日 本 

1964年冬の北太平洋は荒れていた。 あしびい丸を最後に私の長い ”海” の生活は終わった。

昭和40年(1965年)陸に上がった私は、無線通信士の資格を生かして電電公社(現在のNTT)に転職し、

船舶と通信するために陸上に設置された海岸局、長崎無線電報局に勤務しました。

 日本の高度成長と共に日本海運は世界中に航路を広げていた頃です。

そして、船舶と通信する海岸局のアンテナ塔が無線局の規模を象徴するかの様に増えていた時代でした。 

当時の電電公社は公衆電気通信法により船舶局と交信する海岸局を短波局2局、中波局11局を

        全国に設置して、日本近海から全世界の海域を24時間カバーし、船舶との無線通信を行っていました。

電離層反射による短波帯で世界の海を航海中の船舶と交信出来る短波海岸局は銚子と長崎にありました。

 

銚子無線/JCSは1908年犬吠崎近くにわが国最初の無線電信局として開設され、

太平洋航行中の丹後丸と初めての無線通信に成功したことで知られています。

長崎無線/JOSは日露戦争で信濃丸の「テキカンミユ」の歴史的な信号を傍受した

大瀬崎の海軍望楼所から逓信省に移管され1908年諫早市に開設されました。

何れも長い歴史と輝く伝統を持つ海岸局です。 

銚子無線は日本から東の太平洋そして北米、南米、大西洋・・・を航行する船舶。

長崎無線は日本から西の東南アジア、インド洋、中近東そして欧州、アフリカ・・・を航行する船舶。

全世界の海上にある全世界の船舶が通信相手でした。

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          ニューヨーク航路  めきしこ丸                  西航南米航路  もんてびでお丸

        9320GT 1952年建造                     8995GT 1956年建造

船舶は海岸局との交信が陸上との唯一の通信手段で時差の関係もあり24時間多忙を極めました。

また電電公社では日本の近海にある船舶と中波で通信する海岸局を11局配置し、

海に囲まれた日本近海を24時間カバーしていました。 

             

1912年、イギリスの世界最大の豪華客船タイタニック号が処女航海で氷山に衝突沈没した。

これを契機に、船舶に対する安全のため、1929年ロンドンでモールス無線電信による500khzの

聴守が義務付けられ、1948年国連は海上における安全に関する条約として協議することになりました。

電波に沈黙時間がありました。 毎時15分から18分までと、45分から48分まで、世界中の船の電波の送信は

一斉に中止されます。無線室の丸い時計の文字盤はその6分間だけ赤く塗ってありました。

特に中波帯は電波の発射を中止して、500khzで発せられる弱い電波の遭難信号SOSも聞き漏らさないように

全世界の船舶と海岸局は沈黙時間を守っていました。

 

現在は海事衛星及び無線電話による交信となりましたが、1998年まではモールス信号を使った

無線電信による海岸局との通信が行われていました。

以下は私が外国航路に乗船<1952年〜1965年>世界の海岸局と通信した

当時の記憶を辿りながら諸外国の海岸局の印象や、海上無線通信網について記録したものです。

      

船舶局はどんな国に寄港する時でも先ず一番に接触を持つのは、その国の海岸局です。、

陸に上がった私は海岸局で、船との通信をすることになったが、外国船との通信が大好きでした。 

呼出符号の始めの2文字で国籍を判別すると、かって寄港したその国のことが懐かしく思い出されたからです。

モールス符号の電鍵操作にそれぞれのお国振りが表れて面白いと思いました。

そのモールス通信も時代の流れと共に消えていきました

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               長崎無線で使った電鍵          船舶局で使った電鍵


                               北 米

海上無線通信体制の先進国は何と言っても米国である。海岸局はRCA・マッケイ等十指に余る

私企業の局で、そのサービス振りは見事だった。 局数も多く、主要港付近には多数所在する。

例えば太平洋の玄関サンフランシスコには3局、大西洋の玄関ニューヨークには5局もあって

CQ(各局宛て呼出)を出してサービスを競い合っていた感じである。

どの局も応答の早いのには感心させられた。 

相手海岸局の呼出符号を打ったとたん、まず一パツでCQスリップが止まる。

更に疑問符?を先ず聞くことがない。ちょっと変なキー操作になったかなと思っても

ブレークなし、語数の計算で首をかしげるような語があっても絶対にクレームがつかない。

送信し終わったとたん受信証のQSLが返ってくる。

その見事な通信振りに私の心は気持ちの良い思いに満たされた。

主要海岸局は多重通信をしていて、交信が設定されて、電報を送り始めると

CQスリップが流れ出す。 初めての者は戸惑うが受信席ではちゃんと受信されていた。

繁忙時には船舶局が電報を打っている間に、何度となくCQを止めて、次から次へと

船舶局をキャッチしては受信席に回し、CQ CQ である。

限られた電波を有効に使い窓口を常に開いて、電報をどうぞ!どうぞ!

全く立派なのも、世界中の船舶から賞賛されていた。船舶に海岸局の紹介

パンフレット、電報用紙等を送って来たり、入港した船を訪れPRして、

局への意見を聞いたり、時には土産をおいて行ったり、市内見物に誘ってくれたり、

単に商業局だからとの理由を感じさせないサービスは見事であった

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 あるぜんちな丸 10864GT 1958年建造                                  さくら丸 12470GT 1962年建造

感心されついでに米国の海上救難体制についてふれてみよう。

コストガードはNに始まる呼出符号の局を海岸周辺に多数設置していたが

主要局は8Mhzの呼出周波数も常時聴守していた。

中波では通信できない遠距離にある船舶の安全を守るためである。

コストガードの局は気象通信、医療に関する通信も行っていた。

気象通信は一般海岸局でも時間になるとCQのあとにOBSを付して流し、

海上気象データを催促していたが、米国気象局の要請でコストガードの局

又は洋上定点観測船経由で送ることが多かった。現在のように気象衛星など

なかった時代で、船で観測して送る気象通信は貴重なデータだった。

ハリケーン・濃霧など気象条件が悪く、船舶の輻輳する北米大西洋岸では

AMVER(海難救助のための商船通報制度)があった。

ニューヨークの同センターを訪ねたが、海域内全船舶の動静把握にコンピュータが使われていた。

コンピュターが珍しい時代だっただけに、海難・医療・気象に

コンピュータを使って迅速適切な措置を行っているのに目を見張った。

この外、米国では2MHZ帯の無線電話が広く利用されており、

大ニューヨーク港の湾口で聞く2MHZ帯はひどい輻輳で女性オペレーターの声が

港の活況を表すかのように忙しげに受信機に入ってくる。

港務関係にはVHFも使われていたが、当時日本ではまだ実用化していない時代でした。


欧州

GKO、PCH、DAN、FFL ヨーロッパにあるこれらの海岸局を船舶局が呼出しているのを

、長崎無線の受信機で耳にすることがあった。 遠距離通信可能な大電力の局で、

夫々、イギリス、オランダ、ドイツ、フランスを代表する有名な海岸局でした。

欧州の多くの国は、短波帯を1局に集中して遠距離通信専用局として運用していた。

1局に集中されるため周波数が多い。季節によって電離層反射が変わるため、

運用時間を変える局が多く、四季の移り変わりのの激しい欧州らしさを表していた。

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多数の国が隣接する欧州はどの国の海岸局を経由しても

陸上の通信料に大差がなく、各国の通信網も完備していて

伝送所要時間にも差異はなかった。

海運国として伝統のある英国に有名なPortishead Radio/GKA局があった。

英国唯一の遠距離短波専用局で送信の周波数と、受信の周波数を

別々に使用し、呼出符号も周波数別に全部異なっているのが特色だった。

海岸局からの電報送信は一括呼出の後、

送信用周波数で送信し、船舶からの電報送信には受信用周波数で

受信のみ行っていた。慣れないうちは何かと繁雑な気もしたが、

多数の電報がこのシステムでうまく処理されていた。

     通信繁忙時には受信用補助周波数を使い、周波数が多く羨ましかった。                                                            ベルギー   アントワープのカテドアル

週1回世界の各海域から交信する場合の最適周波数帯を時間別に放送していたが、季節によって

運用時間を毎年、変えており遠距離通信を可能にするためこのポートシェット局は常に努力していた。

七つの海にあるユニオン・ジャックの船を相手にしてきただけに

通信も上手で長い伝統を持つ見事な海岸局だった。

西ドイツのDAN、局名よりも呼出符号ダンそのままの呼び方でひたしまれた局だった。

DAN モールス符号に置換えると −・・ ・− −・ 歯切れの良いこの呼出符号が好きだったが

発射される音色もまた良かった。 ドイツ人らしく通信振りは無駄がないスッキリしていた。

外国には時報をサービスしている海岸局が多かったが、DAN局のそれは伝播状態が良く、

インド洋以遠で良く利用した。 シドニーで会ったドイツ船の通信士は世界のどこからでも

短波で交信出来ると交信時間表を示し自慢していたが、この局は2MHZから短波帯VHFまでの

無線電話周波数を全部使って運用しており、日本ではKDD海岸局が運用していない時代で羨ましかった。

 

北欧一と言われる有名な海水浴場のあるオランダの観光地スヘーベェニンゲンに

強力な電波を発射するPCHがある。 その地名へをケに置換えて読み直すと面白い。

北欧の夏は短い、大きな籠の中に入って貴重な日光浴を楽しむ人でその海辺は一杯でした。keukenhof.JPG (183781 バイト)

オランダの風車、チューリップその美しさは今も私の目に残っていますが、

Scheveningen Radio/PCHは私の耳に残る局の一つです。

日本の共同通信社JJCが世界の海にいる日本船に

モールス符号でNEWSを放送していた時代、

PCH〜〜PCH と混信して受信に苦労したからです。

                    オランダのチューリップ公園 Keukenhof

 

海岸局は海岸近くにあるとばかり思っていたら

フランスのSt.Lys Radio/FFLは内陸に位置していました。

そのせいでもないと思いますが短波局としては比較的閑散としていて、

各国との通信伝送線路が発達していたので、

この局を経由すると通信が楽だった。フランスらしく日曜日は極端に運用時間が少なかった。

 

ビスケ湾から北海にかけては、VHF無線電話が花形となって活躍する。当時欧州航路の船には

28チャンネルVHFを装備していたが、各国との間に公衆通話の料金清算協定が結ばれておらず

港務通信にのみ使用していた。 気象・視界の通報、航行上の注意事項を放送していたが、北海特有の

濃霧時にはレーダー局が運用を開始して資料をVHFで放送していた。

 

ロンドン港では港内やテームズ河の他船の動静を通知していた。特にテームズ河ではチャンネルを切替て、

要領良く通話をしないと通話輻輳に輪をかける結果になりかねないため、

乗船してきた北海パイロット(水先案内人)が手際良く行っていた。

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               欧州航路 はばな丸 9450GT                    ロンドン トラファルガー広場

         以上欧州でも北海に面する局について述べたが、地中海に位置する明るい南欧各港には、

小規模の中波局が多く点在していた。スペインの海岸局は中波と短波で海岸局料が異なり、

中波経由にすると少し安かった。 各局とも寄港の時しか通信することはないためか閑散な局が多く

スペイン語、フランス語混じりの通信態度は親切だった。

                             


                    アフリカ

広大なアフリカ大陸、海岸線は長く1960年代は30近い国が海に面していた。 

しかし長い植民地時代を経たためか海運は全く遅れていて自国で船を持ち運航する国は少ない。

当時は貿易量も少なく、そのためか港は1港、海岸局も1局しかない国が殆どだった。 

短波帯で常時運用の周波数はアフリカ広しと言えども南阿ケープタウン局の13MHZ1波だけという状況で

海岸局は小規模で、 短波は何時間おきかに僅か15分から30分と、極く限られた時間しか運用していない。 

そのため中波に頼るが残念なことに熱帯特有の空電と小電力、低性能な設備のためか交信困難で

電報も反復しながら、念入りに送受信することが多かった。

第二次大戦前の独立国はたった3国だけだったそうであるが、戦後は続々と新興独立国が誕生した。

私が西アフリカ航路に就航した1960年には実に17カ国が独立したが、

航海の度に海岸局は旧支配国の呼出符号から新しい国の呼出符号に変わっていた。 

国際的に分配される呼出符号も少なくなったためか 3XC 5OW 6VA 9GA 等

始めに数字の付いた呼出符号である。 しかし運用は植民地時代そのままを受け継いでいたようである。

アフリカの最南端にアフリカ随一の海岸局Capetown Radioがあった。 

冬には雪も降るケープタウンはアフリカを感じさせないものがあるが、

小さな海岸局が点在するアフリカにあってその運用振りは断然光っていた。

南阿の各港にある英国系の海岸局、何れも執務は立派だった。 

マダガスカルの東、英領モーリシャス島の海岸局は中波だけの小局だったが、

インド洋のかなり遠距離からサイクロン発生のデーターとなる気象電報をよく受信してくれる貴重な局だった。 

 世界大河の一つコンゴ河を遡るとバナナ局、 マダデイ局ある。

河を通航する船舶はCQを冠して位置を通報し合うほか、この局と交信する。 

コンゴ動乱の直前、旧ベルギー領コンゴ唯一の港マタデイに寄港したが、

民族主義を叫ぶ黒人たちは熱狂的で、恐怖を感じたのを思い出します。

 

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あんです丸 (西阿航路)1960年                  無線室 コールサイン JDSC

西阿、その昔、南北アメリカに奴隷を送り出して名付けられた奴隷海岸、 ナイゼリアのラゴス局を訪れた。

独立直後で新しい国旗を無線室に掲げて気炎をあげる黒人通信士と話し合った。

顔には奴隷時代の風習をとどめる入墨をしており、長い屈辱の生活から独立後の

未来にかける期待に目を輝かせていた。 同じナイゼリアのボニー河にあるポートハーコート局は、小電力100Wのため、

遠距離の船舶と通信が出来ず岸壁に停泊している船をガードシップに指示して、遠距離通信を代行させていた。

岸壁の直ぐ前に局舎があって船に例の顔に入墨をした局員が遊びに来て、

日本船の500W〜1KWの無線装置を褒め称え早速、海岸局の代行をさせられた。

積み出した荷物で、黄金、象牙、穀物と名のついた海岸には1960年前後に独立した多くの国があるが、

何れも海岸局は小さく、短波は何時間おきかに15分〜30分しか運用せず、

日曜祭日はお休みで、中波のみで運用していた。

スペイン領カナリヤ諸島ラスパルマスには日本漁船が多数出漁していた。水産日本、元気一杯の

時代である。大西洋上のこの海域は日本海岸局との通信が難しくなり、時差と電離層反射の

最も良い周波数を選び、極く短い時間をお互いに協定して直接通信していた。

長崎無線で、これらの漁船と通信する度に、シエラレオネやセネガルの港で会った

潮焼けした海の男たちを思い出したが、蚊の鳴くような長崎無線/JOSの信号を聞きながら

近接局の混信に悩まされて通信に苦労している様子が目に浮かんで仕方がなかった。

長い植民地から脱した新興国が多かっただけに、アフリカはどの国も陸上回線が発達しておらず、

陸上間の通信が円滑に出来ないためか船舶局と海岸局を結ぶ無線による国際電報が多かった。

現在では電話そして衛星通信、インターネット等など情報化が進んでいるが

当時は世界的に見て、電話もまだ普及しておらず、唯一の確かな通信メディアは電報で、

全世界共通のモールス符号を使って、各種の通信が交わされていた。

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    1952年 ぱなま丸  9,316GT                        1957年  はんぶるぐ丸  8,973GT


印度・中東

私の乗船した船で国際無線電報を一番多く取扱つたのは印度・パキスタン航路だった。

その一因に陸上通信網の不備があげられるが、日本と印度主要都市間は回線完備とは言え

印度国内での伝送がうまく行かないのである。

そこで船から海岸局経由の無線電報に頼ることになるが、陸上の回線にのせられたとたん配達まで

時間が掛かり、特に入港地以外の海岸局を経由したものは配達まで数日を要することもあって、

早め早めに打電の必要があった。 又、電報が届かないこともあって泣かされた。

印度、ペルシャ方面の海岸局、何れも短波の電力が小さかった。 

更に限定執務の局が多く、各執務時間のはじめにCQ(各局宛て呼出)を流すが、

直ぐに呼出さないと応答がなく、執務を打ち切ってしまう感じであった。

中波は日本近海では混信に悩まされたが、インド近海では熱帯特有の空電で通信困難に

なることが多かった。インド洋、ベンガル湾、アラビア海に面する印度には海岸局が

多かった。小規模な局ではあるが、大英帝国の領土であった当時の名残をとどめていた。

国際電気通信条約(無線通信規則)でも認められた地域ではあるが、QSW(周波数変更)を

申し出ても、そのままで送れと言ってきて、500KHZを大切にする私たちの感覚からすると

後ろめたいものを感じながら、呼出遭難周波数500KHZで電報を送受する。

でも良くしたもので空電のため遠距離までは伝播していないようであった。

印度方面各港は河川をさかのぼることが多いため水先案内人の乗船するパイロットボートが

河口に配置されていて、港湾関係通信はこれらの船と行うことが多かった。

そしてこの船が閉局中は海岸局が代行する。このためか印度周辺は各港に海岸局が配置され

単に電報の送受にとどまらず海運と直結した海岸局の果たす役割は大きい。

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        Bonbay 中心街                                 Colombo 寺院

濃紺のインド洋に「東洋の真珠」というロマンティックな名前で知られてきたセイロン島、

ひっそりとしたたたずまいを見せているかのような島ではあるが、インド洋の中心に位置し

各航路筋にあって海上通信での Colombo Radio/4PB は一般電報の外、気象、時報など、

特にモンスーンの時期に、この局は多忙を極めていた。

 

アフガニスタン空爆で有名になった、西パキスタンの首府カラチに入港したのは断食の時期であった。

イスラム教徒は断食月(ラマダン)の30日間、昼間は物を食べないでアラーの神に祈りをささげる。

どこも休業状態の中で Karachi Radio/ASK の信号はいつもと変わらず聞こえていた。

局員も断食しながらキーを打っていたであろうが、この回教の厳しい戒律を知るだけに、

通信の重要性を十分認識してその職責を果たしていたのは立派だと思った。

イランとイラク、ペルシャ湾の奥に河を境にして両国は相対している。

海岸局は古くからペルシャ湾、河川を航行するタンカー等あらゆる国の船舶局を相手にして

慣れている故か通信は上手だった。

河川航行中は、乗船パイロットの指示によりイラク側のコントロール局と通信していた。

世界一暑いところで砂漠から吹き付ける砂を伴った熱風から守るため、通信機器には

カバーを掛けた。暑さのため送信中、真空管のプレートが赤熱してしまう。(当時はトランジスターも

集積回路もなく・・・・パーツは真空管や抵抗、コンデンサー、コイル・・・だった)

 

この河の上流は古代オリエント文化発祥の地メソポタミアとして繁栄をみせた

チグリス川 ユーフラテス川 の支流である。

クエイト、サウジアラビアには各国石油会社の専用局があって、入出港のタンカーと

専用通信を行っていた。その中間地帯にあるアラビア石油カフジ基地には 9KW局が

あって、日本人通信士によって運用されていた。 アラビア石油専用通信のみを取扱うが

サービス(SVC)の電報が和文で送受できるのは外国の局ではここだけで有難かった。

設備もすべて日本製で専用局の中では感度が良好だった。

あれから40年近くが経ってイランのクエイト進攻で湾岸戦争・・・テロ報復のアフガン攻撃・・・・

イラン、イラク、ペルシャ湾・・・・パキスタンのカラチ・・・印度紛争・・・等などニュースが伝えられる度に

その周辺を訪れた当時の良き時代のことが思い出し、

科学・文明が発達して人類が不幸せになって行くのは何故だろうと素朴な疑問を禁じえない。

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                   原油タンカー                          LNG(液化天然ガス)専用船

日本の海岸局は日本とペルシャ湾をピストン航海で原油を供給していた

マンモスタンカーや、LNG、LPGのガス専用船等、日本に貴重なエネルギー資源を運ぶ

船舶と24時間、無線通信が交わされていた 


東南アジア

東南アジアに点在する海岸局は多かったが、一般に中波は空電と小電力のため感度が悪く

近距離でないと連絡困難であった。短波はその多くは8MHZを運用し、

高くても13MHZまでで、17MHZ、22MHZを持つ局は殆どなかった。

昼夜間とも混信がひどく遠距離からの通信は先ず不可能だった。

シンガポール、50年前の1952年、海峡植民地の首府であった当時は

呼出符号VPWで多くの船舶局から馴染まれていたが、1965年独立後は

9VGで引き継がれた。シンガポール海峡を通航する船舶は多い。

補給、中継基地として重要な位置にある港だけに、通信が輻輳し、hongkong.jpg (170556 バイト)

電報料金が同額であるマレーシアのPinang Radio/9MGを

経由して電報を送信することが多かった。     

当時は英領を表すVで始まる呼出符号の海岸局が多く、香港にHonkong Radio/VPSがあった。

世界三大美港の一つ、この自由貿易港は活況を呈しており、あらゆる国の旗を掲げた船が

出入りする。 このため輻輳していたがアジアにあって英国の伝統を受け継いできた局だけに

               通信は上手で要領よく行われていた。 中国に返還されてどうなっているだろう。

南シナ海、台風の進路上にあるためか、気象電報の受信に力を入れており、気象報告時間には

       OBS(Observation)専用の二つの周波数を運用し、気象報の輻輳、遅延を避けていた。

冷戦下の北ベトナム、米軍機が停泊中のソ連船を爆撃して問題となったハイホンの北80キロにある

      カムファに、美しい島影をぬって入港した。ジュネーブ協定(1954年)に先立つ、hayhon.jpg (131379 バイト)

   1952年のことである。  私が始めて外国航路の船に乗って寄港した港である。

私が初めて通信した外国海岸局はHaiphong Radio/XVGだった。

当時インドシナ戦争と呼ばれていたが、トンキン北方の高地ではフランス軍と

 べトミンとのゲリラ戦があって、岸壁まで銃声が聞こえてくることがあった。        カムファの島々 1952年

そしてこのベトナム紛争はその後、ベトナム戦争へと拡大の途を辿ったのである。

南ベトナムのサイゴン局/XVSは食糧難の日本向けお米の積荷でよく寄港し交信した局だが

ベトナムに平和が戻り、ホーチミン Ho Chi Minh Ville Radio/XVSになった。

フィリピン、50年の米国統治の名残を留め、マニラにはRCAなど米国企業の海岸局が6局もあった。

一般に、公衆報の外、新聞、気象、水路告示の放送を海岸局が行っており、全く北米並みの

サービスである。この外、5つの主要港に海岸局が配置されていた。

フィリピン群島と言われるように、無人の岩礁をも含めると、その島の数は7千余もあるそうである。

ラワン材、鉱石の積荷港、へき地での停泊中はマニラとの陸上通信路がなく、船の無線設備で

マニラの海岸局と通信することがあった。長崎無線の受信証後回し電報がこの方面に多かったのは

これらへき地には、陸上回線がなく、船の無線が唯一の通信手段だったからである。

台湾には基隆と高雄に海岸局があり、XSX XSW は日本海岸局の中波にも

中国大陸のXで始まる呼出符号と共に、良く入感するから馴染みが深い。

台湾沿岸を航行する船舶は、両局の行う射撃訓練告示を聴取する外、台北の警備隊宛てに

航行に関する通知を海岸局経由で打電する。

この電報が着くと、米空軍の偵察機が飛来して船の確認をして行く。台湾海峡が一時緊張した頃、

高雄港で台風警報を受信中、モールス信号を聞いて、銃剣つきで血相を変えた国府の

警備兵が、無線室に飛び込んできて詰問され、冷汗をかいたことがあった。

出港直後、中共軍の金門島砲撃があった1958年夏のことである。

当時、東南アジアの国の中には、隣国との対立、緊張感からか、入港後、

無線室入り口をシールする港もあって、平和にはほど遠いものが感じられた。

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      まどらす丸 6,829GT 1957年建造                      ばんこつく丸 4,489GT 1956年建造


豪 州 ・ 南 米

(豪州)

広大な陸地、しかし中央部は未開の地が多く、港はシドニーを始めとし、その南東岸に片寄って開けており、

南西岸には南極観測船の寄港で知られるフリーマントル等、数港があるにとどまる。

海岸局はシドニー局/VIS が短波各波を運用し、同国での遠距離通信を受け持っている。

この外に15の海岸局が各港にあるが規模は小さく中波のほかは短波6MHZのみを小電力で運用している。

遠く欧州から船で移民してきた国民は海運への理解が深いが、その海運と共に歩んできた海岸局は

英国系の海岸局らしい堅実さに加えて、その落ち着いた風土がしのばれる通信振りであった。

歴史の浅い国であるが、豪州は今やアメリカに次ぐ日本の貿易相手国だそうで、

各港で経済発展の若々しい息吹きが感じられた。

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豪州航路 めるぼるん丸  6,784GT 1956年建造

(南米)

日本から一番遠くにある南アメリカ。季節は日本と全く反対で日本の夏、南米では冬である。

時計の針は日本時間と同じところを指してはいるが、時差は12時間・・・真夏の午前零時の時、

南米では真冬の正午と言うわけである。 日本との通信は遠距離にありながら南北通信、

12時間の時差で、明け方と夕方といった電波伝播状態の良い時間が一致するためか、南に下がると、

長崎無線/JOSのCQがキークリックを伴って入感することがあり、通信も可能となる。

南米移民の盛んな頃、多くの移民をブラジル、アルゼンチンへ送ったが、船客が下船時に、

日本宛てに打つ多数の電報も時間さえ選べば、銚子・長崎両無線局/JCS/JOSと直接通信が出来た。

 

アルゼンチンのBuenos Aires Radio/LPDは、当時機器が新装され、同国は国策として

海運振興に力を入れており、これが海岸局の設備、運用にも良く反映していた。

”情熱の都”ブラジルのリオデジャネイロ RIO Radio/PPR は、CQスリップ中

何度呼出しても絶対に応答はない。 CQが止まり、手送りでQRU?(通報はないですか?)と

のんびりした調子で受信機に入ってきた時が、相手の手探りで聴取しているといった感じの局である。

スペイン語まじりで独特の柔らかい音色で聞こえていたPPR、 移民船で定期に寄港していると

すっかり馴染みになって・・・PPRから通信の終わりにローマ字で SAYONARA と送ってきて、

こちらから ADIOS と返すのが常であった。

流域面積、長さ世界一のアマゾン河、さすがに雄大な流れであるが、開発されていないため、

往来する船も少ない。 その河口に小さな海岸局があり、ベレム入港時に通信する程度で、

河というにはあまりにも大きいためか、各地で行われる河川航行に関する通信は行われていない。

ブラジル海岸局からは同一国内でも線路指定が必要で、二つの違った線路があって電報に

指定するが、何れを経由しても配達は大変遅かった。 でも南米人特有のアスタマニアナ!

(明日がある!)という、のんびりした気質が南米海域にいる間に、セッカチな私達を

タンゴ、サンバのリズムと共にすっかり感化してしまうのか不思議と腹も立たない。

それどころか ”ビーバ (万歳)!! 南アメリカ” と叫ばせるのである。

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   あるぜんちな丸 10,864GT  1958年建造   南米航路移民船  ぶらじる丸  10,100GT 1954年建造


むすび

船舶通信士としての体験から見た世界の海岸局を簡単に紹介してきたが、

特に印象に残る通信は、自由の女神、マンハッタンの摩天楼が望見されるニューヨーク、入港前に

銚子無線/JCSと通信したことである。 そして西ドイツハンブルグには入出港船に、

その国の国歌を放送して・・・歓送迎してくれるエルベ河口のウェルカム・ポイントから

流れてくる”君が代”を聞きながら長崎無線/JOSと通信したことがあった。

何れも遠い海域にあって頼りにしている日本の海岸局に、大いに敬意を表したが、

無線通信士としての喜びにも満たされたものである。  時代の流れはこれらの海岸局を

過去のものとした。 海事衛星通信GMDSSの登場である。

そして中波短波を利用したモールス通信は消えていった。

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        1908〜1999年                              1931年〜1987年 

      長崎無線/JOS 跡地の記念碑                    大分無線/JIT の記念碑

     1999年1月31日 91年の歴史を閉じた                1987年6月15日 56年の歴史を閉じた                   

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