山県有朋明治日本の象徴              岡義武著

安倍晋三元首相の弔辞(ちょうじ)で管前総理が引用した岡義武著の「山県有朋」を読みました。
管氏が引用したのは、伊藤博文がハルピン駅で狙撃され、死亡したことに対して山県有朋が詠んだ歌です。

かたりあひて尽くしゝ人は先たちぬ今より後の世いかにせむ

山県は和歌に長じた父有稔(ありとし)の感化によって幼少から歌道に親しんでいた。

伊藤博文は日露間の国交調整を推進したいとの希望を抱いてロシアに向かって出発したが、ハルピンで韓国独立運動に関係ある朝鮮人の手で 射殺された 明治42年(1909)。山県はこの凶報に接して、驚愕するとともに、松下村塾以来50年にわたる交友の跡を回想し、また過去の日の伊藤とのかずかずの政治的交渉を思いうかべて、感慨に沈んだ。

日清戦争 明治27年(1884)以後わが国はロシアの動向を深く警戒し、ロシアを仮想敵国に想定して軍備の拡張を進めて来たが、第二次山県内閣のとき清国に義和団が蜂起 明治32年(1899)。 これを機会にロシアは東清鉄道の保護を名目として満州に出兵して、これを軍事占領した。しかも、義和団 の騒乱が鎮定した後もロシアは満州から撤兵しようとはせず、しかも、ロシアのこの満州占領は地理的な関係から韓国に対するロシアの重圧を今後増大させる可能性はらむものと考えられた。このような事態を前にして、元老以下当時の指導的政治家の間においてわが国外交の基本方針について烈しい意見の対立が生じた。日露協商か日英同盟かの争いである。
日露協商は主として伊藤博文および井上馨によって唱えられた。韓国におけるわが国の地位を保全するためには、韓国に関してわが国と同様に重大な利害関係を持つロシアと交渉して、満州についてロシアの優越的な地位を承認する代わりに韓国に関してわが国の優越的地位をロシアに認めさせるべきであると主張した。いわゆる満韓交換論の上に日露の了解を成立させるように努力すべきだと主張した。
日英同盟は元老の多数と桂首相が唱えた。韓国問題について日露の間に了解を成立させることは至難であるとし、むしろロシアと世界的規模で鋭い対立の関係にあるイギリスと同盟を結んでロシアに対抗し、ロシアを牽制すべきであると主張した。山県は、熱心な日英同盟論者であった。
元老および桂首相は伊藤の進言を退け、日英同盟条約の調印をみた 明治35年(1902)。

山県は造園に深い興味をもち、東京の椿山荘にまた京都の無隣庵に趣向をこらした庭園を築いている。

日英同盟の風刺画
イギリスが日本にロシアの前にある火中の栗をひろうようにけしかけている。左側がロシア、中央が日本、右がイギリスその背後にアメリカがいる。火中の栗は韓国。
義和団事件で朝鮮半島を実効支配していたロシアから朝鮮半島の支配権を取っちゃえよってイギリスにそそのかされている日本。ロシアと仲良くするかイギリスの言うこと聞いてロシアと喧嘩するか悩んでいたんだけど、ロシアをうざいと思ってるアメリカも一緒に後押ししてきたから、やってやるぜ!って喧嘩をうりにいくところ。
欧米から見た日露戦争
ウクライナのバンクシーの作品