古墳時代の武蔵国

 関東の墓制は、四世紀から六世紀が前方後円墳期、七世紀が横穴古墳期、八世紀が火葬に分かれる。首長層が前方後円墳を造営することによって、首長連合の構成員であることを示し、政治連合の秩序と維持をはかった。横穴古墳は丘陵などの斜面や崖面を横穴状に掘った家族墓で古墳時代後期から奈良時代に造られ、吉見百穴横穴墓群が有名である。仏教が普及し始めると、首長たちは、古墳の築造ではなく氏寺を建立することで、その地位を誇示するようになる。
 関東の古墳時代初めの四世紀には南武蔵に芝丸山古墳(芝公園 前方後円墳 106m)、宝莱山ほうらいざん古墳(多摩川台公園 前方後円墳 97m)、亀甲山かめのこやま古墳(多摩川台公園 前方後円墳 107m)がつくられている。五世紀にはいると野毛大塚古墳(玉川野毛町公園 帆立貝式古墳 82m)つくられる。北武蔵の埼玉さきたま古墳群では、五世紀後半から六世紀にかけて稲荷山古墳(前方後円墳 120m)、六世紀前半の丸墓山古墳(円墳 105m)、次に二子山古墳(前方後円墳 138m)と、六世紀末まで継続されて100mを超える大型古墳がつくられている。
 これは武蔵の首長の拠点が南武蔵から北武蔵に移ったことを示している。

武蔵国造の乱  (日本書紀  第二十七代 安閑天皇)
武蔵国造の笠原あたい使主おみと同族小杵おきとは、国造の地位を争って、長年決着しなかった。小杵おきは性格が激しく人にさからい、高慢で素直でなかった。ひそかに上毛野かみつけぬ小熊おくまに助力を求め、使主おみを殺そうもくろんだ。使主おみはこれに気づき、逃げ出して京に至り、実情を言上した。朝廷では裁断を下され、使主おみを国造として小杵おきを征伐された。国造使主おみはかしこまり喜び黙し得ず、帝のために横渟よこね橘花たちばな多氷おおひ倉樔くるすの四ヵ所の屯倉を設け献上した。この年は、即位元年甲寅きのえとら(534年)である。

安閑二年 上毛野への罰則として上毛野の緑野屯倉が設置された。
笠原直使主は埼玉県鴻巣市笠原付近にいた豪族と思われる。そのすぐ北に埼玉さきたま古墳群がある。
上毛野かみつけぬ小熊おくま豊城入彦命とよきいりひこのみことの後裔であろう。姓も「君」で、東国において強力な実権をにぎっていたものとみられる。豊城入彦命とよきいりひこのみことは第十代崇神すじん天皇の第一皇子で東国統治の任にあたった。(日本書紀  第十代 崇神すじん天皇 四十八年四月十九日)

屯倉の想定地
横渟よこね 埼玉県比企郡吉見町(和名抄の武蔵国横見郡) 又は 東京都八王子市(横野の意とし、多摩横山)
橘花たちばな 神奈川県川崎市・横浜市東北部(和名抄の武蔵国橘樹郡)
多氷おおひ多末たま 和名抄の武蔵国久良(久良岐)郡大井郷 又は 東京都下多摩地域
倉樔くるす 神奈川県横浜市南部(和名抄の武蔵国久良(久良岐)郡)
八世紀には、南武蔵の屯倉の地である多摩の府中に国府が置かれることになる。


 六世紀前半の上毛野・下毛野・武蔵の前方後円墳からは鈴鏡(れいきょう)という、上毛野を分布の中心とみることもできる銅鏡が出土している。上毛野の君が武蔵の豪族になどに下賜した可能性が高い。上毛野小熊は武蔵にとって上級権力者の地位にあった。

 五世紀までの大和王権と地方豪族との関係は、みな前方後円墳という同一の墳形をもつ墳墓をつくるように、地方豪族が大和王権に従属する度合いが強いものの、支配・隷属というより同盟に近いものであった。とはいえ、外交権、豪族連合の首長位継承の裁定権は倭国を代表する大和王権の権限であり、ほかの地域の地方豪族がそれらの権限をもつことはなかった。

 筑紫君・上野毛君がそれらの権限を行使しえたことは、この二つの地方豪族が六世紀段階では、五世紀とは質の異なる首長に変わっていたことを意味している。九州と関東という倭国の東西辺境では、それまでの豪族連合の首長が、地域の統一王権へと成長しつつあったのである。統一王権とは、国際的に認められる政治勢力のことである。大和王権と同じ性格を持つ王権が分立しつつあった。大和王権の大王は、倭国王としての地位をみずからの軍事力にによって守り通した。



埴輪の始まり  (日本書紀  第十一代 垂仁すいにん天皇)
 二十八年冬十月五日、天皇の弟の倭彦命やまとひこのみことがなくなられた。

 十一月二日、倭彦命を身狭むさ(奈良県橿原市見瀬町)の桃花鳥つき坂(築坂邑)に葬った。このとき近習の者を集めて、全員を生きたままで、陵の周囲に生き埋めにした。日を経ても死なず、昼夜泣きうめいた。ついには死んで腐っていき、犬や鳥が集まり食べた。天皇はこの泣きうめく声を聞かれて、心を痛められた。群臣をみことのりして「生きているときにめでし使われた人々を亡者のために殉死させるのはいたいたしいことだ。いにしえのしきたりであるといっても、良くないことは従わなくてもよい。これから後は、殉死をやめるように」といわれた。

 三十二年秋七月六日、皇后日葉酢媛命ひばすひめのみことがなくなられた。葬るのにはまだ日があった。天皇は群臣に詔して「殉死はよくないことは前に分かった。今度のもがりはどうしようか」といわれた。野見宿禰のみのすくねが進んでいうのに、「君王の陵墓に、生きている人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今、適当な方法を考えて奏上させてください」と。使者を出して出雲国の土部はじべを百人をよんで、土部たちを使い埴土はにつちで人や馬やいろいろの物の形を造って、天皇に献上していうのに、「これから後、この土物をもって生きた人に替え、陵墓に立て後世のきまりとしましょう」と。天皇は大いに喜ばれ、野見宿禰に詔して、「お前の便法はまことにわが意を得たものだ」といわれ、その土物を始めて日葉酢媛命ひばすひめのみことの墓に立てた。よってこの土物を名づけて埴輪といった。あるいは立物ともいった。「今から後は、陵墓には必ずこの土物をたてて、人を損なってはならぬ」といわれた。天皇は厚く野見宿禰の功をほめられて、鍛地かたしところを賜った。そして土部職はじのつかさに任じられた。それで本姓を改めて土部臣はじのおみという。これが土部連はじのむらじらが、天皇の喪葬みはぶりを司どるいわれである。いわゆる野見宿禰は土部連らの先祖である。

現在の考古学では、五世紀になってから人物埴輪が出てきたことになっている。


孝徳二年(646)三月二十二日の大化の薄葬令の中で次のように殉死を禁じている。
およそ人が死んだ時に、殉死したりあるいは殉死を強制したり、死者の馬を殉死させたり、死者のために宝を墓に収め、あるいは死者のために生きている者が断髪したり、ももを刺したりして、しのびごとをのべたりする旧俗はことごとく皆やめよ。