源頼朝の旗あげ

平治元年(1159)十二月、源頼朝は十三歳で平治の乱に初陣したが、敗れてとらえられた。ここで平清盛に殺されるところを、清盛の継母あたる池禅尼いけのぜんにの命乞いによって永暦元年(1160)三月十一日京都をたって、伊豆の蛭ヶ小島ひるがこじまへ流された。頼朝はこの地で流人としての二十年を送り三十四歳になっていた。

源頼朝旗あげ時の関東の武士
関東武士団相互の勢力争いの中で、みずからの利害関係に有利に働くと判断した武士が頼朝に味方したのであり、その際の格好の旗印として、父祖と清和源氏とのつながりが言及され、再認識された。

源氏    上野(新田) 下野(足利) 常陸(佐竹・志田) 甲斐源氏
平氏    武蔵(秩父平氏・畠山) 相模(三浦・大庭・土肥・梶原・渋谷)
      伊豆(北条・山木・伊東) 下総(千葉) 上総(上総介) 常陸(大掾)
藤原秀郷流 下野(小山・足利) 常陸(結城・下河辺) 相模(山内首道・波多野)


治承じしょう四年(1180)
四月九日

以仁王もちひとおう
(後白河法皇の第二皇子)は源頼政(従三位、大内守護)とともに平氏打倒の兵をあげ、諸国の武士や大寺院に挙兵の呼応を命じる令旨りょうじ(皇太子の命令を記した文書)を発した。

以仁王の令旨
後白河法皇を幽閉し、その近臣を罰した行為などを糾弾して平清盛を謀反人及び仏敵と断定し、以仁王みずからを天武天皇になぞらえて新たな皇統の創始者たらんことを宣言し、即位後の論功行賞を約束している。

壬申の乱を想起
以仁王(天武天皇)  高倉天皇(天智天皇)  安徳天皇(大友皇子)

四月二十七日
以仁王の令旨は叔父の源行家によって、頼朝に伝えられた。

五月二十六日
以仁王と源頼政は敗死した。(宇治合戦)

源頼政の辞世の歌
埋木うもれぎの 花さく事も なかりしに 身のなるはてぞ かなしかりける

六月二十四日
頼朝は、安達藤九郎盛長とうくろうもりながを使者として走らせ、戸肥実平どひさねひら、岡崎義実よしざね、宇佐美助茂すけしげ、佐々木盛綱もりつななど伊豆、相模の武士に挙兵の参加をもとめた。

六月二十七日
内裏大番役(京の内裏・院御所諸門の警備)を終えて帰国する途中に北条館の頼朝の許を訪れた三浦義澄よしずみ、千葉胤頼たねよりが、頼朝との密談によって頼朝の挙兵の意志を伝えられている。

八月六日
頼朝は北条時政と密議して、伊豆国の目代もくだい(国主にかわって国を治める人)をつとめる山木兼隆やまぎかねたかへの奇襲の日時を十七日払暁と決定し、その日工藤介茂光くどうのすけもちみつ戸肥実平どひさねひら以下の武士たち一人ずつ引見して協力を懇請した。

八月十七日
佐々木定綱、経高、盛綱、高綱兄弟の到着が遅れ、攻撃は夜に入って開始された。
三島大社の祭礼という機会に乗じて、北条時政ら八十五騎が山木館を襲撃し山木兼隆やまぎかねたかを討ち取った。

八月二十日
頼朝は頼りにする三浦勢と合流するため蛭ヶ小島ひるがこじまを離れて相模に向かった。

八月二十三日

源平盛衰記 巻二十より
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は「敵は武蔵・相模に名のある武士が多いが今日の第一陣は大庭(おおば)・俣野(またの)兄弟であるぞ。彼らを討ち取る先陣は誰にしようか。」と仰せになると、岡崎四郎義実(よしざね)が進み出て「親の口から申すのも何でございますが、息子の与一義貞は弓矢を取っては、誰にも決して引けをとりません。先陣を務めるに相応しいと思います。」
それではと頼朝は与一をお召しになって「敵の大庭・俣野は名のある武者であるぞ。今日の戦いは、与一が先陣して手柄をたてよ。」と仰せになる。
与一は郎党の文三家安(ぶんぞういえやす)を呼び「佐殿より直々に今度の軍の先陣を務めよと承った。
多くの武士の中から選ばれたことは弓矢取る者の誇りであるが、生きて再び帰ることはあるまい。
帰国して与一の母上や妻に一昨日家を出たのが最期だったと伝えてくれ。
与一が討死にしたなら、二人の幼子をどこか山奥にでも隠しおいて、佐殿が世にお出になったならば、名乗り出て岡崎・佐奈田の領地を継がさせよ。文三は子らの後見人となり、墓前に花や香を供えて与一の後世を弔ってくれ。」と仰ると「殿が二歳の時から、文三が親代わりとなり夜は胸に抱き、昼は肩車をして大切にお育て申しました。五、六歳におなりになると、一日も早く人より優れた武者になって欲しいと、子供用の矢や的で弓の射法をお教えしました。殿は今年二十五、文三五十七、先陣を駆けて討ち死にするという殿を見捨てて文三一人帰国するわけには参りません。どこまでも殿とご一緒する覚悟でございます。そんな用事は他の者にお申しつけ下さい。」というので故郷へは三郎丸という童を遣わした。

佐殿は「鎧の縅(おどし)の色が敵の目につきやすい。着替えよ。」と仰るが、もとより討死覚悟の与一「戦場は弓矢を取る者の晴れの場、過ぎたることはありますまい。」と十五騎ばかりで進み出る。
与一は文三に「めざすは、大庭・俣野の兄弟であるぞ。与一が大庭に組んだら、文三は俣野を討ち取れ。与一が俣野に組んだら、文三は大庭を討ち取れ。」と命じた。
「源氏世を取り給うべき軍の先陣賜いて駆け出でたるを誰とか思う。音にも聞くらん。目にもみよ。三浦介義明の弟、本は三浦悪四郎、今は岡崎四郎義実の嫡子、佐奈田与一義貞、生年二十五。我と思わん者は組めや、組めや。」と叫んで駆け出す。一方、平家陣は「佐奈田与一はよき敵であるぞ。逃がすな。」と進む武者達は大庭三郎景親(かげちか)・その弟俣野五郎景尚(かげひさ)・長尾新五・新六・八木下五郎・漢揚(かんや)五郎・荻野五郎・曾我太郎・原宗四郎・渋谷庄司・滝口三郎・稲毛三郎・久下(くげ)権頭(ごんのかみ)・浅間三郎・広瀬太郎・岡部六弥太・同弥次郎・熊谷次郎など屈強の兵士七十三騎が与一目指して組もうと進む。
大庭は俣野五郎に、「何とかして佐奈田与一を討ち取れ。裾金物(すそがなもの)が光る鎧に白葦毛(しらあしげ)の馬に乗ったのが与一であるぞ。」という。

左手は海、右手は山、暗闇に豪雨、こんな状況の中、岡部弥次郎が与一の姿を見つけて駆け寄ってきた。与一は俣野五郎と思い、組み伏せて手早く首を討ち取り透かして見ると、俣野ではなくて岡部であったので、谷間に首を投げ入れて前進を続けた。
やがて与一は目当ての俣野とバッタリと出合い組み打ちを始めるが二人共馬からどうと落ち、上になり下になりどちらがどちらか区別がつかない乱戦が続いた。
やっと与一は股野五郎景久を組み伏せ、その首をかこうとするが、先ほど岡部弥次郎の首を斬った時の血糊がこびりついて刀の鞘が抜けない。
そうこうしているうちに俣野の従弟の長尾新六定景が与一の背後から組みかかり首を掻き斬った。文三は与一の討死した所より谷一つ隔てた峰で戦っていたが、敵の稲毛三郎が「文三!与一は討たれたぞ。逃げよ。助けてやろう。」と声をかける。
「文三は幼い頃より軍には組むということは習いましたが、逃げ隠れするということはいまだに知りません。貴殿の郎党が、主が討たれて逃げたとしたらどんなものでしょう。与一殿が討たれたとあらば、文三の命はもういらぬものよ。」と敵方に斬りこみ屈強の兵ども八人を斬り倒してついに討ち死した。

頼朝ら三百騎は石橋山(小田原市)に陣を張ったが、平家方の大庭景親おおばかげちか、伊東祐親すけちか、熊谷直実、渋谷重国ら三千余騎に惨敗した。頼朝は、土肥椙山どいすぎやまの朽木の空洞うろに身を隠していた。大庭景親の軍に属していた梶原景時が頼朝を見付けたが、密かに逃がした。(石橋山合戦)

大将の頼朝をはじめ土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、安達盛長、田代信綱、新開忠氏の七騎落ち
前田青邨 「洞窟の頼朝」


八月二十六日
酒匂川までやって来ていた三浦勢は、頼朝が敗北したと知ると本拠の衣笠城(横須賀市)に引き揚げたが、畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら平氏方の軍勢に攻められ三浦義明は城を守って戦死し、子三浦義澄は安房に逃れた。(衣笠城合戦)

三浦義明
われ、源家累代の家人として、幸いにその貴種(源氏)再興のときに逢うなり。なんぞこれを喜ばざらんや。保つところすでに八旬有余(八十九歳)なり。余算を計るにいくばくならず。今老命を武衛ぶえい(頼朝)に投げうちて、子孫の勲功を募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、の存亡を尋ねたてまつるべし。吾ひとり城郭に殘り留まり、多軍のせいし重頼(河越重頼)に見せしむ。

八月二十九日
頼朝は、戸肥実平どひさねひらの案内で真鶴岬から安房の猟島りょうじま(勝山市)に上陸する。

九月一日
安房の安西景益かげますに参向をうながす。

九月三日
小山朝政おやまともまさ下河辺行平しもこうべゆきひら、豊島清元、葛西清重といった関東の武士に参向を求める書状が遣わされた。
葛西清重へは、「源家に於いて貞節のある者なり。その居所は、江戸と河越の中間にあり。進退定めて難治か。早く海路を経て参会すべき。」と申し入れた。
大番で京にいる豊島朝経の妻にも綿衣(軍用衣類)の調達を命じている。
安房の長狭常伴による頼朝襲撃が企てられていたが、三浦義澄が事前にこれを察知し、撃退している。

九月四日
頼朝は、上総介広常には和田義盛を、千葉介常胤つねたねには安達盛長を使者として送り、平氏打倒の戦いへの参加を求めている。

九月八日
安達盛長が千葉介常胤つねたねの帰順の知らせを、頼朝の許に届けた。
北条時政を使者として甲斐源氏に参戦を呼びかけている。

九月十三日
頼朝は総勢三百余騎を率いて安房国から上総国に向かった。

九月十七日
頼朝が下総国に入り、千葉常胤つねたねが三百余騎で参会した。

九月十九日
頼朝が隅田川の辺にまですすんで、ようやく上総広常が参じた。上総全域の軍勢二万騎を率いて参上し、事と次第によっては頼朝と敵対する算段で頼朝と対面した。ところが頼朝は、広常の遅参を激しく叱責した。この頼朝の度量の大きい態度に感服した広常は、ようやく頼朝への帰順を決意した。頼朝軍は二万七千余騎にも膨れあがった。
ところが、それから半月近くも頼朝軍はそこから動くことができなかった。江戸重長ら秩父流平氏一族が平氏方に属して服属をこばんでいた。

九月二十八日
頼朝は江戸重長に使いを出して参向を促した。しかし、重長は参上の意を示さないため、頼朝は葛西清重に命じて大井川(江戸川)の渡船場「大井要害」(柴又)で重長を謀殺しようとした。清重は命令違反も厭わず江戸と同族であるという理由で断固拒否した。

十月二日
頼朝軍三万余騎は上総広常、千葉常胤が集めた船の浮橋で大井川(江戸川)、隅田川を渡って武蔵国に入った。豊島清元(清光)(父)、葛西清重(三男)が参陣した。

十月四日
長井の渡しで畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも頼朝軍に参向した.彼等は衣笠城において三浦義明を殺した敵であったが、彼等が掌握してきた地方政治の機構をそのまま承認し、それによって軍事的・政治的安定をはかろうとした。

畠山重忠
平氏は一旦の恩、佐殿すけどの重代じゅうだい相伝そうでんの君なり

十月五日
武蔵国府に到着した。

十月六日
畠山重忠を先陣とし、千葉常胤を後詰とし、頼朝は父義朝の居館跡のある鎌倉に入った。八月十七日の旗あげから一ヶ月半が経過していた。

十月二十日
富士川の合戦で、平氏の追討軍が水鳥の羽音におどろかされて敗走した。



頼朝の勝因

●頼朝の系譜の「貴種」たること、すなわち全関東武士の棟梁たるべき地位を強調し、他方ではひたすら妥協をはかる、という硬軟両様の態度で難局を切り抜けていった。

●関東武士の間に中央権力の年貢・公事に対する広汎な不満が伏在していた。

●関東武士団の中に所領の保全(安堵)・拡大をめぐって勢力争いがあった。
  三浦 対 長狭    千葉 対 佐竹 (相馬御厨そうまみくりや)    小山 対 足利(藤原秀郷流)

●関東には、十世紀の平将門の乱、十一世紀の平忠常(千葉氏・上総氏の祖)の乱以来の、叛逆の血潮がひとつの伝統となってうけつがれていた。

●平氏の追討軍が遅れ、合戦場が関東でなく富士川になり、頼朝軍の迎撃体制が整った。

●平氏打倒の大目的のために、源氏武士団内部の抗争を避けることができた。
  木曽義仲  甲斐源氏

●頼朝が北条政子と結ばれることによって、北条時政がこのうえない後楯となっていった。

北条政子
君流人として豆州にいまし給ふころ、われに芳契ほうけい(おめでたい結びつき)ありといへども、
北条殿時宜じぎを恐れてひそかに引めらる。
しかるになお君に和順し、暗夜に迷い、深雨をしのぎ、君の所に至る、
また石橋の戦場に出で給ふ時、独り伊豆山に残り留まり、
君の存亡をしらず、日夜魂をけす。