武蔵国分寺

武蔵国分寺跡の石碑金堂の礎石発掘された瓦

 国分寺は、奈良時代の中ごろの天平13年(741年)に、聖武天皇が発せられた国分寺造営の詔を受けて、全国60余国に建立された官立の寺院であり、僧寺と尼寺がセットで置かれた。国分寺創建の目的は内外の危機を乗り越えるために鎮護国家を祈願することであった。

時代背景

疾病(天然痘)の流行と凶作による国土の荒廃

朝鮮半島の新羅国との関係が険悪化

天平7年(735年)の春、来日した新羅使が国号を「王城国」と改めたことを告げると、朝廷は無断で国号を改めた非を責めて使節を追い返し、新羅との関係は急速に悪化する。

天平9年(737年)に栄華を誇った藤原氏の四兄弟(武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろ)が疾病に倒れる

天平12年(740年)の藤原広嗣ひろつぐの乱

藤原四兄弟が相次いで病死し、政権が橘諸兄たちばなもろえ僧玄ムそうげんぼうに移ったことに対する不満から宇合うまかいの子で大宰府の高官であった藤原広嗣ひろつぐが乱を起こした。藤原氏と姻戚関係にある聖武天皇に強い衝撃を与えた。
藤原鎌足――不比等―┬―武智麻呂むちまろ
          ├─房前ふささき
          ├─宇合うまかい
          ├─麻呂まろ
          └─宮子
             ├─―聖武天皇
            文武天皇

聖武天皇(701〜756年)
 第45代 在位724〜749年 譲位後出家

武蔵国分寺の規模

僧寺寺域

 寺域は南辺が356m、東辺が428m四方であった。他の国分僧寺の三倍の規模であった。
金堂  本尊仏(釈迦三尊像)を安置する建物(東西36.1m×南北16.6m)

講堂  経典の講義などが行われる建物(東西28.1m×南北16.3m)

僧坊  僧が起居する建物

七重塔 寺域の南東部にあり金字の金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょうを安置

尼寺寺域 

 寺域は160m四方で、一般的な規模であった。

武蔵国分寺の変遷

承和2年(835年)
 七重塔が神火しんか(雷火)で焼失

承和12年(845年)
 男衾おぶすま郡前大領の壬生吉志福正みぶのきしふくしょうが塔の再建を願い出て許可された。

元弘3年(1333年)
 新田義貞と鎌倉幕府との間で行われた分倍河原の合戦の際焼失した。

建武2年(1335年)
 新田義貞の寄進によって薬師堂が僧寺の金堂跡付近に建立され、国分寺が再興された。

武蔵国分寺は平安時代末から鎌倉時代に至る間に、創建当初の官立寺院としての存在意義を失い、一地方寺院に変質していった。

続日本紀 

聖武天皇 天平十三年(741年)

三月二十四日 次のように詔した。
 朕は徳のうすい身であるのに、かたじけなくも重任をうけつぎ、また民を導く良い政治を広めておらず、寝てもさめてもじることが多い。しかし昔の明君みょうくんはみな祖先の仕事をよく受けつぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害がなく幸いがもたらされた。どういう政治指導を行えば、このような統治ができるのであろうか。
 このごろ、田畑の稔りが豊かでなく、疾病がしきりに起こる。それをみると身の不徳をじる気持と恐れとがかわるがわる起こって、独り心をいため自分を責めている。そこで広く人民のために、あまねく大きな福があるようにしたいと思う。そのために先年駅馬の使いを遣わして、全国の神宮を修造させ、去る年には全国に一丈六尺の釈迦の仏像一体宛を造らせると共に、大般若経だいはんにゃきょう一揃い宛を写させた。そうしたためかこの春から秋の収穫まで、風雨が順調で五穀もよく稔った。これは真心が通じ願いが達したもので、不思議な賜わり物があったのであろう。恐れるやら驚くやら、自分でも心が安まらない。
 そこで経文を考えてみると、金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょうには、「もし国内にこの経を講義して聞かせたり、読経どきょう・暗誦したりして、うやうやしくつつしんで供養し、この経を流布させる王があれば、我ら四天王は常にやってきて擁護し、一切の災いや障害はみな消滅させるし、憂愁や疾病もまた除去し癒やすであろう。願いも心のままであるし、いつも喜びが生ずるであろう」とのべてある。
 そこで全国に命じて、おのおのつつしんで七重塔一基を造営し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経みょうほうれんげきょうをそれぞれ一揃い書経させよう。
 朕はまた別に、金字で金光明最勝王経を手本に習って写し、七重塔ごとにそれぞれ一部を置かせる。神聖な仏の法が盛んになって、天地と共に永く伝わり、四天王の擁護の恵みを、死者にも生者にも行きとどかせ、常に充分であることを願うためである。
 そもそも、七重塔を建造する寺は、国の華ともいうべきで、必ず好い場所を選んで、本当に永久であるようにすべきである。人家に近くて悪臭が及ぶのはよくないし、人家から遠くては、参集の人をつかれさせるので好ましくない。国司らは各々国分寺を厳かに飾るように努め、あわせて清浄を保つようにせよ。間近に諸天(四天王)を感嘆させ、諸天がその地に臨んで擁護されることを乞い願うものである。遠近に布告を出して、朕の意向を人民に知らせよ。また国毎に建てる(国分)僧寺には封戸ふこ五十戸・水田十町を施入し、(国分)尼寺には、水田十町を施入する。僧寺には必ず僧二十人を住まわせ、その寺の名は金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺には尼十人とし、寺の名は法華滅罪之寺とせよ。両寺とも僧尼は受戒をすることとし、もし欠員が出ることがあれば、すぐに捕充するべきである。その僧尼は毎月八日には、必ず金光明最勝王経を転読することとし、月の半ばに至るごとに、受戒の羯磨かつま(受戒や懺悔の作法)を暗誦し、毎月六斎日ろくさいにち(月に六日の精進日)には、公私ともに漁猟や殺生をしてはならぬ。国司らはよろしく常に検査を加えよ。