阿部定

 阿部定と殺された石田吉蔵の出会いの場が、中野の新井である。昭和十一年石田吉蔵の料理屋に住込み女中として阿部定が奉公した二月一日から事件の五月十八日までの三ヶ月半のいきさつを調べた。事件から60年以上経つが、阿部定は今でも人気があり映画や小説の題材によく取り上げられる。大島渚の「愛のコリーダ」、渡辺淳一の「失楽園」なども阿部定をテーマにしている。阿部定の生き方が特に女性の潜在的な願望と一致し人気があるのであろう。男の生き方の潜在的な願望としてはクリントンや松方弘樹があるが甲斐性無しのせいで品行方正な生活をおくっている。ここでは予審調書を主に阿部定を紹介する。

新聞記事

東京朝日新聞 昭和11年5月19日付

尾久紅燈街に怪奇殺人
旧主人の惨死体に 血字を切刻んで
美人女中姿を消す 待合に流連の果て

 荒川区尾久町一八八一尾久三業地内の待合で怪奇な殺人事件が発見された。同三業地内の待合『まさき』事正木しち方へ一週間前、夜会髷に結った三十一、二歳くらいの玄人らしい美人を連れ五十歳位、髪を五分刈り、面長のいなせな恰好をした遊び人風の男が泊まり込み十八日まで流連し、その朝女は外出したが男がなかなか起きる気配がないので不審を抱いた同家の女中伊藤とも(三三)が午後二時五十五分頃裏二階四畳半の寝室をのぞいたところ意外にも男は蒲団の中で惨殺されていた。死体は窓側西向きに仰臥し細紐をもって首を締め下腹部を刃物で斬りとって殺害、蒲団の敷布には鮮血をもって二寸角大の楷書で『定吉二人きり』と認め更に男の左太股に『定吉二人』と書かれ尚左腕に『定』の一字が血を滲ませながら刃物で刻んである外に便箋には『馬』と書かれているなど猟奇に彩られる悽愴せいそうな情景だった。(注:『馬』の字は『定』の読み違いであったと後にわかる)駆けつけた警視庁、裁判所の係官一行もさすがにこの有様に戦慄を感じ近来の怪殺人事件として直ちに尾久署に捜査本部を設け夜会髷の怪美人をこの惨殺犯人として各署に手配大捜査を開始した結果同夜深更しんこうに至り被害者は中野区新井五三八料理屋吉田屋事石田吉蔵(四二)で犯人は同家の元女中埼玉県入間郡坂戸町田中かよ事阿部定(三一)と当局は断定しその行方を追及中である。尚女は男の所持金を持って出ている。

経歴

石田吉蔵

 大正九年ごろ横浜から上京中野新井に小さい鰻屋を開業した。当時はささやかな暮らしだったが商売が繁盛し新井で一二を争う大きな料亭となった。家族は妻とし子(四三)、長男萬吉(一七)、長女幸江(一五)の四人暮らしである。

阿部定

 神田の畳屋の四女に生まれた。十六歳のときお屋敷に奉公に出され、十八歳で横浜で芸者になる。その後新潟、長野、飯田、愛知、名古屋、大阪で酌婦、娼伎等で流転の女の常道を歩き東京に現れた。

予審調書から

 旧刑事訴訟法では、公訴提起後、被告事件を公判に付すか否かを決定するために必要な事項を取り調べることを目的にした予審を予審判事(裁判官)のもとで行った。予審判事は、公判において取り調べ難いと思われるような証拠の収集・保全をその任とされた。この手続きは非公開で、原則として弁護人の立会いもなく、被告人は予審判事の一方的な取調べの客体にすぎず、しかも予審の結果を記載した予審調書は公判において無条件に証拠能力を有したため、予審は糾問的手続きとして機能した。事実上公判前に裁判の結果が決まってしまうことなどから、当事者主義・公判中心主義などの理念と相容れず、予断排除の原則にも反すると考えられたことなどにより、現行刑事訴訟法では、予審は廃止された。

出会いの状況

  被告が吉田屋の女中となってから主人吉蔵と関係するまでの事情はどうか。

  私が吉田屋に住み込む時は給金を三十円まで保証するとの事でしたが実際はチップが四十円位頂けました。女中は五人おり全部住込みで真面目な料理屋でありお内儀さんも良い人で面白く働いていました。吉田屋に行くとすぐ石田夫婦からどうして奉公する気になったかと聞かれましたから、亭主が事業に失敗したため共稼ぎするのですと嘘を言っておりました。主人の石田吉蔵を始めて見た時様子が良い優しそうな人だと思い岡惚れしましたが別に態度に出しませんでした。ところが十日くらい経った頃から石田は廊下ですれ違った時等に私の頸を指で突いたりわざと廊下に立ち塞がってみたりするので自然気があるのではないかと思いましたが、芸妓時代親父にからかわこともあるので単純のからかいだと思っておりました。二月二十五日頃用事があって暇を取り稲葉の家に行き二日ばかりして帰ったことがありましたが、帰った晩私が芸妓屋に電話をかけていると石田が用もないのに電話室に来て小声で私に「お疲れ様昨夜は良いことをしてきやがって」と言いましたから「御冗談でしょう」と言うと石田は「嘘をつけ」と言いながら私の耳たぶをかみひざで私のお尻を突いたので、私は横目で石田を色っぽくにらみうれしく思いました。石田は魚河岸へ行く為毎朝早く起きるのですが、私が翌朝早く便所に行くと石田が女中部屋の廊下にウロウロしており「冷たい手をしているな」と言って手を握り私を抱きしめてくれました。その後折りさえあれば抱き合ったりキッスしたりお乳をいじってもらったりしておりましたがまだ関係はしませんでした。四月三日の夕方大宮先生から電話がかかったのでお内儀さんに話し暇をもらって出かけ二晩外泊して夜十一時頃帰ると、その晩廊下で石田がなにも言わずとても痛く私の腕をツメりました。翌日昼間石田と私で自然と一諸に誰も居ない二階の広間に行きましたら座敷の隅で石田は「あの電話は旦那だろう畜生」と言い、私に返事せずにやりと笑うと石田は私を抱き締めたのでキッスしてそのまま下りました。四月中旬頃でしたが御内儀さんが「お加代さん離れにお客さんですよ」と言うものですから御銚子を持って行って見ると石田が客になって酒を飲んでいるので驚きました。訳を聞くと石田は「外で酒を断っているから今日は家で客遊びをするのだ」と言い、首につるしてある禁酒と書いた成田様の御札を見せました。私が側でお酌をすると石田は手を握ったり私を抱き締めたりしてそのうち私のものをいじりましたが、私は嬉しく感じ石田のするままに任せておりました。まもなく「八重次」という芸者が来て石田の清元を初めて聞きました。喉は良い素的だったのでまったく惚れてしまいました。芸者が帳場へ行った留守、ちょっとした間にその席で初めて情交しましたがその時は唯入れてもらっただけでゆっくりできませんでした。

  そのうち情事が家人に知れわたったので石田と二人で家出して待合に泊まる様になったか。

  左様です。本年四月十九日の晩私と石田が応接間の電気を消してその処で関係しようとしている時女中に見つけられてしまい家人に知れたので、石田がゆっくり外で相談しよう言い四月二十二日の朝にはしめし合わせて家出し渋谷の待合「みつわ」に行きました。

  その経緯は。

  石田と初めて関係した翌日便所に行った処、その処へ石田が来て待っており誘われてそっと離れの間に行き又関係しましたが、段段二人の仲が露骨になり四月十九日の晩宴会があって家の中がゴタゴタしていた時、私と石田が応接間に入り電気を消して長椅子に並んで腰掛け関係しようとしていた処、女中が「あれ応接間の電気が消えている」と言いながら座布団を取に入って来たので二人ともあわてて飛び出した女中に見つかってしまいました。その翌朝石田が私に、昨夜家内から痛めつけられた、ゆっくり外で相談しようと言ったので、私は一旦外で石田と相談しすぐ戻る心算で四月二十二日晩お内儀さんに、ちょっと内へ行って来たいから二日ばかり暇をもらいたいと言って、石田と示し合わせた通り四月二十三日午前八時新宿駅で落ち合い渋谷の待合「みつわ」に行きました。

殺害の状況

  どうして吉蔵を殺す気になったか。

  私はあの人が好きで堪えられず自分で独占したいと思い詰めた末あの人は私と夫婦でないからあの人生きていれば外の女の人に触れることになるでしょう。殺してしまえば外の女が指一本触れなくなりますから殺してしまったのです。

  吉蔵も被告を好いていたのか。

  やはり好いておりましたが天秤にかければ四分六分で私の方が余計に好いておりました。石田は終始「家庭は家庭、お前はお前だ。家庭には子供が二人もあるのだし俺は年も年だから今更お前と駈落する訳にも行かない。お前にはどんな貧乏たらしい家でも持たせて待合でも開かせて末永く楽しもう」と言っておりまいた。しかし私はそんな生温かいことでは私も我慢ができなかったのです。

  石田がそれほど好きならなぜ心中する相談を持ちかけなかったか。

  石田は終始私を妾にすると言う様なことを言い冗談にも死ぬと言ったことはありましたが実際は二人で心中する気持等全然なかったし私は石田の家の様子を知っておりましたから心中することは考えても見ませんでした。

  石田を殺す晩も死んでくれとは言わなかったか。

  全然左様な事は言いませんでした。

  その晩石田は被告に殺されることを予期していた様子があったか。

  予期していなかったと思います。もっとも十八日の午前一時頃石田が私にお前は俺が眠ったら又締めるのだろうね。締めるなら途中で手を離すなよ。締められる時は判らないが離すと苦しいからねと言いましたがそれは冗談に言ったのだと思っています。

  それはなぜか。

  それは以前石田の頸を締めながら関係をすると感じが良いと話した事がありましたが、五月十六日の晩私石田の上に乗り初め手で石田ののどを押す様にして関係しましたが手では少しも感じが出ないから私の腰紐を石田の頸に巻きそれを締めたり緩めたりして関係しているうち下のところばかり見ていた為力が入り過ぎ石田が「ウー」とうなり局部が急に小さくなったので私は驚いて紐を離しましたが、その為石田の顔が赤くなって治らないので翌日まで水で顔を冷やしておりました。そんな事があった為十八日の午前一時頃石田が眠る時私に先程の様に締めるなら途中で離すなと言ったのですが、私はそう言われた瞬間自分に殺されても恨まないと言うのかなと考えました。私が同時にその時「ウン」と言って笑っていたのだし石田も私の顔を覗き込んで笑いながらそう言ったのであり又死ぬ気なら私に殺してくれと言うはずですから冗談に言っただろうと思いました。それですから、その後三十分位石田の眠っている傍らに眠っていましたが石田には殺すということは言わなかったのです。それに石田は、私の身体が弱そうに見えるため肺病だと思っており、始終「オカヨ、俺はお前のためならいつでも死ぬよ」などと言っておりましたが、むろん皆冗談事でありましたから、その晩石田が私に言ったことも冗談だと思ったのです。なお、私が殺す心算で、最初私が静かに石田の頸を締める時、「オカヨ」といって私に抱きつくようにしましたから、殺されるなどとは考えておらずびっくりしたのではないかと思いましたが、私は紐を緩めず、堪忍してと思いながら、そのままキュウと紐を締めたのです。

阿部定さんの印象 坂口安吾
  思うに、お定さんに変質的なところはないが、相手の吉さんには、いくらかマゾヒズムの傾向があったと思う。吉さんは恋の陶酔のなかでお定さんにクビをしめてもらうのが嬉しいという癖があった。一般の女の人々は、本当の恋をすると、相手次第で誰しもいくらかは男の変質にオツキアイを辞せない性質があり、これは本当の変質とは違う。女には、男次第という傾向が非常に強い。
 いつも首をしめられて、その苦悶の中で恋の陶酔を見ている吉さんだから、お定さんも死んだことには気づかなかったに相違なく、もとより、気づいた後も、殺したという罪悪感はほとんどなかったのが当然である。むしろ、いとしい人が、いとしいいとしいと思うアゲクの中で、よろこんで死んで行った。定吉一つというような激越な愛情ばかりを無常に思いつのったろうと思う。そういう愛情の激越な感動の果てに、世界もいらない、ただ二人だけ、そのアゲク、男の一物を斬りとって胸にだいて出た、外見は奇妙のようでも、極めて当たりまえ、同感、同情すべき点が多々あるのではないか。
 お定さんの問題などは、実は男女の愛情上の偶然の然らしめる部分が主で、ほとんど犯罪の要素はない。愛し合う男女は、愛情のさなかで往々二人だけの特別な世界に飛躍して棲むもの。そんな愛情はノーマルではない、いけない、そんなことの言えるべきものではない。そういう愛情の中で、偶然そうなった、相手が死んだ、そして二人だけの世界を信じて、一物を斬って胸にひめるという、八百屋お七の恋狂いにくらべて、むしろ私にはノーマルに見える。偶然をさしひけば、お定さんには、どこにも変質的な、特別的なところはなく、痛々しく可憐であるばかりである。思ってみたまえ。それまで人生の裏道ばかり歩かされて、男に騙され通し、玩弄(がんろう)されてばかりいた悲しいお定さんが、はじめて好きな人にも好かれることができた、二人だけの世界、思い余り、思いきる、むしろそこまで一人の男を思いつめたお定さんに同情すべきのみではないか。



 俳優の阿部サダヲの芸名は本名が阿部なので阿部定事件から『阿部定を』が候補として挙がり、「定を」をカタカナにしてサダヲになった。

 衝撃的な阿部定事件は現在でも人々の記憶から消え去ることなく脈々と語り継がれています。