中野長者鈴木九郎の話

中野坂上の成願寺にある鈴木九郎の石碑 新宿中央公園の隣にある熊野神社

 鈴木九郎が紀州から多摩郡中野郷(中野坂上にある成願寺の現在地)にやってきたのは応永年間(1394年〜1428年)のことでした。もともと鈴木家は紀州熊野の出で熊野神社の祭祀を世職としていました。その祖先には、文冶5年(1189年)源義経に従って奥州に赴き衣川で戦死した鈴木三郎重家、亀井六郎重清の兄弟がいる。この鈴木三郎重家の200年後の末孫が鈴木九郎である。

 当時の武蔵野はすすきにおおわれ、ほとんど開拓されないままの原野だった。鈴木九郎は荒地を開き、馬を飼ってなりわいとしていた。あるとき、やせ馬を下総葛西の馬市で売って、一貫文(現在の20万円くらい)の代金を得た。そこで得た金を、浅草観音に奉納してから幸運の芽が出てきた。鈴木九郎は、きっと先祖の郷里熊野神社のおかげだと信じて、角筈に十二社熊野神社を建立した。鈴木九郎は数年にして、近郷に並ぶ者がない大金持ちになり、「中野長者」といわれ、広大な領地を持ち、豪勢な屋敷に住み、大勢の下男を使っていた。

 しかし、山と積まれた財産の隠し場所がないので、思案の末思いついたのが武蔵野の中である。鈴木九郎は、金銀財産を下男に背負わせて行って地中に埋めることにした。ところがこの下男、帰ってきてこの秘密を漏らしては一大事と、鈴木九郎は殺してしまおうと考えた。そこで、橋の上にくると、下男のすきを見ては、後ろから抜き討ちに切りつけて川の中に投げ込んだ。このようにして殺された者は、10人にもおよんだといわれている。土地の人たちは、下男の姿が行くときには見えたが帰りには見えないので、この橋を「姿見ずの橋」とか「面影橋」と呼ぶようになった。

 しかし、そのたたりはてきめんであった。長者の一人娘小笹が婚礼の式を挙げる夜のことである。婿は高田小太郎という者で、媒酌人は市谷左源太という者であった。おりから怪しい犬の遠吠えがすると同時に、熊野神社方面の森の上から、一群の黒雲がわき出し、切って落としたような大雷雨、この時長者の娘小笹は、へびに化身しておどり出し、十二社に向い、ついに池の中に飛び込んでしまったということである。鈴木九郎は、罪もない下男を殺したたたりの恐ろしさを今さらのように思い起こしたのである。そのころ、天下に名の聞こえた小田原関本の最乗寺住職、舂屋宗能禅師しょうおくそうのうぜんじにざんげして救いを求めた。禅師は早速、十二社池の端で祈とうを行った。そのかいあって、娘小笹はやがてもとの姿になって昇天した。

 鈴木九郎は舂屋宗能禅師しょうおくそうのうぜんじに救われ、一念発起して剃髪し、法名を正蓮と改め、蓄え置いた金銀を投げ出し、自宅をこわして建てたのが多宝山成願寺である。また、鈴木九郎は供養のため、高田から大久保までの間に百八の塚を築いたり、中野には七つの塔なども建てた。鈴木九郎は六九歳でなくなった。

 時は過ぎて、江戸時代になる。三代将軍家光が、中野方面への鷹狩りの帰途、この話を聞いて、「不吉な話だ、地名をかえたらどうだろう。この川にかかる水車は、山城(京都)の淀川にかかる水車に似ている。これからは『淀橋』と呼ぶように」ということで、命名されたといわれている。八代将軍吉宗の享保年間(1716年〜1735年)には鷹狩を機会に熊野十二所権現社に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れた。

淀橋水車

淀ばしは、成子なること中野との間にわたせり。大橋・小橋ありて、橋よりこなたに水車回転まわれるゆゑに、山城の淀川になぞらへて、淀橋と名付くべき旨台命たいめいありしより、名とすといへり。大橋の下を流るるは神田の上水堀なり。