武蔵国府

武蔵国庁推定模型(府中市郷土の森博物館)

武蔵国の成立

 武蔵国ができたのは大化の改新(645年)以後だが、はっきりした時期はわからない。わが国の律令政治は大化の改新ののちしだいに整備され、ほぼ完成したのは大宝元年(701年)の大宝律令が公布された時である。この律令制の地方政治の大体の枠組みとしては、日本全国で68カ国に分けられ、国の下に郡、郡の下に里というように、行政組織を三段階に区別した。そして国へは中央の朝廷から国司を派遣し、郡にはその地方の豪族を郡司として任命し、里には里長をおいた。

武蔵国の郡

 武蔵国は、現在の埼玉県と東京都(隅田川以東の葛飾郡は下総国に属していた。)および神奈川県の北東部を範囲としていた。律令制では、国には大国・上国・中国・下国の四等級あった。武蔵国は大国で、所属する郡は21郡あり、陸奥国の35郡に次いで全国第2位であった。

久良 クラ 都筑 ツツキ 多磨 タマ 橘樹 タチバナ
荏原 エハラ 豊島 トシマ 足立 アタチ 新座 ニイクラ
入間 イルマ 高麗 コマ 比企 ヒキ 横見 ヨコミ
埼玉 サキタマ 大里 オオサト 男衾 オフスマ 幡羅 ハタラ
棒沢 ハンザワ 那珂 ナカ 児玉 コダマ 賀美 カミ
秩父 チチブ

武蔵国府

 武蔵国府は、多磨郡内の現在の府中市にあった。国司が政務や儀式をとり行った所が国衙こくがといわれる場所だが、この国衙の中でも最も中心となる重要な部分が国庁です。昭和51年(1976年)に大国魂おおくにたま神社参集殿の改築工事にともない発掘を行ったところ奈良時代後半以降のものと考えられる南北棟の掘建柱建物址五棟が見つかった。また父・荏・榛・高・入・男の六郡の郡名がみられる文字瓦も検出された。また、昭和52年(1977年)には大国魂神社境内の東側の参集殿と隣接する場所で、東西方向に長い礎石建物址が見つかった。正確な国庁の全体像がわかるのは、まだ先だが、国庁の所在追求は着実に進んでいる。

武蔵国庁があったと推定される
大国魂神社

国司

 国司は都から派遣されて任期は四年だが任期途中で替わることもよくあった。国司には上の位から守かみ・介すけ・掾じょう・目さかんの四つの役職があったことから、四等官と呼ばれていた。武蔵国は大国で雑掌ざつしょう等を含めると総勢540〜550人ぐらいの人々が国司の下で働いていたと考えられる。

職員 読み 定員 職掌
カミ

1

国内の戸籍や耕作地のこと、住宅のこと、租税や倉庫のことなどの民政はもちろん、兵士や軍備、警察、交通、訴訟、神社・寺院、僧侶のことなど、すべてを司り中央政府に報告することを任務とした。
スケ

1

守と同様
大掾 ダイジョウ

1

国内や役所内の監督とか、書類の審査を行った。
小掾 ショウジョウ

1

大目 ダイサカン

1

書類の作成や検査・上申などの基礎的な事務に当たった。
小目 ショウサカン

1

史生 シショウ

書記の役
国博士 クニハカセ

若干名

諸国に国学があって学生に教えた。
国医師 クニイシ

若干名

国内の医事を担当するとともに医生を教えた。
雑掌 ザツショウ

5百余名

実務・雑役にあたった。

郡司

 郡司は地方の有力豪族の中から任用され、原則として生涯その地位にあって、中央からの命令を伝えたり、さまざまな税の徴収を行うなど、農民にに直接対処し在地支配を行った。

律令体制の破綻

奈良時代の末からは、朝廷の政策として積極的な対蝦夷攻略が開始され、陸奥・出羽への出兵は10万人におよんだ。兵士は東海・東山諸国の農民からなり、農民を疲弊させた。
663年唐・新羅連合軍と百済日本連合軍が、朝鮮半島南西部を流れる白村江はくすきのえ河口で戦い大敗した。この結果、四世紀から続いてきた朝鮮半島との関係は絶たれることになった。かわって陸奥・出羽の蝦夷地の経営がされるようになった。

開墾した土地は、私有化されて荘園となり、公地公民制が崩壊した。開墾した私有地を守るために武力を持つようようになり武士が登場する。
公領の耕作とひきかえに重い年貢を払ってきた農民の没落や耕作拒否によって公領が荒れはじめた。そこで未墾地や荒廃公領の開墾による私領化をすすめ、在地領主による農民支配体制をつくった。

政権を握っていた貴族は、地方は収入源と考えており、税収さえあれば地方に関心はなかった。国司も税の取り立てに徹するようになり、受領と呼ばれるようになった。
源氏物語の作者、紫式部は受領の娘だった。父藤原為時が越前守だったとき、紫式部も越前の国府、武生たけふへ出かけている。紫式部の夫藤原宣孝も受領で山城守になった。なお、源氏物語の主人公、光源氏は、藤原道長がモデルになっている。