ひとりごと(1999年9月分)

 

◆「買ってはいけない」

 一部ではちょっと有名になってきていますが、「買ってはいけない」というタイトルの本を買ってきました。「買ってはいけない」ものを買ったので、少し天邪鬼(あまのじゃく)になった気分・・・。

 この本には、日本に住んでいる人なら誰もが知っているような有名な商品、食料品・飲料水・化粧品や雑貨などが並んでいます。それらの商品を、人体とか環境に悪影響を与えるから、という理由で「買ってはいけない」と訴えているのだから大変です。
 それだけに、この本は「衝撃の問題作」といえそうです。

 例えばどんなものがどんな理由で、買ってはいけないのか?
 かの有名な化学調味料を例にとると・・・この化学調味料に含まれるグルタミン酸ソーダ(MSG)は脳細胞を破壊する。特に3歳未満の乳幼児は、脳にある有害物質を阻む機構が不完全なので、MSGの有害物質の影響をモロに受けてしまう。そこで3歳未満の乳幼児には、この化学調味料を与えてはいけない・・・という具合。

 ただし私が一読した限りでは、全てが正しい根拠に基づく論述とは限らないようだ。また「今は未解明だが」など、不確かな根拠でその商品を悪いものと判断するくだりもある。人を驚かすのはまあ良いとしても、説得力に欠ける内容はいかがなものか。

 しかしながら、それでこの本の価値が下がるのかと言えば、そうとは言えない。この本の著作者達は商品の一つ一つを綿密に調べ上げ、化学的根拠に基づいて検証し、この本を書き上げ出版にこぎ付けた。それは賞賛に値することだと思う。
 この本にも書いてあったが、スポンサーたる大企業のイメージダウンになることは、広告収入が重きをなす出版業界では、誰も書きたがらないところである。そういった“タブー”に挑戦する態度には、頭が下がる思いがするのだ。

 この本を読んでいて、いつか読んだ「お笑い大蔵省極秘情報(テリー伊藤著)」を思いだした。両者の本の共通点は「情報開示」である。今まで一般人が知り得なかった、情報が詰まっている点で共通しているように思う。

 私たち一般人は、あまりにも何も知らない、知らされていないのである。そうした「開かれた情報」という風穴が、一つまた一つと空いていくうちに、やがて世間が開かれて良い方向に向う。
 そんな「『開かれた情報』という『風穴』」の一つが、この著書の中にあると私は思うのだ。

[1999.9.21 by かっきい]

 

◆「メガネ」

 久しぶりに、メガネを新調した。
 最後にレンズを交換したのが10年前。以前から使ってきたメガネは、すっかり度が合わなくなっていた。メガネ屋さんでその矯正視力を測ってもらったところ、両目でやっとこ0.2。いやはやメガネをかけると、車の運転もおぼつかない視力になっていたのです。

 ふだんはコンタクトレンズを使用していて、メガネが合っていなくても差し支えなかった。でも最近、目にものもらいができ、コンタクトレンズを目に入れるのが辛くなっていた。最近の東北地方などへのロングドライブ中に、コンタクトレンズを連続長時間、装着し続けたのがたたったのだろうか。
 そこでメガネのレンズを替えようと思い至った。

 ついでにメガネのフレームも新調した。以前はプラスティックの厚いフレームだったが、今回は金属フレーム。どうやらレンズの枠が小さいのが流行りのようなので、そのようなフレームを選んだ。レンズが小さいと、視界が狭いのではないかと思ったが、案外それほどでもない。
 鏡で新しいメガネをかけた顔を映し出すと、ずいぶんと雰囲気が変わった感じ。何やら自分が知性溢れる顔立ちに見えるから不思議だ。

 お店でメガネを受け取り、その足で早速ドライブ。普段メガネをかけている時は気がつかなかったが、ドライブ中横目使いでものを見ると、視線はレンズを外れてぼやけてしまう。道の端を横目で見たいときなど不便を感じた。山道を走るには、ちょっと不向きか。
 それと私の鼻が低いからか、あるいは汗かきだからだろうか、メガネがすぐに下にずれる。だから、始終メガネを上に引き上げなければならない。そんな不便さがあるから、今までコンタクトレンズを常時使用してきたのだが。

 とはいえ、これまでコンタクトレンズを連続使用しすぎてきた。これからは少しでも自分の目をいたわるべく、コンタクトレンズの使用時間を減らして、メガネをかける時間を増やしていきたいと思った。

[1999.9.19 by かっきい]

 

◆「ノストラダムスは何処へ?」

 今回は予言にまつわる話をします。

 1999年も9月になりました。9月は英語で「September」、これは「7番目の月」という意味です。そう言えば、英語の7(seven)にどことなく似ていますよね!?
 古代ヨーロッパでは、昔は月の数が12ではなく10であったこと。その後、ジュリアス・シーザーやオーガスタといった英雄達が、自分の生まれ月に自分の名前を付けてしまい(ジュリアス=July:7月、オーガスタ=August:8月)、9月以降の月が2ヶ月後ろにシフトされてしまった伝説があります。
 9月を「7番目の月」というのもその名残り、というわけです。

 予言者ノストラダムスは世紀末の予言で「1999年7の月、恐怖の大王が降り立つ云々・・・」という、かの有名な言葉を後世に残しました。これは人類滅亡を予言しているもの(私はすこしもそう思っていないのだが)と言われています。

 今年の7月はもう過ぎてしまいましたが、幸か不幸か「恐怖の大王」らしきものは降らなかったようです。気が早いもので、某CMの一場面で、ノストラダムスの肖像が描かれたポスターが粗末にはがされるシーンを、TVで放映されているのを見かけました。
 しかしながら「『7の月』は今月9月かもしれない」と仮定すると「恐怖の大王が降らなかった」と決めつけるのは、まだ早いのではないでしょうか? と思うわけです。

 別にノストラダムスの予言に対する弁護、というわけではないのですが。
 「未来の映像らしき何か」を見た予言者達が、未来に警告などの意思表示を伝えようと記録を残した。それが予言というもの。
 その言葉を現在の自分たちのありように、照らし合わせて見つめて考えること。そして決して過ちとならないように判断し行動することが、私達が最もなすべきことだと思うのです。

 夢判断によるヒーラー(治療者)であり、予言者でもあった、エドガー・ケーシーという人がいました。
 彼はやはり今世紀末に向け、不吉な予言を残しています。その中には「日本列島の大部分が沈没する」など恐ろしげで、かつ滑稽無糖な予言もあります。
 また一方で、彼は「予言が当たるかどうか、ということは意味のあることではない」という意味の言葉も残しています。
 どちらも彼が残した言葉であるならば、予言によって一体何を後世に伝えたかったのでしょうか?

 あくまで仮定ですが、「予言」とは分かれ道のような分水嶺のような、人類の未来の選択肢を誤った結果、訪れる結末を暗示したものと思わうのです。人類がどこかで道を誤ってしまうと、恐怖の大王が降ってきたり、本当に日本の大部分が沈没するシナリオが待ち受けていたのだ、というわけです。

 では「恐怖の大王」は降りそうにない、「日本の大部分が沈没」なんてありっこない。そう考えると、人類は正しい道を歩んできている、ということになります。
 果たして本当にそうなのでしょうか。そうであってほしい、とは思うのですが。

[1999.9.8 by かっきい]

 


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