江古田原・沼袋合戦後の関東の情勢

年代 

出来事

1480年6月13日
(文明12年)
太田道灌は長尾景春かげはるの本拠日野城(埼玉県荒川村)を攻略した。ここに5年余にわたる景春の乱に一応の終止符が打たれた。この結果、江戸地域は、道灌の政治的影響力が及ぼされるに至った。
1482年11月
(文明14年)
室町幕府と古河公方足利成氏しげうじとの間に正式に和睦が成立した。いわゆる「都鄙和睦とひわぼく」である。ここに約30年に及ぶ亨徳の役の乱は終結した。足利成氏は再び正式の鎌倉公方として認められた。
1486年7月26日
(文明18年)
太田道灌は相模糟屋かすや庄(伊勢原市)の糟屋館において、主君上杉定正の命によって謀殺された。享年55歳であった。道灌は風呂から出てきたところを曽我兵庫助に斬殺され、その際「当方(扇谷上杉氏)滅亡」と言ったという。
1487年〜1505年
(長亨元年)〜(永正2年)
道灌謀殺を直接の契機として、扇谷おうぎがやつ上杉氏と山内やまのうち上杉氏は、関東の武家勢力を二分しての全面的な武力抗争である長亨の乱を展開する。
1488年
(長亨2年)
長亨2年になると両上杉の抗争は本格化した。2月3日の相模実蒔原さねまきはら合戦(伊勢原市)、6月18日には須賀谷原すがやはら合戦(埼玉県嵐山町)、11月15日には、高見原合戦(埼玉県小川町)が起こっている。これらの合戦は「関東三戦」と称されている。
1494年10月5日
(明応3年)
扇谷上杉定正は進軍中、落馬して頓死した。享年49歳。家督は養子の朝良ともよしが継承した。
1504年9月27日
(永正元年)
長亨の乱における最大の合戦である立河原たちがわら合戦(立川市)で 扇谷上杉朝良ともよし方が大勝利を収さめ、山内上杉顕定あきさだ方は2000人余が討死したという。扇谷上杉方には北条早雲、今川氏親うじちか軍が参戦している。
1505年
(永正2年)
山内上杉顕定あきさだは扇谷上杉朝良ともよしの河越城に総攻撃をかけた。扇谷上杉朝良ともよしは河越城を支えきれず、顕定に対し和議を申し入れた。朝良は江戸城に隠遁し、家督を朝興ともおきに譲った。両上杉の和議により、約20年にわたった長亨の乱は終結した。
1524年1月
(大永4年)
扇谷上杉朝興ともおきは北条氏綱うじつなと品川の高輪原で合戦となった。北条軍の力が大きく朝興ともおき軍は江戸城に退去した。江戸城は北条氏綱によって陥落し、朝興は河越城に敗走した。
1537年
(天文6年)
4月27日に扇谷上杉朝興ともおきが死に、13歳の扇谷上杉朝定が家督を相続し、深大寺城を再興し北条にそなえた。しかし北条氏綱は7月16日に河越城をおとし、つづいて7月22日に松山城をおとした。
1538年
(天文7年)
2月に北条氏綱は、2月2日に葛西城をおとした。これに危機感をもった安房の里見義堯よしたかが古河公方の一族足利義明とともに北上してくると、10月、下総国府台こうのだい合戦でこれを打ち破った。この戦功によって北条氏綱は関東管領に任命された。
1546年4月20日
(天文15年)
山内上杉憲政のりまさは扇谷上杉朝定、足利晴氏によびかけ、反北条勢力を大動員して、河越城を取り囲み、奪回をめざした。北条氏康は夜襲をかけてこれを討ち破った。扇谷上杉朝定は戦死して同家は断絶した。山内上杉憲政は上野国平井城に、足利晴氏は古河城に逃げ帰った。
1551年
(天文21年)
山内上杉憲政が、北条氏康に圧迫されて上野国平井城を出て、越後の長尾景虎をたよって落ちていった。
1561年
(永禄4年)
3月に輝虎と改名した上杉謙信は、関東管領職の就任報告のため、鶴岡八幡宮に参詣しその足跡は、上野から武蔵・相模に及び、小田原城下にせまった。
1569年9月
(永禄12年)
武田信玄の大軍が北条氏照の居城滝山城を攻めた。武田軍は滝山城の主郭部分にせまる攻撃をみせた。武田信玄の出兵の主目的は小田原城攻めであったので、武田軍は攻撃の威力をみせつけたところで、兵を南に動かした。北条氏照は、この経験から山城の八王子城築城を思い立った。
1590年7月6日
(天正18年)
小田原城の開城
北条氏の滅亡
1590年7月
(天正18年)
徳川家康の江戸入城