君が代・海行かば
君が代
「君が代」は、延喜5年(905年)に編纂された『古今和歌集』巻7(賀歌)、に「わが君はちよにやちよににさざれさざれ石の巌となりて苔のむすまあで」(よみ人知らず)として収録された。これが、文献に現れる最初であると言われている。平安時代末頃から、初句を「君が代は」という形になり、おめでたい儀式の席上などで歌われた。
曲の方は、明治維新の際に、薩摩の大山巌(1842〜1916年 元帥・陸軍大将)の推薦で国歌とする働きかけがあり、明治13年(1880年)に現在の旋律が完成された。
歌 詞 |
意 味 |
君が代は 千代に八千代に 細石の巌と為りて 苔の産すまで |
帝の治世が 千年も万年も 小石が大きな岩となり 苔のむすまでつづかんことを |
君が代のmidi(1.4KB)
岐阜県揖斐郡春日村から明治神宮に奉納されているさざれ石 この石は学名を石灰石角礫岩という。 石灰石が長い年月の間に雨水に溶解され、そのとき生じた粘着力の強い乳状液が 地下に浸透し、次第に小石を互いに凝固させだんだん大きな岩(巌=いわお)となる。 この巨岩が河川の浸食作用により地上に出たものです。
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海行かば
「海行かば」は、『万葉集』巻18(4094番)に大伴家持が作った「陸奥(みちのく)の国に金(くがね)を出(い)だす詔書(しょうしょ)を賀(ほ)く歌」という長歌の中に収められている。作成されたのは、天平感宝元年(749年)である。
大伴家持は天平18年(746年)、越中国(富山県)の国守となり、国府があった高岡に5年間赴任しています。当時、聖武天皇は奈良の大仏を作らせていました。銅製の大仏の上にする金メッキのための金が必要でした。ところが、当時日本では金が産出されていませんでした。日本ではじめて、陸奥国(宮城県遠田郡湧谷町)で金が産出し、大量の砂金が朝廷に献上されました。これで、念願の大仏が完成することを喜ばれた聖武天皇が、天皇家を代々守ってきた大伴・佐伯両氏に感謝の詔書を出された。越中国でそれを受け取った大伴家持が、感激して作った長歌の中にあるのがこの歌なのです。
曲は昭和12年(1937年)信時潔が作曲しました。
歌 詞 |
意 味 |
海行かば 水漬(みづ)く 屍(かばね) 山行かば 草生(む)す 屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かえり見はせじ |
海を行くなら水に漬かる屍ともなろう 山を行くなら草の生える屍ともなろう 天皇のおそばにこそ死のう 一身を顧みはしない |
海行かばのmidi(0.5KB)