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第21章  歴史に残らぬ出来事  (38度線をめざして)  

第19、20章に続き 「私の北朝鮮物語」 を紹介します。  


北朝鮮の首都ピョンヤンで迎えた終戦       私達 の 北 朝 鮮 物 語


北朝鮮脱出のため平壤駅で寝泊りしていた私達一家6人は、3日目の昼、

北朝鮮の定州からの避難民を満載した貨物列車に乗り込むことが出来ました。

    列車の避難民引率者が「医師はいないか。いたら乗ってくれ。」と叫んでいたので、

私達一家と同行していたT医師が、「 栗本さん一家と一緒でなければ乗らない 」

とこれに応じ、私達一家も乗ることが出来たのです。

貨物列車の中は想像を超える陰惨な情景がひろがっていました。 

丸坊主の表情を失った女性達がぎっしりと積みこまれていました。

私の前にいた女性の背中には、すでに息を引き取りむくろと化した赤ちゃんが

しっかりと背負われていました。  列車は間もなく発車しましたが、平壤から三つ目の

黒橋という小さな駅に停車して、そのまま動かなくなりました。

列車の中で仮泊2日。 どうやらこの列車は動かないと見た私達は、

列車を降りて避難民の体列を作り、38度線まで徒歩で行くことにしました。

やがて背負えるだけの荷物を肩にして、山野を彷徨する避難民達に飢餓が

迫ってきます。 私達はその都度、現地の人と交渉して、リックの中の衣類などと

食料品を物々交換して飢えをしのいで歩きました。

同行のT医師の奥さんは、自分と背丈の変らない娘さんを背中に背負って歩かれた。

身障者の娘さんを背にして、無事日本に帰るという常人ではなし得ない驚嘆すべき

愛の力には今でも敬意を表し、忘れることの出来ない思い出となって

私の脳裏に焼き付いています。

河原に石を積んで竈を作り収穫後の畑に落ちた粟や高粱、野菜のくずを拾ってきて、

川の水で炊事をします。食器はソ聯軍が捨てた缶詰の空缶です。

たった一つの鍋を囲み薄汚れた顔、汚れた衣類、石ころの上で済ます食事、

まるで乞食のようでした。

時々北朝鮮保安隊員の検問があり、その都度「北に帰れ!」と怒号されましたが、

北に戻ることは死を意味するので、無視して南に向って歩くだけです。

夜は露営で地面にごろりと横になり、星空を眺めて夢路に入り、朝は夜露に

濡れた衣類を乾かす間もなく、そのまま歩き続けるだけでした。

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38度線

       この鍋一つで粟や高粱、雑炊 を炊いて                    私達一家は飢えを凌いだ

 

やがて8月も中旬になり、黄州では終戦記念日が

近くなり、日本人が出歩くことは危険という理由で

                     保安署の留置場に1週間足止めされました。

            留置場の中に押収した密造酒のかめがあり、この香りをしたったヤブ蚊に

     顔や手足を刺され、腫れあがり、帰国後も私達一家はマラリアで苦しみました。                                  

  保安隊員は日本の避難民を待ち構えて、検問と称し残り少なくなった

リックの中味と調べあげ、めぼしい物があれば強奪しましたが、

逆に私達避難民の護衛として私達の前後につき、

一般朝鮮人の暴徒から私達を守ってくれたりもしました。 

発疹チフスやコレラに蔓延した家は赤い旗を揚げていました。

日本人避難民はソ聯兵や保安隊に見付からない様に部落を避けながら

山野そして川を越え一生懸命に南へ向って歩き続けました。

 

山の中に死体が残されていました。老人や子供が多く力尽きて

日本帰国を前にして無念であったであろうと万感の思いがしました。

38度線を越えるまでは、どんなに苦しくても歩き続けるしかありません。

しかし疲れ果て足が重い、一歩でも日本に近づきたい一心で歩きます。

行く手に高い山が見えてきました。 あの山の向こう側は、アメリカ軍の支配する

 南朝鮮だ と聞かされました。 国境線が近くなり、日本人避難民は、みんな

一団となって坂の多い山道を最後の力をふりしぼり、あえぎながら登りました。

 

( 歴史に残らぬ出来事は次回が最終章です ) 

  

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