大和三山の古代 上野誠著
2007年11月に、奈良県橿原市の藤原宮の大極殿院の南門基壇の西から須恵器の壺がが出土した。藤原宮を造営するにあたり、神に許しを請うために地中に埋められた壺で、壺の口を九枚の銅銭でふさぎ、なかに九個の水晶が入れてありました。銅銭は富本銭であった。富本銭には大きなデザインの特徴がある。富本銭には、亀甲状に七曜が配されて中国の陰陽五行説に基づくものである。陰陽(日・月)の二つの気と、五行(木・火・土・水・金)の循環の妙を表し、陰陽五行の調和のとれた天下泰平を象徴している。富本銭と水晶の数を、九にそろえたのは、土地の神への捧げものの多数なること、無限なることを象徴している。藤原宮は大和三山のほぼ中心になる場所に築かれている。万葉集巻一には藤原宮を讃える長歌が収録されている。
藤井が原にはじめて都を遷した持統天皇は、埴安の池の堤に立って、まわりの山々をご覧になりはじめる。埴安の池は、藤原宮と香具山との間にあった池で、同地には高市皇子の宮もあった。藤原宮から見れば東、香具山の西麓ということになる。
日の経 |
東 |
香具山 |
春山 青(グリーン)は陰陽五行説では東の色 |
大和を代表する山 |
日の緯 |
西 |
畝傍山 |
瑞山 |
山らしい山 |
背面 |
北 |
耳成山 |
青菅山 |
神々しくそびえ立つ山 |
影面 |
南 |
吉野山 |
名もよく有名 |
都から遠くに望む山 |
「高知る天の御陰」は空に伸びゆく新宮殿の屋根、「天知る日の御陰」は天界に威光とどろく日の御陰、すなわち太陽の宮殿という意味になる。御殿の水は、永遠に尽きることはないだろう。
こんな素晴らしい宮殿で働けるなんて羨ましい。このように羨ましいと歌うことは、間接的には宮とその主を褒め讃えることになる。
藤原の宮の
御井の歌
やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまいて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまえば 大和の 青香具山は 日の経の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の 瑞山は 日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはしき 吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御陰 天知るや 日の御陰の 水こそば 常にあらめ 御井の清水
短歌
藤原の 大宮仕へ 生れ付くや をとめがともは 羨しきろかも
右の歌は、作者いまだ詳らかにあらず。
万葉集 巻一の五二・五三
藤原宮の三山は、神仙思想の仙人の棲む三神山(蓬莱・方丈・瀛州)を擬したものであるという考え方がある。三山を宮の守り神とする思想は百済や新羅から伝来した可能性がある。「藤原宮の御井の歌」に登場する三山鎮護の考え方の源流の一つが、新羅の慶州にある。しかし、古代の文化というものは、重層的で、習合しているものだと考える。たとえば、陰陽五行思想と仏教と神仙思想は、互いに排他的に存在していたのではない。一つの知識として、矛盾しないものとして受け入れられたのではないか。そして、習合して一体化して、存在していたのである。「藤原宮の御井の歌」は、持統八年(694)の歌である。もともとあった三山の真ん中に都を遷して、それを宮の鎮護の山としたのだから、三山に対する新しい考え方が外から伝来して受け入れられた、と考えなくてはならない。
中大兄 近江の宮に天の下知らしめす天皇 の三山の歌
香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争いき 神代より かくにあるらし古も しかにあれこそ
うつせみも 妻を争うらしき
反歌
香具山と 耳成山と 闘ひし時 立ちて見に来し 印南国原
海神の 豊旗雲に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ
右の一首の歌は、今案ふるに反歌に似ず。ただし、旧本、この歌をもちて反歌に載せたり。この故に、今もなほこの次に載す。また、紀に曰く「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子としたまう」といふ。
万葉集 巻一の一三〜一五
播磨で大和三山を想起して作ったと考える。だから、第一反歌は「印南国原(播磨国、現在の兵庫県の南部で、加古川市・明石市の両市一帯にあたる)」の歌だし、第二反歌は海の歌なのだ。日本書紀では、斉明七年(661)百済救済の派兵を決断し、斉明天皇自ら筑紫に赴き、中大兄もそれに同行している。斉明七年正月六日に難波出航、正月八日吉備の大伯海到着までの間に作られたことになる。中大兄の三山の歌には、藤原宮の三山鎮護の思想受容以前から存在するツマ争い伝説が描かれている。ツマ争い伝説の具体的内容については、歌に表現されていない。なぜ、表現されていないかというと、これが口から耳に心を伝える歌であり、場への依存度が高く、その場で了解されている事項については、歌中で説明しないからである。伝説には二つの説がある。一つは、香具山と耳成山のツマ争いを印南国原が仲裁したという説がある。もう一つは、出雲の国の阿菩の大神が、香具山と耳成山のツマ争いを諌め止めようと思って、出雲からはるばる上ってきた時に、印南国原に到着したときに戦いがやんだという説がある。こちらの方が通説である。