直良信夫なおらのぶお

 直良信夫(1902年〜1985年)は明石市西八木海岸での化石人骨(明石原人)の発見者として有名だが、中野区江古田の地に昭和8年から昭和48年まで40年間住んでいた。戦前には、日本に旧石器時代はないとされており、またアマチュア研究家であったため化石人骨が原人であると認めてもらえなかった。

 若い時に苦学して努力した結果、早稲田大学で助手をし業績を積み重ね、55歳で早稲田大学で学位をとり58歳で教授になった。

 

明石人骨(左寛骨、昭和6年撮影) 明石人骨が出土した明石市西八木海岸

明石人骨の発見の場面

松本清張「石の骨」より

 朝、夜が明けるのを待ちかねて、ハンドシャベルを持って出かけた。
 現地に着いてみると予期したように崖は崩壊していた。風が残っていて、波頭が崩れ落ちた崖の下まで打ちあげていた。
 なだれのあとのように崩壊した土砂が新鮮な色で這
っていた。その青い粘土の堆積の間に、一本の茶褐色の物体がつきささっているのを見た。物体は折りからの朝の陽をうけて、鈍い艶を光らせていた。己おれはすぐにそれを拾った。ズシリと重量感が手にきた。しばらくそのまま立って手の化石を眺めていた。いつかはこういう一瞬がくる、その瞬間がいまきたと感じながら、妙に現実感がなかった。そのくせ、今が己おれの生涯の頂点だな、己おれの一生が何もかもこの瞬間を頂点としているな、と思いつづけていた。息苦しいくらいの動悸がうって、その物体―古代人の腰骨化石を恐る恐る手でさすりはじめたのは、そういう数秒の放心が断たれてからであった。
 己おれはこの地点で旧象の化石と打製石器を拾って以来、今の瞬間を遠くからくる人のように待っていたのだ。この洪積層の青粘土層からは、それまでいくつもの旧象と鹿の化石の破片を掘りだしていた。石器も出てきたことだ。いつの日か、人類の骨の一片を掘りだせるかもしれないと思っていた。
 旧石器時代は大陸や欧州の方にはあるが、日本にはまだ認められないというのが、学界の定説であった。その説がいま覆されるかもわからないのだ。己
おれは心臓も手足も慄ふるえた。

直良信夫の経歴

年齢

出来事
明治35年 大分県臼杵(うすき)に生まれる。
大正3年 12 伯母の養子になり、東京に出る。
大正7年 16 昼は鉄道院上野保線事務所の給仕をし、夜は岩倉鉄道学校工業化学科に通う。
大正9年 18 岩倉鉄道学校を卒業し、農商務省臨時窒素研究所に就職する。
大正12年 21 論文「目黒の上高地に於ける先史人類遺跡及文化の化学的考察」を京都帝国大学教授、喜田貞吉の主宰する雑誌『社会史研究』に発表した。
結核にかかり、姫路で療養生活をする。
大正13年 22 明石に転居する。
大正14年 23 「直良石器時代文化研究所」を開設する。
昭和6年 29 兵庫県明石市の西八木海岸で化石人骨(明石人骨)を発見する。
昭和7年 30 系統立てた勉強をしたいために再上京する。
昭和8年 31 中野区江古田1丁目2059番地(現在の松が丘1丁目11番7号)に住む。
早稲田大学の「獣類化石研究室」で徳永重康博士の助手となる。
徳永博士に従って、「満蒙学術調査団」に参加する。
昭和9年 32 徳永博士に従って、「第二次満蒙学術調査団」に参加する。
昭和12年 35 江古田植物化石層の発見する。
妙正寺川沿いを散歩しているときに、水道管施設の工事現場に出くわした。そして、掘り出された土の中にたくさんの植物化石が含まれているのを発見した。それらを持ち帰って調べてみると、旧石器時代の地層からカラマツ、イラモミ、チョウセンゴヨウといった寒冷地にしか生えない針葉樹が確認された。これは、気温が現在よりも5,6度低い寒冷な気候であり、日本にも氷河期があったことを証明した。
昭和20年 43 明石の化石人骨が空襲により焼失する。
昭和23年 46 東京帝国大学の長谷部言人はせべことんど博士は、明石化石人骨(石膏型)が原人級の人骨と推定した。発見から17年を経て、「明石原人」として陽の目をみた。長谷部言人博士を長として、明石西八木海岸の発掘調査を行ったが、人骨はおろか石器すらも出てこなかった。
昭和25年 48 栃木県葛生くずう町の石灰採石場で人骨を発見し「葛生原人」と命名した。
昭和29年 52 江古田の1万年前の洪積世層から稲の化石を発見する。日本の稲作の始まりは弥生式時代だとされてきたが、それ以前に日本にはすでに野生の稲が存在していた。
最近、国立歴史民俗博物館の春成秀爾(ひでじ)さんが分析した結果、この米粒はたかだか近世のもの、ということだった。
昭和30年 53 松本清張が直良信夫をモデルにして、「石の骨」という短編小説を『別冊文芸春秋』に発表した。
昭和32年 55 論文「日本農業発達史」は、学位論文として早稲田大学文学部で受理され、文学博士号を受ける。
昭和35年 58 講師の身分から助教授を飛び越して、一挙に理工学部採鉱冶金学科の教授に就任した。
昭和39年 62 中野刑務所の試掘調査を行い、弥生時代の竪穴住居跡2軒を確認した。
その後の中野刑務所跡地の発掘調査で弥生時代後期の竪穴住居跡が256軒発見された。
昭和47年 70 早稲田大学を定年退職した。
昭和48年 71 島根県出雲市に転居する。
昭和57年 80 東大理学部助教授の遠藤萬里ばんりと、独協医科大学講師の馬場悠男ひさおが、明石原人の腰骨石膏模型を統計処理した結果、原人説を否定した。
昭和60年 83 島根県出雲市で83年の生涯を閉じる。

江古田植物化石層   『東京の自然史』 貝塚爽平著より
神田川の支流の妙正寺川は杉並区上井草の海抜約60メートルの武蔵野台地に発する川である。 それは西武新宿線にほぼそって、うねうね流れ、武蔵野台地より数メートル低い浅い谷地形を作っている。 いまはこの谷底もほとんど人家で埋まってしまったが、ながく水田であった。中野区江古田〔現・中野区松が丘一丁目〕の哲学堂のところでは、妙正寺川に北から合流する一支谷(江古田川)があるが、この支谷の川べりの粘土層に、植物化石を沢山含む部分があった。その植物化石は直良信夫によって昭和10年(1935年)ごろに発見されたものである。
ここで発見された多数の植物化石は、三木茂によって研究され、江古田植物化石として学界に知られるようになったが、その後もこの植物化石については、いくつかの論文が書かれ、また再調査もおこなわれた。  それは、この化石が、東京付近のみならず、日本の過去の植生や気候を知る上に、重要な意味をもっているからである。
三木茂(1938)によれば、この植物化石からは21種の植物が識別されたが、その中には、カラマツ、オオシラビソ、トウヒ、チョウセンゴヨウなどといった、亜高山帯を特徴づける松柏(しょうはく)植物が主要な構成要素として認められるのである。 この化石層が江古田松柏科植物化石層とも呼ばれるゆえんである。 三木によれば、その植物を現代の日本の植生にくらべると日光の戦場ガ原のそれと似ているというのであるから、当時の武蔵野の気候は、現代の戦場ガ原のような気候であったとかんがえなければならない。武蔵野の気候が、海抜1400メートルの戦場ガ原の気候であったとすると、高度による気温の減率を0.5度/100メートルとすれば、今より7度ほどの気温低下となる。
このような気候は欧米で研究された大陸氷河期拡大期、つまり”氷期”の気候とくらべると、まさに氷期の気候にほかならない。そして、洪積世のおわりごろに形成された武蔵野をきざむ谷底堆積物であるこの化石層は、洪積世に10数回繰返された氷期と間氷期のリズムの中で最後の氷期(ヴュルム氷期)のものにちがいない、と考えられたのである。

江古田植物化石は二万数千年前のものといえるだろう。