通貨「円」の謎             竹森俊平著

 1992年にバブルが崩壊して以来の日本の経験を振り返ると、重大な問題が一貫として存在していた。「価格シグナル」が経済を望ましい方向に調整する働きをしなかったという問題である。通常は、ある国で金融危機が発生すると、その国の為替レートは減価する。それゆえ金融危機により国内需要はダメージを受けるが、通貨安の影響により輸出が拡大するために、その国は経済回復を遂げられる。この時、一時的に生産を国内需要向けから、海外需要向けへと切り替えろと指令を出すのが、為替レートでの自国通貨安という「価格シグナル」である。
 ところが日本の場合には、1992年もしくは1998年に起こった金融危機の後に、為替レートは自国通貨安(円安)ではなく、自国通貨高(円高)になった。これでは打撃からの立ち直りが難しくなる。2011年に発生した東日本大震災のような深刻な出来事の後にも、為替レートが大きく円高に触れた。
 日本経済にとっての、おかしな「価格シグナル」は為替レートばかりではない。通常、ある国の財政状態が悪化して、対GDP比でみた政府債務残高が拡大するような場合には、国債金利は上昇する。ところが、日本ではそのような傾向が見られないだけでなく、2008年からの世界不況に伴い、日本の政府債務残高も急速に拡大したというのに、国債金利は下落している。こうしたパターンが繰り返されれば、財政健全化への努力がされなくなり、財政は悪化の一途をたどる。

 困った問題が起こるたびに、深刻な危機に見舞われるたびに「円高」になるのは「正しい価格シグナル」が伝達されない状態と考える。日本はこのような「誤った価格シグナル」によって、長期の経済停滞、つまり「失われた10年」を経験し、現在も低成長と、財政状態の継続的な悪化に悩まされている。今後、強力な金融緩和を実施することによって、デフレ克服と円高是正を達成することの意義は、誤った価格メカニズムを正常に戻すことだと考えている。

 公共事業を抑制しながらも、小泉政権下で日本経済が回復できたのは、当時の幸運な国際環境によるものだった。つまり住宅バブルによりアメリカの国内消費が盛り上がっており、しかも日本が大規模な為替介入を実行することを当時のアメリカの政権(ブッシュ政権)が認めたという二重の幸運、これが「小泉改革」の成功の原因だったのである。小泉氏の場合にはアメリカ発の好況、まさに「上げ潮」が、当時日本が抱えていた問題の多くを自然に解決していく幸運に居合わせた。小泉改革の成功の原因は当時の輸出を中心にした好況にあった。また当時の輸出の伸びは、小泉内閣の経済政策が優れていたためではなく、国際環境についての幸運に最大の原因がある。グリーンスパン連銀議長による超緩和的金融政策である。その小泉総理の五年半の任期の後に2006年に発足したのが第一次安倍内閣である。安倍氏は小泉内閣では官房長官を務めていたから第一次安倍内閣の路線が、少なからず小泉路線の継承だったことは間違いない。

 それから六年が経過した。その間、安倍氏の病気による辞任があり、福田、麻生と続く、自民党総裁の不幸で短期の経験があり、さらに三年間にわたる民主党の輪をかけて不幸な経験があり、過ちの繰り返しによって政治が不安定になる混迷の時代となった。小泉氏が五年半の任期を全うした後は、六人の総理大臣(安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田)の内閣の平均寿命は一年に満たなかった。2012年の衆議院選でついに自民党の政権が返り咲きが決まり、第二次安倍内閣が成立の運びとなった時に、安倍氏は日本と自民党の新生を訴えられるような強力な政策の目玉として、金融政策を掲げたわけである。第二次安倍内閣が直面している挑戦は、「小泉成功のシナリオ」を再度実現できるかどうかなのである。経済政策の成功というのは、長期にわたり好況が持続するということだ。アベノミクスの成功、不成功を左右する重要な要因は、輸出の伸びではないだろうか。デフレが克服されるためには、景気の改善が必要であり、現在の日本では輸出を伸ばすことが一番手っ取り早い方法だ。それでは輸出の伸びが今後どれだけ期待できるかと言えば、今回もかなりの部分「幸運」に依存する。なぜなら、かって小泉政権の時代にそうだったように、積極的な金融政策は円高の抑制によって、輸出拡大が途中で萎む危険を防ぐ役割はするものの、輸出拡大そのものは海外の景気に大きく依存するからだ。ようするにアベノミクスの成功、不成功を決める要因は今後の世界経済の動きである。現在はリーマン・ショックによる深刻な世界不況からの回復期である。危機発生前の世界的な過剰債務という「負の遺産」があるために回復は遅々たるものだ。それでもアメリカなど、回復の兆しが顕著な地域は存在する。各国が緊縮財政に取り組んでいる状態で、世界景気を引き上げようと思ったら、結局、金融緩和に頼るしかない。直接、実体経済に働きかける財政刺激が不可能だからだ。本来ならば、実体経済の目に見えた改善が起こったところで、ようやく金融市場が活発になるのが自然なのかもしれないが、今回の場合、金融緩和が市場心理を強気に変えて、その結果、盛り上がった投資が「上げ潮」となって世界経済を浮上させる以外の経済回復のシナリオは、確かに考えにくい。株価上昇の原因は、現在、世界規模で起こっている市場心理の変化を認識しなければならない。この変化を金融専門家は、市場が「リスク・オフ」から「リスク・オン」に変わったという言葉で表現している。これまで危機を回避していた投資家が危険を受け入れるようになった。それが日本だけではなく、世界規模で投資行動をより積極的にしている。今回の世界的な経済危機からの回復過程では、実体経済の状況と市場心理が同時に改善しているとは言い難い。実体経済の状況の方は、さほど良くなっていないのである。市場心理が強気に転換したのは、積極的な金融緩和策の効果である。財政が引き締めに向かう一方で、金融は一層の緩和にという点で、今後の日本の経済政策の方針は、アメリカが現在取っている経済政策の方針をなぞっている。アメリカの経済政策が成功すれば、世界景気回復という「上げ潮」を受けて、アベノミクスの成功の確率は高くなる。