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《殷〜周》

《春秋戦国時代》

【春秋戦国時代】

         

《秦》

《漢》

《清》

 


【易姓革命】

易姓革命
 中国の王朝はそれぞれ家系の姓をもっており、王朝の交代は姓がかわることであった。「易」の字には「かわる」という意味があり、「易姓」とは「姓がかわる」という意味である。
 易姓革命の思想においては、「天」の意志によって選ばれるのが王であった。もし天が別の人物にたいして王となるように天命をくだせば、王は天命がくだった人物に王位をゆずらねばならず、それを拒否した場合は、天命にしたがってその王をほろぼすことは理にかなった行動だとされた。それが「革命」すなわち「命を革(あらた)む」であり、それによって新しい王の姓に易(か)わるのである。
 天命にしたがって王位をゆずることを禅譲、天命にしたがって王をほろぼすことを放伐とよびこれを理論化したのは儒家の孟子であった。

禅譲
 中国で平和的に政権を譲り受ける王朝交代の形式。儒学における理想的な政権交代とされる。堯・舜・禹の聖王の交代は禅譲とされる。

放伐
 武力によって政権を奪取する王朝交代の形式。儒学では望ましくない政権交代とされる。夏・殷・周の交代は放伐とされる


【甲骨文字】

 殷墟で1899年に発見される。漢字の起源。占卜のために亀甲・獣骨に刻み、火にあぶってひび割れの様子で占いの結果を出した。卜辞ともいう。王国維・羅振玉らが研究


【漢字の書体】

1.甲骨文字):亀骨文字
2.金文  ():青銅器
3.篆書  ():始皇帝の丞相李斯(小篆)
4.隷書  ():後漢の蔡倫による製糸法
5.楷書  (魏晉南北朝):東晉の書聖王羲之,「蘭亭序」


【中国の封建制】

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【春秋戦国時代名前の由来】

春秋時代
 儒家の孔子が編纂した、自国の魯の年代記である『春秋』による。
                                 →五経の一冊。

戦国時代
 『戦国策』(縦横家の諸作)より。

時代区分
 司馬光(北宋)の『資治通鑑』より。


【什伍の制】

  前359年に商鞅が行った隣保制。隣家どうしを組織し、治安維持に共同責任をたらせたというが、実態は不明。


【焚書・坑儒】

焚書・坑儒Q
 始皇帝による思想・言論統制をさし、主に儒家に対してなされたが、秦の言論統制に対する後世儒家の非難と誇張があるともいわれている。
 焚書は、始皇帝の丞相であった李斯は復古をさけぶ勢力を一掃する必要を感じ、秦の記録と博士官所蔵の書・医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業書を除くすべての書物を焼き捨てるよう始皇帝に進言し、実行された事件。

 坑儒は、儒者を坑(あなうめ)の刑に処した事件である。始皇帝は神仙の住む島に行くと不死の薬を手にいれられると信じていたので、神仙の術をおさめたと自称する方士が多くつかえていた。これらの中で始皇帝をあざむき逃亡した者がでたので、おこった始皇帝は前212年に学者も同類として逮捕、そのうち460人余りを生き埋めにしたとされている。この学者のほとんどは儒者であった。儒者への弾圧は、秦の苛烈な法治主義にくるしむ民衆に反秦感情をおこさせる原因のひとつとなったと考えられる。
※「坑儒」:漢字の間違えに注意!!


【秦の万里の長城】

 秦の始皇帝は万里の長城を建築したのではなく、修築したという点を間違えないで欲しい。センター試験の間違え探しなどで出題されるかも…。
 我々がイメージする万里の長城は、明代に建設されたもので、始皇帝が修築したものは高さがせいぜい2mのものであった。修築の目的は匈奴を馬から降ろすためといわれている。


【陳勝・呉広の乱】

陳勝・呉広の乱L
 秦末の農民反乱。始皇帝の死後の翌年に発生し、これが口火となって各地で反乱が起こった。
 
2人は、もともとは現在の河南省に住む貧農だった。兵士として徴発されたが、途中で大雨にあい任地に期日どおり到着することが困難になった。秦の法では、期日に任地に到着しない者は死刑と定められていたので、2人はだまって死刑になるよりも反乱をおこすことをえらび、同じ境遇の農民900人とともに決起した。
 このときに2人が言った”
王侯将相いずくんぞ種あらんや”(王侯・貴族・将軍・大臣といったって、結局みんな同じ人間じゃないか)という言葉は非常に有名。

【図へ…】


【郡国制】

 秦が郡県制による急激な中央集権化によって短命に終わったために高祖が考えた統治法。
統治の安定しだす景帝の頃には郡県制にほぼ移行し、武帝の時代に中央集権化が完成する。
要地は皇帝の直轄地 → 言いかえれば郡県制
 黄河流域の生産力の高い地域は皇帝が支配する。
 一人では無理なので郡に分け,その中でさらに県に分けて官僚を派遣し皇帝の命令を守らせる。

僻地は一族や功臣を封じる → 封建制
 匈奴などと戦争をするときは軍役義務を果たす。

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シルクロードQ(Silk Road)
  中国から中央アジア、西アジア、ローマをむすんだ古代の東西交通路。シルクロード(絹の道)とよばれるのは、このルートをとおって中国特産の絹が交易されたことによる。ドイツの地理学者リヒトホーフェンが1877年、著書「支那」でつかったのが始めである。
 古代の東西交通路は、何本かのルートがあったが、海路をのぞくと大きくは、中国の長安や洛陽から天山山脈、パミール高原をへて西アジアからヨーロッパにいたるオアシスの道と、モンゴル高原から黒海北方の広大な草原地帯をとおってヨーロッパにいたる原の道があった。
 シルクロードは、前130年ごろ、中国の漢の武帝が、征服と同盟を通じて、中央アジアを傘下におさめたあとに使用されはじめた。この地域が安定して漢による行路建設がすすむと、隊商の往来が可能となり、中国からは絹や製紙法、西方からはガラス製品・羊毛・金・玉などが交易された。ただし、隊商は、シルクロードを端から端まで完全に往来したというより、シルクロード上で個別の隊商がおちあい、交易をおこなうことが一般的だった。知識もまた、シルクロードにそって中国へつたわり、あるいは中国からつたえられた。キリスト教のネストリウス派の教義がヨーロッパから中国に伝道され、仏教がインドから中国へ伝来した。
 5世紀にローマ帝国が崩壊すると、シルクロードは荒廃し、遊牧民族がこのルートを支配するようになると、安全な状態はたもたれなくなった。しかしその後も、平和が到来するつど、断続的にではあるが使用された。マルコ・ポーロが、ペルシア湾岸のホルムズを経由して、あとはほぼシルクロードにそって中国に到達したが、その旅程はおよそ3年にわたった。


【抗租運動】

 佃戸が地主との間で佃租問題をめぐって起こした、反地代闘争。明末清初意向、河南や江南で多発。とう茂七の乱などが有名。


びゃくれんきょう
【白蓮教】

 中国、南宋以後、民衆の間にひろく浸透し、清朝末期まで政治的にも影響をあたえつづけた民衆仏教。東晋の慧遠によってはじめられた念仏結社である白蓮社をしたって、南宋の僧茅子元浄土信仰にもとづいておこした。白蓮菜、白蓮宗、蓮宗ともいう。
 その教義は、五戒をきびしくまもり、不殺生戒による徹底した酒肉の禁止などがもとめられた。やがて呪術的になり、異端の説もしくは邪教としてまもなく南宋末から元代まで禁断された。
 信徒には貧民が多く、それを救うために弥勒菩薩がこの世に再誕して人々を救済するという「弥勒下生」の信仰と結びつけられて、一層民衆の間にひろまった。
 明の朱元璋(洪武帝)によって弾圧されると、白蓮教は秘密結社としての反体制的性格を強めてたびたび反乱をおこた。


さんききゅうとうこう
三跪九叩頭

 皇帝に対面する際の中国的儀礼の一つ。3回ひざまずき、その都度地につくまで3回頭を下げ、計9回頭を下げる。


【アヘン】

アヘン(阿片) 
 ケシ
の未熟な果実を傷つけてでてくる乳液を乾燥させてつくる麻薬。中毒性が強いので、「あへん法」によって栽培、利用などが規制されている。アヘンの作用の中心となるのは20種類以上ふくまれているアルカロイドで、そのうちのモルヒネが医療の場で鎮痛薬としてよくもちいられる。モルヒネからはヘロインが合成される。モルヒネの数倍の強さの鎮痛作用をもつが、依存性も強く、いっさいつかわれていない。アヘンのアルカロイドでは、コデインも重要である。

 アヘンは依存性の強い薬で、アヘンを服用すると、初めはたのしく幸福な気分になる。しかし、連用していくうちに体がなれて、その効き目が弱くなる。同じような幸福感をえるには、体はもっと大量のアヘンを要求する。しだいに量がふえていき、アヘンがやめられなくなる。もしやめると、強い不快感をおぼえる。初めは幸福感をもとめて服用していたものが、最後には不快感をとりのぞこうとして、ますますやめられなくなる。アヘンには、呼吸抑制、縮瞳などの作用があり、急性毒性によって昏睡や呼吸麻痺で死亡することもある。中毒者には、慢性毒性によって栄養障害、呼吸器の合併症、低血圧などがみられる。


【南京条約】

南京条約Q(1842年8月)
 アヘン戦争でイギリスにやぶれた中国の清朝は、1842年8月29日、南京の長江上に停泊していた英艦コーンウォリス号において、イギリスとの間で南京条約全13条を締結した。南京が当時江寧と呼ばれていたことから江寧条約ともいう。清朝にとっては敗戦条約で、5港開港、香港の割譲、没収アヘンや戦費の賠償などがさだめられたが、明確な不平等条項はふくまれていない。
以下は下記の出典による。片仮名を平仮名に、漢数字を算用数字に、また一部を省略している。

[出典]矢野仁一『アヘン戦争と香港』付録「南京条約」(中公文庫)、1990年

第1条 
 
爾今(じこん)大ブリテーン・アイルランド連合王国女王陛下と清国皇帝陛下との間およびその各自の臣民間には、平和および親好を存すべく、両国の一方の臣民は他の一方の版図内において、その生命および財産につき十分なる安全と保護とを享有すべし。

第2条
 清国皇帝陛下は、イギリス国臣民がその家族従者を携へて広東・厦門・福州・寧波および上海の城市において商業に従事するため、迫害または拘束を蒙ることなく居住するを得しむべきことを約す。また大ブリテーン・アイルランド女王陛下は、監督官または領事官を任命して、前記各市城に居住せしめ、該地方の清国官憲と上商人との間の通信の仲介者たらしめ、下に定むるごとき清国政府の税金および料金が適当にイギリス国臣民により納付せらるるよう監督せしむべし。

第3条
 イギリス国臣民が必要の場合、その船舶の損害を修理しかつこれに要する材料を保護すべき港を有するは極めて必要にしてかつ望ましきことに鑑み、
清国皇帝陛下はイギリス国女王陛下に香港島を譲与し、イギリス国女王陛下およびその後継者は永久にこれを占有すべくイギリス国女王陛下の適当と認むる法律規則をもってこれを統治すべし。

第4条
 清国皇帝陛下は、1839年3月、イギリス国臣民が清国高官に監禁せられ死罪をもって脅され命をあがなわんがため、
広東において引渡したるアヘンの償金として洋銀600万弗(ドル)を支払うことを約す。

第5条
 清国政府は、広東において通商に従事せるイギリス国商人をして、専ら当該目的のために清国政府より免許を得たる「行」商人は(公)行とのみ取引することを強制したりしが、
清国皇帝はイギリス国商人の居住すべき一切の港において、将来上の慣行を廃し、任意になんびととも通商取引に従事するを許すべきことを約す。また清国皇帝陛下は、イギリス国臣民より多額の負債を起し支払無能力となりたる上「行」商人(公行)中の或るものの債務のため、洋銀300万弗をイギリス国政府に支払うことを約す。

第8条
 イギリス国女王陛下の政府は、清国高官のイギリス国官吏および臣民に対して行いたる暴戻(ぼうれい)不正なる処置に対し、救正を要求取得するため遠征軍を派遣するのやむを得ざるに至りたるにより、清国皇帝陛下は所要費用をつぐなわんがため、洋銀1200万弗を支払うことを約す。ただし1841年8月1日以後清国内各城市の赦免金としてイギリス軍にて受領したる金額は、イギリス国全権委員みずから進んでイギリス国女王陛下のためこれを前記1200万弗中より控除することを約す。

第7条
前3条に掲ぐる2100万弗の総額は、次の通りこれを支払うものとす。
600万弗は即時に。

600万弗は1843年中に、即ち300万弗は6月30日またはその以前に、300万弗は12月31日またはその以前に。

500万弗は1844年中に、即ち250万弗は6月30日またはその以前に、250万弗は12月31日またはその以前に。
400万弗は1845年中に、即ち200万弗は6月30日またはその以前に、200万弗は12月31日またはその以前に。
なお前記金額中、定期通り正確に支払わざる部分ある時は、これに対し清国政府は年5分の利息を支払うことを約す。

第8条
 清国皇帝陛下は、現に清帝国内の各地に監禁せられおるイギリス国女王陛下の臣民を(そのヨーロッパ人たるとインド人たるとを問わず)無条件にてこれを釈放することを約す。

第9条
 イギリス国支配下の地に居住し、イギリス国人と交通しまたはイギリス国女王陛下もしくはその官吏に奉仕したる清国臣民に対し、清国皇帝陛下はその親署ツ璽(しんしょけんじ)の下に十分なる大赦令および刑罰免除令を発布することを約す。なお清国皇帝陛下は上のごとき理由をもって現に監禁せられおることあるべき清国臣民を釈放することを約す。

第10条
 清国皇帝陛下は、本条約第2条によりイギリス国商人来往のために開かるべき各港において、公平正規の輸出入関税の税率を設定し、一般に告知するためこれを公布することを約す。また清国皇帝陛下は、将来定めらるべき税率に相当する正規の関税を前記諸港のいずれかにおいて一度支払いたるイギリス国商品が清国商人によりて清帝国内地のいずれの城(市)または省にも運搬せらるべきことを約す。ただし上にはさらに該貨物税額の「パーセント」を超えざる通過税(抵代税)を支払うべきものとす。

第11条
 清国に駐箚(ちゅうさつ)するイギリス国女王陛下の首席大官が清国大官(北京にあると地方にあるとを論ぜず)と文書往復する時は「照会」(Communication)の字を用うべく、イギリス国の属僚が地方にある清国大官と文書往復する時は前者は「申陳」(Statement)の字を用い、後者は「箚行」(Declaration)の字を用うべく、また両国の属僚は全然平等の地歩において文書往復すべきことを約す。官職を有せず、従って前記の中に包含せられざる商人その他のものは、相互の政府に申達せんとする一切の書面には「稟明」(Representation)の字を用うべきことを約す。

第12条
 本条約に対する清国皇帝の允諾(いんだく)を得、かつ第1回の償金払込ありたる時は、イギリス国女王陛下の軍隊は南京および大運河より撤退し、爾後清国の通商を妨礙(ぼうがい)または阻止せざるべく鎮海の駐屯軍もまたこれを撤去すべし。もっとも鼓浪嶼および舟山諸島は、償金全額の支払および諸港をイギリス国商人のために開放するの措置の完了するまで、依然イギリス国軍隊の占領を受くべし。

第13条
 大ブリテーン・アイルランド連合王国女王陛下と清国皇帝陛下との本条約批准書は両国遠隔なるの事情の許す限り、成るべく速にこれを交換すべし。もっとも上に至るまでは、各全権委員がその各自の君主のため署名調印せる本条約の複本を互に交付し、その一切の条項を実施するものとす。

1842年8月29日、即ち清暦道光22年7月24日、南京において英国軍艦「コーンウォリス」号にて両国全権署名調印す。
イギリス国全権委員(印)
清国全権委員(印)

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