トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか              羽根田治・飯田肇・金田正樹・山本正嘉著

 2009年7月13日(月) から17(金)までの4泊5日のアミューズ社のツアー登山(大雪山系の旭岳からトムラウシ山へと縦走)に15人のツアー客が参加した。7月13日の午後1時30分に集合場所となった新千歳空港の到着ロビーには、広島、名古屋、仙台の3カ所から参加者が15人(男5人、女10人)集まってきた。3人のガイド含め総勢は18人となった。広島空港からは西原豊ガイド61歳、寺井雅彦64歳、清水武志61歳、星野陽子64歳、大内厚子61歳、宮本幸代62歳、谷みゆき64歳の7名。中部空港からは山崎勇ガイド38歳、久保博之65歳、平戸佳菜55歳、杉中保子59歳、永井孝69歳、岩城敏66歳、大谷有紀子69歳、浅上智江68歳、阿部道子62歳の9名。仙台空港からは里見淳子68歳の1名。以上のほか、札幌市在住の瀬戸順治ガイド32歳が新千歳空港で合流した。3人のガイドのうち、リーダー兼旅程管理者(添乗員)だったのが西原ガイド、瀬戸がメインガイド、山崎がサブガイドという役割だった。一行はチャーターしたバスで大雪山の登山口となる旭岳温泉へ移動した。旭岳温泉の白樺荘には午後5時前に到着した。


第1日目(7月14日)
距離 12.4km   沿面距離 12.6km   標高差 388m
累積高度差(+) 1154m   累積高度差(−) −766m

 7月14日の朝は予定通り5時50分に白樺荘を出発、歩いて大雪山旭岳ロープウェイ の旭岳駅に向かった。一行には新たにポーター役のネパール人が一人加わり、総勢19人となっていた。6時始発のロープウェイは満員だったので、一行は6時10分発の臨時便で山上に上がった。6時30分ごろから行動を開始した。旭岳山頂到着は、午前9時ちょうど。姿見駅から旭岳までの標準時間は2時間30分だから、コースタイムどおりといっていい。旭岳をあとにした一行は雪渓を下り、間宮岳の手前の岩陰で昼食をとった。11時半前後に北海岳山頂に到着。白雲岳分岐着は12時半ごろ。午後2時40分過ぎに白雲岳避難小屋に到着。午後4時ごろには早めの夕食がすみ、それぞれ思い思いにのんびりとした時間を過ごした。夕食後、ガイドは携帯電話の天気サイトで上川地方の天気予報をチェックし、明日の午後は寒冷前線が通過して天気が悪くなりそうなことを確認。雷を警戒し、少しでも早くヒサゴ沼避難小屋に到着するよう出発時刻を30分早めることにして、参加者に伝えた。



第2日目(7月15日)
距離 16.3km   沿面距離 16.5km   標高差 295m
累積高度差(+) 648m   累積高度差(−) −943m

 7月15日、5時に白雲岳避難小屋をあとにした。雨はそれほどひどい降りではなかったが、全員が雨具を着用した。平ガ岳あたりから風雨ともに強くなり、忠別岳の登りではかなりの強風にさらされた。雨はずっと降り続き、時折強くなったり小降りになったりした。体の冷えを防ぐため、大休止はとらず5分程度の小休止にとどめ、ほとんど立ち休みで進んだ。雨で道がぬかるみ歩きにくい。雨の中を忠別岳から五色岳、化雲(かうん)平と縦走してきた一行が、ヒサゴ沼避難小屋に到着した時刻は、午後3時ごろ。この日の行動時間は9時間に及んだことになる。夕食は、ガイドがお湯を湧かして参加者に分配し、各自持参したものを食べた。夕食後、ガイドから明日は3時45分に起床し、5時に出発するという指示があった。服装や装備が濡れた人が多く、翌日までほとんど乾かなかった。一行がヒサゴ沼避難小屋に到着したときには小康状態になっていた風雨は、この日の夜更けになって再び強まってきた。



第3日目(7月16日)
距離 16.0km   沿面距離 16.2km   標高差 −1024m
累積高度差(+) 651m   累積高度差(−) −1693m

 7月16日は、起床時間の3時45分になって参加者が次々に起き出してきた。夜中ほどではなかったが、風も雨もまだかなり強かった。ガイドが湧かした湯で各自朝食をとり、出発準備を整えた。ただ、快適とはほど遠いひと晩を過ごしたことで、充分な睡眠がとれなかった人、前日の疲労を残したままの人、ウエアの濡れがほとんど乾かなかった人は、少なくなかったものと思われる。ガイドから出発を30分遅らせて5時半にするというアナウスがあった。5時半の出発間近になって、ガイドから参加者に山から無事下山するためにトムラウシ山には登らず迂回ルートを通るので了承してくださいと伝えた。
5時30分にヒサゴ沼避難小屋を出発した。小屋をあとに、一行はヒサゴ沼のほとりをぐるっと回り、雪渓のところでガイドの指示により全員がアイゼンを装着した。雪渓が終わってすぐの岩場で、足がもつれて何度も転倒する男性(岩城)や大きめの岩のところで足が上がらず登りあぐねている女性(誰だったかわ不明)がいた。ヒサゴ沼避難小屋を出発して1時間も経たないうちに、早くも行動に支障をきたしている参加者が最低2名はいた。その後の長丁場と当時の天候のことを考えたら、稜線にでるまでの間に、引き返すかエスケープルートに回るかの決断を下すべきであった。
稜線に出た一行は、強い西風を受けながら、当初の計画どおり縦走路を南にたどっていった。
天沼を過ぎて日本庭園の木道のあたりに差し掛かるころには西風がますます強くなり、ところどころで瞬間的に立っていられないほどの風が吹いた。猛烈な西風を受け、まともに歩くこともままならない状況下でも一行は前進を続け、大小無数の岩が累々と積み重なるロックガーデンへと至る。8時半
ロックガーデンの登りあたりから参加者の足並みが乱れはじめる。ロックガーデンは岩に付けられたペンキマークを追って登っていくが、雨に濡れた岩が滑るので慎重にならざるを得ず、いっそう時間がかかったようだ。ロックガーデンが終わってゆるやかなに登っていったところは、広い丘上の地形になっていた。その丘の上で、みんながそろうまで待った。ここでまた風がいちだんと強さを増した。全員がそろうのを待って、一行は丘を下りはじめた。あまりの強風のため真っ直ぐ歩けず、ストックを突いてもよろけてしまうほどだった。その先には、無数の白波の立つ北沼があった。北沼に到着した時刻は10時ごろだった。
ヒサゴ沼から北沼までの標準コースタイムは約2時間半であるが、その2倍のおよそ5時間かけて北沼にたどり着いたことになる。北沼からは水が東斜面のほうへ溢れ出しており、川幅2mほどの流れになっていた。流れの真ん中に瀬戸ガイドが立ち、参加者が渡るときに手を貸した。水深は膝のちょっと下ぐらいだった。このとき、渡渉のサポートをしていた山崎ガイドは、風を受けてバランスを崩し、流れの中に倒れ込んで全身ずぶぬれになってしまった。流れを渡り終えたところが北沼分岐である。ここから左に行けばトムラウシ山山頂に至り、右のルートをとればピークを迂回して南沼に出る。北沼の流れのところでは、遅れていた3人をガイド2人でサポートして渡し終え、どうにか全員北沼分岐に集結したのは10時半ごろだった。しかしここで女性1人(淺上)が低体温症で動けなくなってしまった。行動不能者が出たことへの対応に3人のガイドが追われている間、ほかの参加者は吹きさらしの場所でずっと待機させられていた(約1時間)。具合が悪くなった人を介抱をするのは当然だけど、それと同時に他の人たちへの寒さに対するフォローをすべきだった。北沼以前に低体温症を発症した人は2〜3名で、この待機した時点から発症した人がほぼ全員と推定される。

行動不能になった女性(淺上)にはリーダーの西原ガイドが付き添いツエルトでビバークすることになった(第1ビバーク地点)。浅上はそのときすでに心肺停止状態だったと推測される。浅上に付き添いビバークしようとした西原ガイドは、その1〜2時間後に亡くなったと推定される。現場に開けていないザックがあったこと、ツエルト飛ばされてなかったこと、徒渉時にすでによろよろし、体調が悪かったことなどがその要因である。

北沼分岐を11時30分に出発した。北沼分岐を出発しようとしたときか、出発して間もなくのところで新たに3人の女性(宮本、大内、杉中)が行動不能となり、ガイド1人(瀬戸)と男性ツアー客1人(永井)が付き添ってその場に残ることになった(第2ビバーク地点)。ツエルトを張り、行動不能の3人の女性のケアに当たった。ひとまず落ち着いたのち、瀬戸ガイドは「南沼キャンプ場にテントを張っている人たちがいたら力を貸してもらおう」と考え、南沼キャンプ場に向かった。その途中で携帯からアミューズ社に救助要請を依頼するメールを入れた。南沼のキャンプサイトに行くと、青いビニールシートの中にテントや毛布、ガスコンロなどがあったので、担いだり手に持ったりして来た道を戻った。テントを設営し、その中に3人の女性を収容して手当を続けた。しかし、ガスコンロによる保温や心臓マッサージなどの甲斐なく宮本は18時ごろ息を引き取ってしまう。ただ、意識を失っていた大内は意識を取り戻し、しばらくすると元気になってきた。20時40分ごろに杉中も息を引き取った。3人とも雨具を着たまま膝を抱え、うとうとしながら朝を待った。17日朝5時30分ごろに陸上自衛隊のヘリコプターに救助された。

自力で動ける10人のツアー客を率いて山崎ガイドは、下山を開始した。トムラウシ山とトムラウシ温泉の分岐点であるトムラウシ分岐(南沼キャンプ場)手前で男性ツアー客1名(岩城)が動けなくなる。

トムラウシ公園の上部で二人のツアー客(阿部、大谷)が行動不能となる。それが午後1時40分のこと。

午後4時28分にトムラウシ公園の上部の下ったところで女性2人(平戸、谷)が行動を停止した(第3ビバーク地点)。平戸が谷のことが気になって足に触ってみたら、もう冷たくなっていた。時刻は午後6時半になっていた。平戸は休んでいるうちに体力が回復し、意識もはっきりして普通の状態にもどっていた。谷のザックからシェラフを取り出して彼女に被せ、風に飛ばないように石で押さえた。次に低木帯(ハイマツ)の上にマットを敷き、その上に自分のシェラフを乗せて一カ所を低木に結びつけた。横になる前にパンなどの行動食を食べ、登山靴も雨具も着けたままシェラフの中に潜り込んだ。それでも寒さは感じたが、凍えるような寒さではなく、濡れていた足も意外と冷たくはなかった。翌朝3時40分ごろから歩きはじめた。前トム平のあたりにさしかかったとき、ヘリで山麓に搬送された。それが5時過ぎのことであった。

先頭を切って下山を続けていた山崎ガイドの足取りは、トムラウシ分岐を過ぎたころからおかしくなりはじめる。星野は休憩もとらず、うしろもほとんど振り返らず、山崎ガイドのあとを追った。山崎ガイドは北沼の流れのなかで転倒して全身を濡らしてしまった影響が、徐々に出はじめていた。午後2時過ぎごろ、前トム平の手前のハイマツ帯のところで転んだ山崎ガイドは、とうとうその場に座り込んで動かなくなってしまった。再び立ち上がって歩きはじめ、やがて前トム平に着いた。午後2時58分である。前トム平の下部のガレ場に差し掛かったていたとき、星野の携帯電話が鳴った。それは夫からの電話で、昼間から何度もかけていた電話がこのときようやく通じたのだった。そのやりとりを見ていた山崎ガイドが星野に110番を依頼した。時刻は午後3時55分。星野が携帯からかけた電話が、この遭難事故の第1報となった。途中、山崎ガイドに電話を代わったが、呂律がよく回っていなかった。通話中に電話は何度も切れ、切れるたびに警察がかけ直してきた。やがてバッテリーがなくなってしまったが、最低限の情報は伝わったようだ。しばらくしてそこに下りてきたのが寺井だった。星野と寺井が歩き出したのが午後4時40分だった。ふたりと別れたあと、山崎ガイドは朦朧とした意識のまま、再び自力で下りはじめる。しかし前トム平の下部、巨岩のトラバース帯まで来たところで力尽きた。ザックを降ろして携帯を出そうとして、そのまま前のめりにハイマツのなかに転倒、意識を失う。翌17日の11時35分に救助ヘリコプターで病院に収容され、治療により意識が正常に戻ったのが12時50分だった。回復できたのは、前トム平付近はすでに風雨は弱まり、体温を下げる気象状況が改善していたこと、ハイマツの中で体温が保たれたことによるものと思われる。

星野と寺井の下山時刻は午後11時55分、清水と里見が零時50分に林道にたどり着く。ひとり遅れた久保は、途中ビバークすることにして、シェラフカバーを被ってマットの上に寝転んだ。午前1時半から2時間ほどぐっすり寝たのち再び歩きだし、30分ほどで林道に飛び出した。自力で下山したのは星野陽子、寺井雅彦、清水武志、里見淳子、久保博之の5名です。遭難者のうち救助されたのは5名で、第2ビバーク地点で瀬戸順治ガイド、永井孝、大内厚子、第3ビバーク地点で平戸佳菜、前トム平下部で山崎勇ガイドが救出された。死亡したのは8名で、第1ビバーク地点で西原豊ガイド、浅上智江、南沼キャンプ場手前で岩城敏、第2ビバーク地点で宮本幸代、杉中保子、トムラウシ公園上部で阿部道子、大谷有紀子、第3ビバーク地点で谷みゆきが亡くなった。


今回の大量遭難に繋がった最大の原因は、北沼分岐における風雨に無防備な状態での1時間の待機であることは間違いなく、ここで体温が34度C以下に下がった。そして、歩行を開始した瞬間に一気に冷却された血が全身に回って、加速度的に体温が下がり、早急な死に結びついたということである。もし風の避けられる場所での待機であったら、ツエルト1枚かぶっていたら、これほどの惨事にならなかったと思う。防寒の衣服を着用し、熱を作るエネルギーが残っていた人が、転倒を繰り返しながらも歩き続け、そして午後には風雨が止んだせいで生存できた。あと1時間早く風雨が止んでいたら亡くなる人はもっと少なくてすんだであろうが、逆にもう1時間同じ風雨が続いていたら、もっと亡くなる人が増えたであろう。

長丁場のコースでは、さまざまな悪条件を想定して、衣類や食料などは充分に準備すべきである。しかし、そうすればザックが重くなり、疲労しやすくなるというジレンマが生ずる。最も望ましい解決策は、重いザックを背負っても苦にならないような強い体力を、普段から養成しておくことである。現実には、極度の悪天候に見舞われ、遭難当日は平均風速が15メートルあまりという台風なみの強風下で歩かなければならなかった。このような状況下では体力やエネルギーの消耗は無風時の1.5〜2倍以上となる。さらに、ぬかるんだ道や流水路となった道の歩行、滑りやすい雪渓の登り、岩の上でバランスを取りながらの歩行、濡れて滑りやすくなった木道の歩行、濁流のなかの徒渉など、体力やエネルギーの消耗を倍加するような要因も多く加わった。想定外の悪条件に遭遇し、非常に高いレベルの体力やエネルギーを要求されたことになった。そして、それに耐え得る能力を持っていた人はわずかであった、ということになる。今回の低体温症の発症は非常に急速であるが、これは過酷な気象要因だけではなく、体力の急激な消耗も関係していた可能性が高い。

今回の遭難時ののような極度の悪天時の場合、体力を急速に奪われることや、体熱を失う速さも急激であることを考えると、身体を動かし続けていれば急激に消耗してしまう危険性が高いといえる。低温、強風、濡れといった悪条件化で激しい運動を続けたことは、低体温症を起こしやすくした可能性が高い。とるべき対策としては、体力的にある程度の余裕があれば避難小屋にもどり、その余裕がなければ早めにビバークすべきだっただろう。また北沼分岐に到着した段階では、すでに体力を消耗していたことから、ただちにビバークすべきだったといえる。


体温の低下と症状
36℃ 寒さを感じる。寒気がする
35℃ 手の細かい動きができない。皮膚感覚が麻痺したようになる。しだいに震えが始まってくる。歩行が遅れがちになる。
35〜34℃ 歩行は遅く、よろめくようになる。筋力の低下を感じる。震えが激しくなる口ごもるような会話になり、時に意味不明の言葉を発する。
無関心な表情をする。眠そうにする。軽度な錯乱状態になることがある。判断力が鈍る。
*山ではここまで。これ以前に回復処理を取らなければ死に至ることがある。
34〜32℃ 手が使えない。転倒するようになる。まっすぐに歩けない。感情がなくなる。しどろもどろな会話。意識が薄れる。歩けない。心房細動を起こす。
32〜30℃ 起立不能。思考ができない。錯乱状態になる。震えが止まる。筋肉が硬直する。不整脈が現れる。意識を失う。
30〜28℃ 半昏睡状態。瞳孔が大きくなる。脈が弱い。呼吸数が半減。筋肉の硬直が著しくなる。
28〜26℃ 昏睡状態。心臓が停止することが多い。