雑兵たちの戦場中世の傭兵と奴隷狩り 藤木久志著
雑兵(ぞうひょう)とは、身分の低い兵卒をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
@武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
A武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
B夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである。
戦場に押しかけた兵士たちは、放っておけば、勝手に敵地の村々に放火し、百姓の家に押し入って家財を乱妨(らんぼう)取りする。乱妨取りは乱取りともいい、人の掠奪のほか戦場の物取りをも意味していた。戦場では村の放火と物取りは一体であった。放火(村や町を焼き払う)・苅田(田畑の作物を荒らす)・乱取り(人や物を奪う)が、雑兵たちの作戦の三点セットであった。大名は乱取りを作戦の重要な一環としたが、そのむやみな暴発を防ぎ、大名の命令の下にどう有効に作動させるかが陣中法度(じんちゅうはっと)の課題であった。戦いの勝ち負けにも無関心で、乱取りばかり熱中するのは困るというだけで、戦闘を妨げない限り乱取りは勝手、というのが通念であったらしい。おそらく雑兵たちには、御恩も奉公も武士道もなく、たとえ懸命に戦っても、恩賞があるわけでもない。彼らを軍隊につなぎとめ、作戦に利用しようとすれば、戦いのない日に乱取り休暇を設け、落城の後には褒美の掠奪を解禁にせざるをえなかったに違いない。戦場での自由な乱取りは、戦場で奔走しても恩賞のない雑兵たちの士気を高める、大切な機会であったのだ。戦場の惨禍の陰には、放火・苅田や物取り・人取りに熱中する雑兵たちの世界が広がっていた。
中世には、早春から初夏にかけての端境期には食料が欠乏するという状況が続いていた。戦乱あいついだ戦国の時代が、想像を超える厳しい飢饉の時代でもあった。飢饉・凶作の続いた戦国の村々にとって、農閑期・端境期の戦場はたった一つの口減らしの場だったのではないか。戦争のときだけ必要な傭兵を、できるだけ大勢集めるには、農閑期に戦うしかなかったし、食料の乏しくなる端境期の口減らしの意味もあった。二毛作のできない越後では、年が明けて春になると、畑の作物が穫れる夏までは、端境期といって、村は深刻な食糧不足に直面した。農閑期になると、上杉謙信は豪雪を天然のバリケードにし、関東管領の大看板を掲げて戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を越えた。収穫を終えたばかりの雪のない関東では、かりに補給が絶えても何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。戦いに勝てば、戦場の乱取りは思いのままだった。こうして、短いときは正月まで、長いときは越後の雪が消えるまで関東で食いつなぎ、なにがしかの乱取りの稼ぎを手に国へ帰る。
端境期を戦場でどうにか食いつないでいた村の傭兵たち、凶作の最中に田畑を捨てて戦場を渡り歩いていた中間や小者たち、戦場を精いっぱい暴れまわっていた悪党たち。凶作と飢饉の戦国の底辺で逞しく生きたこれらの人々にとって、戦場は明らかに生命維持装置の役割を果たしていた。また、戦国の世を覆った戦争は、あいつぐ凶作と飢饉と疾病によって、地域的な偏りを生じた中世社会の富を、暴力的に再配分するための装置であった。
だが、天正十八年(1590)七月、関東の戦国大名北条氏が滅んだのを最後に、国内の戦場はすべて閉ざされてしまう。十六世紀末に起きた戦争から平和への突然の転換。秀吉が日本の戦場を閉鎖したとたんに朝鮮侵略を始めた。悪党・海賊・渡り奉公人たちの多くは、新たなより大きい稼ぎ場を求めて、再び傭兵となって大名軍とともに海を渡ったようである。極言すれば、秀吉の平和というのは、国内の戦場にあふれていた巨大な濫妨エネルギーに、新たなはけ口を与えることで実現され、それと引き替えにして、ようやく国内の戦場を閉鎖することができた。国内の戦場を国外(朝鮮)に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができた。
戦場の閉鎖は新たな労働市場の開発を必要とした。朝鮮戦争は、その第一の吸収先であった。また、秀吉の大阪城築城に始まる、中央から地方にわたる城と城下町の建設ラッシュ、つまり巨大な公共事業の連鎖が第二の吸収先にとなった。天正十一年(1583)に始まる大阪城と町の建設、天正十四年からは京都の聚楽第を築かせ、天正十六年には淀城を築いた。また、それと平行して京都では、大仏(奈良の大仏が高さ15メートルほどだったのに対して、高さ19メートルもの大きな大仏)と大仏殿の造営も進められたし、伏見城の大普請も始められる。地方でも諸大名の城と町造りが、また各地の鉱山のゴールドラッシュが、いっせいに始まっていた。やがて治水干拓など大平野や海浜のあいつぐ巨大開発が第三の吸収先になっていった。