古墳時代の武蔵国
関東の墓制は、四世紀から六世紀が前方後円墳期、七世紀が横穴古墳期、八世紀が火葬に分かれる。首長層が前方後円墳を造営することによって、首長連合の構成員であることを示し、政治連合の秩序と維持をはかった。横穴古墳は丘陵などの斜面や崖面を横穴状に掘った家族墓で古墳時代後期から奈良時代に造られ、吉見百穴横穴墓群が有名である。仏教が普及し始めると、首長たちは、古墳の築造ではなく氏寺を建立することで、その地位を誇示するようになる。
関東の古墳時代初めの四世紀には南武蔵に芝丸山古墳(芝公園 前方後円墳 106m)、
これは武蔵の首長の拠点が南武蔵から北武蔵に移ったことを示している。
武蔵国造の笠原 |
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安閑二年 上毛野への罰則として上毛野の緑野屯倉が設置された。 笠原直使主は埼玉県鴻巣市笠原付近にいた豪族と思われる。そのすぐ北に
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六世紀前半の上毛野・下毛野・武蔵の前方後円墳からは鈴鏡(れいきょう)という、上毛野を分布の中心とみることもできる銅鏡が出土している。上毛野の君が武蔵の豪族になどに下賜した可能性が高い。上毛野小熊は武蔵にとって上級権力者の地位にあった。 五世紀までの大和王権と地方豪族との関係は、みな前方後円墳という同一の墳形をもつ墳墓をつくるように、地方豪族が大和王権に従属する度合いが強いものの、支配・隷属というより同盟に近いものであった。とはいえ、外交権、豪族連合の首長位継承の裁定権は倭国を代表する大和王権の権限であり、ほかの地域の地方豪族がそれらの権限をもつことはなかった。 筑紫君・上野毛君がそれらの権限を行使しえたことは、この二つの地方豪族が六世紀段階では、五世紀とは質の異なる首長に変わっていたことを意味している。九州と関東という倭国の東西辺境では、それまでの豪族連合の首長が、地域の統一王権へと成長しつつあったのである。統一王権とは、国際的に認められる政治勢力のことである。大和王権と同じ性格を持つ王権が分立しつつあった。大和王権の大王は、倭国王としての地位をみずからの軍事力にによって守り通した。 |
二十八年冬十月五日、天皇の弟の 十一月二日、倭彦命を 三十二年秋七月六日、皇后 |
現在の考古学では、五世紀になってから人物埴輪が出てきたことになっている。 孝徳二年(646)三月二十二日の大化の薄葬令の中で次のように殉死を禁じている。 およそ人が死んだ時に、殉死したりあるいは殉死を強制したり、死者の馬を殉死させたり、死者のために宝を墓に収め、あるいは死者のために生きている者が断髪したり、 |