神武東征

 2月11日は建国記念の日で国民の祝日になっています。 戦前は、紀元節といわれていました。 日本書紀には、神武天皇が元旦に橿原かしはらに宮を建てたと書かれ ています。 明治政府は、神武天皇元年の元旦を太陽暦で計算したら、紀元前660年2月11日になり、その日を紀元節としました。
 1940年(昭和15年)に皇紀2600年を迎え、紀元二千六百年式典が盛大に行われました。早稲田大学教授津田左右吉そうきちは『神代史の新しい研究』『古事記及び日本書紀の研究』で、記紀の全面的な文献批判を行いました。神武東征の物語はなんらかの事実にもとずくものでなく、天孫降臨につづく日本神話の一部であるとしたのです。1940年津田左右吉の著書が、皇室の尊厳を冒とくする文書として発売禁止処分になっています。戦後は、逆に歴史教科書から神話が消え、建国神話である神武東征にふれる機会も少なくなった。批判的にものをみることができない子供に建国神話を教えることは難しい。しかし、記紀神話の記述の中にわずかに含まれている史実、変形や虚構の部分でも過去の歴史を知るうえで、重要な参考史料である。

神武東征の見方
応神王朝の大和平定の史実をもとにしてつくられたもの(水野祐)
考古学的にみて、弥生時代には北部九州から稲作の技術とか銅鏡や銅剣など、さまざま技術や文物が伝播する。このような伝播は一度におこなわれたのではなく、いくつもの波があった。人間の移住・移動があったことはいうまでもない。ニギハヤヒ(邇芸速日:物部氏の祖)とイワレイコ(神武天皇)の物語にも、このように時を隔てての広義の同族の移動がうかがえる。また、継体天皇の越からの河内・山背・大和入りの出来事あるいは婚姻関係が、さかのぼってイワレヒコの物語の構成に影響を与えている。(森浩一)
古代の日本国家の中心となる権力が大和地方に成立した時期は、第十代、崇神天皇のころとするのが穏当であろう。崇神の前に神武天皇をはじめとする九人の天皇がいたという記紀の記述は信じない。初期国家の中心になった地域は、奈良盆地の東南部、三輪山の山麓周辺の地であろう。この地域に初期の古墳が多いことからそう考えられるのであって、年代は三世紀末から四世紀初頭と推定される。このころ天皇に相当する地位についたのが崇神天皇であろう。神武天皇は、古代天皇制の起源を説明し、形を飾るために作られた神話の人物である。壬申の乱における天武天皇の行動が、神武東征物語の構成に大きな影響を与えた。(直木孝次郎)
大和平定の物語を、神武天皇ひとりの事績ではなく、葛城王朝全時期九代におよぶ事績の記録である。(鳥越憲三郎)
九州の邪馬台国、奴国、投馬国、狗奴国などの弥生時代の小国家群の東遷説
大和盆地に根拠地をもつ朝廷と本来隼人族の伝承であった日向の御子の伝承とを結びつけるために作られた説話。

考古学からみて、皇室および大和朝廷が北九州から大和に移ったみられる事実
北九州の支配層の墳墓には、鏡・玉・剣を副葬したが、この組合せの副葬品を死者に添えることは前期古墳の基本的条件だった。鏡・玉・剣は、天皇家の三種の神器に発展していく。
弥生時代の畿内の祭器であった銅鐸は、弥生時代後期(2、3世紀)に最も盛大になり、突然その姿を消す。銅鐸は、つねに人目につかない谷間の斜面や山腹などに、埋められた状態で出土する。 外部勢力の征服により、早急に銅鐸祭祀を廃止しなければならないような事情が生じたためだと考えられる。
弥生の山城であった高地性集落は、弥生時代の中期と後期(紀元前1世紀〜後3世紀)に集中してあらわれ、古墳時代や奈良時代には、ごく一部の例外を除くと存在しない。高地性集落は九州に近い西のものが弥生中期に多く、近畿を含む東のものが弥生後期に多い傾向がある。近畿では戦乱が弥生時代のほぼ終わりまで激しく続いたとみられる。

古事記による神武東征

1.カムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)と、その兄イツセノミコト(五瀬命)は高千穂の宮にあって、天下の政を平安に治めるよい土地を求めて東を目指し日向ひむか(宮崎県)を出発する。

2.豊国(大分県と福岡県の一部)の宇沙(大分県宇佐市)に到着された。ここでは、土着のウサツヒコ、ウサツヒメが足一騰あしひとつあがりの宮を建てて迎えた。

3.そこから筑紫(福岡県)の岡田の宮に移り一年おられた。

4.そこから安岐(広島県)の多祁理たけりの宮に移り七年おられた。

5.そこから吉備(岡山県)の高島の宮に移り八年おられた。

6.亀の甲に乗って、釣りをしながら、両袖を振ってやって来る人に、速吸門はやすいのと(明石海峡)で逢われた。大和国造らの祖先のサヲネツヒコ(槁根津日子)です。

7.浪速渡なみはやのわたり難波なにわ)をへて、白肩津しらかたのつ(大阪市日下くさか町)に船をお停めになった。このとき、登美とみ(奈良県奈良市鳥見町、登美ヶ丘)のナガスネビコ(長髄彦)が軍勢を起こして、待ちうけて戦った。イツセノミコトは、ナガスネビコと戦われたとき、手に矢をお受けになった。そこでイツセノミコトが仰せられるには、「私は日の神の御子として、日に向かって戦うのは良くないのだ。それで、賤しい奴のために痛手を負ってしまった。今からは遠回りをして、日を背に負うて戦おう」と誓い、南の方から回ってお進みになった。

8.イツセノミコトは、紀国の男之水門おのみなと(大阪府泉南市男里)にやって来て、「賤しい奴から手傷を負って死ぬのか」と雄叫びを上げて亡くなられた。そこで、その水門を名付けて男之水門おのみなとと言う。みはかは紀国の竈山かまやま(和歌山市和田)にある。

9.カムヤマトイハレビコノミコトは、そこから南に廻って行かれ、熊野村くまのむら(和歌山県新宮市)に到着された時、大きな熊がちらりと見え隠れして、やがて姿を消した。するとカムヤマトイハレビコノミコトは、にわかに正気を失われ、また兵士たちもみな気を失って倒れた。

10.このとき、熊野のタカクラジ(高倉下:尾張氏の祖先)という者が、一ふりの太刀を持って、天つ神の御子あまつかみのみこ(神武天皇)の伏しておられる所にやって来て、その太刀を奉ったると、天つ神の御子は、即座に正気をとりもどして起き上がり、「長い間寝てしまったなあ」と仰せになられた。そして、その太刀をお受け取りなされると同時に、その熊野の山の荒ぶる神は、自然に皆切り倒されてしまった。そして、倒れ伏していた兵士たちも、みな正気をとりもどして起き上がった。

11.天神は、道案内人として八咫烏やたがらす(鴨<賀茂>県主の祖先)を遣わしたので、一行はその導きによって大和の吉野川のほとりにたどりついた。国つ神、ニヘモツノコ(阿陀あだ鵜養うかいの祖先)、国つ神、イヒカ(井氷鹿:吉野おびとらの祖先)、国つ神、イハオシワクノコ(石押分之子:吉野の国巣くずの祖先)にお会いになった。

12.宇陀うだ(奈良県宇陀郡)にお進みになった。宇陀には、エウカシ(兄宇迦斯)とオトウカシ(弟宇迦斯)の二人の兄弟が住んでいた。兄のエウカシは、お仕え申しましょうと偽って、大殿を作り、その御殿の中に押罠を仕掛けて待っていたとき、弟のオトウカシが密告したので、ミチノオミ(道臣:大伴むらじの祖先)とオホクメ(大久米:久米あたいらの祖先)の二人が、エウカシを自分で作った押罠で殺してしまった。

13.忍坂おさか(奈良県桜井市)の大きな岩穴におつきになったとき、土雲という八十建やそたけるどもがその岩穴で待ち受けてうなり声をあげていた。そこで、天つ神の御子(カムヤマトイハレビコノミコト)の御命令で、ご馳走を八十建どもに賜った。天つ神の御子(カムヤマトイハレビコノミコト)が歌を歌うと、多くの料理人は、太刀を抜いて八十建どもを討ち殺してしまった。

14.登美とみのナガスネビコ(長髄彦)、磯城しき(奈良県磯城郡)のエシキ(兄師木)、オトシキ(弟師木)をお討ちになった。

15.ニギハヤヒノミコト(邇芸速日命:物部氏の祖先)がイワレビコノミコトのもとに参上して、天つ神の子であるしるしの宝物をたてまつって、お仕え申しあげた。ニギハヤヒノミコトが登美とみのナガスネビコの妹のトミヤビメ(登美夜毘売)と結婚して生んだ子がウマシマヂノミコト(宇麻志麻遅命:物部連、穂積臣、采女臣の祖先)です。

16.このようにしてカムヤマトイハレビコノミコトは、荒ぶる神たちを平定しやわらげ、服従しない人たちを撃退して、畝火うねび白祷原かしはらの宮において天下をお治めになった。