しない。第三段階として、題名の意味内容と画面の意味内容を連絡する。そうして題名の意味するものが、十全なものとして理解される。そして画面には題名の意味内容以上の要素が描かれ、それを含めたものが作品が指示する内容となる。杉玉が下がった茶店で家来が主人のために濁酒を娘から受け取っているという説話的水準の認識に至る。そして、題名や描かれたものの指示表出的機能という一般化は、感想で書かれることを期待して、教師がまとめで簡単に触れて終わる。  

                  

 1) 金子一夫「美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育(1)」『茨城大学教育学部紀要(人文・   社会科学,芸術)』第44号,1995年,59-76頁. 「同(2)」同誌第46号,1997年,45-56頁.「同    (3)」同誌,第47号,1998年,49-62頁.「同(4)」同誌第48号,1999年,47-64頁.「同(5)」  同誌第49号,2000年,55-70頁.

 2)宇佐美寛『授業にとって「理論」とは何か』(明治図書、1978年)160頁.

 3)庄司和晃『認識の三段階連関理論』(季節社、1985年)

 4)金子一夫「美術教育学における授業方法論の考察」『茨城大学教育学部紀要(教育科学)』第50号、2001年、 - 頁.

 5)『芸術新潮』第50巻第8号、1999年8月。「特集 福田美蘭 名画をわれらに!」45頁掲載  図版。

 6)向山洋一『授業の腕をあげる法則』(明治図書、1985年)50-51頁.