平将門の乱

将門は939年(天慶二年)11月に常陸国府を襲撃し、12月には下野しもつけ・上野こうづけ国府を襲撃した。国司を追い、印鑰いんやく(国印と備蓄用の穀倉の鍵)を奪った。また、将門は武蔵・相模を巡回し印鑰をおさめて下総へ帰った。平将門の乱である。藤原純友の乱とあわせて承平じょうへい・天慶てんぎょうの乱ともいい、律令国家をゆるがす重大な反乱であった。将門は八幡大菩薩の使いと称する巫女の託宣をうけてみずから「新皇」と称し、関東独立国家をうちたてようとした。「新皇」となった将門は坂東諸国の国司を任命し、王城を下総国に建設することにした。940年(天慶三年)二月十三・十四日の戦闘で平貞盛・藤原秀郷らの連合軍が将門をたおし乱が平定される。3ヶ月にも足りない短期間の出来事である。

下野守  平将頼(将門の弟)
上野守  多治経明(常羽いくわ御厩の別当)
常陸介  藤原玄茂はるあき(前常陸掾じょう
上総介  興世王おきよおう(武蔵権守)
阿房守  分屋好立(将門の上兵)
相模守  平将文(将門の弟)
伊豆守  平将武(将門の弟)
下総守  平将為(将門の弟)

将門の首塚

大手町のオフィス街に将門の供養碑がある。石碑の正面には「南無阿弥陀仏」と大きく彫られ、その横には「平将門蓮阿弥陀仏 徳冶二年」と彫られている。
940年(天慶三年)二月に平貞盛・藤原秀郷(俵藤汰)によって追討された平将門の首を埋めた将門首塚があったと言われているところである。将門の首は藤原秀郷により京都に送られた。朝廷はこれを東市の樹木にかけ、京の人々の前にさらした。嵐の一夜、胴を求めて空を飛び柴崎村(現在の大手町)に落下したと伝えられている。
将門首塚は大正十二年の関東大震災の後、大蔵省仮庁舎建設のため壊されたが、大臣以下工事関係者が相次いで死亡した。また終戦後、進駐軍のモータープール建設のため取り壊そうとしたブルドーザーが横転し運転手が死亡したことがある。いずれも将門のたたりといわれ、塚は再建され現在東京都の文化財となって残っている。
なお将門の胴は茨城県岩井市神田山延命院に胴塚があり、ここに祀られている。

神田明神

神田明神は将門を祀まつった神社であるという伝承がある。神田明神はもとは柴崎村(現在の大手町)にあって、その近くに天台宗の日輪寺があったという。そこに、将門の乱後、将門の縁者が墳墓をつくって祀ったが、時が経つにつれ世話する人もなく荒れ放題になってしまった。そのため、将門の亡霊がでて柴崎村周辺を大いに悩ました。1305年(嘉元三年)に柴崎村を来訪した時宗の他阿真教上人が、将門に「蓮阿弥陀仏」という法号を与え供養したところ、亡霊の祟りも修まったという。この事件以後、日輪寺は時宗の柴崎道場として栄え、神田明神もその鎮守として将門を祀る神社として崇められたという。ところが、徳川家康の関東入部による江戸城大改造によって、柴崎道場と神田明神付近は、新江戸城大手門正面となってしまうため、移転が強行されることになった。日輪寺は浅草に、神田明神は湯島に移った。

神田明神のホームページ

系図

     かつらはら     たかもち
桓武天皇―葛原親王―高見王―高望王─┬─国香─┬─貞盛・・・・・清盛
                  │    └─重盛
                  ├─良兼─┬─公雅
                  │    └─公連
                  ├─良将─┬─将持
                  │    ├─将弘
                  │    ├─将門
                  │    ├─将頼
                  │    ├─将平
                  │    ├─将文
                  │    ├─将武
                  │    └─将為
                  ├─良文
                  ├─良持
                  └─良茂
         

将門と武蔵国

938年(承平八年)二月に武蔵権守ごんのかみ興世王おきよおうと、介すけ源経基つねもとは、武蔵国の伝統的豪族である足立郡司で判官代でもある武蔵武芝と対立した。興世王と経基が足立郡への査察を通告したところ、武芝は正任でもない権守が入部することを拒否した。これに対して興世王らは無礼であるとして武力を持ってしても入部しようとしたので、武芝は衝突を避けて山野に身をかくした。興世王らは強行に入部し財物を強奪していった。両者は対立し、合戦の構えをみせるにいたったのである。この対立を知った将門は仲介を買ってでた。将門はまず武芝を説得し、国府に同道した。興世王も比企郡狭服山から国府に帰り、両者は将門の仲介を受け入れた。ところが、狭服山に残っていた経基は自分が攻撃されると誤解し都に帰ってしまった。経基は都に帰ると太政官府に将門に謀反ありと訴えた。将門は常陸・下総・下野・武蔵・上野の5カ国の国守から将門謀反のことは真実でない旨の解文げぶみをもらい、将門に対する嫌疑を晴らした。

天慶の乱と中野

武蔵名所図会によると940年(天慶三年)に平将門の弟将頼が武蔵多摩の中野原において、藤原秀郷の子千春と合戦、敗れて7月7日討死した。

中野郷の内、そのいずこなるか知らず。天慶三年庚子かのえね二月十四日平将門は平貞盛が箭に当たりて藤原秀郷これを討つ。そのころ将門が弟御厨屋三郎将頼は武州多磨郡の中野原に出張し、秀郷の男藤原千晴と戦いて、将頼利なくして、同年七月七日川越に於て終に千晴がために死す。中野古戦場にその霊ありて、人民を煩わすことありしと云。         

将門人気

天慶の乱の頃は、平安朝の中期にあたり京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していた。遠い坂東では、国司が私欲に汲々として善政を忘れ下僚は収奪に民の骨身をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為、これら力の弱い人々が将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあった。今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となって影響した。