天皇陵古墳を考える              白石太一郎 今尾文明 森田克行 高橋照彦

箸墓古墳  白石太一郎
箸墓古墳は、奈良盆地東南部の三輪山の北西麓に位置しています。墳丘長が280m、後円部の径が160m、高さ28m、五段構築の前方後円墳です。
箸墓古墳の造営は3世紀中葉前後(240〜260)にさかのぼる可能性が大きい。墳丘上に並べられていたと考えられる埴輪の形式からも、古墳時代前期でももっとも古い段階のものであることが、想定される。このことは、箸墓古墳周辺部の調査で出土している土器からも裏づけられている。国立歴史民俗博物館の研究グループが実施した、箸墓古墳周辺の出土土器(布留0式土器)の付着物の炭素測定の結果、240〜260年代という数値がえられた。

魏志倭人伝には、卑弥呼が没したことは、正始8年(247)の記事に続けて書かれていますから、正始8年かその直後のことでしょう。箸墓古墳の造営年代と卑弥呼の没年はほぼ一致している。考古学では墓誌でも発見されない限りその墳墓の被葬者を確定することはできない。あくまでその蓋然性・可能性を指摘するにとどまります。

魏志倭人伝によると3世紀前半の日本列島には、近畿中央部の大和に中心のあった邪馬台国を中心に全部で29ヶ国が政治連合を形成していた。邪馬台国の東方に、おそらく濃尾平野に中心のあった狗奴国を中心とする狗奴国連合ともいうべき、もう一つの政治連合が形成されていたものと考えられます。魏志倭人伝によると正始8年(247)、邪馬台国は狗奴国と争い、邪馬台国側はその戦いの状況を魏の帯方郡に報告しています。この戦いの帰趨について魏志倭人伝は何も書いていませんが、その後の歴史展開からも、邪馬台国連合側の勝利、ないしその主導による和平にいたったことはうたがいないでしょう。邪馬台国連合側が狗奴国連合との戦いに勝利を収めたということは、東日本の広大な地域が、西の邪馬台国連合、すなわち倭国連合に加わったことを意味します。倭国連合に加わる各地の首長たちの共通の墳墓としての定型化した古墳の造営が始まったものと考えます。邪馬台国連合は前方後円墳、旧狗奴国連合は前方後方墳です。卑弥呼は狗奴国との争いとほぼ同じくその生涯を終え、その後の混乱期をへて、後継者の台与が初期ヤマト政権の盟主である倭国王の地位についたと思われる。したがって、箸墓古墳を造営したのは、卑弥呼の後継者の台与であることはまず疑いがない。初期ヤマト政権の初代の盟主である台与は、この新しく成立した日本列島の中央部の大部分を含む広域の政治連合の形成に際し、その中核となる邪馬台国連合をすべてまとめあげていた偉大な巫女王卑弥呼墓を最初の前方後円墳として、それまで倭国にみられなかったような大規模な人工の造山として造成した。

誉田御廟山こんだごびょうやま古墳(現応神陵)  白石太一郎
大阪府の羽曳野市から藤井寺市にかけて展開する古市古墳群の盟主ともいうべき誉田御廟山古墳(現応神陵)は、大阪府堺市百鳥舌もず古墳群の大仙陵古墳(現仁徳陵)に次ぐ、わが国で第二位の墳丘規模を持つ巨大前方後円墳です。
誉田御廟山古墳は墳丘長は約420mあり、後円部の直径は250m、高さ35mで、三段で構築されている。誉田御廟山古墳の造営年代については、この古墳に用いられている円筒埴輪の型式や一部採取されている須恵器の型式などからも、5世紀の第1四半期にさかのぼる。

奈良時代はまだ八幡神は応神天皇とは考えられていなかったが、9世紀の初めごろから八幡神は応神天皇とされるようになった。11世紀中葉以降、急に誉田御廟山古墳の被葬者と考えられる応神天皇、すなわち八幡神への信仰がたかまり、後円部上ないしその南麓などに墳墓堂などが営まれ、それが誉田八幡宮に発展していった。

『日本書紀』の応神紀によると、応神3年条に「百済の阿花あか王立つ」とあり、応神16年条に「阿花王薨ず」、応神25年条に「百済の直支とき王薨ず」とあることから、応神天皇と百済の阿花あか王(阿華王)や直支とき王(腆支とき王)と同世代と考えられる。『三国史記』によると阿華王の即位は392年、没年は405年、腆支王の即位は405年、没年は420年であることが知られます。『三国史記』によるとに応神の在位は4世紀末から5世紀の初め頃とみるのが、もっとも蓋然性の高い想定と考えられる。応神の没年は5世紀の第1四半期のことであり、誉田御廟山古墳の造営年代と一致する。

大阪平野南部に大王墓が営まれるようになったということは、大阪平野南部の河内・和泉の勢力が大王権を掌握した結果にほかならない。またそれは、高句麗の南下にともなう、4世紀後半の東アジアの国際情勢の大きな変化に連動する政治変動と捉えることができる。こうした新しい東アジアの国際情勢の変化に、邪馬台国以来の呪術的・宗教的性格の強い大和の王権では対応できずそれ以前からヤマト王権基盤であった大和・河内・和泉連合の中で朝鮮半島などの外交や交易を担当していた大阪湾岸に近い河内・和泉の勢力が王権内のリーダーシップを担うようになったのは、むしろ当然の成り行きだった。ただしそれは王朝の交替といった出来事ではなく、大和川水系を基盤とするヤマト王権内でのリーダーシップを担う勢力の交替にすぎなかった。またこの新しい河内・和泉の王家については、それ以前の大和の王家との婚姻関係を媒介に、入婿の形でそれ以前の王統との継続性が保たれたと考えられます。4世紀末葉には河内の古市の地に中津山古墳(墳丘長290m)を、ついで和泉の百舌鳥の地に上石津ミサンザイ古墳(墳丘長約360m)を大王墓として造営し、応神天皇はそれに続く河内王家としては三代目の大王と考えられる。三代目の大王である応神天皇が、こうした巨大な前方後円墳をその本拠地である南河内の古市の地に営んだことは、新しい王権の国際性とその実力、さらにその自信を物語るものといってよい。

今城塚いましろづか古墳  森田克行
淀川の北岸に三島という地域があり、そこに古墳がたくさん展開している(三島古墳群)。 この中に太田茶臼山おおたちゃうすやま古墳(大阪府茨木市 古代の摂津国嶋下郡)と今城塚古墳(大阪府高槻市 古代の摂津国嶋上郡)が存在する。現在、太田茶臼山古墳を、宮内庁が継体天皇三島藍野陵として管理している。一方、今城塚古墳は、現在、文化庁が所管する史跡です。高槻の新池埴輪製作遺跡で考古地磁気測定という方法で太田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪を焼成した埴輪窯の年代測定を行った。それと埴輪の様式論的な検討から太田茶臼山古墳は、絶対年代は450年前後に、今城塚古墳は530年前後ということが、位置づけられた。継体天皇が亡くなったのは、531年ですので、今城塚古墳が継体陵ににふさわしいといえるようになった。

今城塚古墳の発掘調査の結果、墳丘は181mで、後円部三段、前方部二段に復元される。二重の濠(内濠は水濠、外濠は空濠)を含めた総長は354mです。

文禄5年(1596)の「伏見地震」(マグニチュードは 7.0〜7.1)によって、今城塚古墳の墳丘の盛土が一気に滑り落ちた。今城塚古墳の後円部は本来、三段で構築していたが、墳丘が滑り落ち二段分の高さに相当する11mしかありません。太田茶臼山古墳は高さが25mあり、非常にりっぱな、迫力のある形の大型の前方後円墳です。一方、今城塚古墳は、内堤は打ち破られ、墳丘が地滑り遭って、水濠は半分以上埋まっているという状況です。17世紀の段階で、どちらが継体の墓にふさわしいか、というような論点が出てきた。本居宣長が『延喜式』の継体の三島藍野陵を吟味して、島下郡にある安威あいの地名考証などから、太田茶臼山古墳が継体天皇陵にふさわしいと結論を出した。その結論部分を明治政府などが受け継いで、今日に至っている。

継体は、仁徳大王の淀川政策を受け継ぐかたちで、淀川・木津川水系の開発を推進した。淀川河口部に特化した開発を進めた仁徳大王に対して、淀川水系全体の水運をきちんと位置づけたのが継体大王なのだ。まず第一に、樟葉くすは宮(枚方市)を淀川の左岸、筒城つつき宮(京田辺市付近)を木津川の左岸、弟国おとくに宮(長岡京市付近)を淀川の右岸に設けている。第二に自分の陵を、淀川北岸の三島の地に造営した。それから第三に、筑紫津を設営した。淀川の川筋の山崎の少し下流に、筑紫津という港があった。九州の地名である筑紫という名前を冠した港が、淀川右岸に設定されました。継体大王が政権を担っていたころ、この淀川流域は、九州や朝鮮半島と重要な行き来があった。同盟国ともいえる百済を救済しなければいけない状況がおこっていた。高句麗や新羅などの侵攻に対して、百済周辺に大軍を派遣しなければならない。だから、仁徳に続いて継体は、大きな船団・軍団を仕立てて多くの港から出航させる、という状況が出てくる。

継体は仁徳の淀川水運を重視する政策的なつながりを見ていくと、根本的には大和王権の系譜に連なる人物だったと考える。畿内の大和王権の何たるかを熟知している人間が、請われて政権に就いたと考える。


太田茶臼山おおだちゃうすやま古墳の被葬者は誰か
若野毛二派わかぬけふたまた王だとする説
・継体天皇の曽祖父に当たる意富富等おほほど王だとする説
・允恭天皇皇后の忍坂大中姫おしさかのおおなかつひめだとする説