古文書と小説での江古田原・沼袋合戦

古文書
太田道灌状

鎌倉大草紙かまくらおおぞうし

江戸近所、豊島勘解由左衛門尉かげゆさえもんのじょう、同弟平右衛門尉へいえもんのじょう両所、対城を構へ候の間、江戸河越の通路不自由に依り、先づ勘解由左衛門尉かげゆさえもんのじょうの要害(石神井城)を落居らっきょせしむべき分を以って、相州の勢衆(上杉の兵)を密々みつみつ途中に召越し、(文明九年)三月十四日夜詰致す可きてあて候の処、大雨降り候て多破河(玉川)増し候間、調儀相違せしめ候。

相州には景春被官人溝呂木みぞろぎ(厚木市)、在所に要害をこしらえ候、越後五郎四郎は小磯(大磯町)と申す地に山城を構え候、景春傍輩には金子掃部助かねこかもんのすけ在所小沢(愛甲郡愛川町)と申す所を要害に成し候間、所詮彼の国(相模国)より手始め致すべき旨存じ置き、途中の勢衆三月十八日溝呂木要害え差し遣わし候間、自火せしめ没落、当日小磯要害差し寄せ、終日相攻め、晩に及び五郎四郎降参せしめ候、その後小沢城に向かい張り陣すといえども難城に候間、急度事行かず候き。

当方(扇谷家)元より無勢に候上、河内(上杉顕定あきさだ)へ供致し、又上田入道(松山城主上田上野介)並びに同名図書助ずしょのすけ(道灌の弟、太田資忠すけただ)に勢衆を相添え、河越城に差し置き候、相州衆に少々当国(武蔵国)の者共相加え、小沢城向かい在陣す、江戸にはわずか勢衆に候間、刑部少輔ぎょうぶのしょう(上杉朝昌ともまさ)並びに三浦介(三浦義同よしあつ)を招き越し、一所に相談し候時節、(景春被官の)吉里(吉里宮内左衛門尉)以下小沢城後詰めのため当国(武蔵国)府中に取り陣、小山田(小山田要害 町田市)を相散らし、相州難儀に及び候、(小机城在陣していた景春方の)矢野兵庫助以下河越城押さえのため苦林にがばやし(入間郡毛呂山町 )に張り陣し候処、河越留守衆四月十日打ち出、彼の陣際相散らし、凶徒を招き出し、勝原すぐろはら(坂戸市)に於いて合戦せしめ、勝利を得候。

同十三日(文明九年四月)、江戸より打ちいで、豊島平右衛門尉へいえもんのじょう要害へ矢入致し、近辺に放火せしめ打帰り候のところ、兄勘解由左衛門尉かげゆさえもんのじょう相い供に、石神井・練馬両城より打いで襲い来り候の間、馬を返し、江古田原において合戦せしめ勝利を得、平右衛門尉以下数十人を討ち捕り、翌日石神井要害へ押し詰め、一往の儀候上は、先忠に服すべきの旨相い和し候のところ、十八日まかりいで対面仕り候、この上は要害を崩すべきの旨申し候のところ、結句、相い偽り歴然候の間、廿一日外城攻め落とし候、しかる間、夜中没落せしめ候。

景春一味の族には武州豊島郡住人、豊島勘解由左衛門尉かげゆさえもんのじょう、同弟平右衛門尉へいえもんのじょう石神井の城、練馬の城取立、江戸河越の通路を切取、相州には景春が被官人溝呂木みぞろぎの城にたて籠る。越後五郎四郎は小磯いう山城にたて籠る
金子掃部助かねこかもんのすけは小沢という城に楯こもる間、太田左衛門尉入道下知として扇か谷より勢をつかわし同三月十八日溝呂木の城を攻落す。同日小磯の要害を攻らる。一日防戦ひ、夜に入りければ越後の五郎四郎かなわすして城をわたし降参す。それより小沢の城へ押寄攻けれとも城難所にて難落。

河越の城には太田図書助資忠ずしょのすけすけただ、上田上野介松山衆をめ、江戸の城には上杉刑部少輔ぎょうぶのしょう朝昌ともまさ、三浦介義同よしあつ、千葉自胤よりたね等を籠らる。

景春一味の宝相寺ならび吉里宮内左衛門尉以下小沢の城の後詰のため横山より打出当国府中に陣取、小山田か城を攻たとして矢野兵庫助を大将として河越の城押さへのために苦井(若林)という所に陣を取、これを見て河越に籠る太田、上田等同四月十日打出ければ、矢野兵庫助其外小机城衆、勝原すぐろはらと云所に馳出、合戦しける敵は矢野を初めとして皆ことごとく手負深手負いて引退。

同十三日(文明九年四月)、道灌江戸より打ていで、豊島平右衛門尉が平塚の城を取り巻き、城外を放火して帰りける所に、豊島が兄の勘解由左衛門を頼りける間、石神井、練馬両城より出て攻め来りければ、大田道灌、上杉刑部少輔、千葉自胤よりたね以下、江古田原、沼袋という所に馳せ向かい合戦して、敵は豊島平右衛門尉を初めとして、板橋、赤塚以下百五十人討ち死にす、同十四日、石神井城へおし寄せ責めければ、降参して、同十八日まかりいで対面して、要害破却すべきよし申しながら、また敵対の様子に見えれば、同十八日に責おとす

文明12年11月28日(1480年)
大田道灌が山内上杉顕定の家臣高瀬民部少輔宛てた書状形式をとった記録。文明七年(1475年)の山内上杉氏重臣景春の謀反、続く乱勃発から同十二年六月に至る乱平定における道灌を通じて帰参した景春与同者の所領等が安堵されていない状況について不満を述べた内容となっている。長尾景春の乱の具体的合戦状況や諸領主の動向に詳しく知ることができ、特に文明十二年の景春滅亡の状況については本史料によってのみ知ることができる。
作者、成立年代は不明だが、最終記事の文明11年以後、室町末期ごろ(戦国時代)までに書かれたとみる説が有力。室町初中期百年(1379年〜1479年)の関東の政治情勢や戦乱を年次を追って記述した史書であり、軍記でもある。
鎌倉大草紙を編集するとき、大田道灌状を資料にしたといわれている。

太田道灌雄飛録 巻之五   木村忠貞(文政3年(1820年)  
 さて又長尾景春がために語らはれし、豊嶋勘解由左衛門尉かげゆさえもんのじょう重広(泰経)、同弟平右衛門尉へいえもんのじょう重行(泰明)は、文明九年四月の始め浅茅が原あさぢがはら台東区橋場のあたり)にて討死せし、豊嶋彦五郎が一族なりしが、彼は御所(古河公方足利成氏)方と成りしゆえ、その合戦にも出合ずして居たりしに、彦五郎が戦死を無念におもい、平右衛門は豊嶋郡平塚に城を取立、もっぱら合戦の用意をなす。同年四月十三日道灌荏戸えどより討て出、平塚の城辺に攻寄せて、城外を放火して帰りけるにより、平右衛門思うよう、道灌一たん退きしは、かさねて多勢を引卒し攻めんとするの事なるべしと、兄勘解由左衛門に加勢の事を頼みしかば、重広聞届て、石神井、練馬の兵士を従へ板橋、赤塚の一族を催して、其勢七百余騎にて打出でたり。平右衛門尉重行も三百余騎を引卒して此勢にぞ加はりける。太田入道これを聞て、上杉刑部少輔ぎょうぶしょう朝昌ともまさ、千葉介自胤よりたねを左右に備へ、同郡江古田の原、沼袋という処へ馳向う、其勢千騎には足らざりけり。その日は暮におよびければ合戦は明日と、互に陣所にかがりびを焚き夜廻雁番怠らず、かくて明れば十四日の早天に、両陣閑々かんかんおし出し、矢合せの鏑矢を射ちがうる程こそあれ、金鼓きんこを鳴らし相懸あいがかり(敵味方が同時に攻めかかること)にかかりてたたかうたり。
 豊嶋の面々戦い疲れて、二陣に譲りてさっと引けば、太田が先陣上杉も千葉に渡して入替る。互に荒手の軍兵ども、手先を廻しつばを破、曳々えいえい声を揚て攻め戦う、時分よしと太田道灌采配を振るとひとしく、先刻より待かねたり鋭卒等、得もの得ものを引けて、板橋、赤塚が隊伍そなえに切て入る、敵兵は千葉が勇士に攻立られ、すこいたみしその処へ、太田が旗本おし来れば、備へ色めき崩れんとす、豊嶋兄弟これを見て、二陣破るゝものなれば再もり返す期あるべからず、板橋、赤塚を討すな、と大音に下知をなす、中にも豊嶋平右衛門は洗革の鎧に白星の冑を着、三尺ばかりなる陣刀を真甲まっこうにさしかざし、一太刀打てははね落させ、ふり返りては丁と切る、其形勢ありさま霹靂いなづまひらめくが如く、見るうちに、死生は知らず十七人まで打おとす。さしもに勇む自胤よりたねが兵卒ども、各人を楯にとりて陣中白けて見えたりける。千葉自胤よりたねは大に怒り敵一人の為にく悩さるゝ事かはある、いで自胤よりたねが討落し汝等に見せんずと馳出さんとする処を、千葉が郎等円城寺藤三直純、自胤よりたねが馬前に駈出で十三束三つ伏じゅうさんぞくみつぶせ(矢の長さを表し、握り拳13個分と指3本分の長さ)引しぼり矢声と共に切て放つ、平右衛門が胸板に沓巻くつまき(矢のやじりを付けた部分に糸を巻き付けたもの)せめて射こみたれば、馬より下へどうと落つ、直純が中間首撥切てさし上たり、豊嶋が兵士大将を討取られて、我先にと逃はしる、太田は尚も士卒を励まし、後に付て追討す、板橋、赤塚のもの共も所々にて返し合せ、味方を落さんとせし程に此彼所にて討死す、太田はすなはち三軍をまとめ討取る者をかぞえれば、豊嶋、赤塚、板橋を始めとして、百五十人とぞ記しける。其夜は人馬を休息させ、翌四月十五日石神井の城におし寄て、無二無三に攻めれば、昨日の軍に気力屈して誰々も皆落心付たれば防くべき便すべもなく降を乞いて、同十八日に出城して対面を遂しかば、要害を破却せんと申すと云ども内々は心服せず密に異心を懐くと聞て、同日たちまち攻おとす、豊嶋勘解由左衛門重広(泰経)は後日の計をや設けんと何処とも落失せたり。
くして関東の雄豊嶋一族を滅ぼしたる太田道灌は完全に関東の主権を掌握したのである。

小説
太田道灌     童門冬二

そしてかれ自身(太田道灌)は、四月十三日に豊島一族の頭目の一人である泰経やすつねの弟泰明が籠る平塚城を急襲した。城下に放火を始めると、急をきいた兄の泰経が石神井城と練馬城から兵を出して弟を救援させた。資長すけなが(太田道灌)はすぐ兵を返し、江戸城に急使を送って上杉朝昌と千葉自胤よりたねに自軍への合流を指示した。
「なにをしましょうか?」駆けつけて来た上杉朝昌はニコニコ笑いながらいった。資長のいう通りなんでもしますよ、といった表情だ。かれは資長が好きで好きで仕方がないらしい。資長は答えた。
「江古田と沼袋の原野で、一挙に豊島一族と遭遇戦を行うつもりです。」
「それはいい!」朝昌は明るく手をうった。老練な千葉自胤も笑ってうなずいた。この作戦に賛成だという表情である。
豊島一族側は堂々と立ち向かって来た。豊島泰明を大将に、兄の泰経から加えられた援軍を含め、大軍で江古田、沼袋の原野に押しよせた。熾烈な遭遇戦が展開された。この戦いでも資長の足軽隊が活躍した。つむじ風のように走り回るこの集団は一人一人が戦うのではない。群れをなして同じことをする。一人の敵にも大挙して立ち向かって来る。やりづらいこと夥しい。足軽隊のひっかきまわしによって、豊島軍はメチャメチャに敗れた。大将の豊島泰明は戦死した。一族の赤塚、板橋も死んだ。その部下も百五十余人が討ち死にした。豊島軍は敗走した。資長は間髪をいれず、翌十四日、足軽隊を駆使しながら今度は豊島泰経の籠る本拠石神井城を襲った。ところが石神井城の城兵はすでに戦意を失っていた。江古田・沼袋原野における敗戦が強く響いたらしい。ついに首将の豊島泰経が出て来て、太田資長に面会を申し込んだ。
「会いましょう」虚心坦懐にこれに応じた資長に豊島泰経は、
「石神井城を壊して我々は城を出ます。和睦してください」といった。さすがに降伏するとはいわなかった。資長は了承した。そのほうがいいと思ったからである。すでに弟の豊島泰明とその軍は壊滅させて充分に戦績をあげている。これ以上兄の泰経が頑張っても、江戸城の包囲網はズタズタにちぎれてしまっていて、江戸城と川越城とまた上州にいる両上杉軍との切断作戦は、失敗に終わる。資長は泰経いうことを無条件でのんだ。
ところが豊島泰経は約束を守らなかった。なんだかんだといって城を壊す作業をのばしている。よく見ていると、壊しているのではなくどうも補強しているようだ。時間を稼いで城をさらに頑丈に修復しているのである。これを知った資長は、容赦しなかった。一挙に攻撃を開始し石神井を落としにかかった。
四月二十八日、資長は総力をあげて石神井城を猛攻した。たちまち城の外壁突破した。さしもの石神井城の城兵も士気が著しく下がり、夜のうちに大半が逃亡してしまった。首将の豊島泰経もその中にいた。こうしていったんは起ち上がったものの豊島一族の家門再興の望みは、むなしく消えた。反乱を起こす前以上に一族は分散し、滅ぼされてしまった。すべて太田資長の功績であった。しかも資長がそれに要した時間はわずか一年であった。


千葉自胤の自は「類聚名義抄」の和訓でミズカラ、モチ(フ)、オノズカラ、ヨリ、ヨル、シタガフ、モチヰル、ワレ、コレ、カタチ、ヰル、カクノ、ホシイマムマ、イタルとあり、自胤を「よりたね」または「これたね」と読むことができる。