戦国武将を育てた禅僧たち        小和田哲男著

 鎌倉期に、執権北条氏が臨済宗に深くかかわって以来、禅宗の中でも臨済宗は時の政治権力と結びつき、五山の制である官寺機構によって教線を地方に拡大した。室町幕府は京都五山の官寺を積極に保護・統制していった結果、五山を中心に発展していった。京都五山は、当初は、南禅寺、天竜寺、建仁寺、東福寺、万寿寺をさしたが、三代将軍足利義満の時、相国寺が建立されこれが入り、南禅寺を五山の上としている。室町時代の中期以後になると、五山派に変わり、大徳寺・妙心寺のように、時の政治権力の統制から離れ、座禅を重視する「祖師禅」(言語や文字に依らず、直接弟子へ以心伝心で仏道を伝える禅)を提唱する禅寺の活動が活発になってきた。これらの寺は五山派(叢林そうりん)に対し、林下りんかとよばれている。地方の戦国武将は、この林下との結びつきを強めていくことになる。それはちょうど、応仁元年(1467)から文明九年(1477)まで続いた応仁・文明の乱後、幕府権力が衰退していくのと裏腹に、地方の戦国大名が力をつけていく時期と重なった。禅僧が教える儒学が、民政の安定と社会の秩序をもたらすべく努力している地方の新興戦国大名に受容され、戦国大名の領国統治のイデオロギーとなっっていた。寺院運営の基盤を荘園に依存してきた五山の禅寺が、経済的破綻に見舞われていく中、大徳寺や妙心寺などの林下がかえって寺勢を拡大・発展させることができたのは、地方の戦国大名を外護げご者にすることに成功したためである。

寺挌 五山の上
鎌倉五山   建長寺 円覚寺 寿福寺 淨智寺 淨妙寺
京都五山 南禅寺 天竜寺 相国寺 建仁寺 東福寺 万寿寺

今川義元と太原崇孚たいげんそうふ(雪斎)
 今川義元は、駿河・遠江二ヵ国の戦国大名今川氏親うじちかの五男として生まれ、童名を方菊丸といったが、父氏親の意向で善得寺という臨済宗の寺に入れられている。その善得寺で方菊丸の養育係にあたったのが、九英承菊きゅうえいしょうぎくといっていたのちの太原崇孚たいげんそうふ(雪斎)であった。方菊丸は得度し栴岳承芳せんがくしょうほうと名乗る。その後、雪斎としては、栴岳承芳せんがくしょうほうに本場で禅を修業させたいと考えて、上洛し、建仁寺けんにんじに入っている。ところが、雪斎は次第に建仁寺の「文字禅」にあきたらないものを感じ、「祖師禅」にひかれ、ついには、栴岳承芳せんがくしょうほうとともに妙心寺に移っている。
 その間、駿河では、父氏親うじちかが亡くなり、兄氏輝が家督をついでいるが、氏輝は病弱で、母寿桂尼じゅけいにの補佐を受けていた。栴岳承芳せんがくしょうほうは雪斎とともに善得寺によびもどしている。天文五年(1535)3月17日、氏輝と、すぐ下の弟である彦五郎の二人が、突然死んでしまった。死因は謎めいている。当然、弟たちの誰かが家督をつがなければならない。このとき、家督継承候補として浮上してきたのが氏親の三男玄広恵探げんこうえたんと、五男の栴岳承芳せんがくしょうほうの二人だった。玄広恵探げんこうえたん栴岳承芳せんがくしょうほうの家督争いが「花蔵の乱」と呼ばれ、勝利した栴岳承芳せんがくしょうほうが還俗して義元を名乗る。こうして家督をついだ義元は亡き兄氏輝の菩提寺として駿府に臨斉寺を建立し、その住寺に雪斎をすえている。このとき、雪斎は自分の師であった妙心寺の大休宋休を臨斉寺の第一世に迎え、自らは二世となっている。義元は雪斎を臨斉寺の住寺としただけではなく、政治顧問として遇していた。世に執権といわれ、また、実際、三河に出陣していったこともあり、軍師とよばれることもある。

 天文十七年(1548)3月、今川軍は西三河を攻めるべく駿府を出発したが、この大将が雪斎であった。雪斎を大将とする今川軍が、三河の小豆坂で織田信秀の軍勢と戦い、これを撃破している。翌天文十八年(1549)11月6日、義元は、雪斎を大将とする七千の兵で織田方の城であった三河安城城を攻めさせている。信秀は、嫡男信長の庶兄の信広を安城城の城主においていた。雪斎は信広を生け捕りにし、先年に謀略によって、今川方に送られる渦中に横取りされ、織田方の人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)との人質交換を臨んだのである。尾張の笠寺で松平竹千代と織田信広の人質交換が行われ、竹千代はあらためて駿府に送り込まれている。竹千代八歳の暮れから、今川家での人質時代がはじまるのである。この人質は単なる人質とちがっていた。人質の期間中に竹千代は元服し、義元から「元」の一字を与えられ、はじめ元信、ついで元康と名乗っている。義元から偏諱へんき(一字拝領)を賜るなどは異例であり、義元から偏諱へんきを与えられた者がすべて今川家の重臣であることを考えあわせると、竹千代の人質は重臣待遇である。元康が、義元の妹の子、すなわち姪を娶っている。これなどは、一門待遇といってよいほどだ。義元は雪斎に竹千代の養育をゆだねている。自分を育ててくれた僧で、しかも軍師や執権といった形で補佐役トップといえる雪斎を人質の竹千代につけた事実は、竹千代が相当な特別待遇を与えられていたことを如実に物語っている。雪斎が亡くなるのは弘冶元年(1555)閏10月10日である。そのとき家康は十四歳。九歳から十四歳まで、家康が雪斎の教えを受けていたにちがいない。

直江兼続と南化玄興なんかげんこう
 天正十六年(1588)4月、直江兼続が上杉景勝に従って上洛したときに、兼続は妙心寺を訪ね、南化玄興なんかげんこうの教えを受けている。兼続二十九歳のときである。このとき、兼続は8月まで京都に滞在しているが、南化玄興から『古文真宝抄こぶんしんぽうしょう』(先秦以後宋までの名文を集めた注釈本)二十三冊を借り受け、家臣に命じて筆者させている。この兼続の熱心さにうたれた南化玄興は、それまで秘蔵していた『漢書』『後漢書』および司馬遷の著わした『史記』を兼続に贈っている。