夜と女と毛沢東         吉本隆明・辺見庸著

 吉本隆明と辺見庸の対談集である。吉本隆明は思想界の巨人、辺見庸は共同通信社を辞職した芥川賞作家。二人の対談は1995年6月から1997年1月までの間に行われた。本書は「毛沢東」、「夜」、「女」、「身体と言葉」の四つの章にまとめられている。毛沢東や中国情勢、オウム事件、戦争、性、吉本氏の海での事故、資本主義の行方等について語られる。

毛沢東
 毛沢東を語る下敷きとして毛沢東の主治医であった李志綏リチスイが著した『毛沢東の私生活』をベースに話が進む。毛沢東は、共産主義者というよりも、歴代の中国皇帝と同じだと考えた方が正確だとしている。毛沢東は、幅の広い貫禄のある生活ができる人で、贅沢もするし、女性関係もデタラメですが、それでも浮かび上がる全体像は非常に大きく、自由な人だなという印象を与える。
 英国のBBCが2020年の世界のシミュレーションをしている。このシミュレーションによれば、2020年代には中国は、内戦により北京政府、上海政府、広東政府に三分割されている。そして難民が週に万単位で日本に押し寄せてくる。外務省の本音は、一党独裁でもいいからとにかく安定していてほしい、難民だけはよこさないでくれ、ということでしょう。これからの日中関係は、経済的相互依存とか友好関係だけですまない、もっと実感的に差し迫った実在に変わっていくでしょう。


 オウム・サリン事件は、戦後史最大の事件であり、事件の背後には戦後日本の弱点がぎっし詰まっている。オウムという集団は、私たちの社会が無意識に生み出したものである。オウムという集団は、私たちの鏡のような集団で、オウムをつぶさに見れば、自分の顔が映ってくるようなものでしょう。オウムの犯罪に結果的に途方もなく恐ろしさがあるとしたら、それはこの社会自体内側にはらみ持つ恐ろしさじゃないかと思う。ですから、司法的な処理は、事件の解明にはならないでしょう。


 性というものは二人の問題であって、それはだんだん閉じていくし、それにつれて公開をはばかる部分が多くなっていくというものです。しかし、そういう性格が解体し始めているという危惧を感じます。昔は玄人は、口が堅くて、絶対に暴露なんかしないものでした。そこが玄人の素人に優るところだと思われてきた。とことが今や玄人も素人も平気で暴露する。あれは、ルール違反だと思います。
 性は、人間を生理的な次元から開放する力があると同時に、反面、束縛にもなる。開放性と束縛性、これは性において一対です。でも、新しい世代は解放的なところだけをいいとこ取りして、束縛からは逃げようとする。性の対幻想(開放性と束縛性)が閉じられて、深まっていくということがなくなるかもしれないと思う。


身体と言葉
 山谷にホームレスが集まって来るのは、単に景気が低迷しているからとか、企業でリストラが進んでいるからという経済的理由だけではないものを感じる。もっとメンタルなものが理由ではないかと思う。国家とか、家族とか、会社による束縛を、心底嫌がっているんじゃないか。それらからすべて抜けて『無』になりたがっている者もいるんじゃないか。失業したり、貧困のせいでそこにいるのではなく、むしろ精神的な理由で、自由を得るためにそこに暮らしているじゃないかと思えてくる。もうひとつは、戦後のわれわれが失ってしまった人間の生活の原型的なものが、いまや彼らの生き方のなかにのみ、見いだせるのではないか。