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8、バッタ

 私の息子の話です。
 息子は、物心が付いた頃から、虫かごを片手に走り回り、家では図鑑を開いて過ごすちょっと変わった子供だった。
 やっと歩けるようになった頃の事。
 姉達を幼稚園に送り出し、その日も息子は静かに絵本を読んでいた。私は、そんな彼を確認し、掃除にとりかかった。
 しばらくして時計を見ると、早11時。私は、息子の名前を呼んだ。
「Mくーん」
 返事がない。もう一度、
「Mくーん・・・・」
 気配もない。
 家の出入り口は1つで、そこには急な階段があった。やっと歩けるようになった息子にとっては、かなり危険な場所である。だが、家の中の何処にもいないとなると、その階段をつたって出ていったことは推測できた。
 私は慌てた。駆け下りながら、脳裏に『幼児事故、母親が目をはなしたすきに・・・』と書かれた朝刊の記事がよぎっていた。
 家の前は交通量の多い道路で、それに沿って流れる川は、毎日息子とメダカや魚を採る遊び場だった。事故の気配は無かった。見通しの良い川の辺りにも、息子の姿はなっかった。
 しばらく思案した母は、川とは反対方向にある山に向かった。当時、この辺りもまだ雑木林や休耕田が残っていて、子供が大好きな虫などは、だいがいそこで見つける事が出来た。数日前にも、親子はプラスチック製の虫かごを手に、そこで虫取りをしていた。
 大人の足で、1分もなかった。荒れた草原は、初夏のススキやイヌビエ、カヤツリグサなどがうっそうと生い茂り、母の背よりも高く伸びていた。
「Mくーん」
 草むらに、視線を凝らす。
「・・・・・・」
 優しい風が吹いて、草達がカサカサとそよいだ。
 その時だった。小さなゴム草履を左右反対に履いた、キャラクター入りのTシャツを着た息子が、この日の太陽のような満面の微笑を浮かべ、雑草の中からひょっこりと現れたのである。
「おかーしゃん、これ・・」
 息子の胸に、萌黄色のオンブバッタがとまっていた。彼はそれを、自慢げ指差している。勲章のようだった。
 心配と不安で抱きしめようと差し出していた腕を、母は静かに下ろしていた。不思議な感動があった。

 帰り道、いつも通う店の店員が、
「Mくーん。カブトムシが入荷したよ」
 と、声をかけてきた。息子は、昨日とは違うしっかりした足取りで、店の中へと走って行った。
 それから数年後。あの雑木林も川も環境整備と言う名目で大きく様変わりし、小学校に上がった息子の自由研究で、年々かなりの生き物が減少している事が判明したのである。
 今日も、家の前の川に入って魚を採っているは、私の息子である。

おわり


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