中野御囲と生類憐みの令

元禄十五年の中野御囲(おかこい)
 
元禄八年(1695)十月、現在の中野駅周辺の16万坪の土地にに犬小屋が造られた。
25坪の犬小屋が290棟、七坪半の日除け場が295棟、子犬養育所が459か所、
そのほかに役人の住居や付属施設がありました。
東囲    40000坪(犬小屋113棟、日除け場116棟)
西囲    60000坪(犬小屋177棟、日除け場179棟)
付属物   60000坪
ここに江戸市中の飼い犬も含め大方の犬が収容された。(10万匹)

犬の餌代は一日当たり米二合と銀二分(220円)
合計では1日に銀16貫目余り(1760万円) 1年で金9万8千余両(64億6800万円)1貫=1000匁 1匁=10分

元禄十五年には約29万坪(道路も含む)に拡張された。
一の囲   34538坪
二の囲   50000坪
三の囲   50000坪
四の囲   50000坪
五の囲   57178坪
合計   241716坪


幕府の犬保護対策は、犬小屋の設置による犬の収容のみでなく、ほかに犬の村預けによる養育制度もあった。村預かり犬養育制度は、犬小屋の犬を周辺村落に預けることによりより多くの犬を保護するためのものであった。幕府が、中野犬小屋の収容犬を村落に預ける制度を開始したのは元禄十二年頃からと考えられ、犬を預けられた村落では「御犬養育金」を支給され、その金額は1ヶ月一匹当たり銀二匁五分(2750円)。 1年で金2分(33000円)であった。
犬小屋に収容していた犬を積極的に江戸周辺農村に預けつつ、その後犬小屋を縮小していったという。

宝永六年(1709)正月、綱吉の死とともに「生類憐みの令」は撤廃され、中野犬小屋も廃された。    


生類憐みの令
「生類憐みの令」は貞享(じょうきょう)二年(1685)以降の二十数年間に発せられた個別の細かな法令を総称したものであり、そのような名前の法令が出されたわけではなかった。「生類憐み」の趣旨は人々の「仁心」や「慈悲の志」を滋養することにあった。

綱吉政権は、捨子・捨て牛馬などの横行や死んだ「生類」への非道な扱いという現実に直面にして、人の「生類」への思いやりや「生類」の死のけがれを取り払うためにも、幼児・病牛馬を遺棄する行為や死んだ「生類」への無慈悲な処理を許さないという姿勢を打ち出した。
当時、幼児や病人といった弱者や病牛馬の養育を放棄する行為が横行し、死んだ牛馬の処理も徹底されず、さらに「生類」の死に対するけがれ意識も薄らいでいた。それらの背景には、元気な「生類」に買いかえて利用するということが一般化し、病気や老いで役に立たなくなった「生類」を生涯看取るという機会と責任が薄らぎ、またそれらへの餌の調達を無駄とみなす認識が広がり、「生類」を遺棄する風潮が一般化していて、人と「生類」との関係が希薄になっていた。

綱吉政権は、「仁政」を実現するため全面的な行政改革に取り組み、その初期において、悪弊を正すため、綱紀粛清・風紀矯正・賞罰厳明の諸施策を推進し、その具体化が役人の改易・免職・処罰・削減であり倹約を推進する奢侈禁令であり、「生類」の殺生禁止を含む悪習是正などであった。なかでも綱吉政権が発足してまもなく、悪しき流行である馬の筋延ばしを禁じる法令を幾度となく発令しても、この流行が廃れるどころか、全国的に「拵馬(こしらえうま)」や「繕馬(つくろいうま)」が広がりをみせ、違反者が絶えなかった。それまでの「生類」愛護策は悪弊是正策の一つとして展開したものであったが、この政権の問題意識の高まりから「生類」愛護の部分が自立し、「生類憐み」概念をまといながら、より強権を発動してその徹底を期したのが生類憐み政策であった。

犬愛護令は元禄六年(1693)・七年(1694)ごろから頻度を増すが、これは放鷹(ほうよう)制度の廃止と連動するためである。元禄六年(1693)に綱吉は放鷹(ほうよう)制度を全面的に廃止する。この時期には犬を食べる習俗があり、とくにかぶき者(十七世紀に大ひげや派手な衣装で町々を往来する無頼者たちが集団化して徒党をくみ、喧嘩や乱暴狼藉を繰り返した。)たちのあいだで流行していた。貞享(じょうきょう)三年(1686)に江戸のかぶき者の大量検挙がなされ、戦国の遺風のような食犬の風俗をやめさせた。さらに放鷹(ほうよう)制度をやめさせたことで、猟犬および鷹餌としての犬の需要がなくなり、それらの犬が都市に滞留して野良犬化した。腹をすかせた野犬が捨子を喰うという事態にも発展した。それら過剰な犬を収容するために犬小屋設置へとつながっていく。

綱吉の時代(延宝八年 1680 〜 宝永六年 1709)は大火事(八百屋お七の火事 天和二年 1682)、大地震(元禄大地震 元禄十六年 1703)、富士山噴火(宝永四年 1707)、赤穂浪士討ち入り(元禄十四年 1701)と大事件が頻発した。財政も悪化していた。綱吉はそれらを処理しつつ、死の際まで「生類憐み」に執着した。

元禄十四年(1701)3月14日の朝、浅野長矩(ながのり)が吉良義央(よしなか)を殿中で切りつけ、浅野長矩は即日、切腹を命じられた。綱吉は吉良義央を「構いなし」と判断した。現在にいたるまでこの事件が喧嘩とされ、綱吉の処罰が両成敗でないことが論じられてきた。綱吉が事件を判断した基準は喧嘩ではなく、綱吉が江戸城に定めた血や死の穢れに対する清浄の観念の厳守である。浅野の罪は、清められるべき殿中で、勅使を迎える清浄な日を穢したことにあった。

「生類憐みの令」の始まり」(俗説)
綱吉の信任を得て護国寺を開いた僧侶亮賢(りょうけん)が、徳松(綱吉の長男で5歳で夭折)の死去で嗣子(しし)を失った綱吉と桂昌院(綱吉の母)に、子が得られないのは前世殺生の酬いで、とくに生まれ年が戌(いぬ)年にあたる綱吉は犬を愛護すべきことを説き、以後、亮賢(りょうけん)とその推挙による隆光(りゅうこう)がこの推進者になった。


善政を行ったとされている天武天皇も動物保護の詔を発したことが『日本書紀』に記述されている。

天武四年(675)四月十七日、諸国に詔して、「今後、漁労や狩猟に従事する者は、檻や落とし穴、仕掛け槍などを造ってはならない。四月一日以後九月三十日までは隙間のせまい簗(やな)を設けて魚をとってはならない。また牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはならぬ。もし禁を犯した場合は処罰がある」といわれた。

天武五年(676)八月十七日、諸国に詔して、放生令(捕えられている動物を放つ)をしかれた。

現代日本における動物愛護管理法は、実際には愛護ではなく管理の名のもとに毎年五万匹を超える犬が保健所で保護され、引き取り手がなく殺されている。

日本国内での殺処分数
  合計
2010年度 5万 15万 20万
2013年度 3万 10万 13万