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《秦》

《清》


しょうおう
【商鞅】

商鞅O(?〜前338)
 法治主義を説いて孝公に重用され、後進国だった秦を一気に強国におしあげた人物。
 当時小侯国のひとつだった衛の貴族の家に生まれ、公孫鞅と称した。本妻の子でない庶出だったこともあって国内での出世ははたせず、魏での仕官をへて、国力向上をめざして広く人材をもとめていた秦の孝公に会見して採用された。秦につかえてのちは、商の地に封ぜられたために商鞅とよばれるようになった。
 商鞅の変法と呼ばれる改革を行い富国強兵を達成した。内政と外征両面において絶大な成果をあげた商鞅に対する孝公の信頼はあつかったが、法による一元的支配は貴族層や公の一族にも容赦なくおよんだため、彼らの反発をまねくことになった。
 孝公の死と同時に商鞅身の危険を感じ、都を脱出したが、身分の明らかでないものは関所を通してはいけない自らが定めた法により反逆罪でとらえられた。さらに彼自身の作成した法にもとづいて車裂きの刑で処刑された。
 しかし彼の改革した秦の政治制度は旧に復することなく、以後、秦は最強国となって全土統一への道をあゆむことになった。
※最近私が読んだ宮城谷昌光『孟嘗君』(講談社文庫1998)に詳しい。結構面白かったですよ。


【始皇帝】

始皇帝(秦王政)Q(前259〜前210秦王としての在位前247〜前221:皇帝としての在位前221〜前210)
  中国をはじめて統一し、初代皇帝となる。姓名は贏(えい)政。実父は前王の荘襄王とも、のち執政となる呂不韋ともいわれる。13歳で秦王に即位し、最初は呂不韋が執政にあたったが、やがて実力者たちを追放して親政をはじめた。
  法家の李斯を登用して、中央政府の権力強化につとめ、農業振興政策によって民政の安定をはかった。そして、強大となった国力を背景に、前230年から戦国の韓、魏、楚、燕、斉、趙の6つの強国をすべて武力制圧し、前221年に中国を統一した。
   政王は、それまでの「王」よりもさらにランクが上の地位として「皇帝」という称号をつくり、その初代として「始皇帝」と名のった。
   始皇帝は中国統一以前に秦の国内で実施していた郡県制を全土に適用し、中央政府による直接統治を実現した。また、度量衡や文字・貨幣を統一、さらに交通網を整備して行政の能率化をはかった。
   その統制は、思想・言論にまでひろげられ、焚書坑儒によって儒家を弾圧した。外に対しては、匈奴を撃退して万里の長城をきずく一方ヴェトナム北部にも進出した。
  度重なる出兵に加え、自分の陵墓(始皇陵)や首都咸陽の宮殿などを次々に建設し、国民に過剰な負担を強いたため、民心はしだいに秦からはなれた。
  晩年は不老不死の欲望にとりつかれ、不老不死の秘薬をもとめて徐福らを海外に派遣した。そのかいもなくし皇帝の死後、秦の皇帝位は、前207年、わずか2世でとだえた。始皇帝が即位してから15年、その死から3年後のことであり、その翌年には秦国も滅亡した。

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りんそくじょ
【林則徐】

林則徐Q(1785〜1850)
 中国、清代の政治家。字(あざな)は少穆(しょうぼく)、諡(おくりな)は文忠。1811年に科挙に合格、黄河の治水や江蘇の水利問題で手腕を発揮した。また海外事情にも精通し、実務派の革新官僚として高い評価をえていた。
 1837年、湖広総督に昇進するとアヘン厳禁に成果をあげ、時の皇帝道光帝がアヘン厳禁論に賛意を表すると、38年に、アヘン問題解決のため、欽差大臣(特命全権大使)として唯一の対外貿易港である広州に派遣された。林則徐はアヘンの販売と吸飲を厳禁し、外国商人にアヘン提出を厳命するとともに外国商館を封鎖、さらにイギリス商務監督官エリオットを監禁したうえで、イギリス商人などから2万箱のアヘンを押収、虎門海岸で焼却した。
 1840年に両広総督に任ぜられたが、まもなくアヘン戦争が発生、清朝内では和平論者が主導権をにぎり、彼らによって戦争挑発者として断罪され、新疆省イリに流された。しかし、3年後に罪をゆるされて官界に復帰、50年に、欽差大臣として広西の太平天国鎮圧におもむく途中で病死した。清廉潔白な政治をつらぬき、後世からも高い評価をえている。

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【道光帝】

道光帝C(1782〜1850・清の8代皇帝:在位1820〜50)
 嘉慶帝の第2子であった旻寧(びんねい)は、1813年に紫禁城に乱入した天理教徒を掃討した功績により、智順王となった。ついで20年に道光帝として即位したが、嘉慶帝時代以来の社会不安の状況はかわらず、鉱山開発や塩政改革によって財政再建をおこなおうとしたが効果はなかった。
 1820年代には、イギリスのアヘン貿易によって広東での貿易が中国側の出超となり、銀が流出して対銅比価の上昇をまねき、税負担がいっそう高まるとともに税収は減少した。こうした事態の中で帝は、新疆における回民(イスラム教徒)反乱鎮圧の余勢をかって、対イギリス強硬論を支持した。

 しかし、1839年に自らが欽差大臣に任命した林則徐がイギリス商人からアヘンを没収しことをきっかけにして、イギリスとの間で発生したアヘン戦争にやぶれた。その後イギリスとの間に締結した南京条約によって、中国の植民地化を招くこととなった。 

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