黄泉の王−私見・高松塚−        梅原猛著

 高松塚古墳には奇怪なる四つの謎を秘めている。一つは、この被葬者の遺骨には頭蓋骨も下顎骨も共にないことである。つまりこの死骸は頭なき死体だったのである。第二に、この副葬品は、鏡(海獣葡萄鏡かいじゅうぶどうきょう)と太刀(金銀鈿荘唐太刀きんぎんでんかざりからたち)と玉(ガラス玉)が残されていたが、その太刀には刀身がなかったことである。第三に、この壁画の四神のうち玄武の頭はけずりとられ、月日は、その面を故意にはぎとられていたことである。第四に星宿にはかんじんの帝王を表す北斗七星がないことである。高松塚は、永久に復活を否定された霊がとじこめられた墓であった。大宝元年(701)の元旦、宮廷では、四方に四神と月日の旗を立て、盛大な朝賀の儀式がもよおされた。大宝元年といえば、「大宝律令」が制定され、律令の事実上の制定者藤原不比等が、独裁的権力を確立する第一歩をかためたときである。この塚では、この朝賀の儀式と同じように、四神、月日の旗がたち、十六人の男女が、今しも朝賀の儀式を行おうとしているものである。しかし、この暗い狭い塚の中で、行われんとしている朝賀の儀式には、決定的な欠如が存在していたのである。この儀式の主役には頭がなく、この人物は三種の神器らしいものをもっているが、刀には刀身がなくまた、彼をとりまく世界の月日は欠け、玄武には頭なく、星宿には、天皇のしるしの北斗七星が欠けていたのである。
 このことは、どういうことを意味するのか。『古事記』において、神々は乱暴したスサノオノミコトにいう。「お前は根の国を治(し)らせ」と。つまり、お前は黄泉(よみ)の国へ行けというのである。このスサノオはどういう黄泉の国に行ったか分からないが、彼の子孫、オオクニヌシノミコトが、死を命じられた後にとじこめられた杵築(きづき)神社(出雲大社)が天皇の祖先神をまつる伊勢神宮より壮麗なる神社であることを思うと、さぞかし華麗なる根の国にちがいない。高松塚に、このような華麗な根の国を見るのではないか。律令制の権力者は、高松塚に眠る死者に命じたのだ。ここはすばらし美しい世界なのである、そしてこの世界においてあなたは王者なのである。そして王者のしるしとして、三種の神器をあげましょう。こう権力者は死霊にいいきかせて、死霊を永遠に地下に閉じ込めたのである。しかも、彼らは万一のことを考えて、頭蓋骨をとり、刀身をぬき、月日と玄武の顔に傷をつけておいたのである。被葬者は、反逆の皇子である。


 高松塚の被葬者は、天武・持統・文武三天皇の近親者の可能性が強い。またこのことは、高松塚の築造の時期が藤原京の造営開始から平城京遷都までの間、すなわち朱鳥(あかみどり)元年(686)から和銅三年(710)までである。686年に死んだ大津皇子、689年に死んだ草壁皇子、691年に死んだ川島皇子、696年に死んだ高市皇子、699年に死んだ弓削(ゆげ)皇子、705年に死んだ忍壁皇子などが、候補に上がる。三位以上の臣では、701年に死んだ大伴御行、701年に死んだ多治比嶋、703年に死んだ安部御主人(みうし)、705年に死んだ紀麻呂が候補に上がる。

 この古墳と律令制との関係を無視することはできない。四神月日が書かれているが、この四神月日の儀式が完備したのは、大宝元年(701)正月1日である。このような文物の儀を確定したのは、「大宝律令」であるが、「大宝律令」ができたのは、大宝元年(701)8月3日である。とすると、この古墳ができたのは、大宝元年以後が、あるいはその以前でも、あまり大宝元年を遡らない年ということになる。

 この死体には骨があったが、それは明らかに火葬骨ではなかった。皇族においてもっとも早く火葬にされたのは、大宝二年(702)12月22日に死んだ持統帝である。皇室が火葬の風習を採用したわけであるから、天皇、皇后、皇太子、親王など天皇家のひとびとは、持統帝の火葬が行われた大宝三年(703)12月17日以後は、この風習に従って葬られた考えるのが自然である。

 つまりこの古墳の製作年代を700年頃におくのが妥当な説である。

 天武の娘、紀皇女きのひめみこが、文武帝の后であったのではないかという仮説はかなり蓋然性が高い。紀皇女は正史に死亡の時が記載されていない。正史に死亡の記載のない皇女は、一応変死を疑ってもよい。紀皇女の歌は『万葉集』にある。

紀皇女きのひめみこの御歌一首

かるいけ浦廻うらみかもすらに玉藻たまものうへにひと宿なくに (巻三 390番)

軽の池の浦を行き廻る鴨さえ独りねない。どうして私が男と寝て悪いのか。という開き直った女の歌である。これは姦通がばれたときの歌ではないか。まことに大胆きわまりない性欲の肯定である。紀皇女は、軽の池に浮かぶ鴨に自分を比して性の権利を主張している。紀皇女は軽に住んでいたのではないか。そして軽といえば軽皇子を思い出し、軽皇子はその名の如くそこに住んでいたのであろう。紀皇女も、軽に住んでいたとすれば、文武帝の正妃であった可能性はますます高くなる。この姦通は、単数であったか、複数であったか分からない。弓削皇子がその相手の一人であったことはたしかである。

弓削皇子、紀皇女きのひめみこしのふ御歌四首

吉野川く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも (巻二 119番)
(吉野川の早瀬のように、少しの間もとどこおることなく、あってくれないものかなあ。)

吾妹児わぎもこに恋ひつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらまし (巻二 120番)
(あなたに恋い続けいるくらいなら、秋萩の、咲いてすぐ散ってしまう花である方がましです。)

夕さらば潮満ちなむ住吉の浅鹿あさかの浦に玉藻刈りてな (巻二 121番)
(夕方になれば潮が満ちて来よう。住吉の浅鹿の浦で玉藻を刈り取ってしまおう。玉藻を女にたとえ、一時も早く恋を成就させることを願った歌。)

大船のつるとまりのたゆたひに物ひ痩せぬ人の児ゆゑに (巻二 122番)
(大船が停泊している港の光景のように、揺れて定まらぬ物思い悩んで痩せこけてしまった。あの子は他人のものなのだ。)


 弓削皇子は后と通じる罪を犯した。后と通じることは君主をないがしろにしたことであり、八虐の第一謀反罪で死刑である。死刑にも斬首と絞首の二種類ある。斬首の方が絞首よりも重かった。斬首の場合は首と胴とが別々になるため、再生の可能性がないのに対して、絞首の方は、五体が完備して葬られるので、再生の可能性があるという信仰によるものであった。つまり、絞首は現世の生命を奪うにすぎないが、斬首は、来世の生命をも、つまり永遠に生命を奪ってしまうという差による。八虐の第一謀反罪を犯した弓削皇子は、当然、斬首であるが、皇親及び三位以上、あるいは大勲功あるものなどは、死刑は行われず、代わって自殺を賜ることになっていた。弓削皇子には自殺が許されるのであろうが、その場合もやはり、葬る場合は、罪のみせしめとして斬首者として葬った方がいい。それには、その屍から、首をのぞけばよい。弓削皇子の白骨になった屍から頭骸骨がぬかれた。
 弓削皇子の霊が怨霊となり、タタリをしたら大いへんだ。そのために、弓削皇子の霊にたいして丁重な鎮魂が必要だ。弓削皇子は、天皇になりたがっていた。少なくともそういう罪状によって彼は罰せられた。それなら死後に帝位を与えよう。四神、月日、星宿、朝賀の儀式を行う十六人の男女、そして三種の神器を思わせる副葬品、そういうものによって彼をとりかこみ、彼の死霊に、あたかも、彼が帝位にあると思わせるような幻想を与える必要がある。高松塚の壁画は、死者の魂を鎮める、というより、死者の魂をごまかすために描かれている。