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第19章  歴史に残らぬ出来事  (ピョンヤンで迎えた終戦)

21世紀初めての夏は、靖国問題や新しい歴史教科書などでゆれました。

終戦後57年目も経っているのに中国や韓国、北朝鮮など近隣諸国から、

非難され謝罪を要求されています。

戦争を知らない世代が多くなり・・・時と共に人々の記憶は薄れて行きます。

終戦当時、満州や北朝鮮で虐待や苦しみを受けて死亡した日本人等など、

敗戦が故に歴史に残らない悲惨な出来事の一端を書き残すこととしました。

以下・・・私の実兄が 「私の北朝鮮物語」 として書いたものを基に

4章に分けて、ご紹介します。  北朝鮮の首都ピョンヤンで迎えた終戦。

当時、兄は17歳(中学4年)、私は15歳(中学2年)

妹2人は12歳(小学5年)と9歳(小学2年)でした。


私達 の 北 朝 鮮 物 語


昭和20年7月26日、ベルリン郊外のポツダムで、米英中華共同の対日宣言が

発表されたが、当時の日本人の殆どは、ポツダム宣言受諾の動きなど未だ知らず、

ヒタヒタと迫り来る連合軍の包囲下にあって、本土決戦、一億総特攻のかけ声に、

いよいよ生と死の対決に迫られる時がきたのを感じていました。

やがて広島、長崎に原爆が投下され、両市は一瞬のうちに壊滅しました。

そして同年8月9日、ソ聯軍が対日参戦。

ソ聯軍侵攻と同時に満州は戦火にさらされ、満州在住日本人は避難を開始し、

ソ聯軍の攻撃に合い、暴徒と化した満人の襲撃を受け、大勢の人々が殺されたり、

集団自決をしたり、略奪されたり、大変悲惨な運命にさらされていました。

ソ聯軍は満州だけでなく、日本海に面した北朝鮮の、羅津や清津の港町にも

上陸を開始し、これらの街は火の海と化し、多くの日本人が避難を開始しました。

満州や北朝鮮北部の避難民が着のみ着のままで一挙に南下してきて、

北朝鮮一の大都市であった平壤の街も大混乱をきたしていました。

当時平壤中学の生徒であった私達は、これらの避難民を、

学校やお寺や旅館やその他収容できる建物へ誘導してゆく役割に

日々追いまわされていました。 当時平壤の人口は約40余万人、その内

日本人は4万人余、避難民は在住日本人の約30%といわれています。

 

やがて8月15日終戦の日を迎えました。

真夏の炎天下の校庭で終戦の報に接した時は、負けて残念というより

目の前が明るくなり、これで助かったという思いの方が強かった感じでした。

当時私達一家が住んでいた巖町の社宅の下には、平壤刑務所の

赤レンガの建物が広がって見え、毎日毎晩釈放されたばかりの政治犯を

取り囲み、各種の団体のデモ隊が「独立万歳」を叫び、

怒号と喚声と歌声とで騒然として不気味で怨念に満ちた雰囲気に包まれていました。

 

8月25日、そっとカーテンの隙間から眼下の路上に目をむけると、

草色の詰め襟に半長靴スタイルのソ聯軍兵士の姿が望見され、

これらの兵隊達は一様に肩から小型の自動小銃をぶら下げていました。

私達はこれをマンドリンと呼びました。

日本軍は実弾の管理が厳しかったようですが、軍規の弛んだソ聯軍は、

これらの兵士に丸型又は縦型の70数発の実弾入り弾薬の携帯も

許していましたから、彼らは街中を歩きながらでも面白半分に発砲するのです。

それからというものはマンドリンを突きつけてのソ聯兵の凄まじい略奪が始まりました。

略奪に加えて・・・暴行、強姦、拉致、殺傷などの行為は、周囲の目を意識せず

公然と行うのです。 私の家にもこれらのソ聯兵が土足のまま上がって来て

時計やアクセサリー等めぼしい物を略奪していきました。

その頃。北朝鮮と南朝鮮との境界とされた38度線はソ聯軍によって完全に

封鎖されたため、私達日本人は北朝鮮に閉じ込められたことになりました。

やがて日本軍将兵は武装解除され、平壤市郊外の秋乙にあった旧師団に

終結させられ、満州の延吉経由でシベリアに送られ、その後数年も

酷寒のシベリアで過酷な強制労働に服することになります。

これらの将兵達を満載したトラックの列は、平壤市内を毎日走り抜けたが、

将兵達は一様に 「一足先に日本に帰ってお待ちします」 と叫び、

私達は 「兵隊さん頑張って」 と叫び、お互い手を振って別れを見送ったものの、

まさかこれらの将兵が酷寒のシベリア送りになるとは思いもしませんでした。

またソ聯軍は日本軍の員数が不足しているという理由で軍人でない

18才から40才までの一般男子を街頭から連行し、同じくシベリアに送り

強制労働に服させたのです。 私は船橋里の広場でこれらの人々が

ソ聯兵に連行されて行く姿を恐怖心を抱きつっ見送ったものです。

私達少年は毎日の様に使役と称して飛行場や兵舎、倉庫やその他施設の

資材などの運搬や貨車への積込などの労働に無償でかり出されました。

また日本人の警察官、司法関係者、行政官庁の職員、大会社の幹部社員等は

その頃創立されたばかりの北朝鮮保安隊に逮捕拘留されました。

当時62才だった私の父も前職が刑務所長であったということで大同保安署の

留置場に拘留されました。 日本人がこうして逮捕、収監されたので留置場は

すしづめの状態となりましたが、父達は居房内で正座を強いられ、姿勢を崩すと

棒で強く叩かれたりしたそうです。父はその後3ヶ月ほど拘禁され、

北朝鮮では官吏として勤務した経歴はないという主張が通って12月中旬

釈放されました。 やがて北朝鮮当局から接収という名目で私達一家は

社宅から追い出されることになります。 それも1時間以内に立ち退けという

命令で、私達は長年愛着して使っていた家財道具を捨て、持てるだけの

衣類や日用品をリックに詰め仮住まいの住居に住むことになりました。

このようにしてソ聯軍の幹部達は日本人の住宅を接収して進駐中、

家族を呼び寄せました。 北朝鮮の当局者達もこれにならって日本人の住宅を

接収して、短時間の内に立ち退きを強要し、建物のみか残された家具、

調度品、その他の荷物はすべて没収してしまうのです。

その頃父は大同保安署に留置されていたので、これらの立ち退き作業は

当時43才だった母の采配で行われました。だがその第二の住宅も間もなく

接収され私達は船橋里の旅館跡に押しこまれます。 そして10月の中旬には

その旅館跡からも追い出され、第4の仮住まいは同じ船橋里の一軒家の

四畳半の部屋に押し込まれました。 

この家の前に医師の一家が仮住まいし、医院の方はソ聯の将校が居住していました。

その将校の当番兵にグレイシヤという好青年がおり私達はこの若い兵士と

仲良くなりました。 その頃「マダムダワイ」という怒号と銃声と、建物の入り口を

銃床で叩いたりするソ聯兵が夜毎あとをたちませんでしたが、その都度

グレイシヤがで出てきて追っ払ってくれて、この一画だけはソ聯兵の

婦女暴行の魔手から逃れることが出来ました。それでもこの一画から一歩でも

出ると、そこには日本人婦女子にとっては恐怖と汚辱とに満ちた世界であり、

夜毎ソ聯兵が踏みこんできて、銃で威嚇し、女性と見れば見境なく、衆人監視の

中でも平然と強姦に及びました。 婦女子は髪を切り、顔を汚して、

男のような服装をして、床下に穴を掘って隠れる等で身を守りました。

当時警察の任にあった保安隊も、日本人から検問と称して金品を奪ったり、

特別な理由もないのに逮捕拷問したりする存在で、

このような時でも私達を守ってくれるどころか、

私達日本人にとっては恐怖の組織にすぎませんでした。

やがて北朝鮮にも凄惨な冬将軍が訪れます。 夏の盛り満州から着の身着のままで

避難してきた人々にとってはまさに地獄の季節でした。

( 第20章に続きます                

 

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