弥蔵観音(瀬戸市西拝戸町) 瀬戸MENU

舟形高53p 一 面二臂 立像 

   
【左】銘に墨が入った馬頭観音          【右】馬頭観音のお堂,庚申塔,名号塔が並びます

   信仰を集める弥蔵観音
製陶工場が並ぶ東拝戸町から東古瀬戸町へ抜ける峠道。峠の頂上から少し古瀬戸へ下った東側に,コンクリート造り瓦葺の立派なお堂があります。ここに納められているのが「弥蔵観音」と呼ばれる馬頭観音と,弘法大師像です。下の文はお堂の前の看板に掲げられた由来です(一部加筆訂正)。同じ文を書いた木の板がお堂の中にもあります。

   弥蔵観音由来
 天保二年三月二十七日,戒名梅心妙量信女なる人が「できもの」で苦しみ,「私が死んだら祭っておくれ。きっとみんなのできものを治してやる」といって亡くなった。天保四年四月,観音像を弥蔵ヶ峯に祭り,その後七月十八日を縁日として祭礼が行われてきた。爾来霊験あらたかなため,参詣者が絶えない。
 向かって右側の弘法大師は慶応三年五月二十九日,東洞町の加藤弘三郎なる人が腹痛のため二十八歳で死去した際,遺言として「腹痛に苦しむ人を助けたい」と言ったので,その翌年弥蔵観音と並び祭られた。
 従前は現在地より東方三百米の地点にあったが,参詣が不便なため,道路改修に伴い昭和三十六年七月十八日の縁日に現在の場所に遷したものである。                                 五社奉賛会

観音像と大師像(右の写真),由来がそっくりなのがおもしろいですね。観音の由来に関して,次のような伝承があります。できもので苦しんだ女性は貧しく一人暮らしだったため,村人は「峠に祭ってくれ」との遺言を無視して,亡くなった後に村の墓地に埋葬し,祭りもしませんでした。すると,村人にできものが蔓延してしまいました。あわてて峠に埋葬しなおして祭ったら,たちまち人々のできものが治っていきました……というものです(「花川〜せとの昔ばなし」瀬戸市小中学校社会科研究会編 昭和52年)。

   ていねいな造形
禅宗式の数珠をかけられた馬頭観音のお顔は,やや風化が見られるものの一 面二臂像らしい,目を半眼に閉じた一見穏やかな顔立ちをしています。しかしよく見ると口は一文字に結ばれ,病を治す決意を示しているようです。合掌する手の位置が高く,また掌が大きいため,指先が顎に届いている点が変わっています。体全体は彫りが深く,かなり立体的な造形で,裙(くん〜腰にスカート状に巻きつけた布。裳ともいう)のひだや天衣のひるがえり方,蓮華座の花びらの模様までていねいに彫りこまれています。冠は丸みのある円錐形で,顔の部分と合わせて涙滴型になっていますが,見ようによっては,まるで砲弾のようです。馬頭は非常に細長く表現されていますが,耳もきちんと形作られていてよく分かります。

   由来と銘と…
銘文は光背の向かって右に「人馬安全」,左に「天保四巳四月吉日」,台座には「島中安全」とあります。天保4年は1933年。全国的な大飢饉がはじまった年です。観音の由来は上記のようですが,銘はごく一般的な馬頭観音のそれ。「島中安全」はできもの退散につながりそうですが,「人馬安全」は馬借などの運送業に従事した人々が建立した馬頭観音に典型的な銘です。現在祭られている場所も急な峠道ですが,300m東の「弥蔵ヶ峯」はもっと峻険な道だったのでしょう。通行の安全を祈願するために馬頭観音を置いた,というのが自然に思えます。しかし,主要な街道筋にはあたらないようですから,伝承の由来がふさわしいのでしょう。観音を祭る資金を提供したのが運送業を生業とする人たちだったから,馬頭観音をかたちどった…なんて可能性はどうでしょう?

  名号塔と庚申塔
お堂の南側に庚申塔と名号塔が並んでいます。「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号塔には「文政五子十月吉日」「村中」の銘もあります。文政5年は1822年。江戸時代末期の民間信仰が,さまざまな石像物を残したといえるでしょう。