小田原合戦

 豊臣秀吉は、徳川家康を通じて北条氏政(四代)、北条氏直(五代)に上洛を求めていたにもかかわらず、北条氏は無視していた。天正16年(1588)8月22日に北条氏規(氏政の弟)が上洛し秀吉の謁見をうけた。氏規は懸案の上野沼田領問題が解決すれば、兄氏政も上京するといい、秀吉はともかく氏政を上京させよと要求した。沼田領問題とは、徳川・北条の両氏が和議した際、沼田領は北条氏の所領にすると決まった。ところが家康家臣の信濃上田城を本拠とする真田昌幸が、沼田城の対岸には先祖代々の墓があるという理由で、この地から手を引かず、両者の間でもめていたのである。秀吉は、沼田領の三分の二を北条氏の領地とし、名胡桃(なぐるみ)の地は真田氏のものとすると裁定した。
 天正17年10月、沼田城の北条勢が、真田領の名胡桃城を攻略してしまう。北条勢の名胡桃城攻略は、豊臣政権に反旗を翻したに等しい。名胡桃城攻略は、秀吉が発した「惣無事令」に背いており、北条征伐の大義名分となる。
豊臣秀吉(54歳) 総勢22万 北条氏政(53歳) 総勢5万6千
北条氏直(29歳)
徳川勢 3万
東海道北上軍 14万余

蒲生氏郷(伊勢・松ヶ島城)
豊臣秀次(近江・八幡山城)
織田信雄(尾張・清洲城)
細川忠興(丹後・宮津城)
筒井定次(伊賀・上野城)
浅野長政(若狭・小浜城)
石田三成(近江・佐和山城)
宇喜多秀家(備前・岡山城)

北国勢 3万5千
前田利家(加賀・金沢城)
上杉景勝(越後・春日山城)
真田昌幸(信濃・上田城)
依田康国(信濃・小諸城)

水軍 1万4千
九鬼嘉隆(志摩・鳥羽城)
加藤嘉明(伊予・加志城)
脇坂安治(淡路・洲本城)
長宗我部元親(土佐・岡豊城)
北条氏照(八王寺城主)
佐野氏忠(佐野・足柄城主)
北条氏房(岩付城主)
北条氏堯(小机・戸倉城主)
松田憲秀(重臣)
上田朝広(松山城主)
内藤綱秀(津久井城主)
小幡信定(国峰城主)
長尾顕長(足利城主)
北条直重(佐倉城主)

成田氏長(忍野城主)



徳川勢・東海道北上軍 北国勢 水軍
天正17年(1589)11月24日
秀吉は諸将に北条征伐の軍令を発し、みずからは翌年3月1日に京都を進発すると発表した。
天正18年(1590)2月10日
徳川家康、先鋒として駿河を出発




天正18年(1590)3月1日
豊臣秀吉、京都の聚楽第を出発

天正18年(1590)3月27日
秀吉本隊が沼津(三枚橋城)に着陣

天正18年(1590)3月29日
山中城落城
豊臣秀次を総大将で攻撃、城主松田康長討死
半日で落城

天正18年(1590)4月6日
秀吉軍、湯元の早雲寺に着陣











天正18年(1590)4月22日
玉縄城開城
城主北条氏勝降伏
江戸城開城
城主遠山景政の弟、川村秀重降伏











天正18年(1590)5月20日
岩付城落城
城主北条氏房が小田原城に籠もっていたので、
重臣伊達房実が城代とし守っていたが、降伏

天正18年(1590)6月5日
伊達政宗が死装束で小田原に着陣。













天正18年(1590)6月24日
韮山城開城
韮山城は孤立無援のなかを3ヶ月戦い抜いて、
城主北条氏規は秀吉から「敵ながらあっぱれ」
の評価を得る。

天正18年(1590)6月25日
津久井開城

天正18年(1590)6月26日
豊臣秀吉が本陣として建設していた石垣山城
(笠懸山)が完成した。
天正18年(1590)2月10日
上杉景勝、春日山城を出発

天正18年(1590)2月20日
前田利家、金沢城を出発
















天正18年(1590)4月19日
厩橋城落城

天正18年(1590)4月20日
松井田城落城
城主大道寺政繁は、降伏し謝罪したため、
前田利家は助命したが、報告を聞いた秀吉は、
大道寺政繁を許さず7月11日に切腹させている。














天正18年(1590)5月3日
河越城落城









天正18年(1590)6月14日
鉢形城開城
城主北条氏邦降伏
氏邦の有能さをよく知っていた利家は家臣として
金沢へ連れ帰っている。

天正18年(1590)6月23日
八王子城落城
城主北条氏照が小田原城に籠城しているため、
守将横地吉信、狩野一庵、近藤綱秀らが守って
いたが半日で落城。




























天正18年(1590)4月23日
下田城開城
清水康英の守る下田城は、手兵わずか600騎で、
1万4000余の豊臣方水軍を相手に1ヶ月以上もの
激戦を展開した。
天正18年(1590)7月5日
徳川家康の斡旋もあって、北条氏直は小田原城を出て豊臣秀吉に降伏した。

天正18年(1590)7月11日
秀吉の裁決で、北条氏政、北条氏照、大道寺政繁、松田憲秀は切腹。
北条氏直は高野山に追放。

百年間、関八州を統治した北条氏は滅亡。

天正18年(1590)7月13日
秀吉、小田原城に入り、関八州を家康に与えることを公表。
天正18年(1590)7月16日
忍野城開城
城主成田氏長は小田原城に籠城しており、
城代成田泰季が留守を守った。
忍野城は荒川流域の湿地帯に築かれた天然の
要害である。
忍野城を攻撃したのは、石田三成、長束正家、
大谷吉継らである。
忍野城は、小田原城が開城した後に開城し、
小田原合戦は忍野城の開城をもって終了した。


北条氏の敗因

・北条氏の関東の雄という自負が、豊臣秀吉の実力を見誤らせた。同盟者の家康が秀吉との間を仲介して上洛させようとしたが応じなかった。

・北条、徳川、伊達の三国同盟の実現を画策するが、最終的には徳川が北条に見切りをつけ、伊達もそれに追随して破綻してしまう。

・北条氏内部は氏政・氏照の強行論を主張する主戦派と氏直・氏規の上洛による秀吉との接近を唱える穏健派の二派にわかれていた。

・北条氏が、多くの戦国大名に比べて、朝廷・幕府に近づくことが少なく、東国を独立して支配している意識が強かった。

・小田原城に戦力を集中させたため、重要拠点の城の守りが手薄になり持ちこたえられなかった。

・豊臣政権の全国平定の最終段階としての東国制覇という課題が、北条氏討伐という形で表出した。 


小田原評定
(広辞苑より)
豊臣秀吉が小田原城を包囲した時、小田原城中で北条氏直の腹心等の和戦の評定が長引いて決しなかったことから長引いてなかなか決定しない相談。 小田原談合。


北条氏の家紋の「三つ鱗」



参考文献

・歴史群像シリーズM新説戦国北条五代 学習研究社
・後北条氏 有隣新書  鈴木良一
・小田原合戦 角川選書 下山冶久