史蹟江古田原・沼袋古戦場碑

 昭和31年10月、東京都が、江戸城築城五百年の祭典を開催するので、中野区としても記念事業として妙正寺川と江古田川の合流する所の江古田公園内に古戦場碑を建立した。

碑(表) 碑(裏)
碑文

文明九年(一四七七)四月十三日上杉定正の臣江戸城主太田道濯は関東管領上杉顕定及び定正を襲うて敗走
せしめた長尾景春の党豊島泰明を平塚城に攻めて帰ったが泰明の兄豊島泰経等石神井練馬両城より泰明救援
のため馳せ来るを迎えて江古田原沼袋の地に激戦し、泰経は翌十四日敗死し、後遂に石神井等を陥(おとしい)れた
この事は史籍に明徴(めいちょう)有り道灌の偉業の一つに数うべきであらう。
道灌江戸築城以来ここに五百年わが区は道灌戦蹟の地に因(ちな)み碑を建てて永くその事績を伝えんとするもので
ある。
       昭和三十一年十月一日
                                      東京都中野区

豊島泰経が江古田原沼袋の合戦のとき戦死したか、石神井城が落城した際自決したのか、あるいはのがれ、平塚城、丸子城と渡り、小机城で敗死したか、いずれも決定的な証拠はない。

 中世の当地は武蔵野の原野の中で高地は雑木林が密生し、低地は河川のあたりは沼沢地で葦などの水草が繁茂していた。豊島・太田両軍はこの低地をはさんで相対峙した。文明九年四月十四日、両軍は戦闘を開始し、各所で激烈な白兵戦が行われた。太田軍は多くの合戦に出動して体験をつんでおり、しだいに豊島軍を圧迫していった。 

 鎌倉時代以来、秩父平氏の一族が、江戸・豊島・葛西・河越氏といった形で武蔵を配下においてきた。ところが、室町時代、武蔵が上杉氏の守護領国になるにつれ、それらの旧勢力は次第に駆逐され、江戸氏のようにまったく衰えて、わずかに喜多見に居を移し、名もかえて生きのびるという状態だった。河越も扇谷上杉の居城になって、江戸も道灌の居城となった。
 道灌による江戸築城は豊島氏一族には脅威であり、それまで在地領主制を展開していた地域が道灌によって侵略されることになったのである。日ごろ、道灌に圧迫されつづけていた豊島氏の憤りが、長尾景春党に加わり、道灌と戦火をまじえる行動へとかりたてたと思われる。