美術科教育学における授業方法論の考察

 

金子一夫*

(2000年10月4日受理)

 

 

Methodology of Art Lesson as a Part of Science of Art Education

 

kazuo KANEKO

                (Received October 4, 2000)

 

 

1.序 美術教育学的前提

 

 美術教育学は、美術教育に関する整合的な認識体系(現時点ではその構築・整備の試み)である。美術教育学は美術教育の思考や現実を分析考察して構築・整備されるが、構築・整備されつつ逆に美術教育の思考や現実の解明に有効な道具としても機能するという往復関係が生じる。

 美術教育学は、一般美術教育学と個別美術教育学とに分けることができよう。広く美術教育一般に妥当する学が「一般美術教育学」であり、特定の美術教育に妥当するのが「個別美術教育学」である。個別美術教育学の中に、学校教育中の一教科の学としての「美術科教育学」がある。明確な領域区分があることと研究素材の豊富さから、美術科教育学がまず構築されるべきである。他の個別美術教育学や一般美術教育学は、美術科教育学との対比によって構築されていくであろう。

 美術教育は自然現象ではなく、社会現象である。とりわけ美術科教育は学校教育の一環である。科学研究は特定の問題・対象を分解抽出する方法をとる。つまり、美術科教育が社会的活動の複雑な相互連関の中にあるとしても、それ自体の固有の法則があると想定して美術科教育学という研究領域を立てる。その上で他の社会現象との連関が考察できると考える。これを敷衍すれば、美術科教育の中から授業という要素を、さらには授業を細かい要素に区分し、例えば授業技術を抽出して考察し、その上で要素間の連関構造が検討できると考える。

 美術教育学は、価値と事実とを考察する。美術教育は特定価値に導かれた意図的活動であるため、解明には、例えば美術教育内容の価値論的考察が必要である。しかし、教育内容の価値の解明だけでは不十分である。美術教育には、価値論には還元し尽くせない教育方法、教育対象といった要素があるからである。教育対象や指導方法を抜いた、価値の思念だけの教育学はあり得ない。また、教育現象は、教師や児童・生徒個人の心理を合計しただけでは解明できない固有の性格をもつ。それゆえ事実の観察から美術教育独得の構造モデルを把握しなくてはならない。このように、美術教育学には事実の客観的考察、内容の価値論的考察、そして両者の相互関係の考察が要求される。


*茨城大学教育学部美術科教育研究室

 以上の拙論中、限定された要素を抽出して考察できるという分解可能性に対立する意見はある。長町充家氏は早くから授業の全体性を主張されている。例えば「授業の一つの要素を取り上げることはその時点で授業の全体性の理解・把握を放棄するということになるか、あるいは、特定分野の中に美術教育研究を見るということになる」と主張される1)

 長町氏の主張内容は行動主義的研究やリサーチに批判的なバイテル流の良心的なものであり、新たな授業研究法の一つでもある。ただ、日本の美術教育学研究の状況は、科学的研究が飽和化した米国とは違うと見るべきであろう。未だ教師や子ども、さらには教師の思いを説けば正しいというような言説が多い。思いは尊重すべきだが、思うだけでは美術教育は解明できない。まず、研究方法を確立すべきであると思う。科学的研究は全体性や対象外の要素は方法的に定数と見る、あるいは括弧に入れる。授業の一要素を取り上げたとしても、方法的にそうするのである。検討するためには研究対象を選択・限定せざるを得ない。それゆえ、研究成果は部分でしかないし、絶対でもない「仮説」である。要素間の関係や授業の全体性(これも限定ではある)は、個別的な構成要素の研究の次段階の課題となる。もちろん、全体は構成要素の総和であるとするわけでもない。いかに要素を区別し、連関させるかが重要である。詩的エッセイであっても、授業の全体性そのものを対象にはできずに、特定の要素を選択して表現するしかない。美術科教育、その下位システムの美術科授業、さらにその下位の授業要素は分解可能であると仮定しないと、科学的研究は不可能である。

 また、価値と事実との両方を考察するとしたが、一つの研究においては片方しか考察できない場合が多いであろう。前段で述べたように、研究では関係の少ない要素を括弧にいれて、一つを追求するしかない。しかし、事実と価値の両方を関係づける作業は必要である。例えば、教育内容と授業システムや授業方法との関連である。美術教育内容についての共通理解が一般にあるわけではないので、教育内容との関連を欠く方法論は曖昧に見えてしまうのである。

 事実と価値の問題に関連して安東恭一郎氏の所論に触れる。安東氏は美術教育学研究として授業の事実を対象とする現象学的考察方法を提案する2)。従来の価値論的考察中心に見える美術教育学研究の反省に立った提案である。授業研究は事実を対象とすべきというのも当然の主張である。ただ、教育内容等の価値の考察、前提も必要である。そうでないと、安東氏の主張されるような現象学的方法は、教師や観察者の没価値的な意識の事実を重視することによって逆説的に一種の精神主義・倫理主義に近づき、そして決定の根拠が曖昧なため多数決主義に近づく危険があるのではないかとの懸念をもつ。教師や観察者が様々な意識過程をもつのは当然である。しかし、最終的には意識過程が問題なのではなく、授業についての認識内容や認識枠組みが問題なのであるから、命題として結論が出るようにしていただきたいと思うのである。

 さらに上の議論に関連して、外野から精神主義・倫理主義ではなぜ悪いかという声が出るかもしれない。精神主義・倫理主義は「理想を念ずれば、倫理的であれば、正しい・物事は可能になる」という思考である。例えば、「研究に子どもの姿が感じられない」「研究者は子どもを知らない」というような批評は、特定の子供観を絶対的善とする倫理主義の典型的なものである。しかし、研究に子どもの姿が感じられようがなかろうが、それは研究の意義・価値とは関係ない。そして、研究者が子どもを尊重しているかどうかは研究から判断できない。万一判断できたとしても、それを研究の意義・価値の判断基準にされては、全体主義である。また「研究者は子どもを知らない」というような言説は、研究の批評ではなく人物の批評であり、問題外である。

 

 

2.美術科教育における授業研究の目的と対象

 

 本稿では授業の定義を、学校教育で採用されている、単位時間に限定された、教師と児童・生徒の相互活動によって成立する教授・学習の場形式とする。そして授業研究は方法の議論以前に目的と対象を明確にする必要がある。研究方法は、量的でも質的でも適するものを採用すればよい3)

 授業研究の議論には、「授業研究のありかた」と「授業のありかたの研究」の二つがある。現状では、二つを同時に論じざるを得ないことが多いのでよく議論が錯綜する。ここでは分けて論じよう。まず「授業研究のありかた」での問題は、議論が常に提案レベルにとどまり、それを越えた共通理解へ収斂していかないことである。それは具体的実践の参考となる問題と結論を示せていないからと判断する。何が問題であるのかは、論者に理論的枠組みや前提になる命題がなければ設定はできない。そして授業研究は、授業の原理や原則の一般体系の確立をめざすべきである。個々の授業は、その様々なヴァリエーションとなる。そうなれば、授業のすべての要素が確実な裏付けと明確な言葉で表現された認識・技術の体系で説明可能になる。私見では、授業研究は「教育内容」を必ず考察要素に入れるべきと提案する。それがないので、多くの授業研究は曖昧に見える。

 実践と理論という論理的区分に従えば、授業研究は、授業実践研究と授業理論研究に分けられる。厖大に作成発表されている授業実践研究と呼ばれるものの多くが、実践の丸ごと報告になっていて研究の体をなしていないことを指摘し、その是正について既に発表した4)。本稿では、美術科教育の授業理論研究を検討したい。美術科授業の理論研究とは、「理論的課題を解決する認識を理論及び実践的事実を根拠にして提出するもの」である。

 現在の美術教育授業理論研究による共有研究成果はあまりない。が、研究方法はいくつかの類型に分けられる。それゆえ、現時点における美術教育授業の理論的課題とは、研究方法論の確立と研究成果の一般的原則化作業が理論的課題である。筆者は研究方法は教授学的四問題領域「教育目的」「教材」「授業技術」「学習者」を踏まえるべきとする5)。これらは相対的に独立しているので、相互に代用はできない。多くの美術科授業論は四問題領域を意識しないので、授業方法論として十全ではない6)。筆者はさらに「過程論」的要素をそこに加えたいと思う。それについては後述する。


 教育学

 教授学の四問題領域
教育目的  
教育内容    教育内容     
教育方法    教材       
        授業技術     
教育評価    学習者(の解釈内容)

 

 








 

教育目的 教育目標 
  過程論       教育内容

      教材          授業方法

           学習者(の解釈内容)

 








 

 図1 教育学と教授学の問題領域      図2 四問題領域の相対的独立性

 

 次に「授業のあり方の研究」は、「授業の事実解明的研究」と「あるべき授業の方法論的研究」に分かれる。この二つは関連しているが、便宜的に分ける。

 事実としての授業研究は、ミクロな対象からマクロの対象まで段階がある。一つの授業の中で発揮される個々の授業技術の研究は、微細なミクロの研究である。授業技術によって構成される個々の授業過程、いくつかの授業が集合した一題材の過程、あるいは1年間、あるいは6年間といった教育過程(カリキュラム)とでは、構成要素の単位が違ってくる。やはり、マクロな美術教育課程論(カリキュラム論)は、カリキュラム論として独立した研究領域があるくらいであるから、授業研究としては最終課題になろう。マクロになるほど、前述の過程論的考察が必要となる。

 

  ミクロ                             マクロ

   個々の授業技術論 −美術授業過程論−題材指導過程論−美術教育課程論

 

              図3 授業研究対象の段階

 

 授業の個別的姿や全体像の客観的調査は必要である。ただ、調査や分類の観点は、教授学的原則やあるべき授業の姿との関連で析出されてくるものであろう。それゆえ客観的調査でも、理論的枠組みが必要である。授業についての理論的枠組み、すなわちモデルは論者によって様々であろう。ただ、次のような授業の形式的特性は確認されるべき前提であろう。(1) 限定された場である。生活の全過程で指導する徒弟教育とは違い、明確に限定された場でおこなわれる。(2) 教師1名(TTの場合は違う)と複数の児童・生徒が一定ルールの下で同時に活動する。児童(生徒)間の相互影響がある。もちろん、教師対児童(生徒)一対一モデルを立てることは可能。(3) 一回完結ではなく、継続することが普通である。このような前提の下で、例えば、精密なシステム・モデル、共同体的活動モデル、教師と児童の一対一モデルなどが立てられる。美術科教育の授業として適当なモデルを検討する作業は、重要な課題である。教育内容との関連をどうするかが問題になる。

 次に、あるべき授業とは、まず授業目標の達成に成功する授業である。それゆえ「あるべき授業の方法論的研究」は、研究成果として授業目標達成に必要な授業要素や条件を示せなければ、美術教育者の関心に応えるものにならない。ただ、一授業の目標は達成したのに、結果として教育が失敗する場合もある。よい作品ができても、授業のせいで美術が嫌いになったり、児童・生徒の意識が不自由になっては失敗である。それゆえ、単なる目標達成の観点からではなく、教育としての授業がもつべき要素と構造についての一般原則を示すべきである。それが授業の方法論である。単なる授業の事実を集めても、あるべき授業の方法論はでてこない。例えば、成功、不成功授業の事実の比較によって授業方法論の研究も可能になる。授業者によって、授業過程や教育効果に雲泥の差が出ることは、無意識的な要素も含めて、授業の方法論が存在することを証明している。

 ほとんどの美術教育学研究者は美術教育の授業実践に関わる教師でもある。美術科教育の授業を感覚的にはわかっているのであろうから、自分が理想とする授業の像を方法論的に解明する研究姿勢になるであろう。方法論的に解明するのは、論理的作業であるから簡単ではない。

 筆者のあるべき授業像は「美術の方法論」を教育内容、その理解と実践を目標とし、個々の授業要素が授業方法論に裏付けられた授業である。詳しくは後述する。

 

 

3.美術科教育方法の論理類型

 

 美術の論理の内実や教育目的の設定は種々に可能であれ、美術科教育方法の一般論理は、「美術の論理(方法論)」を教育内容あるいは教育方法とするしかないことは否定できないであろう。そうでなければ美術科教育の独自性はないからである。それゆえ、美術の論理とは直接関係ない次の二つの論理は、美術科教育としては方法の一部でしかないと判断する。

 1.教師の人間的魅力をもって美術教育方法の論理とする論。創造美育協会の「美術教育は教師次第だ」というスローガンに代表される。教師には人間的魅力が必要ということは正論ではあるので、多くの支持者がいるであろう。しかし、これが教育論一般はともかく美術教育独自の方法とするのは無理であろう。さらに現実を冷静に考えれば、教育論一般としても筆者自身も含めて普通の教師には困難ではないかと思うのである。この論は若さで勝負できる教師や、鳥山敏子、松本キミ子のような異能の教師にしか妥当しない。しかも、鳥山、松本自身は人間的魅力の必要を主張しているわけではない。若さや異能をもたない大部分の教師は、教養や教育技術といったものの蓄積によって補完するしかないのではないかと思う。

 ただ、教師の魅力、迫力といった児童・生徒を惹きつける感性的要素、あるいは児童・生徒に反感を引き起こす教師の話し方、服装といった感性的要素がもつ力は無視できない。これらは教師のの経験談レベルでしか問題になっていないように見える。授業研究は生徒に対するこのような教師の感性的要素を重要な研究対象とすべきであり、一般原則を解明すべきである。それは美術教育方法の論理としてではなく、教育技術上の重要な事項になるであろう。

 2.表現の基礎となる生活や教師とのふれあい論をもって美術科教育方法の論理とする論7)。やはりそれを美術科教育独自の一般的方法としたり、それによって美術教育の方法が説明できるとは主張できない。もちろん、生活を生き生きとさせたり、ふれあうことは、表現の基礎となる経験を豊富化するものとして大事である。けれども、表現題材を生活に限定をすることと、授業方法論の探求を軽視させることから、あくまで方法の一部でしかないと言うしかない。

 さて、美術の方法論を教育内容か教育方法とする論は、さらに次のようにわかれるであろう。

 

           表1 美術の論理と教育内容・教育方法

美術の論理を  教育目的   教育内容の内実例 目標・内容の獲得結果の検証

教育内容とする

 


実用
 
造形の一般的方法論
美術の一般的方法論
現代美術の方法論
その他の美術の方法論

   可

 

教育方法とする

 
個の自覚
創造性形成
情操形成
認識形成
個性的美術の実践
創造的美術の実践
情操的美術の実践
認識的美術の実践 等

   困難

 

 以上のような諸論理が明確になって、美術科教育の授業方法論に議論を進めることができる。本当はその前に、学校教育に関する認識があるべきである。筆者の認識だけを次々節に後述する。

 美術の方法論を教育内容とするものは、教育目的を知か実用とする論に分けられる。今日、実用を目的とする美術科教育論は、先進諸国ではかつてのような力をもたない。これは先進諸国が生産中心の社会ではなくなったためであろう。それに対して美術知あるいは造形知・芸術知を目的とする美術科教育論は、可能性をもつ。この論の基礎には、美術は知的な活動であるという認識がある。美術はいわゆる科学的活動とは違うが、独自の論理をもつ。それを抽出して教育内容にするという考えである。日本では那賀貞彦8)、堀典子9)、金子10)、ドイツのギュンター・オットー11)、米国のDBAE系の研究者がこの系統にあると言える。美術の論理の定義や内容、基礎とする美術は、論者によって様々である。那賀は現代美術、金子は美術一般、オットーは近代美術(本人は現代美術と表記)、DBAEは当然ながら西洋美術であると判断する。ハワード・ガードナー12)も、美術は知的活動であると表明すれば、この立場に近くなるであろう。

 これらの美術の論理を教育内容とする立場からは、教育方法、その具体化である授業の方法論も論理性をもつものと想定される。教育内容である美術の論理がはっきりしていれば、それはどのようにすれば児童・生徒が獲得できるか、結果としてどの程度獲得できたかという、教育方法(教材及び授業技術)と評価も明確に追求できるからである。ということは、逆に教育内容としての美術の考察を欠く、あるいは前提として明らかにしない授業方法論は曖昧であると言える。教育内容(目標とすべき内容)が曖昧では、方法も曖昧にならざるを得ない。

 美術の方法論を教育方法とする論は、個の自覚、創造性、情操、認識など様々な人間特性・能力の形成を教育目標とする。美術的表現の活動を通してそれらを形成しようとする立場である。戦後の美術教育論の多くはこの立場である。この立場も美術を内容とするとは言えるが、その実質は流動的である。例えば、個の自覚を教育目標とする立場では、児童・生徒が個性を発揮しやすい教材を選択し、個性を発揮しやすい授業を工夫する。そして個の自覚の有無が評価される。

 しかし、個の自覚ということは精神的目標にはなるが、授業の教材、授業技術、評価を導く実質をもつものではない。過程あるいは結果で現れる様々な個性を理解し認めることはできるし、そうすべきである。しかし、美術科教育の授業は絵を描くとか工作を作る、あるいは鑑賞するといった具体的活動を通してなされる。個の自覚を目標とする立場からは、それらの具体的活動は仮の目標・内容であって、それらの本質は個の自覚のための手段である。しかし、個性は過程や結果ではじめて現象する。児童・生徒も授業計画に個性類型を設定されては、いやであろう。それゆえ、授業方法論は用意した教材を自由にやらせて個性を発揮させる、自然成長論にならざるを得ない。いわゆる児童・生徒の尊重であるが、授業方法論の追求はしにくいので、この立場からの授業論は現象学的記述という方法以外あまりないであろう。

 個性の評価は基準が曖昧で、かつ内面的・人格的要素に絡むので、それは現実に作動すると、逆に個性の否定になる危険性をはらむ。さらに指導されずに評価されることは、自然状態を評価されることである。それに正当性はあるのかという問題もある。個性の自覚論は、これらの難問を解決しなければならない。個性の自覚を、創造性、情操に置き換えても同様である。また、教育の目的と授業の目的は必ずしも直結はしない。個性の自覚を目標にした出力型授業を9年間受けたら、個性豊かになるかという問題もある。どのような入力が必要なのかを明らかにするという課題もある。

 

 

4.美術科教育の授業研究の類型

 

 美術科教育の授業研究は様々である。美術科授業の様々な類型を体系化するスケールの大きい試みが武田薫によってなされている13)。これは例外的であって、前節で述べたように、「美術の方法論」(論者によって呼称は様々である)を教育内容として、授業の過程をシステムとして捉えようとする授業研究が多い。それ以外では、長町充家を中心とする現象学的方法の研究が目立つ。つまり、美術科教育の授業研究は、以下のような二つに大別されよう。

 @ 教育内容、学習・指導過程のシステム化をもって授業方法論とするもの。 (システム論的)

 A児童、教師、授業観察者の心的過程論をもって授業方法論とするもの。  (現象学的)

 教育内容、学習・指導過程のシステム化論は、互いに関連しているのであるが、教育内容のシステム案の妥当性の考察を中心とする論と、学習・指導過程論を中心とする論に分けられよう。

 論者によって美術科教育の教育内容は様々に呼ばれる。天形健は「造形要素」14)、内田裕子の紹介するところのCLEARプログラムは「概念」15)、福本謹一・井上展也は「造形的発想」16)、丸雄治は「発想」17)、鷲山靖は「造形表現の意味」18)、蓮尾力は「想像の方法」「視の技法」19)と言う。これらはイメージの方法であるので、それぞれ想定が違うとはいえ、これらは本稿筆者の言う「美術の方法論」と重なるか、その一部として扱うことができる。ただ、各論者の研究の中心は教育内容のシステム化ではなく、教材・指導方法のシステム化であるように見える。例外は那賀貞彦で、しかも筆者の言うイメージの論理ではなく「発生の論理」で体系化しようとしている20)

 教材・指導方法研究は教育成果の事実という基準があるので、一致点は見つかるであろう。美術教育の議論としては、教育内容の議論が最後まで残ると思われる。

 次に学習・指導過程(方法)のシステム化では、授業計画と授業技術の研究があろう。前者では蓮尾力の研究が最も進んでいる21)。子どものイメージ形成過程のタイプと学年発展を関連づけていて、教授学の四問題領域を完備している。また蓮尾の所論は研究成果から原則的なものを提示して積み重ねていくという点でも評価できる。蓮尾は「造形学習における創造過程『システム・アプローチ』の研究」(『大学美術教育学会誌』第29号、平成9年)で授業をシステム化する構想を示す。「造形(手段)のステージ」と「能力(形成)のステージ」を設定し、この二つを区別し「能力のステージ」を先行させて授業計画をするのがよいとする。さらにイメージ形成過程タイプ、創造過程システム案、美術科教育の重要教授スキルの例、教師行動のカテゴリー等を提案している。

 また「イメージ形成のための授業研究」(『大学美術教育学会誌』第31号、平成11年)では、「授業は予め計画されるプロセスであり、意図的な能力形成のプロセスである。」他教科ほど「発問系列の重要性は見あたらず、自己活動推進型の授業では『一生懸命できたし楽しかったけど、勉強にならなかった』と思っている子の多いことが判明している。」「子どもは、イメージ形成の大勢を占める下絵の発想の段階で最も苦慮している」「教師が第一次イメージ形成に機能していないことを、(中略)物語っている。」イメージ形成過程を知覚、視覚、操作の三タイプとし、学年の発展と関連づけて分析している。イメージ形成の学習、「想像の方法」「視の技法」の学習を子どもは望んでいるなどと研究成果が原則として多数示されている。授業研究として参照すべきであろう。

 授業技術(教授法)の研究では、南部正人の「美術科に於ける教授法習得プロセスの研究(1)」(『大学美術教育学会誌』第27号、平成7年)が参考にすべきものである22)。南部は次のように言う。

「教授内容から独立した教授法は、単純なレベルをのぞいては存在しない。美術科の教授法は造  形的内容と有機的に結びついて存在する。本稿では、こうした造形内容と結びついた教授法を、  複合的教授スキルと呼び、(後略)」(P.233)

 「複数の教授スキルによって構成された複合的教授スキルは、一定の構造をもたなければ機能し  ない」「目的を持たなければ、一環した機能を果たし得ない」(P.234)。

 そして、熟練教師と学生の授業から基礎的教授スキル、複合的教授スキル(造形対象の言語化スキル)を抽出し比較し、教授法獲得のために必要な、具体的な教授行為による経験はマイクロティーチングによって、教授法の構造概念は意思決定モデルによって、文化は造形の直観的性格を 獲得できる授業内容によってもたらされるとしている。南部は具体的な事例までは言及していないのではあるが、原理的考察としては参考にすべきであろう。

 次に長町充家を中心する現象学的内省方法による授業研究は、従来の科学的研究の量的把握への反省に立ち、授業を分割・手段化できない全体的なものと捉えようとする。例えば、長町氏は「美術教育における評価」(『美術教育学』第8号、昭和61年)で美術教育は常に人間という全体を問題にするので、評価も全体を問題にする。他教科のように評定として評価を考えるべきでないとする23)。美術教育は「養育」である。実践記録の大半は「養育」の記録であり指導の記録ではないのは、本来のあるべき姿を示唆していると考えるという。また、共著論文「Project『羅生門』」(『美術科研究』第7号、平成2年)所収のコメントで、長町氏は「美術を人間性の根元性に直接関わるものである」とし、「教科としての美術をふくめ、美術をある目的を達成するための手段あるいは道具としてみるという考えに賛成ではない」としている。また「授業とは先生と生徒が共通の場で営む生活そのものである」(P.15)「先生と生徒の全人格的な出会い、触れ合い、対話の場であるという考えにたつと、図工・美術の『授業』の研究をおこなう際に欠かせない視点は、生徒がその授業で何を獲得したか、どう変わったか、ということに増して『その先生自身がその授業によって何を獲得したか、どう変わったか』ということになる」(P.17)としている24)。さらに「実践記録の作成過程 その1 授業の計画段階における先生の『顔』」(『美術科研究』第17号、平成12年)では、教師と子供の心理記述で授業論を組み立てようとしている25)

 ただ、本稿筆者の立場からすれば、学校教育は子どもの生活の一部でしかないという前提でなされるべきで、授業を全体的なものであるという議論にもっていくのには賛成しない。そして授業は、個々の授業関係者や観察者の心的過程の総和以上のものであろう。それゆえにこそ、個々人の心的過程を分析しながらも、一般原則や類型へ昇華する方向付けをもたないと、記述で終わるのではないかと心配する。現象学的方法に一番期待したいのは、学習・指導によって個々の学習者の中で起こる美術認識の構造変化様態の解明であり、記述ではない。

 本節での結論は、やはり「教育内容」「教材」「授業技術」「学習者」という四問題領域、そして発展(過程構造)を意識しないと、授業方法論は十全ではない。特に教育内容の考察が不十分であったり、教育内容を前提としない授業論が多いと判断する。一要素に限定するという自覚の下でならともかく、特定一要素をもって授業の全体を言おうとしたり、他の要素を非常に粗雑な形で要約してしまうのが問題であると判断する。

 

 

5.学校教育に関する基本的認識

 

 本節から筆者の美術科教育論となる。美術科教育方法論の議論は、各論者が前提とする教育的認識を明らかにしないために紛糾する場合がある。それを避ける意味でも、拙論が前提とする基本的認識を挙げる。そして本来は、この部分が美術教育学的考察で最初に確認されるべき部分である。

 

1.近代普通学校教育(公教育)は、諸種の文化財の教授・学習を通して学習者を社会化するとと もに自由な意識にさせ、かつそれらを可能にする方法・手段を獲得させる。学校教育の一環とし ての美術科教育の最終目的もそうである。近代社会の自由の原則は、行動に表さない限り何を考 え、何を思っても責任を問われないことである。学校教育は近代社会の価値観以外を指導するも のではない。しかも、学校は児童・生徒の生活の大きな部分を占めるとはいえ、一部でしかない。 家庭や個人の価値観には、反社会的なものとして出現しない限り介入はできない。そのためにこ そ各個人の価値観に無関心であってはいけない。

2.普通学校教育であればこそ、美術科教育が目的とする人間像も近代化・社会化された人間であ る。その基本的な属性をあげれば、知的・現実的・常識的であり、感覚・感情的・アナーキーで ないこと等である。これらが創造性や個性よりも基本的である。美術科教育はアナーキーな人間 の形成を目指すという言説は、人目をひくためのレトリックでしかあり得ない。まじめに言って いるとすれば反社会的人間形成をするということになるからである。

3.学校教育の目的が学習者個人を自由にすることであっても、それは単純に学習者を自由にすれ ば実現できるということではない。指導者と学習者がそれなりの努力をしなければならない。「真 理が我らを自由にする」という格言を想起すべきである。美術科教育では、美や美術を実現(体 験・認識)させることによって個人を自由にする。

  学校は個人を社会化する機能をもつゆえに、程度の差はあれ、精神分析で言うところの個人の 万能感を否定する「去勢」の要素をもつ。学校教育及び美術科教育は、それを認めるべきである。 児童・生徒もそれを受け入れて社会化ができる。それなのに学校で児童・生徒に現実の行為で万 能感を否定しておきながら、言葉では「平等」と「無限の可能性」の確認を強要することは、「去 勢」の感覚を無理に否認させることである。いわば二重に自己を否定させることになる。いわゆ る「社会的ひきこもり」は、このような二重の自己否定によって起こる未成熟の現象であるとさ れる26)。「人間は不自由だ。何でもできる訳ではない。しかし、本当の自由は知識・理解・表現 等によって獲得されていく内面の自由である」と言うべきである。

4.普通教育は、児童・生徒全員に自由・向上が実現することを想定する。自然状態では一部の子 どもにしか獲得できない内容を全員に獲得させることが、普通教育の使命である。その前提とし て、誰にでも最低限の美術的能力が備わっていると想定する。

5.上記から、授業を受けたことによって学習者が最終的には自由になる、向上しなければならな い。後述の一時的な低下はともかく、授業を受けても変化しない、あるいは低下するのでは教育 にならない。授業による学習者の自由・向上とは、より高次の状態(複雑、高度、明確なもの) へ内的構造が変化し、理解・表現できるようになる、意識のあり方が変わることである。

6.上記の変化は学校教育の論理からだけではなく、子ども自身の完成への意欲に基礎をもつ。子 どもには漠然とした未完成感がある。それゆえ、子どもには子どもに止まろうとする意欲と同じ くらい、大人になろうとする完成への意欲が同時に存在する。

7.前述の構造的変化のためには、楽しいだけの授業や、教師が主に活動する授業では効果がない。 何らかの理解と実践をもたらす、学習者が主に思考・活動する授業である必要がある。そうすれ ば必然的に学習者に楽しさだけではない、充実感がともなう。

8.授業における感動・自己表現・楽しさを重視する場合、それらの内容を問題にすべきである。 そうでなければ、向上したかどうかわからない。それらの内容を明らかにできずに、ただそれら があればよいとする美術科教育論は力をもたない。「小さな出会いの連続が陶冶の形をなす」の である27)。宇佐美寛の次の一節は、美術教育とは関係ない文脈で書かれているが、美術教育言説 が陥りがちな思考を反省させる。「子どもの喜びをたてにとって教員が自分の授業を高く評価す るのは無責任である。『喜び』は、授業内容の言葉に翻訳されなければ、異なる個人の間での検 討に耐えうる授業記録の文章には入り得ない28)。」また宇佐美は「授業についての論述の本質的 部分が致命的に弱いとき、『人間』的な語は、カモフラージュに使われる」とも指摘する29)

9.教育の目的は個々の授業の目標よりもずっと長期的なものである。それゆえ、個々の授業の目 標の完全達成が、逆に教育の目的を阻害してしまうことがあり得る。授業の目標は達したけれど も、例えば、学習者が一回一回の授業で完全さを求められて達成はしたが、学習意欲を失ってし まっては教育として失敗である。各学習者の心的状態、既得構造は様々であるし、一時的に落ち 込んだり、変化が見えないこともあろう。授業時に心理的余裕が必要である。そのためには、幼 児から、少年、青年、大人へとどのように美術的認識構造が変化するかの解明が必要である。

10. 授業にも美術にも方法がある。その結合である美術科授業にも、必然的に方法がある。これは、 教師によって教室の雰囲気(子どもの意識)、教育効果、結果として作品等に雲泥の差が出るこ とから証明される。ただ、その方法は単一ではなく多様であろうし、授業がうまくいく教師が客 観的に示せるとも限らない。それゆえに、授業研究はそれを客観的に明らかにすることを目指す。 そうでない授業研究は、倫理を強調する心構え論か平板な記録に陥るであろう。また、授業分析 も分析者によって雲泥の差が出る。本来、科学的研究は誰がおこなっても同じ結果になる方法を 取らなくてはならないのであるが、授業は複雑な要素からなり、優れた批評家による批評によら なければ明らかにできない面ももつのであろう。

 

 以上の基本的認識は、石川毅の美術教育学的考察からも裏付けられる。石川は「美術教育学の課題と方法」と題する論文において、美術教育学の根源的可能性としての一つの系列を構想する30)。すなわち、(1)教育は技術である、(2)この技術は自然に協力する模倣技術である、(3)この模倣技術は「如何に」ではなく「何を」模倣するか問題にする、(4)この技術は教える者である以上に、学ぶ者のそれである、(5)この技術はいわゆる芸術そのものである、(6)この技術は美的技術、美的なものである。これらを本節の基本的認識で言い換えれば、(1)は拙論で言うところの美術教育方法論の存在、(2)(4)は子どもの完成の意欲と美的体験による教育、(3)(5)(6)は美術の内容が問題であることを言っている。

 

 

6.美術科教育の基礎概念

 

 筆者の美術教育学思考を構成する基礎的概念を示す。美の定義から発して美術科教育の方法まで連続する一連の概念である。この概略については既に発表した31)


美の定義     :感情的イメージとして直接的に体験される精神的価値
美的体験     :感情的イメージ意識(現実意識と対照的である)
美術の定義    :感情をも組織化する視覚的イメージの構成創出
美術の方法論の定義:美術独自のイメージ創出の方法(現実認識の方法論とは違う)
美術作品の定義  :美術独自のイメージを現出させる様々な方法論の結集体(現出装置)

美術科教育    :学校教育の中で普通教育として行われる美術教育
美術科教育の人間像:芸術知(美術知)的人間
美術科教育の目的 :美術の方法論の理解及び実践
美術科教育の内容 :美術の方法論
美術科教育の教材 :美術の方法論を理解させるために採用・変形された美術の諸活動、
          あるいは鑑賞対象としての作品
美術科教育の方法 :上記教材を生かす、創作、鑑賞、理論・批評等の活動
美術科教育の学習 :美術の方法論の理解・実践による意識の自由化・向上
 















 

 美という最も基本になる概念から出発して、美的体験、美術、美術の方法論、美術作品と整合的に定義してある。感情的バイアスのかかったイメージとして体験されるのが美であり、その意識が美的体験(美意識)である。美は主体の意識状態によって左右されるもので、客観的対象ではなくイメージである。それゆえ、筆者の定義の特徴はイメージの論理にあると言える。美術は視覚的なイメージとして美を出現させる。それゆえ、美術の方法論とは、個の美術独自のイメージ創出の方法ということになる。この立場から美術作品は、様々な美術の方法論が絡み合った結集体であり、イメージを発生させる装置であると言えるのである。

 それでは美術科教育と美術との関係はどのように決定されるか。前に見たように、美術科教育は美術の方法論を教育内容とするか教育方法とするかのどちらかでしかあり得ない。筆者の立場は、それを教育内容とするのである。なぜならば、美術は種々の美術の方法論の結集体とはいえ、種々の方法論は作品として統一するように機能する。それゆえ、合理的なものである。それゆえにこそ美術家は感情と拮抗させた集中的思考によって作品を完成させるのである。鑑賞においても合理的判断と作品の感情的効果の差を見極めることによって、美術の方法論を理解することができる。美を感じつつ考察し、実践によって実現するのは、知的活動である。それゆえ、それは芸術知・美術知の実践による養成であると言うことができる。美術科教育もそれを目指すべきである。創造性・個性は結果としてしか判断できないのに比べれば、芸術知は明確な目標として設定できるのである。

 

 

7.美術科教育内容論

 

 美術科教育内容は、教育の観点から美術をどのように定義するかによって違ってくる。筆者は美術を既に見たように美術は「感情をも組織化する視覚的イメージの構成創出」であり、その美術独自のイメージ創出の方法を「美術の方法論」とした。美術の方法論は、感情をも客観化する、合理的な美術の知の現れである。感情の単なる表出では美術にならない。この美術の方法論が、美術科教育の教育内容である。美術科教育の目的は、この美術の方法論の体験と理解である。その彼方に美術知的に思考できる人間を想定する。

 また、映像メディアが美術科教育に導入されても、動画の方法論を三側面に追加するだけで美術の方法論で十分に対応できる。というか、美術の方法論でしか対応できないであろう。表出的な美術教育論は、対応できない。

 美術の方法論は、以下の三つに便宜的に分類する。

  @内容的側面の方法論  A形式的側面の方法論 B形成過程的側面の方法論          ある授業の目標では、どれかに焦点が絞られる。それ以外は背景に退く。

 

           表2 美術の方法論の三側面と種類(試案)

三つの側面 方法論の種類 (例) 具体的な方法論 (例)

内容(指示表出)的
側面における方法論
 
題材の選択 各自の関心や一般的題材体系からの選択
主題の設定 対象の自己表出性を強化する言語化
イメージ・レトリック 直喩、隠喩、喚喩、提喩、二重像
指示表出性の強化 超現実主義的表現

形式(自己表出)的
側面における方法論
 
イメージ生成手法 区画、過剰化、構成変更、脱機能、
想像的視点   透視図法とその変形、距離感、視角
造形要素の構成 線、形態、色彩、構図、視線経路
自己表出性の強化 抽象的表現
形成過程的側面に
おける方法論
 
素材 様々な素材、素材の体系
技法 様々な技法
物質性の強化 オブジェ的表現











 

 

 ただ、以上のように教育内容を設定しただけでは、個々の授業は計画できない。教育内容を選択決定し、教材を作成しなくてはならない。教材は「具体的な方法論」をさらに、教育対象者の既得構造や授業の諸条件に合わせて具体化したものになる。表現活動を中心とする授業を予定する場合、「具体的な方法論」が該当児童・生徒達に理解・実践できるような活動を計画し、それに合わせた諸々の準備をする。鑑賞活動を中心とする授業を予定する場合、「具体的な方法論」が該当児童・生徒達に発見・理解できるような作品を選択決定し、複製かスライドを用意する。次なる課題は、表に示されたような内容はどのような順序で理解・実践されるのがよいのかの探求である。

 

 

8.児童・生徒の類型論・発達段階論

 

 学習者である児童・生徒は一人一人違うとはいえ、その状態を大枠で把握するための手がかりとして類型(タイプ)論と発達段階論がある。

 類型や発達段階は、外的指標であるので対象事項を微細にすることによって、いくらでも微細にすることはできる。例えば、人物画における目の描き方の表現類型とか発達段階とかである。ただ、微細なそれが授業の計画・実施・評価に役立つかどうかは別である。授業者にとっては、授業の計画・実施・評価に利用できるような類型論と発達論である必要がある。美術科教育の授業計画に絶対的に必要なのは、美術科教育内容に関連した類型論、発達論である。前節で挙げた美術の方法論の体系は、論理的に整理した試案であって、発達や類型、そして指導との観点で整理されたものではない。それを発達・類型と指導の観点で整理した表を作るのが今後の課題である。

 美術科教育に関する発達・類型論の研究で注目する研究は、星泰利と蓮尾力のそれである。星は、自己評価が教師による評価と一致するのは、小学6年生以降と一時的に小学3年生という報告をしていて興味深い32)。さらに自己評価に関して自信過剰の過大評価型、適正型、過小評価型を類別し、指導法を提案している。蓮尾のタイプ論については既に紹介した。

 筆者の「美術の方法論」と発達段階との関連についての現時点での見通しは次のようになる。小学校4年生で美術意識に関しても大きな転換が来る。これは新たな意識が半数以上になるのが小学校4年生の内に起こるという意味である。小学校4年での転換以前は、内容的側面の方法論を中心にして、しかも児童にとってはその無意識的実践でよいと考える。転換後は、徐々に意識的に理解と実践ができるようにしていく。形式的側面の方法論も交えていく。形成過程的側面の方法論、すなわち素材や技法といったものは、すべての時点で考慮されるべきものとしてある。

 

 

9.児童・生徒の理解・実践と内的構造の変化

 

 類型や発達段階が大枠の外的指標であるのに対して、「様式」や感覚・認識・実践に関わる内的構造は、現象から直観的に把握される個々の理解・実践の方式である。美術科教育は学習者の美術に関する感覚・認識・実践の内的構造に変化を起こさせるものとすれば、学習者の既成の内的構造がどのようなものであり、それを何によってどのように変化させるかがはっきりしていなければならない。それゆえに、前述のように感動・自己表現・楽しさはその内容が問題になる。該当児童・生徒の美術に関する感覚・認識・実践の内的構造も想定されていなくてはならない。

 ところが、児童・生徒の美術に関する感覚・認識・実践の内的構造とその変化がどのようなものであるかは、十分に解明されているとは言えない。例えば、発達論と関連して児童生徒の美術に関する内的構造の変化とは、構造の交代なのか、機能変化なのか、構造の複雑化なのかという問題がある。そして大人と共通なのかという問題も解明されていない。それゆえ、とりあえずは想定による対処になる。内的構造にも微細なレベルから根本的なレベルまで種々あろう。一挙に変化する場合と、何回も繰り返して定着する場合があるのではないかと思う。新構造が出現しても、旧構造は否定し去れるのではなく、新構造を支える基礎として残っていくと思われる。

 この内的構造は、美術の方法論の個人的な発揮形態の源になっていると思われる。そして、新井哲夫の言う「様式」は33)、おそらくいくつかの複合的な美術の方法論の発揮形態であり、個人独得の感覚・認識・実践の内的構造から発するものと推定する。

 筆者の美術科教育論は美術の方法論の理解と実践によって内的構造を変化させるということである。そこに庄司和晃の「認識の三段階理論」34)から「のぼる」道と「おりる」道を援用したい。庄司は、対象−認識−表現、あるいは感覚的(具象的・個別的・経験的・体感的)−表象的(半抽象的・特殊的・コトワザ的・比喩的)−概念的(抽象的・普遍的・法則的・理論的)のような三段階の階層を設定し、人間の認識はこのような三段階を様々な形で「のぼる」「おりる」を繰り返しながら発展していくとした。美術の方法論の理解とは、具体的な作品や事例から認識するわけであるから「のぼる」ことであり、美術の方法論の実践は概念を具体的な形にするわけであるから「おりる」ことである(図4)。そして、この「おりる」「のぼる」を単位として繰り返しながら、感覚・認識・実践の内的構造が発展していく(右上図参照)。前に述べた「小さな出会いの連続が陶冶の形をなす」図式に似たものとなる。小さな一つ一つの出会いの内部は、それぞれ「おりる」「のぼる」の二つの動きを含むとすれば、二つの図式は連絡する(図5)。そして隣あう「のぼる」「おりる」矢印をつないでいけば、螺旋状に発展する図式になる(図6)。

 






 

     美術の方法論
             
    理解     実践
       教材   
 





 





 





 

 図4「理解・実践」と「のぼる・おりる」  図5  理解と実践の繰り返しが上昇していく

                                            


 以上によって、美術の方法論の理解
と実践が、学習者の内的構造の変化へ
連絡する図式(過程的構造)を描くこ
とができた。
 ただ、これはあまりにも概念的かつ
中間的な図式である。さらに具体的な教材や授業過程との関わりをもった精
 
 
 
 
 
 





 
  
  
 
 
 
 
   図6 理解と実践の繰り返しが螺旋的に上昇する
 

細な図式が必要である。その試みは本紀要「人文・社会科学、芸術」分冊の「美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育(6)」に譲る。そして、もう一つ発達論と連絡したマクロな図式が必要である。それは、次稿で検討したい。

 

 

9.美術科教育授業の方法論

 

(1)学習者における内的構造の変化具体例

 授業を教育行為として成立させるためには、前節のように児童・生徒の既存の内的構造を新しい構造へと変化させなければならない。これは「美術の方法論の理解と実践」という目的のさらに一次元上にある目的と言ってもよいし、教育としての成立条件と言ってもよい。内的構造の変化が継続した彼方には、芸術知的人間の像がある。本節では混乱を避けるために、この授業による内的構造の変化を「教育(授業)としての成立条件」と呼んでおく。この変化の構造図式は前節で見た。それでは、各時点での具体的構造的変化は、どのようなものであろうか。

 新たな課題に接した既存構造は、抵抗感や予想をもたらす。その抵抗感の克服や予想の転倒などによって、既存の構造が相対化され、新たな構造へ変化すると思われる。美術科教育における指導は、美術の方法論の理解や実践を通してこれを意図的に実現しようとする。もちろん、どの程度の克服と予想の転倒にするのかは、児童・生徒に合わせた配慮が必要であろう。

 この変化の事態をわかりやすいクロッキー指導を事例にして検討してみる。人間は物を水平垂直の軸に変換して視る傾向・概念がある。それは様々な方向性がバランスを保っているという美的ダイナミズムに気づかせないというか、それに抵抗する。小学校高学年以上での人物クロッキーは、人体をこの水平・垂直の枠に沿って捉えるという根強い概念(その時点での感覚・認識・実践の既存構造)を、水平・垂直でない様々な傾きのダイナミックな構成として捉えるという感覚・認識・実践の新構造に変化させるための教材とすることができる。そこでの目標となる美術の方法論は、斜め方向の組み合わせによるダイナミズムの創出である。

1.まず、左右非対称になるようにポーズさせたモデルを自由に一回描かせてみる。自然発達的状 態では、たくさんの短い線を鳥の巣のように重ねて水平・垂直の軸に沿って描く。これが既存構 造の発露であるが、そうであることは児童・生徒には認識されない。

2.次に一本線でゆっくりと描くように指示する。その理由として、鳥の巣のように描いては線の 美しさが出ないし、形を曖昧に見る習慣になることを言う。美術の小方法論の理解である。

3.一本線で二枚目のクロッキーを描く。美術の小方法論の実践である。一本線で描いてない児童 ・生徒には指示に従うように言う。児童・生徒はモデルを水平・垂直の軸に沿って描く。

4.実際のモデルの首や下肢が、今描いたクロッキーのように水平・垂直になっていないことを示 す。ここではじめて、既存の水平・垂直に見るという既存構造が児童・生徒に危機として意識さ れる。教師はさらに人体各部が様々に傾きながらも全体としてバランスをとっていることを示し、 そのダイナミズムが美的なものであることを言う。つまり、新たな認識構造を提示する。事実を 示されるので、児童・生徒は観念的には理解する。

5.次に背骨なら背骨という傾きを注意する部分を指示して、次のクロッキーを描かせる。新たな 認識構造を実践によって強化し、より豊かにする。観念的理解から感覚的理解に少し移行する。

6.描いている児童・生徒への個別指導として、実際に背骨が曲がり傾いていることを確認させる。 その影響がシャツの模様、ベルト、ジッパー等の傾きに表れることを示す。それがクロッキーに 表れているかどうかを確認させる。大部分の児童・生徒はできていない。児童・生徒は既存の構 造が強く働いていて、新たな認識構 造が未だ観念的理解であることを自覚する。

7.次にモデルの下肢の傾きに注意することを指示して、クロッキーを描かせる。両下肢の傾きが 平行している場合は、特に観念的な抵抗が児童・生徒にあり、傾きを弱めるように描いてしまう。

8.前と同じように下肢の傾きがクロッキーに表れているかどうかを個別指導で確認させる。その 後の全体指導でも、いかに観念がものの見方を規定しているかを確認しあう。

9.その後、授業終了時まで同じような繰り返しを続ける。

 

 以上のように美術の方法論の理解と実践が組になって繰り返されることによって、既存の認識構造から新たな認識構造に徐々に変化・定着していく。

 この構造変化という観点から、やっと水平・垂直の枠によって人間が描けるようになって、それを実践はじめたばかりの小学校低学年に、上記目標でクロッキー指導をすることは適当でないこともわかる。獲得されたばかりの構造を変化させられては、無構造になってしまう危険がある。獲得された感覚・認識・実践構造が十分に惰性化してから、新構造へ変化させるべきであろう。小学校低学年では美術の内容的側面の方法論を中心にした授業が適当であろうと思う所以である。

 また、クロッキーで、はっきりした一本線で描く、誤った線を消さない(具体的には消しゴムを使わない)ようにさせるのは、よく言われる時間の経済的使用という以上に、克服すべき既存の構造を意識させる意味がある。算数で誤った計算を消さないようにさせるのと同じである。このように一つ一つの指導が意味づけられ整理されることが、授業方法論研究の目指すところである。

 上記授業の方法は、従来言われた「概念くだき」と同じではないかという意見があるかもしれない。既存の構造を壊すという点では似ている。しかし、「概念砕き」は惰性化した構造をこわすという点にアクセントがかかり、こわせば子ども本来の表現が出現すると単純に想定し、本当に惰性化しているのかどうかの判断基準や、こわした後にそれをどのような構造にするかは理論的に検討されなかったように見える。子ども本来の表現が出現しなければ、未だ概念にとらわれていると判断された。子どもとしては釈然としなかったであろうと思う。新たな構造について検討しなかったのは、教育方法理論として不十分であったと判断する。

 

 学習者の予想を転倒させる結果が出る作業も、学習者に構造的変化を起こしやすいと言える。例えば、筆者の大学生に対する実践ではあるが、葛飾北斎の「富嶽三十六景」中の「五百羅漢寺」の鑑賞で、建築部材の線を延長すると富士山に集まるのではないかとほとんどの学習者が予想する。既存の知識を踏まえれば、そうであるからである。しかし、実際は富士山ではなく、複数の点に集まるように描かれている。そこで既存の漠然とした遠近法の理解から、「遠近法の目的に応じたアレンジ」の存在の理解という新しい認識構造に変化できる。この鑑賞での活動は、既存構造からの予想(おりる)が実験によって既存構造が否定され、新構造の認識(のぼる)という過程になっている。実践から理解へという順序になっている。

 以上のように筆者は美術教育の方法論を教育内容とし、それらの理解と実践によって学習者の内的構造の変化を起こさせるとする。

 

(2)派生するいくつかの指導上の原則

 @素材の体験とともに表現の構想は立てられなければならない。

 A鑑賞の授業では、まず作品が十分に見られなければならない。(確実に見させる手だての必要)

 

(3) 授業の目標の限定

 ある授業の目標は原則的には一つ、複数である場合は主従が明確でなければ、授業過程は構想できない。そのためには、教師が教育内容そして教材について自分の解釈をもっていなくてはならない。そうでなければ、その場その場の状況に応じて、授業は無原則に揺れ動いていってしまう。学習者の反応についても解釈できない。

 従来の授業一般を明確な目標のために情報と課題を与える入力型であるとし、これからは児童生徒が大雑把な目標の下で発信する出力型授業が必要であるという主張もある35)。しかし、美術科教育では少なくとも授業論に限っては、出力型授業が主流であった。美術科教育では、手本の厳格な模写でもさせない限り、常に出力型的要素はある。

 実証的授業研究は、授業目標と児童・生徒の獲得したものとのずれや実現の諸形式を考察対象とすべきである。ずれは必ずあるであろう。また教育内容の「美術の方法論」は概念でしかないから、児童・生徒の理解方式や作品への現象の仕方は様々である。目標が明確であることは、児童・生徒の理解や行動を狭い枠に押し込めることを意味するものではない。ずれは必ずしも否定的なものではなく、教師の予想以上の効果という場合もあろう。そして教師が授業目標としなかった要素は多様に展開するであろう。例えば、クロッキーにおいて前述のようなダイナミックな構成の把握を目標にした場合、細い線で描くか、太い線で描くかは、児童・生徒の選択に任され、各自の個性に合わせた多様な様式が出現する。美術の方法論の理解と実践を目的とした授業は、児童・生徒の個性を抑圧するという批判は当たらない。

 目標が不明確な授業では、教師の指導は無原則で恣意的にならざるを得ず、児童・生徒は釈然としなくなるであろう。

 

(4) 感動・自己表現・楽しさ

 前節で述べたが、世の美術教育論に頻出する感動、自己表現、楽しさ等の概念は、指導上の必要条件である。場面によっては必要でない場合もあろう。美術教育の個々の場面における児童・生徒の感動の内容、自己表現の内容、楽しさの内容を把握し議論しなければ、すなわち教育内容との関わりを検討しなければ、美術教育方法論は明確にならない。どのような感動、自己表現、楽しさでも、その児童・生徒を成長させると言うのは正しいであろう。しかし、それらがありさえすれば美術科教育になるという考えは、休み時間の方がそれらが豊富にあるという事実から反駁されるであろう。美術教育における児童・生徒の感動・自己表現・楽しさは、設定された教育内容に関わるものでなければならないのである。そして、授業研究は、児童・生徒の感動・自己表現・楽しさと教師の設定した教育内容とのずれがあるかどうかを考察対象とすべきである。

 

 

 

 

 

1) 長町充家「もう一つの美術教育論文」『美術科研究』(大阪教育大学美術学科)第4号、昭和61  年、77-83頁。同「解説『オルターナティブ』同誌、第7号、平成2年、21-39頁。 同「美術  教育研究の誕生」同誌、第14号, 平成9年, 75-97頁. 引用部分は94頁。長町氏は「美術教育  研究の誕生」で美術教育研究の条件として「子どもの生活・姿を彷彿とさせるもの」「子ども  に愛情をもったもの」「部分であることを自覚したもの」を挙げる。ただ、長町氏も同意見で  あろうが、本文で述べるように前の二つは研究の評価基準にはすべきではない。

2) 安東恭一郎「事実学としての図画工作・美術の授業研究の基礎付け」『美術教育学』第19号、  平成10年, 15-27頁. 

3) 量的研究法と質的研究法の論議については、平山満義(編著)『質的研究法による授業研究』 (北大路書房、平成9年)を参照した。

4) 金子一夫「美術教育の実践研究論文の問題点とその改善」『茨城大学教育実践研究』第号、2000 年、109-123頁。

5) 宇佐美寛『授業にとって「理論」とは何か』(明治図書出版、1978年)。宇佐美は授業を「教 科内容」「教材」「授業刺激」「(学習者の)解釈内容」というシステムとしてとらえるべきこと、 様々な概念はその概念を含む概念体系、つまり理論を抜きに語っても意味がないことを主張して いる。例えば「学力とは何か」は「学習の理論」や他の関連概念の検討抜きで議論しても解決し ないとする。

6) 長町充家「美術教育研究の誕生」同誌、第14号, 平成9年, 75-97頁. 長町氏は「授業」とは 「美術」「教育する人」「教育される人」「媒介物」「場」の五要素であり、美術教育研究はこれ らのいずれかに回帰しなければならないとする。「美術」は教授学が言う教育内容、「媒介物」 は教材、「教育する人」は授業技術、「教育される人」は学習者にあたるであろう。「場」は「過 程論的要素になれば、筆者の考えと共通する。

7) 上中良子「主権者として“生きる力”を子どもたちに」『アートエデュケーション』第13号、1992  年。上中氏の実践は感動的であり、生き生きと生活体験させることは美術教育方法の重要な方  法である。ただ、重要であるが一般的方法とまでは言えない。

8) 那賀貞彦「美術教育と表現の位相」『大学美術教育学会誌』第12号、昭和55年、75-84頁. 

9) 堀典子「造形要素を重視した絵画指導のあり方」『美術教育学』第9号、昭和62年、25-34頁.  宮沢賢治「シグナルとシグナレス」の絵画で表す実践事例。同「西ドイツの後期中等教育に於け る美術教育重視の意義」『大学美術教育学会誌』第19号、昭和62年、73-84頁. 1週6時間とい うドイツの高校の美術の授業内容の検討。同「鑑賞と表現の照応するドイツの美術教育」『大学 美術教育学会誌』第25号、平成4年、307-316頁. 同「アンリ・ルソー『夢』にもとづく鑑賞 と表現の授業」『美術教育学』第16号、平成7年、317-330頁.

10) 金子一夫「美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育(1-5)」『茨城大学教育学部紀要(人文・社 会科学,芸術)』第44,46-49号、平成7、9-12年。「リサーチフォーラム報告」『美術教育学』第21 号、平成12年。

11) 長谷川哲哉「G.オットーの美術教授学構想における『合理的』なるもの」山本正男監修『美術 教育の再生の論理を求めて』(北冬書房、平成元年)59-80頁. 「現代美術」(近代美術=引用者 註)が知性的なものであるので、教授可能であるという箇所あり。

 同「G.オットーの美術教授学的評価論」『美術教育学』第12号、平成2年、195-213頁. ここで 紹介されているオットーの主張は当然の内容。オットーは、意図、内容、方式、媒体という教授 学的決定事項を設定するとあり。

12) 池内慈朗「ハワード・ガードナーの芸術教育における認知的視点から」『大学美術教育学会誌』 第28号、平成8年、115-124頁. 結局、美術は知的活動であるということであろう。

 同「ハワード・ガードナーの創造性理論および米国における関係諸理論」『大学美術教育学会誌』 第30号、平成10年、157-166頁. ガードナーの所論は面白いが、才能のある人についての研究 である。美術科教育としては、才能の無い人はどうすればよいかという視点が欲しい。

13) 武田薫「表現のための基盤の考察」『大学美術教委学会誌』第23号、平成3年、31-40頁.

 表現の学力を論じるために4解釈視座をそれぞれ3層に分けて12層の解釈コードを提案する。  すなわち身:特殊感覚・体性感覚・深部感覚、意(力、運動):意識・前意識・無意識、言語:意 味・運用・統辞、遊:観念・行為・物質である。

 同「表現のための基盤U」『大学美術教育学会誌』第24号、平成4年、1-10頁. 言語という解 釈視座について検討。

14) 天形健「造形性を重視した美術科の指導について」『大学美術教育学会誌』第21号、平成元年、 77-85頁. 学習効果を意識させるために造形要素に立脚した表現活動をさせることを提案してい る。造形要素は、美術の方法論の一種であろう。

 同「生徒の感性と造形要素(色彩)」『大学美術教育学会誌』第22号、平成2年、150-156頁.  造形要素を明らかにする一環として、生徒の色彩の共通感覚を調査。

 同「授業研究に関する一考察」『アートエデュケーション』第27号、平成9年、21-30頁.

 イメージ・ボックス題材を取り上げる。教育目的としての美術の分析がほしい。

15) 内田裕子「CLEARプログラムにおける図画工作科カリキュラムの分析」『大学美術教育学会誌』 第30号、平成10年、37-46頁. ここで紹介されている同プログラム中の「概念」は、拙論でい うところの「美術の方法論」に近い。

16) 福本謹一・井上展也「造形的発想を支援するシネクティクス理論の応用に関する一考察」『大 学美術教育学会誌』第30号、平成10年、57-66頁. 発想法と捉えないでイメージの方法とすれ ば、金子の言う美術の方法論となる。

17) 丸雄治「美術教育における発想指導の論理」『美術教育学』第12号、平成2年、253-262頁.

 「発想段階において美術的思考法を体験を通し段階的に指導する必要があった」と書いている。 それなのに、美術の方法論ではなく発想法に行ってしまう。発想の段階論時指導は面白い。

 同「美術教育における発想指導の論理(2)」『美術教育学』第13号、平成2年、177-187頁.

 発想指導はイメージの方法論、美術の方法論指導へ還元できる。その方が明確になるであろう。

18) 鷲山靖「造形表現のメタ認知活動を促す指導方法の研究」『大学美術教育学会誌』第30号、平 成10年、67-76頁. 生徒が何を学習したか明確に認知できることが必要との反省から、「造形  表現の意味」を認知させ、またその任著認知させるメタ認知の授業システムを考察している。「造 形表現の意味」とは、美術の方法論であるというのが金子説。

19) 蓮尾力「イメージ形成のための授業研究」『大学美術教育学会誌』第31号、平成11年、231-238 頁. 

20) 那賀貞彦、前掲論文。美術の論理から教育の論理へ架橋すること、イメージとメディアの論理 を排して、発生の論理を立てることに独自性がある傾聴すべき論。しかし、人間のイメージ欲求 の強さを無視すると、無理がくるのではないかと思う。

21) 蓮尾力「造形学習における創造過程『システム・アプローチ』の研究」『大学美術教育学会誌』 第29号、平成9年、87-96頁. 参考にすべき論文である。ただ、種々の分類例において、各項 目範囲の重なりがあるように思える。

 同「授業研究の可能性」『アートエデュケーション』第27号、平成9年、3-10頁.

 授業過程論として優れている。しかし、教育内容としての美術についての分析をもっと進めたい。「満足はしているが、勉強にならなかった」事例が言及されている。(P.10)〕

同「イメージ形成のための授業研究」『大学美術教育学会誌』第31号、平成11年、231-238 頁. 研究成果として原則が多数示されているので、授業研究として参照すべき論文である。

22)南部正人「美術科に於ける教授法習得プロセスの研究(1)」『大学美術教育学会誌』第27号、 平成7年、233-242頁. 

23) 長町充家「美術教育における評価」『美術教育学』第8号、昭和61年、59-69頁. 

24) 石田晶大・北尾倫彦・武田薫・長町充家・黄香淑「Project『羅生門』」『美術科研究』第7号、 平成2年、1-19頁.

25) 長町充家「実践記録の作成過程 その1 授業の計画段階における先生の『顔』」『美術科研 究』第17号、平成12年、65-74頁. 

26) 斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書、平成10年)205-210頁.

27) 金子一夫『美術科教育の方法論と歴史』(中央公論美術出版、平成10年)26-27頁.

28) 宇佐美寛『授業にとって「理論」とは何か』(明治図書出版、1978年)160頁。

29) 宇佐美寛『授業の理論をどう作るか』(明治図書出版、1983年)117頁。

30) 石川毅「美術教育学の課題と方法」『大学美術教育学会誌』題13 号、昭和56年、75-86頁.

31) 金子一夫「リサーチフォーラム報告」『美術科教育学』第21号、平成12年。

32) 星泰利「図画工作科における自己評価の可能性」『美術教育学』第12号、平成3年、237-251  頁. この手の論文としては、結果も提案も秀逸。

33) 新井哲夫「様式の不在としての描画の危機」『美術教育学』第11号、平成2年、167-176頁.

34) 庄司和晃『認識の三段階連関理論』(季節社、昭和60年)。また、この援用に関しては、南郷 継正『武道への道』(三一書房、昭和54年)所収「庄司和晃氏の手紙」が参考になった。

35) 小西正雄『消える授業 残る授業』(明治図書、平成9年)。従来の入力型授業に対して出力 型授業を提案。

 

附記 本稿は2000年8月26日に東京学芸大学教育学部附属竹早小学校で行われた美術科教育学会「美術教育の課題と授業研究部会」での発表をもとにしたものである。