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《オリエント史》

《ギリシア史》

《ローマ史》


ノモスO(nomos)
 古代エジプトの地方行政区画である州。もとは小部族国家。エジプト語ではセペトといったが、プトレマイオス朝期(前305頃〜前30)にはギリシア語でノモスとよばれた。運河の両側の土地という意味で、古代エジプトの主要な地方行政区画となった。上エジプトに22州、下エジプトに20州あった。しかしその数は時代により増減がある。
 古代エジプトの各州はそれぞれ独自の守護神と標章をもち、州都には守護神の主神殿がおかれた。経済単位としての自律性も強く、国内が混乱し、中央政府の力がおとろえると独立国家の様相を呈した。州の長官は本来、王によって任命されたが、現実的には世襲化され、地方豪族を形成することが多かった。プトレマイオス朝期には、その長官にマケドニア人やギリシア人があたった。


ラーJ(Ra)
 古代エジプト神話の太陽神。ハヤブサの頭部をもつ人物としてえがかれている。天地万物の創造者・支配者とされ、その象徴は日輪とオベリスクである。ラー信仰は古王国時代にエジプト全土にひろまり、国教とされてからはヘリオポリスにあるラーの神殿は信仰の中心としてさかえた。ラーは、のちにはアメンやホルスなど他の神々と同一視された。


アモンH(Amen)
 古代エジプト神。エジプト語で「かくされた」の意味。元来は、ナイル川上流の古都テーベで地方的に信仰されていた生殖の神で、雄羊としてあらわされた。妻のムート(エジプト語で「母」の意)、息子の月の神コンス(「空を横切ること」の意)とともに、テーベの三柱神をなしていた。後にアモンは、太陽神ラーと同一とされ、「神々の父、人間の創造者、家畜の創造主、万物の王」アモン=ラーとして知られることになった。

 宇宙の神としてエジプト全体の神となったアモンの司祭長の権力は、ファラオの権力と敵対することとなり、西欧近代の教会の地位をめぐる争いと類似した政治問題をひきおこした。


ファラオQ(Pharaoh)
 古代エジプトの王の呼び名。もともとは「大きな家」を意味する語で、王宮に対してつかわれていたが、第18王朝の初期(前1500頃)から王自身をあらわすようになった。旧約聖書では、特定の個人ではなく、エジプトの王の総称としてつかわれている。


ヒクソスQ(Hyksos)
 前17世紀初めごろエジプトを征服したセム語族系異民族で、エジプト第15・16王朝を成立させた。エジプト人は彼らをヘカウ・カスウェト(異国の支配者)と呼びそれがなまってヒクソスになったといわれる。
 前18世紀末、パレスチナやシリアの遊牧民が南下をはじめ、前17世紀にエジプトに侵入し、メンフィスを攻略した。彼らはナイル川デルタ地帯のアバリスを拠点に、エジプト各地から貢ぎ物をとりたてた。彼らの支配の特徴は、デルタ地帯だけを直接支配し、メンフィスより上流の地域は地方領主におさめさせ、間接支配したことである。このような地方領主たちがやがて全土で反逆をくわだてるようになり、第18王朝の創始者アアフメス1世(在位、前1570〜前1546)のもとで、ヒクソスをおいだした。ヒクソスについてのべた唯一の記録は、後1世紀にローマにつかえたユダヤ人の歴史家ヨセフスが引用した、前3世紀のエジプトの神官マネトンの言葉だけである。このような記録や、のこされた彫刻や壺から、ヒクソスの王はエジプトの習慣をとりいれ、エジプト風の名前を名のったことがわかっている。
 ヒクソスはエジプトにはじめて馬をもたらした。彼らが簡単にエジプトを征服できたのは、おそらく馬のひく戦車をつかった、すぐれた軍事力によるとされている。彼らはクレタ島のミノア人や、バビロニア人とも交易関係、あるいは朝貢関係にあったと考えられている。ヒクソスの王たちの建築はあまりのこっておらず、ブバスティスの町に復元された寺院跡があるだけである。


アトンH(Aten)
 古代エジプトの太陽神。本来は太陽神ラーのひとつにすぎなかったが、新王国時代にアトン信仰が強まり、とりわけ第18王朝の王イクナートン(在位前1350〜前1334)の宗教改革で、唯一絶対の神として世界で最初の一神教の神となった。

 アトンは太陽円盤の形であらわされ、そこから、先端が手の形をした長い光線が地上に放射されている。宇宙を創造し、その秩序を維持し、万物に生命をあたえる神とされ、エジプトの他の神々のように祭祀の対象としての神像をもたず、太陽そのものが礼拝された。
 しかし、イクナートンの死後は、アトン神への一神教の思想は急速におとろえ、従来の国家神アモンが復活した。


ウルL(Ur)
 メソポタミア最南部の古代シュメールの都市国家。旧約聖書には「カルデア人のウル」と記され、古代イスラエル民族の父祖といわれるアブラハムの故郷でもあった。イラクのバグダードの南東約300km、ユーフラテス川の南にある。現在名はテル・アルムカイヤル。古代にはユーフラテス川が城壁のそばをながれており、この川を利用して交易が発展した。
 ウルはシュメールの月神ナンナ崇拝の中心地だった。ウルのジッグラトはウル第3王朝のときに建造されたもので、もっとも保存状態がよいことで有名で、高さが約20mある。
 ウルの遺跡は、19世紀中ごろイギリスの領事テイラーによって発見された。本格的な発掘は1922〜34年、イギリスの考古学者ウーリーが指揮して大英博物館とペンシルベニア大学博物館が共同でおこなった。
 前4000年ごろ、ウルは小集落だったが、前2800年頃にはシュメールの都市国家のひとつになっていた。古代の記録によるとウルには3王朝が興亡し、シュメール全土を支配していた時代もあった。ウルの第1王朝の最初の王はメスアネパダ(在位、前2670頃)で、あわせて5王がたち170年で滅亡した。ウルの北東約8kmにあった第2王朝についてはほとんど知られていない。

 前2100年ごろウルナンムがウルを首都とするシュメール人の統一王朝を樹立する。このウル第3王朝は、中央集権的な専制王国で交易を活発におこない、メソポタミアでもっとも裕福な都市だった。ジッグラトや神殿など公共建築物が数多くつくられ、都市として整備された。ウルナンムは現存最古の法典といわれるウルナンム法典を編纂し、その子シュルギは度量衡を統一するなど、王朝は繁栄した。第3王朝は5王にわたって100年以上つづいた。
 前2000年以降、ウルはイシン・ラルサ王朝のもとでふたたび繁栄した。しかしバビロン第1王朝のサムスイルナ(在位、前1749〜前1712)が破壊し、その後バビロニアがカッシートに支配されていた前16〜前12世紀ごろに一時復興、宗教センターになった。
 新バビロニアのネブカドネザル2世は、ウルのジッグラトを再建、ナボニドス(在位、前555〜前539)も神殿を改装するなどウルを復興させた。


ウルクJ(Uruk)
 ユーフラテス川下流域に位置したシュメール人の都市国家のひとつ。現在名はワルカ。「旧約聖書」の中のエレクにあたるといわれる。ギルガメシュ叙事詩の主要な舞台で、1928年以降の発掘調査で都市遺跡が発掘された。都市はほぼ円形の全長9.5kmにおよぶ城壁にかこまれており、その守護神はイシュタルである。中央の丘の上に神殿がたち、そばにはジッグラトがある。また発掘された粘土板文書によって、発達した政治、経済活動がおこなわれたことがわかっている。


ハンムラビ法典Q(Code of Hammurapi)
 古バビロニア王国第6代の王ハンムラビ(在位:前1792〜前1750頃)が編纂した法典。この法典がきざまれた石碑がイラン南西部にあるペルシアの古都スーサで1901〜02年にフランスの調査隊により発見された。高さ2.25m、直径61cmの黒色閃緑岩の円柱に、4000行にわたる楔形文字をもちいたアッカド語の刻文がある。シュメール法を継承、集大成した成文法で282条からなる。
 刑法・商法・民法・奴隷法など日常生活全般にわたり、「目には目を、歯には歯を」で有名な同害報復の復讐法の原則にたつ。のちにイスラエル人によって継承されるなど、ほかの古代オリエント諸国の法にも大きな影響をあたえた。また、自由民、半自由民、奴隷の3階級に応じて法の適用が差別されることが明記されており、階級差別の存在した当時の社会状況を知るうえでの貴重な資料ともなっている。しかし、この法典が現実に実施されていたかどうかについては疑問もある。


アラム語M(Aramaic Language)
 アラム人の言語で、前1000年以前にメソポタミアとシリアで多くの方言形でもちいられ、その後、中東地域の共通語となり、ペルシア帝国(前539〜前330)の公用語として存続した。

 紀元前、パレスチナのユダヤ人の言語となり、イエス・キリストはアラム語で教えを説き、旧約聖書のある部分はアラム語で書かれている。7世紀のアラブ人による中東地域の征服以後、アラビア語にとってかわられて衰退しはじめ、今日では、シリア、レバノン、トルコ、イラク、イランに散在するキリスト教徒の共同体の言語として生きのこっているにすぎない。


出エジプト記J(Book of Exodus)
 旧約聖書の一書で、「創世記」につづく2番目の書物。エジプトをのがれたイスラエル人が砂漠をさまよい、シナイ山にいたるまでのようすがえがかれている。モーセ五書のひとつでもある。
 「出エジプト記」は、イスラエル民族の祖ヤコブの息子であるヨセフがエジプトで死をむかえてから、イスラエルの民がシナイ山で幕屋(テントの礼拝所)を建設するまでの物語である。最初の15章には、エジプトで迫害をうけていたイスラエルの民が、モーセにみちびかれてエジプトを脱出し、紅海をわたる過程がしるされている。

 エジプトからの脱出は、ユダヤ教およびユダヤ人にとって大きな意味をもち、この出来事を毎年記念する伝統は現在までつづいている。しかしそれ以上に重要なのは、イスラエルの民が神と契約を結んだことである。シナイ山で神がモーセに託した「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」という言葉は、ユダヤ人の宗教から社会生活にいたるあらゆる分野の根幹にすえられている。
「出エジプト記」は長い間、モーセによってしるされたものと考えられてきたが、最近では前550年ごろ、祭司らによって現在の形にととのえられたという見方が強い。


バビロン捕囚Q(Babylonian Captivity)
 古代イスラエルの民がバビロニア帝国の王ネブカドネザル2世によってとらえられ、パレスチナのユダ王国からバビロニア帝国の首都バビロンにつれさられた事件。前597年の最初の強制移住から、前538年のペルシア王キュロスによる捕囚民の解放までをバビロン捕囚時代とよぶ。

 前597年の第1次捕囚では、イスラエルの上層部、兵士、職人がつれさられた。前586年の第2次捕囚では、ユダ王国の首都エルサレムを破壊し、のこっていたイスラエル人をバビロンにつれていった。だが、重要人物はエジプトへにげ、最下層の農民はパレスチナに残ることをゆるされた。前582年の第3次捕囚においても、多くのイスラエル人がつれさられた。
 イスラエルは、バビロニア帝国の支配下におかれたが、前562年にネブカドネザル2世が死亡し、前539年にペルシアの王キュロスがバビロンを征服すると、帝国は崩壊した。捕囚民は解放され、故国へもどされた。
 約半世紀におよぶ捕囚の期間は、イスラエル人を精神的な団結と強い信仰をまもる民族にそだてた。バビロン捕囚時代は、ユダヤ民族が生まれた時期といわれる。「ユダヤ人」という語は、このときからイスラエル人の総称となった。


十戒(Ten Commandments)
 旧約聖書によれば、神ヤハウェがシナイ山でモーセにさずけた10の戒め。「出エジプト記」31章18節には、神が自らの手で2枚の石の板にしるしたという記述がある。モーセは、イスラエルの民の堕落したありさまに憤慨し、石の板を彼らになげつけてこわした。そののち神はモーセに新しい石板を用意させ、ふたたび戒めをあたえて契約の箱におさめさせたといわれる。

 十戒は、神とイスラエルの民との間でかわされたほかの契約より前に啓示されたため、古代イスラエルの宗教における唯一の戒めとして重んじられていた。すべてのイスラエル法の基礎となり、旧約聖書でもひんぱんに言及されている。
 十戒は「出エジプト記」20章1〜17節と「申命記」5章6〜21節にしるされている。

(1)序文
(2)ヤハウェ以外の神々を信仰したり、偶像崇拝をしてはいけない
(3)神の名をみだりによんではいけない
(4)安息日をまもらなくてはいけない
(5)父と母をうやまえ
(6)殺してはならない
(7)姦淫してはならない
(8)ぬすんではならない
(9)偽証してはならない
(10)隣人の財産や妻を欲してはならない
 新約聖書には十戒のすべての項目がしるされているが、10の戒めがまとめて列記されている個所はない。


ヤハウェP(Yahweh)
 イスラエルの神の名。神名をあらわす4つのヘブライ文字YHWHはいずれも子音で母音記号がないため、本来どのように発音されていたかは不明である。また、神聖なる神の名はみだりにとなえてはならなかったため、民はかわりに神を「アドナイ(主)」とよんでいた。
 ヤハウェという呼称は、「出エジプト記」3章14節にしるされた神の言葉「わたしはある。わたしはあるという者だ」から類推し、YHWHに母音をくわえたものである。「ある」を意味するヘブライ語の「ハーヤー」が基本となっている。いっぽう、エホバ(Jehovah)という呼び方は、現在では誤読とされている。


ゾロアスター教Q(Zoroastrianism)
預言者ゾロアスターを開祖とする古代ペルシアにおこった宗教。「アベスター」とよばれる聖典には、ゾロアスター自身の言葉を韻文でしるした「ガーサー」とよばれる部分がふくまれている。聖別した火を礼拝の対象としたため、「拝火教」ともよばれる。唯一神アフラ・マズダ(知恵の主)への崇拝と、宇宙全体をみたしている善(アシャ)と悪の対立という二元論が説かれている。
 善はすべてアフラ・マズダによって創造されたとされる。アフラ・マズダの双子の息子のうち、「聖なる魂」あるいは「創造の力」とされるスパンタ・マンユは善を選択し、のちに「善心」「正義」「アフラ・マズダの王国」「敬虔(けいけん)な信仰」「完全さ」「不死」の6神格にわかれてアフラ・マズダをたすけた。これに対し、双子のもう一方であるアンラ・マンユは悪を選択し、「悪の魂(アーリマン)」となってアフラ・マズダたちに敵対した。
 同様に、人間も、善・悪のどちらを選択するかは個々人にまかされていた。死後、魂は「審判者の橋」で審判をうけ、善にしたがう者は天国へいき、悪にしたがうものは地獄におちた。そして、最終的には悪はすべて灼熱の中で消滅していくとされた。
 ゾロアスター教を最初にうけいれたペルシアの王はダレイオス1世だった。ダレイオス1世の碑文には、アフラ・マズダに対する称賛がたくさん書かれている。彼は理性を強調し、悪は世界じゅうにみちていると考えた。
 ダレイオス1世の息子クセルクセス1世もまたアフラ・マズダを崇拝した。しかし、クセルクセス1世はゾロアスター教についてくわしくは知らなかったようである。
 セレウコス朝(前312〜前64)とパルティアのアルサケス朝(前250〜226)では、ゾロアスター教とともに外国の神々も崇拝された。ササン朝ペルシア(226〜651)では、ゾロアスター教がペルシアの国教となった。
 ゾロアスター教は、ヤズドとケルマーンの山岳地帯にあるガブルという小さな共同体の中で維持され、今もイランには1万8000人くらいのゾロアスター教徒がいる。また、インドのボンベイ付近には、パールシーとよばれるゾロアスター教徒がたくさんおり、信仰が盛んにおこなわれている。パールシーたちは今もアベスターの祈祷文をとなえ、聖火をともしているが、今日ではハオマは陶酔性のないものを使用している。しかし、中にはマギの教義にしたがって「静寂の塔」に死体をさらしてコンドルにささげる者もいる。


クノッソスP(Knossos)
 クレタ島北部、に位置した古代都市。クレタ文明の中心地のひとつ。
 ギリシア神話の中にも登場し、ゼウスが幼少時に住んでいたディクテの洞穴は町の近くにあり、半人半牛のミノタウロスのとじこめられた迷宮はミノス王の宮殿の中にあったとされる。クレタ文明は、伝説上のミノス王にちなんでミノス文明ともよばれる。
 
クノッソスの宮殿は前1900年ごろにつくられ、前1700年ごろ、地震によって破壊されたが、すぐに再建されたとされる。採光用の吹き抜け、給排水設備の遺構などは、高度な生活文化をしめしている。その複雑な宮殿は“迷宮(ラビリントス)”の語源となった。しかし、この文明をになった人々についてはまだよくわかっていな。
クノッソスには、前1450年ごろギリシア本土からアカイア人(ミュケナイ人)が、前1000年ごろからはドーリス人が定住し、前3世紀にはローマ人が入植した。


アカイア人H(Achaeans)
ペロポネソス半島北部に居住していた古代ギリシアの種族の一つ。ミケーネ文明を作った。
 ホメロスの詩では、ギリシア人の総称にアカイア人という語がもちいられている。彼らの居住していた地域はアカイア地方とよばれた。


ミノス(Minos)
 ギリシア神話に登場するクレタ島の伝説上の王。記録には「ミノス王」とされる王が数人登場しているが、その区別ははっきりしていない。ゼウスとエウロペの子とされ、クノッソスに都をもち、エーゲ海全域を支配したとされる。
 ミノス王が海神ポセイドンとの約束をやぶり雄牛を生贄にささげなかったがため、ポセイドンはその罰として王妃パシファエが雄牛に恋するようにしむけ、その結果、牛頭人身の怪物ミノタウロスが生まれた。
 アテネの伝説によれば、ミノス王は暴君で、アテネ人は王の息子アンドロゲオスを殺害した償いとして毎年14人の少年少女をクレタ島へおくり、王はこれをミノタウロスへの生贄としていたという。しかし結局、ミノス王はシチリア島で殺害されることになる。またこれとは別に、彼を名君としてえがき、死後にその功により冥界の裁判官のひとりになったとする伝説もある。


ティリンス(Tiryns)
 ペロポネソス半島のアルゴスの南東、アルゴリス湾近くに位置した古代ギリシアの都市。ギリシア伝説最大の英雄ヘラクレスは、のちのティリンス王エウリュステウスにつかえ、彼のために有名な12の功業をおこなった。
 歴史時代になると、ティリンスはしばしばアルゴスの支配をうけた。ペルシア戦争のときにはアルゴスから独立しており、前479年にはプラタイアの戦に参加してペルシア軍とたたかった。しかし、前468年ごろアルゴス人に占領され、それ以降ティリンスは廃墟となり、厚さが7.5mもある巨大な城壁だけがのこされた。
 ティリンスの城塞の頂上部にある宮殿は、1884〜85年にドイツの考古学者シュリーマンによって発掘され、のちにクレタ島の発掘がおこなわれるまで先史時代エーゲ海の宮殿遺跡の中で最も完全なものと考えられていた。


ヘラクレス(Herakles)
 ギリシア神話の最大の英雄で、数々の伝説がある。ラテン名はヘルクレス。ゼウスと、テーベの将軍アンフィトリュオンの妻アルクメネの間にできた子。
 ゼウスの妻であるヘラは、嫉妬のあまり赤ん坊のヘラクレスを殺そうとして揺りかごに2匹の蛇をはいこませたが、幼いヘラクレスはこの蛇をしめ殺してしまった。その後、立派な若者に成長した彼はライオンを素手で退治し、この手柄を記念して、ライオンの皮を身にまとい、その頭を兜にした。つづいてヘラクレスは、毎年テーベに貢ぎ物を要求していたオルコメノスの王をたおし、その褒美としてテーベ王クレオンから王女メガラを妻にあたえられた。
 しかし数年後ヘラクレスは、執念深いヘラによって一時的に気をくるわせられ、妻と子供たちを殺害してしまう。正気にかえって絶望したヘラクレスは、テーベをさり、デルフォイでアポロンの神託をうかがうと、いとこのミケーネ王エウリュステウスのもとで12年間つかえよとのお告げがあった。ヘラにそそのかされたエウリュステウスは、ヘラクレスに次々と困難な仕事を命じた。これが有名な「ヘラクレスの12功業」である。
※ヘラクレスの12功業は、以下のとおりである。
<ネメアの森にすむライオン退治 >
 このライオンはどんな武器でも傷つけることのできない怪物だったので、こん棒で気絶させ素手でしめ殺した。
<レルネの沼にすむヒュドラ退治 >
 ヒュドラは、9つの頭をもち(そのうちの1つは不死身)、首を切断されてもすぐに切り口から新しい頭が2つ生えてくるおそろしい蛇である。ヘラクレスは、切り口を火でやいて頭が生えてくるのをふせぎ、不死の頭は大石の下にうめた。このときヘラクレスは、矢をヒュドラの血にひたして毒矢をつくった。
<ケリュネイアの鹿の生け捕り >
 この鹿は、黄金の角と青銅のひづめをもっていた。狩猟の女神アルテミスの聖獣だったので傷つけることが禁じられ、生け捕りにするのに1年かかった。
<エリュマントスの猪の生け捕り >
エリュマントス山の大猪を生け捕りにした。
<アウゲイアスの牛小屋掃除 >
 エリス王アウゲイアスの数千頭の牛がいる広大な牛小屋は、30年間まったく掃除をしたことがなくよごれきっていたが、ヘラクレスは怪力で2本の川の流れをかえて水をながしこみ、たった1日で掃除した。
<ステュンファロス湖畔の鳥退治 >
 湖畔の森にむれすんで人畜に害をなしていた無数の鳥を森からおびきだし、弓矢で殺した。これらの鳥は、青銅の嘴・爪・翼をもっていたといわれている。
<クレタの雄牛の生け捕り >
海神ポセイドンがクレタ島のミノス王をおどすためにおくった狂気の雄牛をとらえた。
<ディオメデスの雌馬の生け捕り >

 トラキア王ディオメデスは、人肉を餌にしている4頭の馬をかっていた。ヘラクレスは王を殺して、この人食い馬たちをミケーネにつれかえった。
<アマゾン族の女王の帯の奪取>
 アマゾンの女王がもっているアレスの帯を、エウリュステウスの娘がほしがったため、ヘラクレスが奪取を命じられた。女王は帯をわたすことを承諾したが、ヘラの陰謀で戦いがおこり、ヘラクレスは女王を殺して帯をうばった。
<怪物ゲリュリオンの飼い牛の生け捕り >

 首が3つある怪物ゲリュリオンの飼い牛を捕獲するため、ヘラクレスはエチオピアにむかう。途中、旅の記念に巨大な2つの岩で柱をたてた。これが、ジブラルタル海峡の東端両側にあるジブラルタル山とセウタ山だといわれている。
<ヘスペリデスの園の黄金のリンゴをもちかえる >
 世界の果てにあるヘスペリデスの園の近くまできたヘラクレスは、黄金のリンゴのある場所を知らなかったので、ヘスペリデスの父である巨人神アトラスにたのんでとりにいってもらい、その間、彼にかわって世界を肩でささえた。リンゴをとってきたアトラスはふたたび重荷をせおうのをいやがったが、ヘラクレスは彼をうまくだまして交代しリンゴを手にいれた。
<冥府の番犬ケルベロスの生け捕り>
 最後の使命は最大の難問で、冥府の番犬、3つ頭のケルベロスの生け捕りだった。武器をつかわずにとらえることができるならつれていけと冥府の王ハデスにいわれたヘラクレスは、無事に素手でこの猛犬をつかまえミュケナイへつれてかえり、のちにまたハデスへかえした。
 子のような冒険の後ヘラクレスは海神ポセイドンの息子アンタイオスとあらそって、デイアネイラと結婚した。
 あるときヘラクレスは、デイアネイラをおそったケンタウロスのネッソスを、ヒュドラの血をしみこませた毒矢で射殺した。瀕死のネッソスはデイアネイラに、自分の血は愛の妙薬だから大切にとっておけといいのこした。じつはその血にはヒュドラの猛毒がふくまれていたが、デイアネイラはネッソスのうそを信じた。そして夫がオイカリアの王女イオレに恋したとき、その愛をとりもどしたいばかりに、この血をしみこませた衣を夫におくった。それを身につけたヘラクレスは、全身を毒におかされてくるしんだあげく、自殺した。
 ヘラクレスの魂はオリュンポスの神々のもとへはこばれ、そこでヘラと和解し、青春の女神ヘーベーと結婚したという。


アクロポリスN(Akropolis)
 古代ギリシア都市の中の防壁で囲まれた丘。ギリシア語で「高い町」を意味する。代表的なのはコリントスのアクロコリントスやテーベのカドメイア。
 アクロポリスは対外的、対内的な軍事拠点であったが、徐々に軍事拠点としての要塞としてよりも、神殿や公共建築物があつまる宗教や政治の中心地としてつかわれるようになった。古代アテネのアクロポリスは標高約150mの石灰岩の丘で、その遺跡は、古典期のギリシア建築の中でもっともすぐれたものである。
 後世、アクロポリスの建造物は破壊され、荒廃したままになっていたが、1833年にギリシアに王政が樹立されてから、徐々に復元された。
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アゴラN(Agora)
 古代ギリシアの都市生活の中心であった公共広場。開放的な空間で、市民の政治、商業、宗教、社会生活の交流の場だった。市民男子は労働を奴隷に、家事は女子に任せてほとんど終日ここで過ごしたとされる。
 アゴラの四方には公共建築物や神殿がたちならんだ。アテネのアゴラがもっとも有名で、アクロポリスの北西部に位置していた。


クレーロスE(Kleros)
 もともとくじという名詞で、私有地という意味になった。自由明にくじで公平に分配された土地のこと。


ヘラスA(Hellas
 古代ギリシア語で「ヘレネス(ギリシア人)の地」を意味する。ギリシア人は自分たちは英雄ヘレンの子孫であるとしてヘレネスと名のったことから。
 古代ギリシア人は自らの居住地をヘラスとよび、その広がりとともに、やがて古代ギリシアの総称となった。今日のギリシアの国名もギリシア語ではHellas(現代ギリシア語ではエラスと発音)であり伝統をうけついでいる。


オリンピア競技会
 古代ギリシアの4大祭典のうちでもっとも有名な祭典。他の3つは、イストミア祭、ピュティア祭、ネメア祭。祭典は、4年ごとの夏、聖地オリンピアのゼウス神を祭るためにおこなわれた。記録上もっとも古い開催は、前776年である。
 競技が開催される年には、ギリシア全土に使者がおくられオリンピア休戦をふれまわり、ゼウスに貢ぎ物をおさめるよう各ポリスによびかけられた。ギリシア人の自由市民の男子にかぎられ、女性は見物もできなかった。
 競技式典の次第は正確にはわかっていないが、祭典の初日は宗教儀式だった。2日目から競技がおこなわれ、観衆は、周囲が内側にむかって傾斜した楕円形のスタディオン(競技場)にあつまった。競技種目は徒競走にはじまり、レスリング、ボクシング、その2つをくみあわせたパンクラティオンなどがおこなわれた。これらの競技では、3度投げたおされると負けとなった。ボクシングはしだいにあらっぽくなり、はじめは拳にやわらかい革をまいていたが、のちには金属がそえられることもあった。パンクラティオンもはげしさをまし、闘いは相手が敗北をみとめるまでつづいた。
 競馬や戦車競走は、馬を所有する富裕な市民だけが参加できたが、人気の高い競技だった。次におこなわれるのは五種競技で、徒競走、走り幅跳び、やり投げ、円盤投げ、レスリングであった。正確なルールはわかっていない。
 最後の競技は、兜と盾をもった武装姿での徒競走であった。競技の優勝者たちにはオリーブの冠があたえられ、詩人にほめたたえられた。その後の生涯を、ポリスからの年金で生活する者もいた。
 前5〜前4世紀にもっともさかえたが、スパルタの排除や職業競技者の横行などが原因で、衰退していった。ローマ皇帝テオドシウス1世の命により、後393年の第293回を最後に、翌年幕をとじた。


オリンポスの12神
 
ゼウス、その妻ヘラ、ゼウスの兄弟で海の神ポセイドンと大地の実りの女神デメテル、ゼウスの姉妹でかまどの女神ヘスティア、ゼウスの子供たちである知恵の女神アテナ、戦いの神アレス、太陽の神アポロン、月や狩猟の女神アルテミス、愛の女神アフロディテ、神々の使いヘルメスヘファイストスである。


デルフィL(Delphoi)
 ギリシア中部フォキス地方のパルナッソス山麓にある町で、アポロンの神託の地だった。古代ギリシア人はデルフィを世界の中心と考えていた。
 デルフィの神官は、ピュティアとよばれる巫女を中心に儀式を洗練させた。ピュティアが口にする言葉はアポロンの言葉とされ、行動を決定するために神託をうかがいにきた市民や為政者たちにつたえられた。神殿までつづく聖なる道の両脇には、ギリシアの諸都市が奉納した宝物をおさめた宝庫がたちならんでいた。
 デルフィの富を支配しようとする争いがしばしば発生し、デルフィは徐々に衰退していった。前446年の第2次神聖戦争、さらに前356年におきた第3次神聖戦争によってフォキス人がデルフィを占領したが、前346年、マケドニア王フィリッポス2世に屈伏。ついで前4世紀末には、ギリシアの都市同盟、アイトリア同盟がデルフォイを支配した。前279年にはガリア人に略奪された。ギリシアがローマの支配下にはいりキリスト教の信仰がひろまると、デルフォイは衰退し、美術品や財宝のほとんどが皇帝ネロをはじめとするローマ人に没収された。それでもデルフォイの神託は後390年までつづいた。
 1892年にはじまった発掘によって神殿・大祭壇・競技場・劇場・城壁・宝庫などの跡が明らかとなり、アポロン賛歌をしるした壁も発掘された。また、碑文も4000枚以上出土している。


隣保同盟C(Amphiktyonia)
 古代ギリシアで信仰を中心に、神殿の維持、相互の親善などを目的として結んだ同盟。共同で祭典を開催し、各種の競技も開催したため、文化や市場の発達に貢献したが、政治的な影響力は少なかった。
 有名なのはデルフィのものである年に2回の同盟会議を開き、アポロン神殿とその財産の管理、ピュティアの競技の実施などをとりきめた。相互不可侵や水利協定などもめざしたが、たびたび紛争がおこり、違反者を罰する神聖戦争がおこなわれた。
 そのため、同盟は強国に利用されることとなり、マケドニアのフィリッポス2世らには、ギリシア統一計画の手段とされた。
 そのほかの隣保同盟としては、小アジア西南部のドリス系6都市がトリオピオンのアポロン神殿を中心に結成したヘクサポリス(6都市連合)、小アジア中部のイオニア系12都市がミュカレのポセイドン神殿を中心に結成した12都市連合などが知られる。また、デロス島のアポロン神殿を中心とする同盟の存在も知られている。


ビザンティウム(Byzantium)
 前660年ごろにギリシア人植民者によってつくられた古代都市(別称:ビザンティオン)。ボスフォラス海峡のヨーロッパ側に位置し、現在のイスタンブールの一部分にあたる。金角湾とよばれる良港があり、黒海と地中海をむすぶ要地に位置したため、流通とくに穀物貿易の中継地となった。前5世紀の初め、ペルシアの支配者ダレイオス1世によって街は破壊されたが、前479年にスパルタ人によって再建された。
【図へ…】


ヘロットP(Helots)
 古代ギリシア、スパルタの国有奴隷。ギリシア語ではヘイロータイ。
スパルタの先住民だと推測されている。スパルタの身分制では最低の地位にあり、参政権をもたなかった。彼らは国家の財産とされ、個々のスパルタ人にわりあてられて土地を耕作した。
 ヘロットは国家によってのみ解放や売却がみとめられ、戦時には兵士として、あるいは船の漕ぎ手としてつかわれた。ヘロットの数はスパルタの完全市民の数をはるかに上まわっていたため、支配者であるスパルタ人はつねにヘロットの反乱をおそれて監視を強化し、このことが独特の軍国体制をつくりあげるひとつの要因ともなった。
 ヘロットの補充と制圧がスパルタの国政の最重要課題であった。


ペリオイコイN(Perioikoi)
 スパルタ市民に対してヘロットとともに従属的地位にあった人々。身分的には、市民とヘロットの中間に位置した。周辺居住者を意味するギリシア語。
 ペリオイコイという身分の起源や民族的出自は不明である。ヘロットとはことなり、スパルタ市民とともに、スパルタの正式名称であるラケダイモン人を構成し、スパルタ市民とともに従軍した。しかし、スパルタの参政権はなかった。
 スパルタ周辺の山麓や沿岸地域に居住し、裕福な者はヘロットをつかってすらいた。商業や手工業にたずさわる者が多かった。スパルタでは市民が商工業をすることを禁じたため、ペリオイコイの仕事となったのである。


アレオパゴス評議会(Areopagus)
 最高裁判所の役割をもった古代アテネの会議。アクロポリス西側の小高い岩丘アレオパゴスでひらかれた。
 貴族政期には、国政の中枢であったアルコン職経験者の議員で構成され、野外で開催された。アレオパゴス評議会は国家の役人を監督し、またその判決は絶対だったので、国政に対して重要な役割をはたしていたとされている。ドラコンの時代、アレオパゴス評議会は殺人罪の裁判をあつかうようになった。ソロンは、国益に反する行為をした役人や市民をさばく権限をアレオパゴス評議会にあたえたが、国政や立法に直接関与する権限はなくし、監視と法律擁護の任にあたらせた。こうした権力の縮小にもかかわらず、前2世紀にアテネがローマの支配下にはいったあとも、アレオパゴス評議会は法的機関として権威をたもちつづけた。
 キリスト教の歴史では、聖パウロがアテネ人に説教をした場所として知られる(新約聖書「使徒言行録」17章19節以下)。


重装歩兵Q(Hoplites)
 古代ギリシア語のホプリテスの訳語で、陸軍戦士をさす。前8世紀半ば過ぎに出現。ホプロンとよばれる直径80cmほどの青銅張りの木製あるいは革製の丸盾をもって従軍したことからこの呼び名がついた。
 戦士たちは、盾のほか、青銅の甲冑とすね当て、長さ2.5〜3mの鉄の槍、鉄の短剣に身をかため、仲間の戦士たちとびっしりと盾をならべた密集隊(ファランクス)の隊列をとり、戦いにのぞんだ。こうした武具は高価で、しかも自費でまかなわなくてはならなかったため、ある程度富裕な階層の出身者でなくては重装歩兵になれなかった。

 重装歩兵ははじめ、騎馬で戦場におもむく貴族が中心で、戦場に到着すると馬を従者にあずけて隊列をくむという方法がとられた。しかし、前7世紀後半から富裕な平民が自弁で武具を揃え徒歩で戦場にむかって隊列にくわわるようになった。横につらなった盾の壁が長いほど、そして幾重にも重なるほど、戦力が増大した。
 密集隊列による戦術は、正面からの敵に対しては威力を発揮したが、横あるいは背後からの攻撃には弱かったと考えられる。しかし、敵の正面にむかって前進するときには大きな戦果をもたらした。ペルシア戦争における前490年のマラトンの戦、前479年のプラタイアイの戦での活躍が代表例である。
 重装歩兵の戦術は、エトルリアをとおしてローマにもつたわり、前6世紀半ばから前4世紀初めまでもちいられた。


僭主N(Tyrannos)
 前7世紀の後半から古代ギリシアのポリスにあらわれた、実力をもって非合法的に権力をにぎった独裁者のこと。暴君を意味する英語タイラント(tyrant)の語源であるが、僭主はかならずしも暴君とはかぎらなかった。

 貴族政から民主政への移行期に、多くのポリスに僭主があらわれた。彼らは、貴族政に不満を持つ市民の支持をえて、市民の指導者として独裁者の地位についた。代表的な僭主としては、アテネのペイシストラトスと息子のヒッピアスとヒッパルコスらがあげられる。
 僭主は、貴族から没収した土地を分配するなど、下層農民が自立できるようにつとめるとともに、商工業を奨励し、植民市を建設し、公共建築に着手し、芸術家を保護するなど、ポリスを立派にして市民の人気をえるよう努力した。一方、税の徴収や武器の没収、官職の一族独占といった政策は、僭主に対する不満をよびおこすことにもなり、僭主政の存続はせいぜいのところ2世代にとどまった。
 なお、前4世紀の哲学者プラトンとアリストテレスは、僭主政をわるい国政の筆頭にあげており、僭主という言葉に対するわるいイメージは、このころから定着したと考えられる。


イオニア(Ionia)
 小アジア西岸の中央部と沿岸の島々からなる古代ギリシア世界の一地域。現在のトルコに位置する。イオニアという地名は、前1000年以降ギリシア本土から移住してきたイオニア人にちなんでつけられた。イオニア地方は山が多いが、肥沃な谷地がひろがり、農業と商業によって繁栄した。

 前7世紀〜前6世紀に、哲学が隆盛し、タレスをはじめとするミレトス学派が活躍した。エフェソスやミレトスをはじめ、多くの都市が繁栄し、ミレトスとフォカイアは交易の中心地となり、黒海沿岸で盛んに植民都市を建設した。
 アケメネス朝の支配下に置かれた際に,ダレイオス1世のスキタイ遠征費の賦課に対して反乱。ペルシア戦争の原因となる。


ミレトス(Miletos
 
小アジアのイオニア地方にあった古代ギリシアの都市。前8世紀ごろからの活発な交易によってイオニア諸都市の中で最も繁栄した。毛織物をはじめとする織物の生産でも有名だった。北方のヘレスポントス(現ダーダネルス海峡)、黒海沿岸に多くの植民市を建設し、地中海全域に商船をおくった。
 リディアの攻撃をうけ前6世紀半ばにその支配下にはいり、リディアがアケメネス朝のキュロス2世に征服されると、ペルシアの支配下にはいった。前499〜前494年に、ペルシアに対するイオニア植民市の反乱を主導したが鎮圧されダレイオス1世によって徹底的に破壊された。ヘレニズム時代とローマ時代にミレトスはふたたび繁栄したが、ローマの帝政期以降に衰退した。
 哲学者ターレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスらの出身地であった。


マラトン(Marathon)
 アッティカの東海岸、アテネの北東に位置した。山地と沼地と海に囲まれた平坦な地であった。前490年に、マラトンの戦いがおこなわれた場所として有名。

 マラソンという言葉は、マラトンの戦の勝利をつたえるために戦場からアテネまで疾走したという、後世に生まれた一兵士の武勇伝にちなんでいる。


テルモピレーの戦(Battle of Thermopylae)
 第2回ペルシア戦争中の戦いのひとつ。前480年8月頃、スパルタのレオニダス王が指揮するギリシア軍とギリシア北部を南下してきたクセルクセス王のペルシア軍とが陸戦をおこなった。
 ペルシア軍の勝利におわったこの戦いで、レオニダス王ひきいるスパルタ軍の勇敢さは長く人々の記憶にとどまり、また戦いの模様はヘロドトスの「歴史」によって今日につたえられる。
 テルモピレーの戦は、3日間にわたっておこなわれた。約6000〜7000人のギリシア軍に対し、ペルシア軍の数ははるかにまさっていた。合戦2日目、エフィアルテスという名のギリシア兵士が、味方を裏切ってクセルクセス1世に間道をおしえた。ペルシア軍の「不滅隊」は夜を徹して間道を進軍し、ギリシア軍の背後にせまった。危機を知ったギリシア軍は退却を検討したが、レオニダス麾下のスパルタ軍は退却を拒否し、結局スパルタ軍300人、テスピアイ軍700人、テーベ軍400人が残留した。レオニダスと300人のスパルタ軍は最後までふみとどまり、ペルシア軍に6度にわたり突入し玉砕した。この知らせを聞いたギリシア人が感動して「ラケダイモン人たちよ聞け。君達の死を無駄にはしない」といったという話しは有名。


サラミスの海戦( Battle of Salamis)
 第2回ペルシア戦争中にギリシア艦隊が勝利をおさめた海戦。
 前480年、クセルクセス1世の指揮するペルシア艦隊はギリシア本土を南下し、アテネを占領し陥落させた。アテネはテミストクレスの策により、女子はトロイゼンに避難し、男子は船にのりくみ、ギリシア連合軍とともにサラミス水道でペルシア艦隊をまちうけていた。
 ペルシア艦隊は狭い水道に進入することをためらったが、テミストクレスの策略によってさそいこまれ、一度に1200隻もの船が狭い水道にはいりこんで身動きできなくなっているところに、400隻のギリシア連合艦隊が攻撃をしかけた。ペルシア艦隊は大きな損害をうけ、クセルクセスはアジアに敗走、無傷のペルシア陸軍はいったん北上してテッサリアに退避した。
 サラミスの海戦の勝利は、テミストクレスの提案によって建造された機動力のある200隻の船で構成されたアテネ艦隊の勝利でもあった。アテネはこれによって海軍国としての地位をかためた。
 また、無産市民が、この海戦で登場した三段擢船の漕ぎ手となり活躍。その結果無産市民が軍役を果たしたことになり参政権を獲得する契機となった。


プラタイアイの戦(Battle of Plataea)
 前479年、ギリシア軍とペルシア軍との間でおきた合戦。サラミスの海戦に敗退したクセルクセス1世は、マルドニオスに陸軍をまかせて戦闘続行を命じ、小アジアに撤退した。マルドニオスは翌春アッティカに侵攻したが、ギリシア軍の勢力結集を前にして、ギリシア中部への退却を余儀なくされた。同年夏、ペルシア軍10万とギリシア軍8万は、アッティカとボイオティアの境にある平坦な丘陵地プラタイアイで会戦し、激戦を展開した。

 マルドニオス麾下のペルシア軍とスパルタの武将パウサニアス麾下のギリシア軍は、アソポス川をはさんで10日以上にわたり対峙した。ペルシア騎兵隊によりギリシア軍は川から遮断され、給水路をたたれ苦境においこまれた。ギリシア軍はさらに食糧補給路を遮断されるにおよび陣営の移動を決意したが、スパルタ軍とテゲア軍、アテネ軍をのぞいてはみな逃走してしまった。この状況を知ったマルドニオスは、残留していたギリシア軍に対して攻撃をしかけたが、功をあせるあまり戦死。ギリシア軍は、騎兵、弓兵の攻撃に耐久力のある重装歩兵部隊の奮闘により奇跡的に勝利をおさめた。これによりペルシア戦争におけるギリシアの勝利が決定づけられた。


デロス同盟Q(Delian League)
 ペルシア戦争中の前477年に結成された諸ポリスの同盟。当初の目的はペルシアの再攻撃にそなえることであり,ペルシアの攻撃は陸路ではなく海上からとの推測し、ギリシアで最大の海軍力をほこっていたアテネが盟主となった。
 同盟の本部(金庫)はデロス島におかれ、同盟国は国力に応じて軍艦と兵を提供した。同盟国は最盛期には200をこえたが、一部の有力国以外の同盟国は艦兵の代わりに軍資金を提供するようになった。同盟国が提供した金は、事実上アテネへの貢納金となり、同盟の性格は対ペルシア防衛からアテネの富強へと徐々に変化していった。同盟国の反乱がアテネの武力で抑圧されるようになると、独立と自治をもつ都市で構成されていた同盟は、「アテネ帝国」へと変質した。


ペロポネソス同盟K(Peloponnesian League)
 古代ギリシアにおいて最古かつもっとも長くつづいた同盟。スパルタを盟主としペロポネソス半島の諸ポリスが加盟していた。正式名称は「ラケダイモン人とその同盟者たち」で、ペロポネソス同盟という呼び名は現代の通称。
 前6世紀、スパルタはテゲアやエリスと同盟を締結したのを皮切りに、前500年ごろまでに永続的な同盟としてペロポネソス同盟を成立させた。同盟国は、敵味方をスパルタと同じくすること、およびスパルタの指示にしたがうことを宣誓した。一方、スパルタは、同盟国が攻撃された場合には全力で援軍をおくる義務をおった。スパルタは同盟会議を招集、主宰し、同盟国はそれぞれ1票の投票権をもった。同盟としての軍事行動は多数決できめられ、スパルタもこれにしたがった。戦争時にはスパルタが軍事指揮権をにぎり、同盟諸国に戦費の負担と軍の派遣を命じた。同盟の軍事行動がないときには、税が徴収されることもなく、同盟国間で戦争をおこなうことも可能であった。
 前431年、スパルタはアテネを盟主とするデロス同盟とのペロポンネソス戦争にふみきった。前404年に勝利すると、スパルタは同盟国に対して専制的にふるまい帝国化したが、それでも同盟国に対する貢納金の強制はなかった。前371年、レウクトラの戦でスパルタがテーベに敗退すると、同盟の求心力はうしなわれ、5年後の前366年、同盟は解体した。


コリント同盟(League of Corinth)
 ヘラス同盟ともよばれる。マケドニア王フィリッポス2世がカイロネイアの戦(前338
)に勝利したのち、スパルタをのぞく全ギリシアのポリスの代表者をコリントに招集し翌年に結成した同盟。同盟国の自治は保障されたが、同盟規約に反した国に対して共同で制裁をくわえることも義務づけられ、さらに、加盟国はマケドニア王国に反抗しないことを宣誓させられた。
 同盟会議(シュネドリオン)は、コリントで開催された。加盟国は、相互の自由と自治の保障・貢納の免除・現政権の維持と国内平和の保持・個人財産の保護・海陸交通の安全・同盟会議での審議の権利を宣誓し、ギリシアの平和と統一が一応実現されることになった。しかし、フィリッポスが同盟の指導者(ヘゲモン)として選出されたことで、同盟は彼のギリシア支配のための道具となり、計画中のペルシア遠征の軍事援助をひきだすための手段となった。フィリッポスはペルシア遠征のための最高軍事指揮官に指名され、加盟国は国力に応じて連合軍に兵力を負担した。

 前336年、ペルシア遠征開始の矢先にフィリッポスが暗殺されると、息子のアレクサンドロス大王が同盟指導者の地位をつぎ、ギリシア連合軍とマケドニア軍をひきいて東方遠征にのりだしペルシア討伐(前334〜前331)を実現した。しかしアレクサンドロスの治世末期までに、ポリスの政治的独立はうしなわれ同盟は有名無実化した。


セレウコス朝(Seleukos 前312〜前63)
 中東アジアを支配したギリシア系マケドニア人の王朝。シリア王国ともいう。創立者のセレウコス1世(在位:前312〜前280)、次のアンティオコス1世(在位:前280〜前261)までは、小アジアから現在のパキスタンにいたる広大な領土を支配したが、次第に王権は弱まった。プトレマイオス朝エジプトとしばしば戦争をおこした。
 首都は、はじめティグリス河畔のセレウキアにおかれたが、前300年からはシリアのアンティオキアにうつされた。支配体制は専制君主制で、アンティオコス2世の時代からは、王は神として崇拝の対象とされた。
 前250年をすぎると、パルティアなどの勢力におされて、しだいにユーフラテス川より東の地域の支配権をうしなっていき、同時に小アジアからもおいだされた。最後までのこったシリア地域は、前63年、ローマに併合された。


アンティゴノス朝Antigonos 前306〜前168年 
 ギリシア本土をふくむマケドニア王国を支配した王朝。プトレマイオス朝、セレウコス朝とならぶヘレニズム3王国のひとつ。アンティゴノス1世(在位、前306〜前301)が開祖。
 アレクサンドロスによってフリュギアのサトラップ(総督)に任命されたアンティゴノスは、前321年摂政のアンティパトロスからアジアにおけるマケドニア軍の最高指揮官に任命され、ディアドコイ戦争に介入した。前306年、キプロス島のサラミス沖でプトレマイオスとの海戦に勝利すると、マケドニアの諸部将の中ではじめて王と称した。しかし、前301年イプソスの戦で4人の部将の連合軍の攻撃にあって殺害され、アジアの帝国は勝者の間で分割された。息子のデメトリオスはしばらくの間ギリシアで勢力を維持したが、真のマケドニア王朝創設は孫のアンティゴノス2世(在位:前276〜前239)の時代にもちこされた。
 フィリッポス5世(在位:前221〜前179)の時代にはローマの勢力拡大に対抗するためにカルタゴのハンニバルと同盟し、ローマとの戦いを有利な条約をもって終結させた(第1次マケドニア戦争。前215〜前205)。しかし、その後セレウコス朝シリアのアンティオコス3世と同盟してローマとたたかったことから、ローマとの軋轢を増大させることになった(第2次マケドニア戦争。前200〜前197)。のちにフィリッポスの遺志をついだ息子ペルセウスはピュドナの戦(前168)でローマにやぶれ、アンティゴノス朝は滅亡し、マケドニアはローマの属州となった。


プトレマイオス朝(Ptolemaic Dynasty 前305〜前30)
 ヘレニズム時代にエジプトを支配したマケドニア人の王朝。
 アレクサンドロス大王の武将プトレマイオスが、前323年の同王の死後エジプト総督に任命され、前305年に独立した。プトレマイオスのもとで王国は繁栄し、後継者の同2世・3世の時代には、東部地中海の覇権をめぐり、セレウコス朝シリアとあらそった。王国の首都は、アレクサンドリアで、商業や学問の中心として、古代世界で重要な位置を占めた。
  前2〜前1世紀、王位をめぐる争いがつづいて王朝の力がおとろえ、ローマの介入をまねいた。最後の支配者はクレオパトラだった。彼女は最初はカエサルの、のちにはアントニウスの援助でエジプトを支配したが、前30年アクティウムの海戦でオクタビアヌスにやぶれ、王国は滅亡した。


パトリキQ(Patricii)
 古代ローマの世襲貴族をさし一般的に貴族を意味する。語源は元老院の構成員を意味する「パテル(父祖)」。共和政初期は全ての公職を独占していたが、前5世紀初めからプレブスとの間で身分闘争起こり、その結果、プレブスは政治的平等をかちとった。前300年以降、パトリキとプレブスの間の古い政治的区分は、パトリキが護民官になる資格がなかったことをのぞいて、実質的な意味をもたなくなった。帝政後期、後4世紀のコンスタンティヌス1世時代以後は、パトリキは個人の称号となり、世襲でうけつがれることはなくなり、1代かぎりの名誉と特権があたえられるだけとなった。


プレブスQ(Plebs)
 古代ローマの平民身分。パトリキとならんび、ローマ市民を構成する。共和政初期に長期にわたる身分闘争のすえ、特権を獲得し、すべての政務官、神官の地位につくことができるまでになった。以後は、パトリキとプレブスを問わず、富と官職経験にもとづいて元老院資格をえたノビレスとよばれる新しい貴族階級が形成され、プレブスは、漠然と元老院身分や騎士身分ではない一般大衆をさすようになった。


元老院Q(セナトゥス Senatus)
 セナトゥス(senatus)という言葉は「老人(senex)」からきており、本来は氏族の長老の集会であった。元老院議員の身分は原則として終身で、定員ははじめ300名であった。前1世紀になるとスラにより600名とされた。前4世紀末からケンソル(監察官)が議員を選任し、有徳者あるいは高級政務官経験者が議員就任の条件となった。特にコンスル職経験者は「コンスル級」とよばれ、絶大な権威をもった。元老院は建前上は政務官の諮問機関にすぎなかったが、その決議は事実上の命令で、さらに外交・財政など重要な決定権を掌握し、共和政期には事実上ローマの国政を支配していた。
 帝政(元首政)期には、形式的には皇帝(元首)と元老院の共同統治という形をとったが、実際は皇帝の支配下におかれ、加えて名門貴族の没落や家系断絶などにより権力は衰え6世紀末までつづいた。


コンスルQ(Consul)
 古代ローマ共和政期の最高位の公職で執政官と訳す。前510年ごろ、王政が廃止され共和政が開始されたときに設けられた。2人制で、任期は1年であったが、在職期間と権限に制限があったことを除くとほぼ王の地位と変わらなかった。他国との講和や同盟交渉、軍隊の最高指揮、会計役の指名をおこない、王並みの司法権を行使した。
 共和政初期には、前任者が公認を指名したが、のちにはクリア民会ケントゥリア民会がコンスルを選出するようになった。パトリキがコンスル職を独占したが、やがてプレブス出身の護民官職が、貴族支配に対抗して平民の利益をまもるためにもうけられた。これにより平民がコンスル職につく道がひらかれ、前367年に制定されたリキニウス法では、コンスルの1人を平民から選出することがさだめられた。
 前443年からは監察官(ケンソル)、前367年からは按察官(アエディリス)や法務官(プラエトル)など、新しい公職が次々にもうけられて、コンスルの権限は縮小された。
 2人のコンスルは可能なかぎり職務を分担しときには交替で執務した。彼らの権力は絶大で、立場は対等だった。獲得した領地は、属州(プロウィンキア)として各コンスルにあたえられた。のちには、任期をおえたコンスルに属州総督職があたえられるようにもなった。共和政後期になると、退任した公職者の間で属州をわけあって管理する習慣ができ、属州を統治するコンスル出身者はプロコンスルとよばれた。
 帝政期には、コンスル職は形ばかりとなった。紀元14年以降は元老院がコンスルを選出し、一般市民も就任できる最高位の公職として存続したが、実権はうしなわれていた。541年にえらばれたコンスルが最後となった。


護民官(Tribunus Plebis)
 平民会で選ばれた元老院や貴族の専横から平民をまもる役割をはたした古代ローマの役職。共和政初期パトリキプレブスの身分闘争がおこり、前494年プレブスがパトリキに自分たちだけの集会で護民官をえらぶ権利を認めさせた。護民官には、平民への懲戒をやめさせたり、民会立法や元老院決議に干渉する権限があたえられた。護民官の人数については諸説があるが、当初はおそらく2名、のちには10名にもなり、任期は1年だった。
 前287年のホルテンシウス法は、平民会の決議を国法として認めたので護民官の権限は拡大された。しかし、護民官どうしが拒否権をもっていたため、しばしば元老院による買収もおこなわれた。前2世紀には、護民官経験者に元老院議員資格があたえられ、護民官職はますます元老院支配の道具となった。前2世紀後半、グラックス兄弟は、護民官として改革にとりくんだが、失敗におわった。帝政期には、皇帝が護民官の職権を保有し、本来の意義はうしなわれた。


民会
 ローマの民会にはクリア民会,ケントゥリア民会,トリブス民会の3種があり、法案に対する決定権と官職の選挙権をもっていた。民会には法案提出権はなく、コンスルなどの招集権者が提案する法案に、賛成票か反対票を投じた。票は個人ごとではなく、投票単位(ケントゥリアやトリブス)ごとに意思表示がなされた。賛成か反対のどちらかが過半数に達すると投票はうちきられた。有力者たちが被護民(クリエンテス)や軍を動員して民会を支配したので、しばしば買収や暴力が横行した。帝政期には、民会はその意義と機能をうしなった。

1.クリア民会
 開始は王政初期にさかのぼる。ローマの3部族(トリブス)をそれぞれ10クリア(集落)にわけ、クリアごとに市民の意思をまとめ、民会ではクリア単位で投票した。クリア民会は、王の選出や承認、宣戦を決した。共和政期に入ると、コンスルに権限をあたえるだけの形式的な存在となった。

2.ケントゥリア民会(兵員会)
 前6世紀中頃、セルウィウス・トゥリウス王のもとローマ市民は193のケントゥリア(百人隊)にわけられ、全市民は身分や財産に基づいて等級分けされたケントゥリアのいずれかに所属した。各ケントゥリアは決められた数の兵士をだす義務をおった。ケントゥリアごとに市民の意思をとりまとめて、民会で投票した。投票制度は、富裕市民に有利な仕組みになっていた。共和政期中ごろに、ケントゥリアの数は369にふやされた。

3.トリブス民会(地区会)
 セルウィウス・トゥリウス王は、それまで部族をあらわしていたトリブスを、地域をしめすものとし、ローマ市域に4、周辺域に16〜17のトリブス(地区)をもうけ全市民を配置した。ローマ領が拡大されるにつれて周辺域のトリブス数がふえていったが、前241年に市域もふくめ全35トリブスに固定された。以後ローマ市民権をえた者は、居住地域にかかわりなく既存のトリブスに配された。戦時の軍隊編制はトリブスにもとづいてなされるようになり、また各トリブスごとに市民の意思がとりまとめられて民会で投票した。

4.平民会
 民会のほかに、パトリキの参加しないプレブスだけの会(コンキリウム・プレビス)があった。王政期からつづいた貴族と平民の身分闘争によって、前494年には、平民集会は護民官を選出できることになり、前287年のホルテンシウス法は、平民会決議を全市民に適用できる権限をあたえた。これによって身分闘争は終息し、平民会はのちにはパトリキも参加するものとなったので、トリブス民会に解消していったと考えられる。


アッピア街道(Via Appia)
 ローマから南イタリアにのびる古代ローマ最古の幹線道路。名称は前312年にローマの監察官(ケンソル)アッピウス・クラウディウス・カエクスによって敷設されたことにちなむ。建設当初は、約200kmの街道だった。のちに延長され南イタリアへの主要路となり全長は540kmにおよんだ。
 現存する道路の舗装は、堅固な路盤のうえに、おもに玄武岩からなる多角形の大きな敷石が、火山灰を原料としたセメントでかためられているが、当初のものではないと考えられている。ところどころに、距離をしめす里程標がたっている。街道は、現在でも部分的に使用されている。アッピウス・クラウディウスは、ローマ市内への地下水道も建設した(アッピア水道)。
 アッピア街道がつくられて以後、ローマは、イタリア半島の領土内はもちろん、征服した属州にも多くの幹線道路を建設し、橋をかけ、交通を整備した。たえず道路を改修したので、軍事面はもちろん、商業発達の面でも大きな役割をはたした。たくさんの街道は、ローマを起点とし、「すべての道はローマに通じる」といわれた。


植民市(colonia)
 前4世紀以降イタリア半島のラティウムなどで、軍事的目的のために、あるいは下層市民や老兵への土地分配のために建設された。植民市は、ローマ市民植民市とラテン植民市とに区分される。ローマ市民植民市での300人の植民者はローマ市民権を保有しつづけた。ラテン植民市は、2000人以上のローマ市民とラテン人によって建設されたもので、ローマから独立した都市国家として建設された。しかし、独立していたとはいえ、当初はローマのイタリア半島に対する勢力拡大のための拠点とされていた。
 イタリア同盟市戦争以後、212年にイタリアの自由民がローマ市民権を獲得したことにより、両者の区別はなくなった。前2世紀後半以降、植民はイタリア外部にもおよび、北アフリカや東方の属州に多くの植民市が建設されるようになった。この動きは、五賢帝のひとり、ハドリアヌス帝の時代までつづいた。


属州(Provincia)
 ローマは前3世紀の第1次ポエニ戦争で、シチリア島・コルシカ島・サルディニア島といった海外領土を獲得すると、これを直接統治下におき、毎年1名の総督を高級政務官を歴任した元老院議員から派遣した。その後、属州の数は共和政期を通じて増加し、ポンペイウス、カエサルらが活躍した前1世紀には13となった。
 属州統治の方法は固定していたわけではなく、ローマから派遣される役人は少人数だったので、属州の自治おのおのの自治体にまかせられた。しかし、総督はその在任期間中、絶対的な支配権を行使し、しばしば属州を搾取した。前2世紀半ば以後は属州民の負担はますます過酷なものになった。これらの税の徴収をうけおった騎士(エクイテス)身分の徴税請負人も私腹をこやした。前149年には、総督の不正な搾取をとりしまる制度がもうけられたが効果は小さかった。
 帝政期にはいると、属州は皇帝領と元老院領にわけられたが皇帝はすべての総督に対する上級命令権をもち、皇帝領にはエジプトやガリアなどの豊かな属州がふくまれていたため、皇帝の支配権は強まった。
 1世紀半ばにはブリタニアが属州とされ、2世紀には皇帝トラヤヌスにより、ダキア(現ルーマニア)やメソポタミアが征服された。次の皇帝ハドリアヌスはメソポタミアを放棄し、以後帝国の拡大はとまった。
 一方、帝国各地にローマ風の都市が建設され、とくに帝国西部にラテン語が普及するなど、帝国全土の「ローマ化」がすすむにつれて、属州の自立傾向も高まり、それとともにローマをふくむ中央のイタリアの支配的地位も低下した。ディオクレティアヌスの改革により、帝国全土があらためて12の管区、101の属州に再編成され、従来のイタリアと属州の区別はなくなった。


グラディアトルH(Gladiator)
 古代ローマの剣闘士をさし、円形闘技場(コロセウム)で武装してたたかう見世物に出場した。「剣」を意味するラテン語gladiusに由来する。記録上では前264年に葬儀の儀式としてはじめて3組のグラディアトルが闘った。前174年には3日連続の競技がおこなわれ37組が出場した。カエサルが300組が出場する競技大会を開催しようとしたときは、元老院が出場者の数を制限した。最大規模の競技は、紀元107年トラヤヌス帝が戦勝を祝してひらいたもので、5000組が出場した。
 グラディアトルは、奴隷・戦争捕虜・死刑囚・キリスト教徒などであった。猛獣とたたかう競技もあり、紀元90年には、ドミティアヌス帝が女性同士をたたかわせている。彼らはルディとよばれる養成所で訓練させられたが、そこでは、規律にしたがわせ、自殺をさせないための対策がとられていた。前73〜前71年、カプアの養成所を脱走したスパルタクスが、反乱を指揮して奴隷や貧農をまきこみ、南イタリアを拠点にローマを危機におとしいれた。
 競技は裕福な有力者が主催し、官職立候補の選挙運動にしばしば利用された。帝政期には、主催者はしだいに皇帝にかぎられていった。
 試合に勝ったグラディアトルは、奴隷であっても歓呼の喝采をあび、詩人にたたえられ、宝玉や壺に肖像画がえがかれ、婦人たちの愛顧をえた。何試合もかちぬいた者はスターとしてもてはやされ、自由の身になった。相手をまかした者は、観衆にむかって判断をあおぎ、観衆は敗者の命をたすけたければハンカチをふり、殺させたければ親指を下にむけるしぐさをした。最終判断は競技の主催者がくだした。剣闘技を異常なほどこのんだコンモドゥス帝が開催した競技会のように、解放奴隷やローマ市民が出場することもあった。
 競技施設には円形闘技場がつかわれたが、ときには大競技場で大掛かりな見世物がおこなわれた。325年、コンスタンティヌス1世は剣闘士競技を禁止したが、実際には500年ごろまでつづけられた。


ガリア戦記K(De Bello Gallico)
  前58年から前51年にかけてのカエサルによるガリア(おおよそ現在のフランス、ベルギーにあたる地域)征服の記録で、共和政期ローマのラテン文学の傑作。全8巻のうち、前58年のゲルマン人に圧迫されたヘルウェティイ族の移動から、前52年アレシアの戦で全ガリア同盟軍を指揮するウェルキンゲトリクスをうちやぶるまでの、第1巻から第7巻まではカエサル自身の筆によるもので、第8巻はカエサルの死後、前44年から前43年の間に部下のヒルティウスによって書かれた。
 感情や装飾を排した簡潔な文体によりガリア征服の過程を客観的な立場から報告するというかたちをとっており、カエサル自身の行動を第三人称でのべている。またたんなる戦争記録ではなく、当時のガリア、ゲルマニア、さらにブリタニアといった地域の状況をつたえる記述がふくまれており、のちに書かれたタキトゥスの「ゲルマニア」とともに、ヨーロッパ成立期に関する重要な史料でもある。


アクティウムの海戦O(Battle of Actium)
 前31年9月2日に、ギリシア北方のアクティウム岬沖で、ローマの覇権をめぐりオクタビアヌス艦隊と、アントニウスクレオパトラのひきいる連合艦隊の間でたたかわれた決戦。
 この海戦は、ローマ世界の支配をめぐる、アントニウスとオクタビアヌスの対決の総決算となった。投射機を搭載したアントニウスの220隻の重装備船に対し、オクタビアヌスの260隻の軽装備船は機動戦に有利だったにもかかわらず、アントニウスは有利な地上戦を主張する将軍たちの忠告に耳をかさず、クレオパトラのいいなりに海上交戦にふみきった。。
 敵の機動力におどろいたクレオパトラが、60隻のエジプト艦隊とともに撤退したとき、勝敗は明らかになった。アントニウスの乗船した艦もクレオパトラを追って戦場をあとにしたが、他のほとんどの艦船は戦闘で破壊された。とりのこされた地上軍も、オクタビアヌス軍に降伏した。


プリンキパトゥスN(Principatus)
 初代ローマ皇帝アウグストゥスによって作られた前期ローマ帝国の元首政こと。皇帝を「プリンケプス(元首)」と称したことによる。
 「プリンケプス」は「第一人者」という意味で、元老院議員名簿の最初に名前をのせられる「首席」をさす。また複数形の「プリンキペス」は、元老院議員の中でとくに絶対的な威光をもつ一部の国家の第一人者たちのことで、共和政ローマは事実上彼らによってうごかされた。「プリンケプス」とよばれることにより、独裁を強化して暗殺されたカエサルとことなり、みずから元老院を尊重し、共和政を擁護する姿勢を明らかにした。
 よってアウグストゥス体制は、属州が皇帝領と元老院領にわけられたように、元首と元老院の共同統治であった。さらに、アウグストゥスは前22年以降はコンスル就任をさけ、また「ドミヌス(君主)」とよばれることをきらい、建前上は共和政の回復というかたちをとった。

 しかし、アウグストゥスには元老院によって終身の護民官職権、コンスル職権、さらに全属州総督に対する上級コンスル代行権があたえられ、実際に就任しなくともこれらの職権を事実上、行使した。また皇帝領の属州にはほぼ全ローマ軍団が駐留したため、アウグストゥスはローマ軍の最高司令官として、強大な軍事力を掌握した。さらに大神官(ポンティフェクス・マクシムス)も兼任し、政治、軍事、宗教上の大権を独占した。


五賢帝Q(Five Good Emperors)
 ローマ帝国の全盛期だった1世紀末〜2世紀の約80年間に在位した5人の有能なローマ皇帝、ネルウァ(在位96〜98),トラヤヌス(在位98〜117),ハドリアヌス(在位117〜138),アントニヌス・ピウス(在位138〜161)、マルクス・アウレリウス(在位161〜180)諸帝のこと。

 「ローマ帝国衰亡史」の著者ギボンが、「歴史上もっとも人類が幸福で繁栄した時代」と述べたように、「ローマの平和」の最盛期であった。この時代は、有能な人物を皇帝の養子にすることで帝位が継承された養子皇帝制の時代であり、この制度によって、帝位継承の際の後継者争いや先帝の無能な息子が即位することをさけることができた。
 対外的には、トラヤヌス帝時代の積極的な外征により、帝国の領土は最大になった。

 五賢帝のうち、ネルウァ帝をのぞき、諸帝はいずれもヒスパニアやガリアといった西部の属州出身者であるった。また各地に多数のローマ風の都市がたてられるなど属州の「ローマ化」がすすみ、地方の政治的、経済的な自立がみられた。しかし、こうした地方の繁栄も、巨大化した官僚および軍事機構の財政負担を補填する役割をはたし、ローマ帝国の弱体化をすすめる結果となった。
180年マルクス・アウレリウス帝の死後は無能な息子のコモドゥスが即位し、五賢帝時代はおわった。


ハドリアヌスの長城(Hadrian's Wall)
 イギリス、イングランド北部にある古代ローマ時代の長城。ハドリアヌス(在位117〜138)が北方のケルト系ピクト人の襲撃にそなえてつくらせた。最初は土と泥炭でつくられた土塁だったが、のち石造の防壁になった。
 西はソルウェー湾から、東は北海にそそぐタイン川河口まで、117kmの長さがある。防壁は高さ約6m、幅約2.4m。途中に17の城塞と、約1.5kmごとに20名の守備兵がまもる小要塞がもうけられていた。4世紀末のローマ守備隊の撤退後は、エリザベス1世(在位1558〜1603)の時代までスコットランドへの防壁として使用された。


コンスタンティヌスの凱旋門(投稿)
 コンスタンチヌスの凱旋門について。実際に見てきました。コロッセオのすぐそばにあります。イタリア。今は修復作業がなされているので、少し見た目が悪いです。あれ、パリの凱旋門のモデルになったんだよね。ナポレオン・ボナパルトがパリで真似したのだ。なかなか立派な物であることは間違いない。しかし、ヨーロッパといえば、おおざっぱな性格。どっかの凱旋門は、立派な物に仕上がったんだけど、通ることができなかったので移転したとか。それがまだ現代にも壊されずに残っているのだからすごい。おおらかさを少しは学ばないといけないと思います。
 勉強をするにも、ちょっと関係ないことをしてみたり、心に余裕があった方が成功すると思います。意外な発見をしたりもするし。人生ってわからないものですよね!
 以上、多事争論でした(違うだろ!?)
なんでも掲示板[1999年3月8日2時57分55秒]きんこさんの投稿を一部抜粋させていただきました。

 

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