江戸の吉原

江戸市中から新吉原へ向かうには、いったん日本堤に出て廓へ入った。
裕福なものは舟、駕籠、馬を用いたが、一般の人は主に徒歩で通っていた。
日本堤から唯一の出入口である大門までは五十間道(約百メートル)と言われていました
五十間道は、わざと道が三曲りに曲げられて作られていたが、それは将軍が鷹狩に御成のとき
日本堤から大門が見えては畏れ多いとあっての配慮だと伝えられる。

衣紋坂(えもんざか)は遊客の衣紋を直す所、見返り柳は逆に吉原から帰る客が、名残り惜しさに
ここまで来て見返る所だと言われている。

大門を抜けると吉原のメインストリートで仲の町と呼んでいました。
仲の町の左右には引手茶屋がつらなり、上質の客はここで相談してから登楼、
普通の客はその間の横丁を抜けて張見世で遊女を選んで登楼する。

新吉原は、奥行き百五十間(273メートル)、幅百八十間(328メートル)の二万七百六十七坪。
廓の四方は塀で取り巻き、その周囲を「おはぐろどぶ」と呼ばれる堀をめぐらしていた。

江戸名所百景 よし原日本堤 歌川広重 安政4年(1857)

この絵の中央の木立の向こうに屋根が見えるのが吉原で、土手の右の方に300メートル行くと見返柳があり、吉原の大門へと通じていた。この絵では、雁が飛来する秋の夕暮れ時に日本堤を駕籠や徒歩で吉原に向かっている人々が描かれている。
日本堤は、幕府が元和6年(1620)に荒川の洪水から下谷・浅草の低地帯を守るため築いた土手の名前で、堤防の長さは浅草聖天町から三ノ輪町に至る長さ13町余(約1.5km)ありました。



江戸名所図会 新吉原仲之町 八朔の図

八朔(はっさく)というのは、八月一日のことで、徳川家康が江戸城に入った日です。それを祝いに諸大名が白帷子(しろかたびら)を着て江戸城に登城したのがはじまりで、吉原でも揃って白無垢を着ました。そして、吉原俄(よしわらにわか)もこの日から八月いっぱい行われました。

俄(にわか)というのは即席演芸のことで廓のなかで太夫や幇間(たいこもち)がくり広げる即席の踊りや演芸のことです。

「仲の町」という吉原の真ん中の通りでやるもんですから、見物客でいっぱいで大賑わいだったようです。

吉原の誕生
 
江戸に初めて幕府公認の廓が誕生したのは、慶長十八年(1613)に庄司甚右衛門が願い出て、五年後の元和四年(1618)11月で、日本橋人形町あたりでした。これが元吉原です。当時はいちめん湿地帯で葦(あし)や葭(よし)が生い茂っている土地だった。それを埋め立てて整地し、その上に建物を建てたわけだから、葭原(よしわら)だった。縁起を担いで吉の字を当てて吉原となった。
 その後、奉行所から所替えを命じられ、明暦三年(1657)八月に、浅草の浅草寺裏へ移転しました。これが新吉原です。
 江戸の初期は、人形町も江戸のはずれでしたが、江戸の町が発展するにつれて中心地になってきたので、その真ん中に廓があったのでは具合が悪かったようです。


 吉原遊郭は庶民の遊び場として、昭和三十三年の売春防止法の施行まで、元吉原の時代を含めると、三百四十年の長きにわたって栄えてきた。

吉原遊び
吉原はセックスを目的に遊びに来るわけだが、社交場としての役割も大きい。最高級の花魁(おいらん)になると品格のある美女の上に、子供の時から特別に育てられ、最高の教養を授けられた非常な知識人。人の気をそらさない話術、楽しませるための教養としての和歌、能、囲碁・将棋、茶道、華道、絵、書などを見事にこなす超一流のホステスであるといえる。茶屋は今でいえば料亭や一流ホテルのパーティ会場のようなものである。初期には、大名が豪遊し、政商が幕府高官と取引をする場としても使われていた。

吉原では江戸の階級制度が通用しなかった。どんな大名であろうと、豪商であろうと花魁(おいらん)と寝ようと思えば最初に「顔見世」をしなければならない。二回目を「うら」と言い、遊女とのおしゃべりが許される。三回目でようやく「馴染み」となり、客は遊女に床花(遊女に寝床で与える祝儀)を遺手(やりて)や芸者衆にまで惣花(チップ)をはずまなければならない。

「男一度は伊勢と吉原」の心意気で、お伊勢参りと吉原は、一度は通過しないと男になれないというほどに重要なものだった。大名も来れば、ご隠居さんも来る。武士も町人も相撲取りも、はては女淫禁止の坊主までも桃源郷を目指してやって来た。

高級遊女の花魁(おいらん)ともなると、様々な手はずを踏まなければならないが、下級の遊女ならば一万円程度ですぐ遊ぶことができた。廻し部屋と呼ばれる狭い部屋で、煎餅布団の上で相手をすることになる。

吉原の遊女の人数

吉原のガイドブックである「吉原細見」による。

和暦 西暦 人数 備考
明暦二年 1656年 2552人
元禄元年 1688年 1900人
享保十八年 1733年 2147人
安永四年 1775年 2021人
寛政七年 1795年 4443人 寛政の改革で岡場所の娼婦を吉原に送り込んだために増加
天保十三年 1842年 4429人
天保十五年 1844年 6225人 天保の改革で岡場所の娼婦を吉原に送り込んだために増加
弘化三年 1846年 7197人
慶応元年 1865年 4126人

吉原の川柳

見返り柳
もてた奴ばかり見返る柳なり

五十間道
極楽と此世の間が五十間

仲の町
吉原の背骨のような仲の町

茶屋
色事の調合をする引手茶屋
茶屋なしに行きやれ得だと安くされ

太夫

せっさたくまの功成って太夫職

三回目
回目箸一ぜんの主になり
帯紐といて付き合う三回目
・床花をいらないもののように取り

もてぬやつ
・もてぬやつ尻をいじってしかられる

もてるやつ
・小便に行くと太腿ゆるめさせ

こころがまえ
・もてても行く気ふられても行く気なり

吉原の通人

『古今吉原大全』  著者:酔郷散人 作成時期:明和五年(1767)

男ぶりよく、心にしゃれありて、金銀も自由になり、この三ツをそなえたるものこそ、まことの買手といふべし
意気地といふは、心さっぱりと、いやみなく、伊達寛濶だてかんかつにて、瀟落しゃれを表とし、人品向尚にして、実を裏とし、
風流をもって遊ぶを、真の通人といふ



『むかしむかし物語』 著者:新見正朝 作成時期:享保年間   慶長より寛文、延宝に至るまでの江戸の風俗の記載がある。  

寛文(1661-1672)・延宝(1673-1681)ごろまでは、悪所通いをするのに器量の悪い者が行くことはまれであった。
生まれつききれいな男が器量自慢に行ったものである。
さて行こうとなると、支度がむずかしい。
悪所で遊びなれた人に万事の指導をたのむ。
支度の第一は金子である。
脇差のこしらえもりっぱに、小袖・羽織・袴にいたるまで遊び巧者に相談して作る。
伽羅きゃらのよい木を求めて、その香をたきしめて身だしなみをする。
これらの支度に五ヵ月も半年もかかる。
やがて行こうと思う三、四ヵ月も前から茶屋々々へ行って、茶屋女を相手に調子をおぼえ、額の剃りよう、髪の結いよう、 月代さかやきの形まで巧者の指図にまかせ、
身のとりまわし、歩き姿、いきはりの調子、すべて悪所風になって巧者に同道して行く。
そこで、悪所通いする人は、人とのつきあい、公けでの仕事ぶりも利発であった。
風采も伊達であるから、悪所にかよいそうな人だと人の目にもついた。



明烏(あけがらす)

日本橋田所町三丁目の日向屋半兵衛という商家のせがれ、時次郎はたいそう堅い男で、大人の付き合いを知ってほしいと嘆く親父は、町内でも札付きの遊び人の源兵衛と太助に「お稲荷さまにおこもり」に行く、とだまして時次郎を吉原遊郭へ連れて行くように頼む。

さすがの時次郎も吉原に上がって花魁を目にしたところで、そこがお稲荷様ではないことに気づく。泣いてだだをこねるのを二人が「このまま帰れば、大門の番所で怪しまれて、三月でも四月でも帰してもらえない」と脅かし、やっと部屋に納まらせる。帰りたいと散々ぐずったが、とうとう年が十八、名が浦里という絶世の美女の花魁と一夜を過ごすことになった。

翌朝、源兵衛と多助はどちらも相方の女に振られて詰まらぬ朝を迎え、ぶつくさいいながら時次郎を迎えに行く。戸口に立った二人が出くわしたのは、花魁の魅力にすっかり骨抜きにされた時次郎。一方の花魁も、惚れ込んで離さない。時次郎が布団から出てこないので、クサって「帰りましょうや」と言う源兵衛と多助に、時次郎は「さきに帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で留められます。」

参考文献

1.お江戸吉原草子 田中夏織 原書房 http://www.tilolu.com
2.花の大江戸風俗案内 菊池ひと美 ちくま文庫
3.江戸の吉原廓遊び 白倉敬彦 学研グラフィックブックス
4.淫の日本史 三谷茉沙夫 桜桃書房
5.江戸の二十四時間 林美一 河出文庫
6.江戸川柳女百景 興津要 時事通信社