江古田の結核療養所
療養所の旧正門があったところ |
江古田の森として残ったところ |
江古田の結核療養所は子どものころの遊び場だった。守衛の目をかいくぐって療養所の中に入り、深い木立の中をつき進んだ。めざすは病院の中央にある池だった。そこで小魚やザリガニを取り夕方まで遊んだ思い出がある。子どもの時でも結核は恐ろしい病気だとわかっていて、療養所に入るときは不安がよぎったが、遊び始めると漁に夢中になり感染の不安はすっかり忘れ去っていた。病院の中では、患者と医師の結核との戦いが毎日繰り返されていた。
詩人の立原道造は、結核で江古田の療養所に昭和13年12月に入所し、昭和14年3月に24歳で夭折している。室生犀星の立原道造に関する伝記から当時の療養所の様子を推察することができる。
結核療養所の歴史
大正9年5月29日、結核患者で貧困のため、療養の途のない者を入院させるため、敷地32,842坪、病床500床の東京市療養所として開設された。6月5日から患者の収容が開始し、男子56名、女子19名が入所した。その年12月末日までに入院した患者が529名、退院した患者は246名である。退院患者の内訳は治癒7、軽快6、事故40、命令1、死亡192となっている。死亡が退院の78%を占めていた。
昭和9年3月23日東側隣接地5,899坪を買収し、総面積は37,591坪になった。
昭和22年4月1日、厚生省所管となり、国立中野療養所となった。
昭和42年5月18日、地上10階、地下1階の新病棟を建設。新病棟の754床と旧病棟の一部256床を加え病床1010床の結核療養所となった。名称も国立療養所中野病院と改称し、また正門を東側に移した。
平成5年10月1日に国立療養所中野病院は、国立国際医療センター(新宿区)に統合され、発展的解消され73年の幕を閉じた。療養所跡地は、公務員宿舎用地として活用されており、また災害時の避難場所に指定されている。
立原道造 大正3年(1914)〜昭和14年(1939)
暦 | 年齢 |
出来事 |
1914(大 3) | 0 | 7月30日、東京市日本橋区橘町に生まれる。 |
1927(昭 2) | 13 | 東京府立第三中学校入学。 |
1931(昭 6) | 17 | 第一高等学校理科甲類入学。堀辰雄の面識を得る。 |
1934(昭 9) | 20 | 東京帝国大学工学部建築学科入学。夏、初めて軽井沢を訪問し、以後毎夏信濃追分に滞在。室生犀星、萩原朔太郎を識る。月刊『四季』の編集同人となり、詩「村ぐらし」「詩は」で『四季』に初登場。 |
1937(昭12) | 23 | 卒業後石本建築事務所に入社。詩集『萱わすれ草に寄す』『曉と夕の詩』を出版。 |
1938(昭13) | 24 | 建築事務所のタイピスト水戸部アサイと信州へ小旅行。7月下旬、肺尖カタルのため休職し、信濃追分に転地療養。詩集『優しき歌』を執筆。12月6日長崎に滞在中喀血し、帰京後12月26日中野区江古田の東京市療養所に入所。 |
1939(昭14) | 24 |
2月13日第1回中原中也賞受賞。3月29日、病状急変し永眠。享年24歳。 |
我が愛する詩人の傳記 「立原道造」より 室生犀星
この朝路さんは二十六歳の若さで、中野療養所で昭和十四年三月に亡くなるまで、立原に付添って看護をしてくれた。私が療養所を訪ねた日は雪降りの後で、刑務所の塀にそうて津村信夫と、凍てた雪を踏んだ。そうしてその帰り道もおなじがじがじの雪を踏んで歩いた。
「ね、ありゃもうだめだね。」
と、私は津村にそう言い、津村も肯うなずいて言った。
「とてもあんなに痩やせちゃっては、たすかりようがないですね。」
朝路さんは立原の寝台の下に、畳のうすべりを敷いて、夜もそこで寝ていた。おとなしいこの娘さんは、立原の勤めていた建築事務所の、事務員の一人であったらしいが、立原の死ぬまでその傍かたわらを離れなかった。どんなに親しくとも男には出来ない看護と犠牲のようなものが、殆ほとんど当たり前のことのように行われ、私もそれを当たり前のすがたに見て来たが、それは決して当たり前のことではなかった。お嬢さんとかいう人、そしていまどきの人に出来ることではないと思ったが、それは私の思い上がりで、女の人はこういう恐ろしい自分のみんなを対手あいてにしてやるものを沢山たくさんに持ち、それの美徳を女の人は皆はしくも匿かくして生きているように思われた。
療養所だから窓は明け放たれ、寒さは外の残雪を絡からんで室内をつんざいていた。しかも、朝路さんはうすべりの下は板敷の上で、冷えることを承知で寝ていたのである。
「センセイ、僕こんなになちゃいましたよ、ほら、これを見てください。」
立原はふとんの中で大事にしまってある自分の手を、いくらか重そうにして、出してみせた。それは、命のたすからないことを対手あいてに知らせるための手であり、本人はそれでいて未だ充分にたすかる信仰を持っている手でもあった。私はそれを眺め、手が生きている間は書けるよ、こいつが動かなくなると書けなくなると言った。立原は嬉しそうに笑い、生きている大切な右の手をまたもとの胸の上にしまった。私は人間の手というものがどれほどの働きと、生きる証拠を重い病人に自信を持たせているかを、知ったのだ。
中野の町の珈琲コーヒー店で、私は津村と対むかい合わせになり、固いパンを齧かじり合った。バタのかわりにジャムがついた酸っぱいパンの粉を払って、私はテエブルの上にあご付きをして、腰を伸ばして言った。
「お見舞いをして宜よかった。今日来なければ出渋ってとうとう合わずじまいになるかも知れないところだった。」
津村は真剣な顔付でいった。
「手を出されたときは参った・・・・」
「僕も参ったよ、あれが生きている人の手だからね。」
二人は外に話もなく何となく苦が笑いをした。この苦笑をしている津村信夫も、それから何年かの後に死ななければならない人だった。つぎつぎに生きている人が生きたままで人を見送り、死ぬ人は死ぬときを決して知ることの出来ない面白い生き方を、今日は厭いやでも、していかなければならなかった。
草に寝て…… 六月の或る日曜日に 立原道造
それは 花にへりどられた 高原の 私たちは 山のあちらに ――しあはせは どこにある? 私たちの 心は あたたかだつた |
萱わすれ草に寄す SONATINE No.1 はじめてのものに 立原道造
ささやかな地異は そのかたみに 灰をふらした この村に ひとしきり 灰はかなしい追憶のやうに 音立てて 樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた その夜 月は明あかかつたが 私はひとと 窓に凭もたれて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた) 部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と よくひびく笑ひ声が溢れてゐた ――人の心を知ることは……人の心とは…… 私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を 把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた いかな日にみねに灰の煙の立ち初そめたか 火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に その夜習つたエリーザベトの物語を織つた |